count 50,400 〜 開け放たれた箱より溢れ出す災厄 〜



 いくら病院といえど、年末をそこで過ごす人々はそう多くない。
 見舞客は勿論の事、患者の中でさえ病院側から許可を貰い一時退院をして家で年を越そうと計画する者が少なくないからだ。
 その為、病院内を歩き回る人々の数は平時に比べて圧倒的に少ない。
 しかし、いくら少ないといってもその数には限度というものがある。
 本来、年末の病院というのは忙しいものなのだ。一般患者は平日に比べれば確かに少ないだろうが、それに対して年末という時は人を騒がしくさせるのか急患が驚く程に多いのである。
 その為、訪れる人の数は少なくとも、働く人の数はあまり変わらないというのが年末の病院のはずなのだが、今日はそれが異なっていた。
 それに未時が気付いたのは夕方を差し掛かろうとする頃。
 気付いたきっかけは些細な事だ。
 それは彼女が飲み物を買いに近くの自販機へと走っていた時の事。いつもなら見張っていたかのようなタイミングで飛んでくるいつもの看護士の怒声がなかったのだ。
 それ自体はどうという事もない。むしろ未時にしてみれば小言を耳にタコが出来るまで聞かされる事がないのだから願ってもない事だ。
 しかし、その時ふと視線がナースステーションに向いた。
 感じた違和感に思考が追いつくのに要したのはほんの数秒。ナースステーションには患者の容態が急変した時等に鳴らされるナースコールの受信機が設置されている。他にも訪問者の対応をすることも少なくない為、最低でも二人は待機しているはずなのだ。
 にもかかわらず、そこには人の気配がなかった。
 奥で作業でもしているのだろうかと勘ぐったが、奥から人の出てくる気配は一向にない。
 その時にはまだ急な用事か何かで人が出払っているのだろうと思った。
 しかし、それが間違いだとすぐに気付いた。
 足音が異様な程に響くのだ。
 リノリウムの廊下に響く自分の足音の大きさに驚き、未時は改めて周囲を見渡した。そこは見ただけでは普通の病院の廊下にしか見えなかった。それに間違いはない。確かにここは病院なのだから。
 だが、そこにいる必要の在るものがすっかりと欠け落ちているのだ。
 正しくは現在進行形で欠けていっているというのが正しい。
 それは夜の病院で、帰り際に未時がいつも感じていたのと同じ感覚。
 シンと静まりかえった、まるで作り上げたセットのような風景。人の気配というものが今この病院から急速に消え去っているのである。
 未時が知る限りそんな事をする必要がある存在は片手で数える程もいない。
 そして、その理由となるとそんなものは一つしか思いつかなかった。
 これは警告だ。
 タイマーと似たような役割をこの病院自体が果たしているのだ。まるで見せびらかすような、焦らすような気配の減り方からしてまず間違いないだろう。
 未時が今こうして廊下を歩いている間にも気配は又一つと消え去っていく。
「……だからどうしたっていうのよ」
 獲物を追い詰めるのが楽しいというのならそこでそうやってほくそ笑んでいればいい。退路なんてものは既に自ら焼き払っている。逃げるという選択肢は端から持ち合わせていないのだ。
 退いても得られるものは後悔しかない。
 そんなものを誰が選ぶというのか。
 少なくとも星海 未時にそんな選択は有り得ない。
 大切なものを失うのが怖いから。
 だから彼女は時が過ぎゆくのを待つ。
 一つ、又一つとしてゆっくりと消え去っていく気配の数がもどかしい。時計の針が進むのがひどく遅く感じられた。

 しかし、どれだけ焦らされたとしても時は確実に過ぎていく。
 気付けば日は傾き、真っ白だった病室は橙に染まり、徐々に黒みを帯びていく。
 夜が訪れるのだ。
 既に病院内の静まり具合は常軌を一線どころか四つも五つも超えていた。廊下を歩いても誰かとすれ違う事はもうないだろうし、備え付けのナースコールを鳴らしても反応は返ってこないに違いない。
 この病室の窓から見る限りでは、既に病院を訪れる者も去る者もぱったりと途絶えている。
 もうこの病院内に残っている者など関係者数名程度しか居ないだろう。下手をすると患者でさえ残っている者など一人もいないのではないだろうか。
 そう思ってしまえる程、今この病院からは人の気配という者が枯渇していた。
「寒くない?」
「はい、大丈夫です」
 年末の夜気というのは酷く体に堪える。
 それでも窓を開け放っているのは他でもない海空の要望だからだ。
 窓からは満天の星空が望めた。
 この病院は山の上方にある。そのため、今日のように天候の良い日は都会では到底目に出来ないような、それこそプラネタリウムに勝るとも劣らない星空を楽しむ事が出来るのだ。
 ただし、山上なので冬は殊更に冷える。防寒を怠ると次の日にはクシャミに顔をしかめる事になるので注意が必要だった。
 特に今の海空のように予断の許されない状況では特に注意すべきだろう。
 そんな未時の主張から今の海空はベッドの上で自前のコートの上から更にもう一枚、未時のコートも羽織らされている。見た目にはかなり暑苦しそうではあるのだが、当の本人はそれを気にした風もなく、先ほどからずっと輝かしい星空に目を奪われ続けているままだ。
「今、初めてこの病院にいて良かったと思ってます」
「現金な話ねぇ」
 口ではそう言いながらも未時もその意見には賛同していた。
 確かにこの星空には一見の価値があるだろう。今見ている星空は数日前にホテルのスイートから見上げた時のものよりも遙かに壮大で美しかった。こんなにも空に星があるという事実に未時も今日始めて気付かされたのだ。
「こんなに良いモノが見れるんですから、これから夜は毎日窓を開けておかないといけませんね」
「流石にそれは風邪をひいてしまうんじゃないかしら?」
「今日みたいにしっかり防寒してれば大丈夫ですよ」
「それは私にずっとコートを着ずに帰れという事なのね?」
「一緒に見てはくれないんですか?」
「それじゃこれからは毎日忍び込む必要があるわね」
 それはそれで楽しそうだ。いつもの看護士の耳に入ればそれこそ鬼の形相で小言を聞かされそうだが、今はその心配がないのが幸いだ。
 そうこの会話が彼女の耳に入る可能性は絶対にないだろう。
 なぜなら――

