count 205,200 〜 信じ合う者達の臨む明日〜



 締め切った室内に規則的な音が響いている。
 ――シュ、シュ、シュ、シュ。
 その音は入念に何度も何度も繰り返される。
 それはまるで何かを願うような静かな挙動だった。
 音の主は蒼井 海空(あおい みそら)である。
 音源は彼女の手元で何度も切られるカードの束。トランプよりは二回り程大きく、半分程縦長い。古来遡れる限りでは十五世紀前半に北イタリアより生まれたとされ、更にその起源には幾数かの説を持つカードである。創造初期には貴族達の娯楽用として使われており、今彼女のように占いの手段としてそれが多様に使われるようになったのは十八世紀になってからの事だ。
 今では占いと称されるものの手段としては最たるものとして知られている。
 タロットカード。
 それを彼女は先ほどからただ静かに切り続けている。
 本当に何度も。
 部屋には彼女以外にはまだ誰もいない。面会時間が始まるまでまだ時間としては十分少々はあるだろうか。
 しかし、ここ数日の事を慣例とするならば、この部屋には既に自分以外の存在が在るはずだった。
 それはとても小さく可愛らしい訪問者の事だ。いつも他の人よりも少しだけ早く訪れては自分の部屋に寄ってちょっとしたお喋りをする。彼とはそんな間柄だ。
 折角、今日は体調が良いというのにこういう時に彼が来ないというのは少し残念な気もする。
 だが、それはそれで悪くない。
 そのおかげで今こうして彼女はタロットを切る事が出来ているのだから。
 入念に何度も何度も切り続けていたその手を止め、束の一番上のカードを捲る。
 非常に単純な手法ではあるが、これも立派な占いの一種で、ワン・オラクルと呼ばれる占い方法である。この手法は専ら短期的な運勢、単純な結果、近い未来を占うのに向いている。まさに今の自分に打って付けの方法だった。
 それを海空は先ほどから何度も繰り返し行っていた。
 入念に切っては、一枚を捲る。ただそれだけの行為を彼女は実に三十分近くやり続けていた。単純なシャッフルという行為に掛ける時間はそれこそまちまちだった。たった数度で突発的に取る事もあれば、たっぷりと数分混ぜた後に取る事もあった。
 しかし、占いに掛ける時間はバラバラだったが、彼女の顔には常に同じ表情があった。
 あるのは穏やかな笑み。
 カードを見つめる彼女の瞳は至って冷静で、まるでそうなる事が分かっていて、それを確認する為の作業を行っているようだった。そんな彼女の顔には年相応でない、どこか卓越した熟練者のような落ち着きがある。
 彼女の目に映る鮮やかな色彩の絵柄は常に限られていた。
 それは――
「おはよう、海空」
 カードをシャッフルしているところで、声が届いた。
 その慣れ親しんだ愛おしい声に彼女は久方ぶりにいつもの笑顔を返す。
「おはようございます、未時」
 それは本当に久しぶりな淡く柔らかい笑みだった。海空自身もとても上手く笑う事が出来たと実感できたほどに。
「体は大丈夫なの?」
 反射的に聞き返してくる未時の心配も尤もだと思う。それくらいに今までの自分の体調は異常だったのだから。
 しかし、今はそれが嘘だったのではと錯覚してしまいそうな程に調子が良かった。でなければ早朝からこうして悠長にタロットカードを触ってはいなかっただろう。
「えぇ、それはもうびっくりするくらいに調子が良いんです。自分でも驚いてます」
「なら良いんだけど、でも油断しないでよ?何が起こるか分からないんだから」
「はい。その辺はもうずいぶん前に看護士さんにも言われましたから」
 言って思わず苦笑する。
「それにしてもあの看護士さんいつももの凄い迫力なんですよね。窘められてるっていうよりも、半分脅されてるような気持ちになっちゃいます」
「あぁ、あの恰幅の良い人?」
「はい、一応あの人が私の担当みたいですよ?」
「なるほど、だからなのね……」
 すると今度は未時が海空異常に苦い顔をする。
