count 154,800 〜 White note 〜



 朝焼けはあまり好きではない。
 それはどうしても自分に植え付けられた色を実感せざる得ないからだ。
 それは今でもあまり変わらない。
 しかし、あくまでもそれは“あまり”であり、今では少し違った考え方を出来るようになった。
 それは私が大人になったとかそういう事では決してなく、ただ単に私の傍に彼女がいてくれるという事実が私の考え方を変えてくれるからだ。つまり、この考え方を維持する為にはどうしても彼女という存在が必要不可欠ということになる。
 その為、今視界に半強制的に入ってくるカーテン越しの朝焼けの光は、残念な事に私の心境を好転させてはくれない。
 それならば眼を閉じてしまえば良いのだが、今の私の心境はそういう気分でもないらしく、更に眠気という感覚が綺麗さっぱりなくなってしまっていた。こればっかりは私にコントロールする術はない。仕方がないので受け入れる事にする。
 そうした理由が何なのか、それは分からない。
 ただ、何となくそれを見ていれば何かを思い出せるような気がしたのだ。
 簡潔に言ってしまえば私には記憶がない。
 記憶がないといってもそれは私が幼少の頃の話で、だいたい五歳以前の事だ。その頃の記憶なんて、一般的に考えても私達位の年齢になればほとんど覚えているような事はないので大して困りはしないだろう。現に私も当時はそれなりに戸惑ったりもしたが、今ではそれほど苦労はしていない。
 ただ、五歳以前の記憶を何一つとして持っていないという事実は、私の中に確かな虚空を生んでいた。
 そして、確実に言える事が二つあった。
 それはおそらく記憶をなくす以前の私はそれなりにこの世界に満足していたという事と当時の私はきっと今のような白を抱いていなかっただろうという事。
 私がこんな思いを抱いてしまうのは、当然といえば当然だろう。少なくとも私の親族(ほとんど会った事はないのだが)に日本人以外の血は混じっていないし、私自身が何らかの突然変異でそうなってしまったという話は聞いていない。少なくとも私が後者だった場合は何らかの記録が残っているはずだが、調べた限りではそういったものは残されていなかった。
 ここから推測される事はそう多くない。
 最も可能性として有力なのは幼い頃の私に何かがあったのだろうという事で、それはきっと正しい。証拠として提示出来るような確かなモノは一つとして存在しないのだが、私の本能がそれを肯定していた。
 当時の私に何があったのか、それは今となっては与り知らない事だ。私自身が記録として何かを残しているわけでもないし、両親からその事について聞かされた事も一度もない。ついでに言ってしまえば、私の記憶している限りでは、両親とまともに会話した事などほとんどない。つまりこの件に関しては八方塞がりだという事だ。
 おかげで私の今まで歩んできた道のりは散々たるものだった。
 何をするにしても違和感が付きまとい、疎外感を感じずにはいられない。そんな人生をずっと歩んできたのだ。
 それは言葉の通じない国に放り込まれて訳の分からない授業を受けさせられている人の心情に近いモノがあると思う。
 内容を理解したいとは思うのだが、言葉が通じないがためにどうしようもなく、ノートを取ろうと思っても、それをどう取れば良いのかすら分からず結局ノートは真っさらなまま開かれている状態。
 まさに私はそのノートと同じような状態でずっと生き続けていた。
 この焦燥が分かって貰えた事は過去一度もなかった。
 他人がゆっくりとでもノートを埋めていけるのに対し、私のノートはどれだけ頑張っても一向に埋まらないままだった。表面上はいくらでも誤魔化す事は出来ても、それが私自身のモノとして形になったことなど一度もない。
 しかし、ずっと続いていたゼロという数字も今は変化している。
 その数は今はゼロではなくイチとなっているのだ。
 増えた数字はたったのイチ。一つだけでしかない。
 けれどその数の尊さを私は身をもって実感していた。
 馴染む事の出来なかったこの世界に私の体は驚く程のスピードで浸透していったのだ。その時の心地よさはもう言葉では表現できないほどに素晴らしいものだった。新たな世界が広がるとはまさにこのような事を言うのだろう。
 現在と過去は別のモノだ。
 たったそれだけの事に気付くのに随分長い時間がかかってしまった。
 でも、それだけの価値は十分にあったと思う。
 だって今の私のノートには真白な空白など一ページもなく、鮮やかな蒼で満天の星空が描かれているのだから。
 それを私のノートに描き込んだのは私ではない。彼女だ。
 彼女は悪戯好きなので、色んな絵を描いて私に披露してくれる。
 そのどれもが私には新鮮で、どんな芸術品よりも輝いていた。
 他の誰にも共感される事の無かったどうしようもない疎外感を共有出来る唯一の存在。私のとても大切な人。
 もし、彼女に出会えてなければなどという事は考えたくもない。
 ついこの間まで自分がどうしてこんな感覚に蝕まれなければならなかったのかずっと疑問に思っていた。
 でも、今は違う。
 今は全てがこの為にあったのだと私は確信している。
 そう、全ては彼女と出会う為に――
 そういった想いが私の中で確立されてからは私は自分の事が少しだけ好きになった。自分の抱かざる得ないこの色だって彼女が綺麗だと褒めてくれる度に愛着が沸いた。
 そして、何よりも今はこの世界が好きだった。
 彼女と一緒に眺める事の出来るこの世界が。
 きっと彼女と一緒に眺められれば、こんな朝焼けでも少しは好きになれるのかもしれない。
 それは今すぐには叶わないけれど、あと少しで叶う予定だ。
 一緒に初日の出を見ようと約束したのである。
 残念な事に眺める場所は病院の屋上からというロマンチックにはいささか欠けた場所ではあるが、それは状況が状況だけに仕方がない。我慢しよう。しかし、いつもは面会時間や規則に厳しい看護士さんにもその辺の許可は既に得ているので二人で堂々と騒ぐ事が出来る。
 年明けを待つまでの間何をして過ごそうか、そんな話題がここ数日の私達の会話。
 彼女と迎える新しい年。
 それはきっと素晴らしいものになるに違いないだろう。
 出会ってたった数ヶ月の今年でさえこんなにも素晴らしい年だったと思えるのだからそれはきっと間違いない。
 そう思うと頬も少しばかり弛んでくるというものだ。
 私の顔は今さぞかしだらしない笑みを作っている事だろう。
 それくらい、今の私は明日が待ち遠しい。
 今日ではなく明日。
 明日よりも明後日。
 毎日がこれ程待ち遠しいと思える日が来るなんて思ってもみなかった。
 今でもまだこの世界に疎外感を感じる事はある。
 むしろその回数はまだ多いと言うのが的確だろう。
 しかし、そう感じる事がまだ多くても、今の私はこの世界が愛おしい。
 彼女と一緒にいられるこの世界がとても気に入っている。
 だから私は明日を迎えたい。
 独りではなく二人で。
 その為の過程として必要になるのなら、朝焼けの一つや二つ乗り越えて見せようじゃないか。彼女の価値は私にとってどうしようもないくらいに大きいのだから。
 朝焼けの光は元が真っ白な病室を更に白く、白く染め上げていく。
 私はただそれを眺めるだけ。
 目を瞑らずに、視線を逸らさずに。
 ただ白く染まりゆく世界を眺めている。

 今、暗くも素敵な夜を押し流すように。
 そうして、夜は明ける――


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