「楽しそうだね、ボクも混ぜて貰っても良いかな?」
 声が静かに響いた。
 たった一つしかない出入り口に自然と目が向いた。ドアはまだ少ししか開いておらず、隙間からは闇しか覗いていない。
 しかし、隙間からドアに掛けられている小さな手はどこか恐ろしく、交わる視線の先にある瞳には間違いなく狂気の類が宿っていた。
「…………」
「黙りを決め込まなくても良いと思うんだけどね。最近は毎日顔を合わせた仲なんだしさ」
「…………断ると言ったら?」
「決まってるじゃないか。割ってでも入るよ?」
 ドアが開ききって、闇の中から知った顔が現れる。
 とても小さな少年だ。見た目からはどう見てもせいぜいが五、六歳。顔付きは天使のように愛らしく中性的である。服装もそれに合わせて見繕ってあるのだろう、とても可愛らしく一目見ただけで少年だと看破するのは難しいだろう。
「あら、ミチル君。いらっしゃい」
「こんばんわ、海空おねぇちゃん」
 相変わらず愛想だけは満点である。この少年の本性を知らない者なら男女問わずとして虜にされるのだろう。
 だが、
「でも、折角来てくれたところ悪いんだけれど、帰ってくれませんか?」
 ミチル少年の微笑みを海空はあっさりと蹴っ飛ばした。
「えー、だって折角会いに来たのに」
「そうですね、確かに来てくれたのは嬉しいんですけど、今日はただお話しに来たのではないのでしょう?」
 その反応に未時は開いた口が塞がらなかった。
 それは普段の彼女とはあまりにもかけ離れた冷たすぎる口調だったという事もあるが、それ以上にこの状況に対して彼女が冷静過ぎたからだ。
「こういう事はあんまり言いたくはないんですけど、出来ればこのまま部屋にも入らずに帰って頂けませんか?」
 そう言い放った海空の口調は有無を言わせない拒絶を含んでいた。
「冷たいなぁ」
 しかし、ミチルはそんな拒絶すらも楽しんでいるらしい。
「もしかして、思い出した?」
「…………?」
 だが、その言葉の意味が未時には分からない。
「いいえ。思い出した訳じゃないんですよ。
 ただ、今の貴方の気配を私は知っている気がします」
 どうやらその意味は海空には分かるらしい。
「それに、その口ぶりからすると貴方は知っているんですよね?」
「何をかな?」
 尋ねられて海空は一瞬の間を置いて応えた。
「――昔の私を」
「どういうこと?」
 とりあえず傍観を決め込んでいた未時だが、流石に口を挟まずにいられなかった。
「記憶がないって言ったわよね?」
「えぇ、私には欠けてる記憶があるんです。とは言っても、それも五歳くらいの時の事なので、今は別に戻って欲しいとは思ってませんけどね。
 むしろ今では少し感謝しているくらいですよ。
 きっとこうなっていなければ私は未時と出会えていなかったと思いますから」
「まぁ、多分そうだろうね。当時のおねぇちゃんは至って普通の感性の持ち主だったし」
 説明する海空の顔には少しの苦悩も浮かんではいなかった。
 対するミチルの顔は少しつまらなさそうだった。彼としてはもう少し歪んだ顔を希望していたのだろう。
「そう言うという事は認めると取って良いんですよね?」
 そして、そこにつけ込む海空の口調は鋭い。
 先日、未時が彼女に詰問された時の比ではない。その時よりも明らかに強気で、手加減を感じさせない威圧的な口調だった。
「うん、別に隠している訳じゃないしね。というかここまで来て隠すも隠さないもないでしょ」
 そう言った瞬間に少年の顔から愛らしい笑みが消えた。
「――どうせ今日で終わりなんだからさ」
 同時に背筋を駆け抜けた感覚に未時も海空も同時に息を呑み、次ぐ言葉を失った。思わず握りしめた拳には汗がべたつき、未時は反射的に身構えていた。
「まぁ、そう慌てないでよ。まだ少しだけ時間はあるから安心してよ。それに色々忘れたままだと気持ち悪いだろうからちゃんと思い出させてあげるし、ついでにその時の事情ってものも教えてあげるよ」
「随分とサービスが良いのね?」
「冥土の土産は必要でしょ?」
 軽く肩を竦めてみせるミチル。
 そんな風に飄々とした態度を取っていても保っている圧倒的な威圧感はそのままで、未時と海空はまだ自由に体を動かせずにいる。
 そして、目の前の少年はやはりそれも楽しんでいるようで、ドアの入り口入ってすぐの所で壁に背を預けたままこちらを眺めている。顔には今まで二人が見ていたのとはまた違う種の気味の悪い笑顔が張り付いていて、それがまたちびっ子に舐められているようで腹立たしい。
 実際の所風景的にはその通りなのだが、それでも見た目が少年というだけでその腹立たしさは何倍にも膨れあがるというのだから見た目というのは厄介なものだ。
「別に土産でも手向けの花でもどちらでも良いですから、とりあえず話してくれませんか?
 私には聞く権利があるはずです」
 ミチルの売り言葉にしっかりと反応する未時だが、後ろにいる海空はそれに従う様子はない。先ほどと同じように頑として自分の要求をしっかりと突き付ける。
 未時は先ほどからずっと驚かされっぱなしだった。
 海空に幼少の頃の記憶がない事、この状況下でも冷静であり続けられている事、でも本当はとても不安に思っている事。
 それでも海空は彼女らしいままでいてくれる。
 その強さに未時はとても驚いていた。
 彼女にはいつも教えられてばかりいる。まだ自分に足りないものや欠けているものに気付かせてくれる。
 そして、その度に未時はいつも思うのだ。
 彼女と出会えて本当に良かった、と。
「まぁ、確かに海空おねぇちゃんには聞く権利があるしね。
 一応忠告しておくけど、おねぇちゃんにとっては絶対に良い話ではないよ?
 それでも聞きたい?」
「勿論です」
 二度は言うまいと海空は短く答えた。
 しかし、未時は気付いている。だからそっと手を伸ばして彼女の手に重ねた。布団の中で僅かに震えている彼女の手に。
 何も言う必要はない。言いたい事は視線を交わせば伝える事が出来る。
 大丈夫。
 私が傍にいるから――
 果たしてその想いは伝わる。
 海空が一瞬だけ驚いたような顔をして、すぐに安堵の笑みを浮かべたのがその何よりの証だった。
 それを待ってか待たずか、ミチルが「ボク達からすれば良くある珍しくも何ともない話なんだけど」と、前置きしてから過去を語り始めた。
「おねぇちゃんは覚えていないと思うけど、当時、おねぇちゃんのお父さんが経営していた会社っていうのが結構厳しい状況でね、それこそ本当に明日は我が身とでも言えそうな状況だったんだ。おねぇちゃんのお父さんは各方面へ資金繰りの為に奔走してたみたいだけど、それも結果としては芳しくなくて途方に暮れていた。
 そこで彼が手を出したのがボク達の世界って訳。きっと藁をも掴む思いだったんだろうね。不可能を可能に出来るっていうのはある意味でボク達の力の本質みたいなものだし、ある程度この世界の裏側を知っている人にはボク達みたいなのがいるっていうのは既に暗黙の了解でもあった。
 でも、おねぇちゃんのお父さんは一つ決定的に思い違いをしていたんだ。彼が分かっていなかったのはボク達に払う対価。単純にお金を払えば良いと思ってたらしいけど、ボク達にはそんなものは意味がない。
 ボク達が求めるものはそんなどうでも良いもの何かじゃないんだからね」
「それで代償として彼女を求めたのね」
「ご名答」
 未時の問い掛けにミチルは笑って即答した。
「さぞかしおねぇちゃんの両親は苦しんだろうね。何せ大切な娘を犠牲にするしかなかったんだし。それにどれだけ会社の業績が伸びて、持ち直してもそれでおねぇちゃんが取り戻せる訳じゃないんだからね。
 おねぇちゃんの顔を見る度にきっと自分を呪って殺してやりたくなるくらいには苦しんでくれたんじゃないかな?」
 なるほど、だから海空が倒れた時も彼女の両親は全く彼女を見舞う事はなかったのか。彼女がいずれこうなる事が分かっていたのだ。それに海空が倒れたのは他ならない自分たちの所業だ。そこにはとてつもなく大きな罪悪感が付きまとう事だろう。
「でも、何でこの子だったのよ。代償と言うくらいなんだから、本人から取り立てるのが筋ってものじゃないの?」
「その非難は尤もかもしれないね。
 でも、よく考えてみて欲しい。ボク達みたいな存在がそんな普通の対価を欲しがると思う?」
 開き直って少年は言う。
「それに海空おねぇちゃんは普通の人にはない面白いモノも持っていたからね。
 だからボクは対価としておねぇちゃんに仕掛けをさせて貰った」
「仕掛け?」
「仕掛けといっても大したものじゃない。ちょっと種を一粒植えさせて貰っただけだよ。
 まぁ、その一粒の質の悪さは他の誰でもない植えたボク自身が保証しちゃうけどね」
「そんな保証いらないわ」
「いらないと言われてもボクがじゃあ止めようかなとか言うと思う?」
「…………」
 そんな事になるのなら最初からこんな状況に陥っていない。出来れば今すぐにでも目の前の少年を完膚無きまでに叩きのめし、その種とやらを取り除きたい。
 しかし、そんな事が出来るのならとうにやっている。
 それに今、未時は動きたくとも動けないのだ。
 今動けば未時の命は紙切れのように呆気なく破り捨てられてしまうだろう。
 ミチルの物言わぬ威圧感が本人の代わりにそれを伝えてくる。
 本当はすぐにでも二人で逃げ出したいくらいなのだ。
 それでも動けずにいるのは相手の存在に圧倒されてしまっているからだった。後ずさりせずに面と向かっているだけでも精神はとてつもない勢いですり減らされていく。
 既に戦いは始まっていると言っても良い。
 ただし、それは明らかなワンサイドゲームで、此方だけが必死になって走り回っているような状態だったが。
 目の前の少年はそれを知っていて、平然とこうやって無駄話を楽しんでいるのである。
「止める気がないから今こうやって私達に話を聞かせているんですよね?」
 こちらは二人がかりでようやくそれに付いていく事が出来ている状態だ。
 海空が話の筋を戻すように主張する。そこには未時に向けられている威圧感を幾ばくか緩和するという効果があり、彼女の狙いはまさにそこにある。
「その通り。その方がボクとしては楽しいからね」
「悪趣味な事ね」
「でも、ボク達としてはこれが普通なんだよ」
 「ちょっと脱線しちゃったね」と言って、少年は話を本筋に戻す。
「おねぇちゃんに埋め込んだ種はちょっと特殊でね。野菜とか果物と同じように収穫するまでに時間が掛かるんだ。
 その年月は個人差はあれどおよそ十年と十月。
 もっともおねぇちゃんの場合個人差どころか素材が良すぎたせいか十三年近く掛かってるんだけど。
 あ、先に言っておくけど、素材が良いというのは見た目とか人格とかそういったモノじゃないからね?」
「じゃあ何だっていうのよ」
「未時おねぇちゃんなら分かると思うけど?
 それこそ色々あるじゃない。ボク達みたいなものが好みそうなモノなんてさ」
 確かにない事はない。何よりも事象としては決定的なものが一つだけある。
 だが、その可能性は既に彼女自身の中で否定されてしまっているものだ。
 何故なら未時自身が海空からその要素を微塵も感じ取れなかったからだ。まだ自らの異質を明確に感じ始めた頃ならばともかく、今の自分がそれを感知出来ないというのは可能性からすればかなり低いはずだ。
「さっきも言ったけど、ボクが植えた種はタチが悪いよ?
 何てったってボクが生み出したんだからね。あまりにもタチが悪すぎて、埋め込んだ弾みで海空おねぇちゃんは真っ白になっちゃったくらいだしね。あの時のおねぇちゃんの顔は今思い出してもゾクゾクするよ。あの叫び声はとても心地良かった」
「悪趣味にも程があるわね。反吐が出るわ」
「それもボク達にとっては褒め言葉みたいなものだね。
 あ、そうそう。ついでに言っておくと、大事なのは全ての可能性を否定してしまわない事だよ。所詮は全て推測でしかないんだし。
 尤も、おねぇちゃんが全てを見通す魔眼でも持っていれば別だけど」
 そんな便利なモノがあればこんな事態になるまで海空の容態に気付かないはずがない。
 しかし、少年の言う口ぶりからするとそれはまさしく――
「ボクが植えた種が成長するのに必要なものは二つ」
 少年は指を二つ立てて、得意そうに語る。
「一つは宿主の生命力、そしてもう一つは――」
 たっぷりと焦らすような間を開けて、ミチルは未時達を嘲笑う。
「魔力だ」
「…………」
 そうではないかと思う事はあった。彼女の中に巣くうアレは確かに未時が流した魔力を喰らっていたのだから。それは代替物として接種されていると思っていたのが、完全に間違っていたようだ。
 そして、そうなってくると根本的な視野を大きく変える必要が出てくる。
 もし、海空の中にいるアレの成長に必要なモノがミチルの言う通り生命力と魔力であるとするならば、海空があの日いきなり苦しみだした理由はどちらかが枯渇したからか、もしくはその両方が既に空になる寸前であるからと考えるからが妥当だろう。未時が見た限り、あの時の彼女の体調は至って健康であった事は間違いない。それはこの病院での検査結果も証明している。
 そうなると未時の思考が辿り着く場所は自然と決まってくる。
 それは既に推理や推測の域を通り越した予知に近い神がかった直感だ。
 本来ならばそれは切り捨てられる可能性を含んだ解答である。