「私が何かをしようとするといつも同じ人に捕まるのは……
 見張られてるんじゃんと思ったりした事もあったんだけど、あながち間違いじゃなかったのね」
「何かって、何をしようとしたんですか?」
 思わず聞き返してしまうのは仕方がないことだろう。未時の取る行動はいつも突飛で、普通の人には衝撃が強すぎるものばかりだ。だからこそ海空は彼女の傍にいるのが楽しくもあるのだが、ここでは私情など挟みようもない。それに何といってもここは病院なわけで、あんまり派手な事ばかりされて出入りを禁止されてはそれこそ目も当てられない。きっと彼女も自分も耐えられないだろう。
「べ、別に大したことはしてないわよ?」
「つっかえるところがとっても怪しいです」
 追求する視線はほんの少し前とは打って変わってとても厳しい。
「本当に大したことじゃないんだってば」
「何をしたんですか?」
 でも顔だけは笑っている。
 しかし、その笑顔が未時には逆に怖い。蛇に睨まれた蛙、まな板の上の鯉。まさにそんな心境がぴったりとくる。
「な、に、を、しようとしたんですか?」
 迫るような笑顔だった。こうなるともう未時に逃げ場はどこにもない。自白するのが一番安全克つ確実な生存方法である。
「……ちょ、ちょっと廊下を全力疾走しただけよ」
「それだけですか?」
「ほ、本当にそれだけよ?
 早く海空に会いたくて本当にちょっとだけ走っただけなのよ?」
 片目を瞑り、親指と人差し指でちょっとだけというジェスチャーを踏まえつつ、未時は弁明する。
 だが、海空という裁判官の前では未時の隠れ蓑など既に燃え尽きているも同然だった。彼女はただ変わらない笑顔で一言を告げるだけで良い。
「本当ですか?」
 ウッと未時が小さく唸る。
 海空の視線は動くことなく彼女を捉え、また未時自身もそれから逃れられずに喉だけを小さく鳴らす。
「本当ですか?」
 もう一度尋ねた。
 それが最終通告だということは言わずとも伝わったようだった。
「ちょっと自販機を蹴っ飛ばしてみたり」
「ちょっと、何ですか?」
「ごめんなさい。結構力を入れて蹴っ飛ばしました。それなりに良い音が出て少し気分がスッキリするくらいには力を入れてしまいました。ごめんなさい」
 すると未時は小さな子供のように純真無垢な素直さで白状した。
 しかし、それにしてもと海空は思う。
 道理で朝に様子を見に来た看護士の視線に若干咎めるような何かが含まれていた訳だ。そんな問題児が見舞いに来る相手なのだから、さぞかし警戒されたことだろう。もっとも海空は未時がやったような事は絶対にしたりはしないのだが、それは向こうの知る由ではない。
 まぁ、海空はそういう目で見られても別段困ったりはしないが、じゃあやっても良いのかと聞かれればそれは勿論NOである。
 それに未時は海空にとって自慢すべき大事な親友であり、掛け替えのない大切な人だ。そんな相手が例え赤の他人とはいえ、誰かに快く思われないのは悲しい事だ。誰だって、自分の大事な人が周囲に嫌われるよりは愛される方がずっと良いに決まっている。
 それは当然海空だって同じだし、もっと周囲に彼女の事を見て欲しいと思っている。
 未時はとても素晴らしいものを持っている。それは他の誰もが持ち合わせない、彼女だからこそ所持する事が出来る素敵なモノだ。
 それを言葉で言い表す事が海空には出来ないのだけれど、彼女の心に触れる事が出来ればきっと皆が理解出来るくらいにそれは分かりやすいモノだ。
 それはとても温かく、柔らかい。自分の中に巣くっている全ての不安を綺麗さっぱり拭い去ってしまうようなそんな何かだ。
 未時本人はそれに全く気付いてないようだが、それはだからこそ才能とか本質とか呼べるのではないだろうか。
 そういった類のモノは主に目に見えて何らかの動作や結果に現れる事が多い。
 しかし、それはあくまでも多いだけなのだと海空は思う。