 しかし、未時には確信出来るだけの理由と既視感に覚えがあった。
 海空に魔力を流した時に感じた感触、ずっと彼女の傍にいたのに彼女本人から全く魔力を感知できなかった事。だが、そうでありながらも自分と同様にこの世界にどうしようもない違和感を感じてしまっている事。霧羽と対峙したにもかかわらず彼の存在感に畏怖を押し殺して対峙する事が出来た事実。
 今、その事実全てがが直結する。
「海空は魔術師なのね……」
「正解」
 少年の手が夜の病室に鳴り響く。
「もっとも当時はその可能性を秘めた存在というだけに過ぎないけどね。
 まぁ、それでも今と同じように未時おねぇちゃんと出会っていれば開花した可能性はかなり高かったと思うよ。何せボクの植えた種が実を付け、熟すのにこれだけの年月を必要としたんだからね。いやぁ、結構長丁場だったよ。おかげで希に見る御馳走にありつける訳だけど」
 おそらく、海空はかなりの魔力容量を保持していたのだろう。少なくとも未時自身と同量、もしくはそれ以上の。
 故に今まで平常として生きてこられたというのが論理。そうすると海空が先日急に体調を崩したという疑問に解答が浮かび上がってくる。
 ――海空の魔力が枯れたのだ。
 その為、今までは魔力を吸い上げるのに使用していたポンプも生命力の方面に回された。その反動があの日一気に訪れたに違いない。魔力量は絶対量が多ければ枯渇させるのにかなりの時間と作業量を必要とするだろうから、ここ数日における海空の衰弱具合にも納得がいく。
 そして、何故このタイミングでミチルが姿を現したのかも。
「二人とも察しが良くて本当に助かるよ。
 物事には何にでもタイミングってものがある。それは果物の収穫だって同じだ。収穫時期の過ぎてしまった果物なんて全然美味しくないよね?」
 「というわけで」と少年は今までずっと言いたくて仕方がなかったであろう言葉をようやく口にする。
「そろそろ収穫させて貰うよ?」
「させない」
 未時は二人の間に立ちはだかった。
「ボクは昨日警告したよね?」
「そうね」
「その意味は十分に伝わっていなかったのかな?」
「伝わると思う?」
 時間は確かにあった。
 考える為の時間。逃げる為の時間。迷うだけの時間。
 しかし、それは同時に覚悟を決める時間でもあり、思い出す事が出来た時間でもある。
 彼女に与えられたモノがどれほど未時を救ったかは言うまでもい。きっと彼女がいなければ未時はこの世界から颯爽と消えてしまっていただろう。それだけの事をする意味のある出会いが在ったのだ。
 だが、それ以上に彼女が与えてくれたモノの方が未時には遙かに大きかった。
 煌めく星空の美しさを知った。
 季節が変わりゆく時の寂しさを知った。
 世界を変えていく事が出来る事を知った。
 そして、人の手の温もりが心地良い事を知った。
 大切な人が傍にいてくれる事の愛おしさを知った。
 大切な人を守りたい。
 だから未時は今ここに立っている。
 もうこの世界に後悔するのはまっぴらだ。今は変えていきたいと思うだけの理由がある。変わりたいと思えるようになった想いがある。
 そこに他者の入り込む余地はない。
 星海 未時が星海 未時として在る為に、彼女が前を向く為に、彼女はここに立っている。
「一応、約束があったから猶予を与えてあげたんだけど、やっぱりいらなかったみたいだね。
 まぁ、そうでないとボクも面白くないんだけど」
 そう言うとミチルの右腕が持ち上がり、手のひらが空を握り潰した。
「キャッ――」
 背後から聞こえた悲鳴に振り向くと、そこには二人の間を阻む格子が展開されていた。格子はベッドの周囲を囲むように床から伸びており、丁度ベッドの真上で一点に収束していた。その形はまさに巨大な鳥籠そのもの。
「ゲームには景品とルールが必要だ。景品は言うまでもなく、海空おねぇちゃん。ルールも単純。時間無制限の一本勝負。倒れた方が負け。何か質問は?」
「ないわ」
 呟くと共に未時は半身になって身構える。全身に流れる自分の全てを意識して魔力をくまなく躍らせる。
 ゲーム開始の合図は必要なかった。
 言葉を発したその半秒後、未時がの姿が弾けるように掻き消えた。
 弾け散るリノリウムの破片だけをそこに残して未時の姿は既にミチルの側面に跳んでいる。同時に彼女の拳が大気を抉りながらミチルを襲う。狙いは寸分違わず、可憐な微笑みを浮かべたままの愛らしい顔のど真ん中。
 静かだった病室に耳を引き裂かんばかりの破裂音が鳴り響く。
 そのあまりの衝撃音の大きさに反射的に目を瞑ってしまった海空は瞬きの内にミチルの姿を見失った。
 しかし、それは彼女自身が先ほどまで少年がいた場所、その一点のみを見つめていたからだ。海空が再びミチルと未時の二人の姿を視界に捉えた時、その立場は綺麗に入れ替わってしまっていた。
「未時ッ!」
 反射的に叫ばれだ声に未時は超人的な勘の冴えを発揮する。
 本能的に前へ跳びながら体を反転。肌が焼け付くような焦燥に襲われた部位を咄嗟に腕でガード。
 刹那に彼女を襲ったのは全力でスイングされたバットを叩き付けられたような衝撃だった。
 それが計十発。瞬きさえ惜しむような一瞬で未時の全身を襲った。
「――ッ!」
 どうにか全弾の直撃を逸らすも、それでも未時の体はジャストミートされたボールのように弾かれる。海空が教えてくれなければこの一瞬で終わっていたかもしれない。
 病室のドアに叩き付けられる前に自ら体勢を無理矢理立て直して勢いのままにドアを蹴破って外に飛び出す。病室のドアをひしゃげ潰しながら壁に着地し、そのまま今度は体を投げ出すようにして跳んだ。
 直後に病室のドアがまるで練り飴でも弄ぶかのようにくしゃりと潰れる。
「良い反応だね。昨日とはまるで別人だ」
 この状況を心底楽しんでいるだろうミチルの笑顔が眼前まで迫っていた。
「それはどうもッ!」
 今度こそその顔に拳を叩き込もうと未時の拳が再度大気を抉る。
 対するミチルはただ掌を未時に向かってかざすだけ。
 だが、未時にはその動作が一撃必殺の威力を生む為のトリガーである事が視えている。膨大な量の魔力が攻め合うように渦を巻き、砲弾のような一撃を生み出しているのだ。
 魔力の渦は巨大な弾丸のように激しく渦を巻き、今にも未時を穿とうと鳴いている。
 交わった視線はほんの刹那にも満たない一瞬。
「ハッ――!」
 同時、二つの魔力が同時に弾けた。
 衝撃が荒波のように暴れ回り周囲を片っ端から荒らし回る。
 静かで不気味だった病院の廊下に稲妻のような爆発音が響き渡り、昼になれば病的なまでの清潔感を醸し出していた風景が砕け散る。リノリウムの壁と床は無惨なまでに壊れ果て、まるで大戦の跡地かと錯覚すら覚えそうな程だった。
 その中心で一撃を見舞ったままの体勢で膠着する影は二つ。
「今ので決まったと思ったんだけどな」
「残念だったわね」
 未時の頬から鮮血が滴り落ちた。
 それは今の一瞬で生じた裂傷の一つだった。他にも裂傷は彼女を正面から掠めたように両腕、右腹部、両足を赤く染めていた。見た目こそ派手に流血しているが、全力で動くのにそれほどの支障はない。
 今の一撃をやり過ごせた事を考えれば安すぎる代償だろう。
 全ては一撃を放つ瞬間に効かせた機転のおかげだった。
 直前まで未時はミチルが放つのと同じように弾丸のような抉る一撃を撃ち込むつもりだった。
 しかし、その寸前に彼女の脳裏に甦る光景があった。それはミチルの存在と力にただただ圧倒されるだけだった自分の姿だ。
 その屈辱的な光景が未時の思考を一瞬にしてクールダウンさせ、戦況を冷静に見つめ直す為の余裕を与えた。
 手に入れた猶予は凄まじい勢いで未時の思考回路を駆動させた。
 弾丸のように回転を掛け、鋭さを与えていた魔力の渦、その回転を瞬時に逆回転へと転換。狙うのは一点。少年の周囲から今にも放たれようとしている牙の中心部。
 故に、未時の拳は当初の予定通りミチルの顔面へと渾身の力を持ってして放たれた。
 ただし、解き放った魔力は少年の纏う魔力障壁に沿って拡散した。
 そのタイミングは絶妙にもミチルが牙を撃ち放ったのと同時だった。超速で放たれた魔力弾の軌道はこの至近距離に置いては必殺であるが故に直線上以外に有り得ない。その軌道線上に未時の魔力が歪みを生んだ。
 それはほんの僅かな、極小としか言えないような歪みでしかない。
 しかし、超高速で移動する物体にとってそれは致命的な歪みだった。例えば車や列車といった物体は早く動けば動く程、軌道の制御というのは難しくなる。普段なら大して大事にならないような障害物でさえ、超高速の世界にとっては大きな障害物となってしまう事がある。
 未時が咄嗟に思いついたのもそれと同じ原理だった。
 物理的な理屈が魔術に通用するかどうかはかけるしかなかったが、その結果は彼女が未だ倒れていない事が何よりも証明している。
 おそらくは無視する事も可能だったはずだ。未時が魔力により生みだした衝撃波さえ意味を成さないような威力で打ち出す事がミチルの力量において出来ないという事はないだろう。予めそのように術式を組んでいれば。
 現にミチルはその手間を省いていた。もしくは未時がそうする事を想定していなかった。全ては偶然と機転の組み合わせの上に成り立っている砂上の楼閣でしかない。
 だが、それが必要であるというのならそれさえも乗りこなしてみせよう。
 二人で生き抜く為なら砂上に王城さえ建ててみせる。
「……良い眼だね。
 迷いのない、強い意志を秘めた眼だ。ただ、戦うだけじゃなく、その上で更に生き抜く事を決意した眼。好きだよそういうの――」
 至近距離で交わす言葉は冷たく、鋭い。
「ぶち壊すと綺麗な音で散ってくれるからね」
 そう言って微笑みにともにぶつけられる殺気は純粋でおぞましかった。寒気のような感覚に襲われて、未時はミチルから大きく距離を取る。
 直後、少年の眼前。つまり未時がいた場所がバコンと大きな音を響かせて陥没した。あっさりとひしゃげ凹んだ廊下に相手の実力を改めて実感しつつも、未時の表情はまだ曇ってはいない。
 生き抜く為の覚悟が胸の奥で強く燃え上がっているのだから。
「行くよ?」
 返答を必要としないミチルの言葉と同時に再度魔力の弾丸が放たれた。その数は先程の数を大きく上回っている。しかも全弾を同時に打ち出すのではなく微妙なズレを加えているので、自分がさっきやったような手段は使えないし、避けるのも難しくなる。
 だが、それでも未時はそれらを避けていく。
 床、壁、天井を所狭しと駆け巡り、時に体を掠めるような際どさで、時に弾丸の一撃を撃墜して一瞬と一瞬の狭間を切り抜けていく。
 その軌跡を縫うように、ミチルの放った弾丸がそこを穿っていく。まるでそこを喰らったかのような爪痕を残しながら、その一撃一撃は先ほど同様一撃必殺の威力を保持したままだ。
 壮絶な破壊音を響かせながらも、互いの声は不思議と相手の耳に届くのだから不思議なものだ。
「ほらほら、もっと頑張らないと追いついちゃうよ!」
 言葉と同時に弾丸の速度が一段階上がる。
「くっ――!」
 直撃コースだった一発をどうにか撃ち払うものの、同時に腕に走る痺れ。折れてはいないが、ビリビリと腕に伝わる感触は先ほどよりも明らかに重い。
 速度だけではなく威力も増しているのだ。
 おまけに弾丸の軌道も複雑化されていた。直線だけだった軌道にカーブやホップが掛かっているものが混じりはじめている。それも最初から大きく曲がるモノや未時に接近してから曲がるモノ等、曲がるタイミング、大きさのどれもがバラバラで避けにくい事この上ない。
 自然と避けるのは難しくなり、移動のスピードも格段に落ちる。当然、未時自身が打ち落とさなければならない数も増える。
 また未時の腕が右から襲い来る牙の一撃を打ち落とした。衝撃は重く、未時の腕を容易に押し返す程だった。完全とはいかないまでもほんの僅かに体勢も崩れる。
 そして、その僅かに生じる隙を見逃してくれる程相手は甘くない。ほころびを広げるように確実にそこに付け込んでくる。
 体勢を整えさせまいと続けざまに三連発。
 初撃が到達するまでわずかコンマ三秒。その僅かな時間で未時の直感と判断が下した決断は同じだった。
 体勢を崩しながらもそのまま後方に跳ぶ、これによって稼げる時間はコンマ一秒弱。その刹那に自らの体勢を無理矢理立て直し、それを迎え撃つ。
 しかし、今までのように確実に撃ち落とすにはタイミング、魔力を拳に回すだけの時間が足りない。
 それなら――
 瞬時に魔力の構成式を組み替える。
 狙うは一点。弾丸の中心。そこに拳を当てて、自らの魔力を放射。爆発と同時に生じる衝撃波を利用しての一撃離脱。
「フッ――!」
 体勢が悪いが故の威力ではなく速度重視の一撃。
 事実、咄嗟の判断にしては十分すぎる瞬断だった。それは相手側のミチルから見ていても驚く程のセンスである。
 だが、十分すぎるでは見通しが甘すぎる相手であることもまた事実。
「ッ――!」
 思わず未時の顔に驚嘆の色が浮かぶ。
 激突する直前に初撃の弾丸があらぬ方向に逸れたのだ。
 逸れた弾丸は壁を粉砕し、未時の視界の何割かを奪う。
 その奪われた視界の中から飛び出すように二撃目。
 それをどうにか初撃に空振りした拳でどうにか弾くも、未時自身も大きく弾かれる。
 それ自体は未時自身の目的と合致する。
 しかし、その結果は大きく食い違っていた。
 タイミング、体勢、衝撃の分散。その全てが未時の狙ったモノと真逆の位置にあり、彼女の思考から大きくずれていたのだ。
 そして、そんな状況で襲いかかる三発目。
 まさにこれこそが本命だったのだろう。それは今度こそ未時を目指して一直線に進んで来る。まさしく必中の一撃だった。
 咄嗟に腕を前で組んで防御するのと、弾丸が未時に牙を落としたのはまさに同時。
 ――全身を引き裂かれるような衝撃が走った。
 余りの激しい痛みに刹那の間、意識が途切れる。瞬時に覚醒するもののその時には既に自分の体は全く別の物にすり替えられたかのような痺れに襲われていた。
 ――このッ!
 痺れる体に無理矢理活を入れ、どうにか地面に叩き付けられる直前に自由を取り戻す。体を反転させ、どうにか頭部ではなく背中で着地する。激痛を顔をしかめるだけでやり過ごし、床から弾かれ滑空しながら体勢を完全に立て直す。
 この間、僅か十秒にも満たない。
 しかし、そのほんの数秒間で未時は息を荒げていた。肩を大きく上下させなければ全身に酸素を行き渡らせるだけという無意識下の作業すらままならない。
 弾き出されてきた通路は圧倒的な破壊痕で埋め尽くされている。
 そして、その向こうからミチルは悠々と歩いてくる。
「良く耐えたね。やっぱりどう見ても先日とは別人としか思えないや」
 それに応える程の余裕はない。言葉を口にする余力があるくらいなら、その余力を少しでも体力の回復に回す必要がある。
「まぁ、だからといって状況が好転するかと言うとそんな事は断じて有り得ないんだけど。まだ、暇つぶしの領域でさえ出られていないんだからさ。だからほら、そんな休憩なんてしてないで――」
 少年のような愛らしい顔に狂気の笑みが浮かぶ。
「もっと踊ってよ!」
 パンと手が打ち鳴らされた。
 半拍後にその衝撃は降ってきた。
 ドンッ!
 まさに未時が立っていたその場所へ。破滅を導くような残虐な轟音を伴って、まるでそこを中心にとてつもなく巨大なハンマーを振り下ろしたようにリノリウムの廊下が陥没する。そこにそのまま止まっていれば、一緒に叩き潰されていたかもしれない。
 それをどうにかかわす事が出来たのは又しても彼女自身が持ち合わせる超感覚のおかげだった。もしかしたら無意識の内にミチルの魔力の流れを感じ取っているのかもしれないが、確信が持てない以上あてにする事は出来ない。
 直前まで荒げていた息を一瞬で治め、体を投げ出すようにして右に転がる。勢いを殺さずに立ち上がり、そのまま床を蹴ると、すかさずその場所をまたハンマーが襲った。
 ドンッ!――と再度轟音を響かせて廊下を砕く。頬を叩く破片を鬱陶しく思いながらも、それに構っている余裕はない。
 パン、パン、パン――
 軽やかに鳴らされ響く手拍子に合わせて、未時が踊るように舞う。但し、最低な事にダンスパートナーは彼女の足を踏むだけでは飽きたらず、彼女自身を潰そうというのだから質が悪い。
 ドンッ、ドンッ、ドンッ!
 リズム良く音は未時の後を追ってくる。付かず、離れず、魔鎚はまさにダンスパートナーとして相応しいステップで破壊の爪痕を刻んでいく。
 スリルに満ち溢れ過ぎたダンスは月光がほんの少しだけ差し込むような空間で淡々と続けられている。そこは先日、未時がミチルに一撃で沈められた待合所に他ならなかった。あの時はただ静かで、不気味だった空間も、今この瞬間では狭すぎるダンスフロアでしかない。
 衝撃はひたすらに高圧的で、遙か高みから未時を見下ろして嘲笑う。
 そして、ステップは変則的で、時にワルツのように軽やかに、時にフラメンコのように激しく踏まれる。先ほどまでは規則正しく並んでいた椅子の姿はもうどこにもなく、全てががらくた以下の残骸に成り下がっている。この光景を見てここが待合所だと思う者はきっと誰もいないだろう。
 ドンッ!
 またステップが踏み鳴らされ、魔鎚が未時の髪先を掠めていく。全身に響く衝撃波に肝を冷やされながらも離脱して、ステップを急転。ミチルに奇襲の一撃を見舞おうと狙うも、その度に打ち鳴らされる手拍子のビートが跳ね上がる。
 これでは近づく事すら出来ない。
 このままではいたずらに時間を消費し、こちらの体力が削られていくだけだ。短期決戦も不利だが、消耗戦になっても未時の方が圧倒的に分が悪いのは変わらない。勝機があるとすれば不意打ちによる致命的な一撃だろうが、それこそ先ほどから狙おうにも狙えない。
 踏み込もうとする度にミチルはその出足を挫くようにカードを切ってくる。
 茶番と言っても良い。むしろそれ以外にどう言えというのか。完璧に遊ばれているとしか思えない状況だった。
 しかし、だからこそまだ勝ち目がある。
 ミチルは未時が彼の予想内の行動しか取らないと決めつけている。現状それは間違っていないが、それは未時自身も自覚している事だ。
 するべき事はただ一つ。
 相手を欺き、一撃にて勝負を決める。
 それまでは絶対に倒れるわけにはいかない。
 手拍子のリズムがまた変わる。緩やかに、軽やかに。ステップはリズミカルに鳴らされる。
 そのタイミングに沿うように舞い、時として抗うようにリズムをずらす。パートナーの足を踏みつけようとしても相手は巧みにそれすらもステップの流れに元から組み込まれているかのようにステップを踏み直す。押しても引いても、ミチルの手拍子は迷うことなく未時についてくる。
 何度も鎚が髪先を掠め、代わりに粉砕したリノリウムの破片を飛ばす。破片は彼女の肌を何度も掠め、無数の朱色の線を引く。
 真冬の寒さが傷口を抉るように突き刺さる。
 しかし、それでも動くのは止めない。
 どころか今以上にギアを上げていく。もう何度目か、思い出すのも面倒になるような強襲を再度決行する。
 暗闇に無数の朱色の残映を残して未時の姿が掻き消える。
 残映を残して加速するその姿はまさに夜空に走る稲妻のように激しく、美しい。軌跡は暗闇を切り裂くように刻まれ、少年の姿をした強敵に押し迫る。
 ミチルは未だにその場所から一歩も動くことなく、手を鳴らし続けている。振り下ろされるハンマーの数は膨れあがり、撃ち鳴らされる打突音は更に激しさを増す。
 余波が何度も体を掠め、その度に未時の肌に朱が線を引く。
 だが、どの一撃も紙一重の際どさで除け続け、魔鎚の合間を縫うようにして未時の姿が滑走する。咲き乱れる衝撃波の網を抜け、少年の甘い顔まで残すところ数メートル。
 彼女達にとってその距離は既にあってないものに等しい。互いに必殺の間合いであるのは必須である。
 全身に活力を廻らせて、未時は唸りを上げて拳を振るう。
 メギッ――
 思わず耳を塞ぎたくなるような騒音が鳴り響いた。続いて耳元で響くのは何かが大きく軋む音。
 それらの異音を発しているのが自分だという事に気付くのに幾ばくかの刹那が流れる。
 気付いた時には既に体は中を舞っていた。
 体の自由が奪われたまま、何度も荒れ果てたリノリウムを転がって壁に激突し、ようやく止まる。何が起こったのか未だに良く分からないまま首を持ち上げると此方に向かってゆっくりと歩いてくる少年の足だけが映った。
 まだぼやけた思考の状態の未時に上から実に楽しげな声が降り注ぐ。
「いやぁ、惜しかったね。おねぇちゃん。
 でも、まだまだだよ。あんなんじゃボクを殺すには程遠いね」
 憎らしげな声を思考の隅に追いやりながら少しだけはっきりしてきた意識を回転させる。吹っ飛ばされる瞬間の事はほとんど覚えていない。
 思い切り拳を叩き付けようとした瞬間に自分の意識が掻き消されたのだ。
 まだ朧気な視界の向こうに先ほどまでミチルの立っていた場所が覗ける。今自分が転がっている場所との位置関係からしてほぼ真横に飛ばされたという事になる。
 そう、ほぼ真横から。
 疑問点さえ見つかれば答えは一瞬にして氷解した。
 自分がまんまと嵌められたのだという答えに辿り着くのに一秒も掛からない。
「何だ、もう気付いたんだ。面白くないなぁ」
 そして、そんな未時の僅かな表情の変化をミチルは見逃さない。
「頭が良いのも問題だね。解説のしがいがない」
 気付いてしまえばどうという事のない。それこそ引っ掛かる方が悪いとしか言えないような初歩的なペテンだ。
 ミチルが手を打ち鳴らすことで振り下ろし続けたハンマー。あれがそもそものペテンだった。道具なんて使い方はいくらでもあるのだ。それは魔術にしてみても変わらない。
 ばらしてしまえば本当に誰でも気付くような使い方しかしていないのだ。
 単にモノを縦に振り下ろすか、横に振るうかの違いでしかない。
 本当に単純で誰にでも思いつけるような簡単なペテン。
 しかし、だからこそ効果的で、だからこそミチルはそれを選んだ。
 未時が十二分に彼を警戒している事を知っているから。警戒している相手こそ簡単なトラップに引っ掛かるものだ。大事を見つめ過ぎる余り小事を逃す。
 全ては自分の見通しの甘さが招いた結果だった。
 着眼点を遠くに定めすぎたがために、足下を疎かにしていた。完敗としか言えないような状況だ。
 だが、――
 そんな状況に陥っても負けを認める事を未時は許さない。
 悲鳴を上げる肉体を黙らせ、明滅する精神を奮い立たせる。痙攣すら起こしそうな程に震える腕を突っ張ってゆらりと、足取り危うくも立ち上がる。
 それを見て喜んだのは他でもないミチルだった。
 それが心底楽しくてたまらないとでも言うように満面の笑みを浮かべながら、非情としか言いようのない行動を取る。
 一息次ぐ間もなく未時を襲ったのは心臓を抉られたかのような鋭く、重い一撃だった。
 千切れそうになる意識の隅に映ったのは、少年の腕が深く自分の鳩尾に突き刺さる一枚の絵だった。一瞬時が止まったような感覚に襲われ、すぐにそれが儚い夢だったと気付かされる痛みがやってくる。逆流する胃液に喉を焼かれながら、すぐ背後の壁に全身が叩き付けられた。
 しかしながら、ずるりと崩れ落ちようとする体と意識をどうにか叱咤して、未時は体を投げ出すように横に飛ぶ。
 紙一重で未時がいた場所を襲ったのは既に何度もその威力を見せつけられた巨大なハンマーのような一撃だった。
 受け身も取れないような考え無しの逃避行だったが、あの一撃でぺしゃんこにされるようりは万倍マシに違いない。
 しかし、これで安心する事が命取りで在る事など気付く程でもなく明らかだ。
 続いて鳴らされる柏手よりも先に体勢を立て直し更に跳ぶ。
 大気が唸りを上げて、牙を晒すのを冷ややかに一瞥をくれて見送りながら、大きく距離を取る。
 だが、それを簡単に許す程、相手の懐は広くない。
 未時がボロボロに砕け散った床を蹴る度にテンポ良く手は打ち鳴らされる。 荒々しく、タンゴのように打ち鳴らされるそれは、今まで以上の激しい破壊を引き連れて踊り狂う。縦、横、斜め、ありとあらゆる方向へがむしゃらに振り回される破壊の一撃は、乱打される事でこそ本来の強さを発揮する。
 空間さえも引き裂いてしまいそうな寄音を掻き鳴らしながら、魔鎚は確実に逃げ道を砕きながら獲物へと牙を突き立てる。
「ッ――!」
 掠めただけで牙は未時の右肩を抉り、喰らっていった。飛び散る鮮血とともに遠ざかっていく風切り音は殺気立つ獣の咆吼よりも猛々しい。
 数秒で上着を赤く染める未時の血に吸い寄せられるように、牙は一瞬にして未時へと殺到する。
 無数の牙は弄ぶように未時の体に荒々しい線を引き、暗闇に血化粧を施していく。
 たちまちの内に未時の鼻には自らの血の臭いがまとわりつき、体は数分前と比べモノにならないくらいに重くなっていった。
 獣の狩りにも似たいたぶりは、そして確実に未時を粉砕する為の布石へと繋がる。
 振り下ろされたハンマーが体に痺れを感じてしまう程の至近距離を掠めていく。直撃こそはどうにか避けたものの、巨大な一撃は階下へと貫通してしまいそうな程にフロアを陥没させる。
 それは本当に何度も何度も撃ち続けられ、いくつもの柱が噛み砕かれた結果、引き起こされた事故である。
 偶然か必然か。
 そんな事はどっちでも良い。
 ただ、大事なのはそのどちらの状況に遭遇しても常に自分であり続ける事が出来るかどうかという事その一点のみ。
 そして、一瞬の迷いが生死を分かつこの一点において、未時の動きは完全に制止した。
 それは僅か一秒にも満たない、しかし、確実に致命的な一瞬だった。
「しまっ――」
 後悔と意識が飛ぶのとはほぼ同時だった。
 乱暴で強烈な衝撃が再度横殴りに未時を吹っ飛ばした。
 全身の骨が軋む音を耳にした。確実に骨の何本かは折れているだろう。更に何よりも不味いのは蓄積されていたダメージの量だった。下の階に落下する瓦礫の中を飛びながらもその間に感覚が戻る気配が全くない。当然受け身など取れるわけもなく、体勢を立て直すなど以ての外だった。
「流石にタフなおねぇちゃんでもこの変が限界かな?」
「ま、まだ……」
「だよね?
 そうじゃないと面白くないよね!」
 そう言って喜ぶ表情だけはどう見ても子供にしか見えないのだから鬱陶しい。
 しかし、そんな皮肉を口にするような余裕は与えられなかった。
 パンと打たれた柏手が未時の全身を押し潰す。
「ぐ、ぁ、ああッ――」
 陥没するリノリウムの中心で喘ぐ未時を心の底から楽しそうに眺めながらミチルは言う。
「さぁ、まだまだ夜は長いよ。おねぇちゃん」

 もうどれくらいそうしていたのだろうか。
 長いようでもあり、短いようでもある。少なくともかなりの時間が経っている事は確実だった。朝焼けの光は確かに眩しかったし、開けっ広げだった窓から入り続けている冷たい風はすっかり海空の体から体温を奪っていた。
 それでも彼女は祈り続けていた。
 ただ、ひたすらに。
 捕らわれの身である彼女に出来る事はそれしかなかった。
 どれだけの騒音が耳に届こうとも、どんなに自分の体が辛くても海空はじっと、ただ祈る事を続けていた。
 その姿はまさに聖母の生き写しのように清らかで、儚い。誰もが目を留めずにはいられない。そんな美しさがそこにはあった。
 本当は止めて欲しかった。
 あのミチルという少年に初めて会った時、既に海空は少年の異常さに気付いていた。どことなく周囲と比較して違和感を感じていたのだ。ただ、確信がなく、どう言葉にすれば良いのか分からなかったから誰にも話せなかっただけだ。
 そしてその違和感は結果として強烈な後悔を彼女の心に残していた。
 あれほど人に恐怖を覚えたのは初めてだった。
 見ているだけで自分の存在が消えて無くなってしまいそうな既視感さえ覚えた。アレは人と呼べる存在には手に余りすぎるモノだ。此方の事などただの遊び道具としか考えていない。
 それくらいにミチルが垣間見せた存在感は強烈だった。
 きっと未時が前に立ってくれていなければ自分は足が竦んでしまって、身動きも取れず、悲鳴を上げる事すら叶わなかっただろう。
 そんな存在に今彼女が挑んでいる。
 自らを省みず、自分を守る為だけに勝ち目のない戦いを挑んでくれている。
 それなのに――
 何故、自分は祈る事しか出来ないのだろう。
 葛藤と焦燥がひたすらに降り積もっていく中で、それでも海空は祈る事を止められなかった。
 今、自分が大切な人の為に出来る事はやはりそれしかなかったから。
「健気だねぇ」
 耳に届いた声を海空は知っている。
 続いて響く崩壊音。病室の壁が外側からぶち抜かれ、少年が姿を現した。
 しかし、少年の姿を認めるよりも先に海空の視界は明後日の方向を向いた。
 彼がまるでボロ雑巾でも放り投げるように、彼女を投げ捨てたからだ。
「未時ッ!」
 呼びかけても彼女が反応を返す事はなかった。四肢はぐったりと投げ出され、微塵も動く気配がない。
 目尻に浮かんだ涙を拭う事もせずにミチルを睨み付けると、彼は大げさに肩を竦めて言い訳を吐いた。
「大丈夫、まだ生きてるよ。当分目を覚まさないとは思うけどね」
 その一言にとりあえず安堵するものの、だからといって気が晴れる訳ではない。ミチルが未時をこんな目に遭わせた事に変わりはないのだから。
「それにしてもまさかここまで長持ちするとは思わなかったなぁ」
 ミチルが素直に未時を褒め称える。
「ボクの予想では保って四時間くらいだと思ってたんだけど、随分と持ちこたえたね。特に後半の頑丈さは賞賛に値するよ。ほんと、思わずちょっと本気で殺そうかと思っちゃったくらいだし。というか普通は出来ないよね。十時間以上もひたすら耐えるだけなんてさ」
 その言葉にゾッとする。
 未時がどれほどの苦痛にひたすら耐え続けたのか、想像するだけで悲しくなった。意識を失うまで。いや、きっと意識を手放しても彼女は立ち続けたのだろう。
 他ならぬ海空の為に――
 そんな彼女の為に今自分は手を差し伸べる事すら出来ずにいる。彼女が一人で戦っている間もただ祈る事しか出来なかった。傍にいる事さえ足枷になっている。
 そう思ってしまうと溢れてくるモノを止める事は出来なかった。
 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が頬を伝い、手の甲を濡らす。
 この檻さえなければすぐにでも傍に行けるのに。
 そんな事を思っていると不意に海空を取り囲んでいた檻が消失した。
「良いよ、行っても。もう必要ないからね。
 どっちみちどちらかが倒れればそれは消すっていう約束だったしね」
「ッ――」
 その言葉に背筋を冷たくしながらも、海空は慌てて未時へと駆け寄る。
 近づいても未だに動く気配を見せない彼女の様子に最悪の状況を想定しながらも、優しく抱き起こす。
 ぐったりとした未時の体は人のものとは思えない程に重く、傍目には死んでいるのと代わらないような状態だった。
 しかし、確かにまだ生きていた。
 本当に小さく、蚊の鳴くような息遣いではあるが、未時はまだ生きてる。
 ――生きて、くれている。
 また、涙が溢れてくる。
 でも、それは彼女が生きてくれていた事への嬉しさからだ。
 腕の中にある大切な人の体が温かいから。
 彼女の鼓動をまだこの身で感じられるから。
 それだけで胸の奥がほっこりと温かくなる。
 彼女の汚れた頬を指で拭う。「ん――」と小さく呻き声を上げるが、まだ目覚める様子はない。
 出来ればこのまま眠っていて欲しいと思う。
「さて、それじゃそろそろ終わらせようかな。思ったより時間も食っちゃったし、そろそろ飽きてきちゃった」
「ダメです」
 絞り出した声は掠れて消えてしまいそうなくらい小さかった。恐怖で体は震え、立ち上がった足の震えは隠しようもない。
 しかし、それでも海空は立ち塞がる。
「もう、これ以上未時を傷付けさせたりしません」
 大切な人を守りたいという頑なな決意を胸に抱いて。
 そして、それこそが、目の前の少年の姿をした悪魔が望むべき結末だという事を海空は知っている。
「それがどういう事か分かってて言ってるんだよね?」
「……そのつもりです」
「それが未時おねぇちゃんの一番望まない事だと分かっていても?」
「……それでも、私は未時を守りたいんです。
 だから――ッ!」
「良いよ」
 海空の懇願にミチルはあっさりと応じた。
「海空おねぇちゃんが大人しくしててくれるなら未時おねぇちゃんは見逃してあげる」
「本当、ですか……?」
「残念だけど本当なんだなぁ、これが。
 ボクにも一応色々と約束事があったりするんでね。そこは信用して欲しいな」
「出来ると思いますか?」
「でも、するしかないんでしょう?」
 これには頷かざる得ない。
 無力な自分に出来る事などこれくらいしかないのだ。どれだけ疑ってかかり、それが偽りであると分かっていても、海空にはそれに従う以外に未時を守る術がない。
 それでも今、彼女を守る事が出来る可能性がほんの少しでも望めるのなら、それに従わない理由はない。祈る事しか出来ない無力感を味わうよりはずっと良い。
「……分かりました」
「同意が得られて何より。
 それでは早速――」
 言うや否や、ミチルはその手を伸ばしてきた。
 そして、おもむろに海空の胸元に手を翳したかと思いきや手はそこで止まらず、その手は海空の中に入り込んできた。
「――っ」
 それは他人の家に土足で上がり込むような無遠慮に過ぎる行為だった。自分の中に得体の知れぬ何かがあるのは分かっていた。それがいつしかどうしようもない異物感を海空自身に与えていた事も理解している。
 しかし、ミチルの今行っている行為はそれ以上に海空へ不快感を与える行為だった。余りの異物感に吐き気が込み上げるが、それもまた中途半端に満ち引きを繰り返す為余計に始末が悪かった。
 意識が在る状態で開胸手術でもされなければとても味わえないような感覚だろう。
 ただし、この手は患者を救う為に動いているのではなく、弄ぶ為だけに動いている。必要以上に不必要に少年の手は海空の中を蠢き、引っ掻き回す。
 全身から血の気が引いていくのを明確に感じながらも、海空の視線はミチルを正面から睨み付けて逃がさない。
 そうする事で海空もまた戦っていた。
 少年が狂喜するような反応だけは絶対に返すまいと息を荒げながら抵抗する。
 そして抵抗の最中で彼女は今更ながらに思い直す。
 目の前にいるのは決して愛らしい少年などではなく、言葉を交わす事すら汚らわしい悪魔に違いないのだと。狂気の笑みがこの少年のような悪魔程似合う存在は決していないに違いない。
 悪魔の手はなおも海空の中を蹂躙し、嬲り続けている。
 しかし、それが生み出す苦痛は今まで海空が彼に味会わされてきた痛みの非ではなくなっていた。
 きっとどこをどう触れば一番苦痛を与えられるのか分かっているのだろう。此方の体の隅々まで痛みは広がり、今にも倒れ込んでしまいたいくらいだった。
 それでも海空がまだ立っていられたのは使命感以外の何物でもない。
 守りたいと思う、その気持ちだけで海空は立っていた。
 だが、それさえも茶番でしかないのだとあっさりと告げんばかりにミチルの手は奥へ奥へと入り込んでくる。
 そして遂にそれは痛みの最果てへと辿り着く。
 本能が海空に危険を知らせているが、状況は既にどうしようもない状態に陥ってしまっていた。彼女に出来た事は些細にして、悲惨な行動だけだった。
 自分の中の何かが確かに彼の手中に収まったその瞬間、果てしない悲鳴が暗闇の中で閃いた――

 誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。
 しかし、それが自分のとんだ思い違いだという事に気付いたのは一瞬だった。それが夢ならどれだけ良かっただろう。たとえ悪夢だとしてもそれは結局夢でしかないのだから覚めてしまえば同じだ。
 だが、目の前にある光景は確かに現実でしかなかった。
「海空ッ!」
 もし、夢だとしたらその中に出てくる彼女は間違いなく笑っているに違いない。彼女が苦しんでいる姿なんて、夢の中で自分が見るはずがない。
 痛みを放り投げて跳ね起きるも、次の瞬間に体は壁に叩き付けられていた。
 肺から叩き出される酸素には幾ばくかの鮮血すら混じっている。即座に体を動かそうにも体は微塵も動こうとしなかった。逆にミシミシと軋みを立てて、未時の体は見えない圧力に押し潰されていた。
 「かっ――!」と呼吸すらまともに出来ずに、喘ぐ事がようやく出来た悲しい抵抗だった。視線の向こう側ではリアルな悪夢が繰り広げられている。
「もう、今良いところなんだから邪魔しないでよね」
 こちらに一瞥もくれることなくミチルは言う。
 その瞳は目の前に最高の御馳走を置かれた子供のように輝いているが、表情として浮かんでいるのは間違いなく狂気だった。
 少年の腕は二の腕付近までが深く海空の胸元に入り込んでいる。
 それをミチルは実に楽しそうに動かしていた。
 僅かな動きさえ捕らわれている海空に苦痛を与えるらしく、微動する度に海空の目尻に涙が浮かび、顔が苦痛に歪む。真っ白で雪のような肌は赤く上気し、彼女がどれだけそれに耐え続けているのかを未時に伝えた。
「あ、あぁ……」
 押しつけられる魔力に抗い必死になって体を動かす。体中の骨が先にも増して軋んでいるが、そんな事は今気にする事ではない。
 ゆっくりと赤く染まった腕が動き出す。
 彼女が苦しんでいるのだ。
 動かす度に傷口が広がり、ぼたぼたと血がこぼれ落ちていく。
 それなのにこんな所でのうのうと見物など出来るはずがない。
「海、空……」
 掠れきった声で彼女を呼んだ。
 伸ばす手は更に遠くへと動き、罪人のように貼り付けにされていた四肢が壁から剥がれ落ちるように前へと進む。
「未時、ッ……」
 それに呼応するように、海空の声が病室に響いた。
 同時に彼女の抵抗がより一層増した。
 今までは声を荒げるのを我慢するので精一杯だったのに、たったの一度、名前を呼び合っただけでこれ程までに力が沸いてくる。
 片方の腕が未時の方に伸び、もう片方の手が震えながら、しかしながらしっかりと自分の胸元に埋まっているミチルの腕を捉えた。
「ぁ、ぁぁああああああああああああああああああああああああああッ!」
 そして再度絶叫が病室に鳴り響いた。
 しかし、それは苦痛に嘆く叫びではない。
 この叫びは戦う者だけが奏でられるファンファーレに他ならない。
 同時、何度抗い引き抜こうとしても海空の意志で動く事の無かったミチルの腕が、ずるりと滑るようにして抜け落ちた。
 黒い残滓を胸元から零しながら、それすら気にせず彼女達の視線は互いを求めて止まない。
 求める距離はとても遠かった。
 それはほんの一瞬でしかなかったはずなのに、今までずっと会えなかった恋人同士の様にその一瞬が永遠にも感じられた。
 指先は震え、求める先へと真っ直ぐに伸ばす事さえ出来なかった。
 だが、それでも二人の手は先へと伸びた。
 その眼に迷いはない。
 互いの想いも、願いも、全てが届く事を信じて止まない強い光が宿っていた。
 そして、それは真実という名の想いを形作る。
 指先が、絡む。
 温もりが、繋がる。
 後はそれに身を任せるだけで良い。
 導かれるように惹かれあい、未時は彼女を抱きしめる。
 ふわりと甘く、柔らかで、とても優しい彼女を。
「海空、海空ッ」
「未時……」
 弱々しく手が伸ばされ、未時の頬に触れる。
「……良かった」
 そう言って彼女は笑った。頬に触れた彼女の指を血の赤が伝う。
「良くないッ。
 こんなの、何も――」
 あまりの悲惨な結末に未時の声は震えていた。
 未時は気付いていた。気付いてしまった。海空を抱き留めたその瞬間に――
 彼女の中からありとあらゆる全ての生きる力、生命力と呼べるモノが失われてしまっている事に。
 それが何を意味するのか。
 そんな事は考える間でもない。
「そんな顔しないで、下さい。折角の可愛い顔が台無しですよ?」
 それでも彼女はそう言って笑った。
 何も心配する事はないと他でもない海空自身の顔が語っている。
「そんなの――」
 言葉の続きを紡ぐ事は出来なかった。
 海空の指先が彼女の唇に触れたからだ。
「ダメですよ?
 貴女はまだこれから生きていくんですから……」
「――ッ」
 その言葉の意味を彼女は語る。
「色々な事が、ありましたよね……」
 それは僅か半年にも満たない、たった三ヶ月程度の記憶だ。この世界の歴史と比べればあまりにもちっぽけで、人としての視点から見ても本当に小さな時間でしかない。
 しかし、その価値は全ての人にとって等しくはない。
 時の価値は変えていく事が出来るのだ。
 二人にとって、互いに出会い、過ごした時間はまさにそれを知るには十分な時間だった。
 その時間は何度思い出しても色褪せず、いつだって宝石以上の輝きで彼女達の心を満たしてくれた。最初は一つしかなかった輝きは、次から次へと溢れ出て、宝石箱の中に詰め込まれていった。
 それがずっと続くのだと思っていた。
 これから先もずっと、ずっと。
 いつか終わる時が来る事は分かっていた。
 だが、それは生きる存在としての事だ。
 こんな望んでもいない終わり方では絶対にない。
 なのに、それなのに――
「ほら、またそんな顔をする」
「だって、」
「未時は強がる癖に本当は繊細だから、少し心配です」
 でも、貴女が支えてくれるんでしょう?
 今も、これからも。
 ずっと――
「でも、きっと大丈夫だって私には分かるんですよ?
 ずっと見せて貰ってきましたから」
 そして、これからもずっと一緒に見ていてくれるんでしょう?
「だから、きっと大丈夫です。未時なら、きっとこの世界を素敵なモノに、彩る事が出来るはずです」
 そして、その隣で貴女も私に素敵な絵を描いて見せてくれるんでしょう?
「その世界を貴女の隣で見る事が出来ないのは残念ですけど、」
 そんな冗談笑えないわ?
 ねぇ、嘘って言ってよ。
 お願いだから――
「きっと大丈夫です」
 全然、大丈夫なんかじゃない。
 貴女がいないと、私はきっと迷ってしまう。
 何処にも行けなくなってしまう。
 翼をくれたのはいつだって貴女なのに。
 貴女と一緒に空を飛びたいからこそ、羽ばたける翼なのに――
 やっと見渡せるようになった世界なのに――
「……独りに、しないで」
 何処へも行かないで。
 ずっと私の傍にいて。一緒に世界を見て回りましょう。
 もっと色んな所に行って、もっと色んなモノを食べて。
 驚いて、はしゃいで、笑って。
 そして、そして――
「私を置いていかないで……」
 言いたい事は一杯あるのに、もっともっと話したい事があるのに、言えたのは子供のような我が儘な言葉だけだった。
「ねぇ、もっと良く顔を見せてくれませんか?
 もっと近くで未時の顔が見たいです」
 そう、懇願されて叶わないわけがない。
 間近で見る海空の顔はとても綺麗だった。
 きめ細かな肌も、長い睫毛も、穏やかな瞳も。全てが整っていて、ずっと見つめていたくなる程に美しい。
 ずっとこのままだと良いのに。
 そう思わずにはいられない。
 でも、それは叶わない事だ。
 未時は知っている。気付いている。
 彼女の体から温もりが失われていく事に。
 彼女の中から生きる為の力が刻々と削られている事に。
 零れ落ちる水をすくい、戻す事は未時には出来なかった。
 今、こんなにも近くにいるのに。
 触れ合える程に近く、吐息が掛かる程に距離なのに。
 なのに自分に出来る事はただ彼女の言葉を聞く事だけだ。
 こんな事がしたいんじゃないのに。
 大切な人を助けたい。
 ただ、それだけの事が出来ない。
 無力だった。
 今、この瞬間、星海 未時という存在は限りなく無意味で、空虚な存在だった。それは彼女が海空と出会う以前にずっと感じていたどうしようもない虚しさに近い。
 しかし、これはそれとは決定的に違っていた。
 そう、これは、あれよりももっと、ずっと――

「――――――」

 一瞬、思考がショートした。
 何が起こったのか理解するのに、さらに数瞬の時を必要とした程だった。思わず唇に指が触れたのはそれをようやく自覚した時だった。
「しちゃいました」
 ちろっと覗かせる舌を覗かせる彼女の表情は少し恥ずかしそうで、その唇はとても柔らかかった。
 唇と唇が触れ合った感触はずっと残ったままで、全然消えようとしない。
 その余韻に尾を引かれた未時に海空は朗らかな顔で言う。
「好きです。
 この世界の誰よりも、貴女の事を愛しています。
 たとえ世界の全てが貴女から目を背けても、私はずっと貴女の事を見守り続けます。愛し続けます。
 だから――」
 言葉が続けられる前に唇を塞いだ。
 今度は一瞬ではなく数秒。
 それはちょっとした逆襲だった。
 やがてゆっくりと唇が離れて、今度は未時が言葉を紡ぐ。
「私だって愛してるわ。
 この世界の誰よりも、海空の事を愛してる」
 ぽろぽろと零れる涙は止まらない。
 でも、応えた。
 そう、これは恋なのだ。
 ずっと、ずっと伝えたかった。
 好きだけじゃ足りなくて、どれだけ伝えても足りなくて。
 それが今ようやく知って、伝えられた。
 やっと伝えられたのだ。
 しかし――
 消えていく。
 大切な人の命が。
 こんなにも呆気なく。
 なのに――
 彼女は笑っていた。
 今まで未時が見たどんな笑顔よりも美しく、白く、淡く微笑んでいる。
 そして、言うのだ。
「良かった。
 貴女に会えて本当に良かった――」
 頬から冷たい指が滑り、落ちた。
 それは逃れようのない真実を未時に突き付けた。
 即ち、蒼井 海空の死という絶望を。

 少年の姿をした異質な存在は、今最高の御馳走を堪能していた。
 それというのも今、目の前で果てしない絶望が溢れかえっているからだ。
 それを糧としてミチルの中をかつて無いオルガズムが駆け回っていた。快感にゾクゾクと皮膚が泡立ち、今にも奇声に似た笑い声を上げたくなる。手中には自らと愚かな契約を交わした愚鈍な人間の生贄となった少女から収穫した生命力と魔力の結晶が握られている。
 それは林檎の赤よりも赤く、血の紅よりも紅い掌に収まる程度の大きさをした球状の結晶だった。
 結晶とはいっても事実触れている感覚としてはまさに熟した果実のような柔らかさである。触れているだけでそれがどれだけ甘みの強い上物の一品であるのかが分かってしまう。
 今すぐにでもそれにむしゃぶりつきたい衝動に駆られるが、それはもう少し我慢しなければならない。御馳走を美味しく食べるのにはいつだって順序が必要だし、メインディッシュは食べる前にまず前菜を食べなければならないからだ。
 これを味わうのは、痛ぶって、弄んで、全てを呑み込むような絶望を堪能した後にこそ相応しい。
 そんな事を御馳走と称するのは専ら悪魔の専売特許だろうが、自分の特性がそれと近いのだから仕方がない。
 やってる事は似たようなものだが、ミチルはソレとは程遠い存在だ。
 彼はそもそもがアーティファクトと呼ばれる類の一種である。
 それは偉大なる魔術師が自らの魔術の粋を集めて形成した人工物だ。つまりは一種の作品なのだ。
 そんな中において彼は自らこそがそれらの究極であると自負していた。
 遙か彼方の時において封じられた禁術を記し、果ては“全能の書”、“神へと至る書”等、敬愛と畏怖を併せ持った幾つもの名を掲げられた。
 アーティファクトとしてこれ程誇り高い事はない。
 そんな書物の管理人として存在しているのがミチルである。
 自らを書物における全六六六ページ中の六六七ページという本来なら存在しないはずのページに記述された禁術中の禁術。その最高峰がまさに彼という存在を形成しているのだ。
 本来ならば、それを管理するだけの存在として作られていたはずの彼だったが、彼はそれら全てを掌握するという形で管理していた。書物に記された全ての禁術を彼は思うがままに使役する事が出来る。
 それは彼を作成した魔術師にとって最大の誤算であり、最悪の結末だった。
 禁術というのは引き起こす事象の危険性とそれ自身の管理の難しさを併せ持ってこそ禁術と呼ばれる。
 即ち、書物を作成した魔術師はその管理の術式を最悪の形で形成してしまった。
 それ以外の全ての術式を完璧にコントロールしたにもかかわらず、ミチルという管理者の術式のみを思いのままに出来なかった。
 この結果が生み出した結果は、絶望を糧として生きる悪魔にも近しいアーティファクトの誕生だった。
 ミチル自身にしてみればそれはたわいのない記憶である。
 しかし、同時に自分が今のように在る事が出来る一番輝かしい記憶でもある。
 あの瞬間の喜びは今でもまだ覚えている。
 あまりの嬉しさに思わずそこに居合わせた全ての魔術師達を食らいつくしてやった程だ。
 あれ以来、ミチルはこうして自らを作った存在達を弄び続けている。
 ある時は、ただ殺戮を押しつけた。
 またある時は、不条理すぎる程の我が儘を押しつけた。
 またある時は、弄ぶようにじっくりと相手の全てを絶望という名のナイフで少しずつ削ぎ落とした。
 そう、まさに今のように。
 既に目の前の少女の心は崩壊したと言っても良かった。全てはシナリオ通りに完璧に進んでいる。
 シーンは既にクライマックスだった。
 後は砕け散った破片を更に細かく踏み砕き、身も心も全てを壊してやるだけで良い。
 そうした後に目の前で彼女の心の拠り所だった少女の結晶を、さも美味しげに頬張って物語はフィナーレである。
 物語は最後が盛り上がってこそのものだ。
 彼女には誰よりも絶望して、誰よりも破滅して貰うのだ。
 今からその光景を想像すると恍惚に震える自分の緊張感の無さは否めない。
 本当はもっと緊張して望むべきなのだろうが、どうしても頬は弛んできてしまう。
 何度顔を引き締めようとしても失敗してしまうので、出来るだけ顔を繕ってようやく足を踏み出した。
 その時である。
「まぁまぁ、とりあえず落ち着きませんか」
 それはこの状況でとても不快な声だった。
「何で君がいるのかな?」
 彼がここで出張ってくるというのは上演中の舞台に客が上がり込むようなものだった。
 彼はあくまでも今回のストーリーにおいて観客でしかなく、キャストは割り当てられていない。本人もそれは自覚しているだろう。何せ彼自身のスタンスがずっとそうあり続けていたのだから。
「なのに何で君がここで出てくるのかな?」
 そういうミチルの気分は先ほどまでの弛緩しきった顔とは一転してすぐにでも斬りかかりそうな程の殺気を孕んでいた。
 このタイミングに現れた魔術師、霧羽 総弥の存在に不快を顕わにしても歓迎する事はまず有り得ない。
「僕も本当は出てくるつもりはなかったんですけどね」
 惜しげもなく殺気を当てられた彼の態度はこちらの気分など意に介さない実に不愉快なものだった。ここまで他人の神経を容易に逆撫で出来るのはある意味ではとてつもない才能だろう。
「それならとっとと客席に戻ってくれない?
 今からとっても良いところなんだよ」
「そうしたいのはやまやまなんですが、そういうわけにもいかなくてですね」
 そう言うと彼は時代錯誤なローブの中から一枚の紙片を取り出した。
 軽く振ったそれはそうたいして大きくもない紙を四つ折りにした非情に簡素なモノだ。
「演劇には無料公演のものもありますが、どうやらこの公演は有料だったみたいですよ?
 それも最初は無料だと言い張っておきながら、いざ講演が始まってからチケット代をせしめるという非常に悪質な講演だったようです」
「なるほど、それは確かに悪質だ」
「でしょう?
 でも、だからといって途中まで見せられた講演を途中で退場させられるのは流石に忍びなくてですね」
「チケットを買ったと?」
「そんなところです」
 そして、霧羽は見せびらかしたチケットを無造作に彼女に差し出した。
「どうぞ」
 しかし、残念な事に彼女から反応が返る事はない。
 それも当然だろう。彼女の心は既に崩壊してしまっているのだ。親しき者の言葉ならまだしも、彼と彼女の間柄でその関係性を求めるのは不可能である。更に、この状況で彼女を救える存在はもう既に存在しない。
 一度心の崩壊した人間程脆い者はいない。
 それは彼が今まで何度も搾取し続けてきた存在全てが結果として証明していた。
 だが、――
「これは貴女だけが読むべき物です。
 彼女もそれを望んでいます」
 彼のその言葉に、人という物の残り香は本当に鬱陶しいとその時程感じた事はなかった。

「彼女が望んでいる」

 そんな言葉だけが耳に届いた。
 霞んでしまって見通せない視界の中には唯一、折りたたまれた紙片だけが映されている。
 色のない世界のはずなのに、その紙片だけは何故か淡く白い色に溢れていた。
 色のない無味な白ではなく、それは輝かしいばかりの白だった。
 その色を彼女は知っている。
 自然と腕が持ち上がっていた。
 それは非道く緩慢な動作で、紙片を掴むまでにたっぷりと十秒近く掛かっていた。
 しかし、彼女の手はその紙片を確かに掴んでいた。
 まるで吸い寄せられるように掴んだ紙片はとても温かい。
 その温もりもやはり彼女が知る物だった。
 そして、それは縋り付くには十分な理由だった。
 ゆっくりと、ゆっくりと、紙片は開かれて元の大きさを取り戻していく。
 それは数枚の紙を重ねて折られていた。
 開いた中には書いた者の正確を如実に表すような優しい文字が躍っている。とても丁寧に一文字、一文字を書き綴っていた。
 それを未時は知っている。
 それは如何にも彼女らしい、優しさと温もりに溢れた手紙だった。

 ――背景、星海 未時 様

 そんな他人行儀で始まる手紙だ。
 でも……

 そこにはたくさんの“思い出”が描かれていた。

 そこにはたくさんの“ありがとう”が書かれていた。

 そして、そこにはほんの少しの“お願い”と、たった一つだけの“ごめんなさい”が綴られていた。

 文字が心に溶け込んでくる。
 未時がその全てを余すことなく抱きしめたまさにその瞬間、彼女の意識は唐突に誰かに引き寄せられた。
 懐かしい温もりを伴ったその感覚はとても心地良くて未時は全ての感覚をソレに委ねる。

 同時、世界の全てが暗転し、消失した。


         Last Episode“Star in to the Blue Y count 50,400 〜 開け放たれた箱より溢れ出す災厄 〜”


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