 例え形にする事が出来なくても、結果として語られるようなモノではなくても、ソレは確かにそこにある。こんなに近くに、こんなに分かりやすい場所に。
 ベッドの傍で立ち竦む未時の手を取り、引き寄せる。少し下に引っ張るだけで、彼女の体は此方の意図を察し、ベッド端に腰を下ろした。
 ギシィとスプリングの軋む音だけが室内に響く。
 ほんの少しの沈黙が漂って、消えていく。
 朝の空気は室内でも少し肌寒く、窓から取り入れる朝日が温もりを与えてくれるにはまだ少し時間がかかるだろう。
「……もう、困った人ですね」
 少しの沈黙は未時にはとても長かった事だろう。それを想像するだけで、海空はもう良いかなと思う。
 何よりも、
「だって……」
 ポツリとそう零す彼女の所在なさげな姿を海空はとても愛しく思う。
 そして安心する。
 彼女にもこういった一面は確かに存在するのだと。
 それが海空にはとても嬉しい。
「じゃあ約束してください」
「約束?」
「はい、約束です」
「……あんまり変なのは嫌よ」
「別に大したことじゃないから大丈夫ですよ。それにとっても簡単な事です」
「本当かしら?」
「本当です」
「……まぁ、良いわ。とりあえず聞くだけは聞く」
 調子はまだいつものようには戻っておらず、少し拗ね気味に未時は渋々承諾する。
 渋々であれ、承諾は承諾だ。なので海空は彼女の気が乗らずとも話を進める。未時の性格上嫌な事はきっぱりと断るだろうから、承諾したという事はとりあえず話は聞くという事に他ならない。
「本当に大したことじゃないんですってば」
 再度、海空は念を押してから続ける。
「ただ、少しだけ周りを気にしてください」
「周りを?」
 それは今まで海空がしてきたのとは少し違った種類のお願いだった。
 今までのお願いは悪い言い方をすればどちらにも利益のあるものが多かった。勿論、その利益というのは両者にとって娯楽的要素であるのだが、今回のお願いはそれに当て嵌まらない。それもどちらかが当て嵌まらないのではなく、どちらも当て嵌まらないように未時には思えた。
「訳が分からないわ。私にお洒落でもしろと言いたいの?」
 確かに未時の日頃の格好は年頃の女性の格好としては若干というか、かなりお洒落という言葉からは遠ざかっているが、それでも海空に日頃から言われたりコーディネイトされたりしているので、これでもかなりマシになった方だ。本当は今日もラフな格好で来ようとしていたのだが、海空にきっと怒られると思って止めたのは秘密である。
 しかし、まぁ、それはそれで利も生まれるのか、と未時は考え直した。未時はあまり見た目に拘ったりはしないのだが、海空が自分を好きにコーディネイトした時の彼女の表情はとても恍惚で、なんだかちょっと怖いくらいなのだ。そういう意味では未時にはなくとも海空には利益が生まれるのかもしれない。女性同士でファッションについてあれこれキャイキャイと話すのはそれなりに楽しいと聞くし……
「確かにもう少しそうして欲しいとは思いますけど、それとは少し違いますよ」
 しかし、未時の考えは間違っていると海空は言う。
「正しくはそれも含むんですけどね。どうしても私達、人間は見た目を判断基準として大きく取るところがありますから。
 でも、私が言いたいのはそういう事ではなくて、周りにはどう思われても良いとは思わないでくださいって事です」
 それは今までもこれからの未時にもきっと気にすべき事ではないように思えた。
 彼女の存在はこの人という世界の中においては異端だ。それも端から見てすぐに分かるという訳ではない。彼女の中の異端は周囲には気づけず、彼女自身だからこそはっきりと自覚する事が出来るモノだ。
 その違いに彼女はうんざりしてしまっていた。
 だから、彼女は周りを視る事を止めた。そうする事で彼女が得たのはどうしようもない苛立ちと、孤独くらいのものだったからだ。
「それは私には意味のない事だわ」
 それを事実として知っているから、未時は即座にそれを口にする。そんな彼女の表情は何も知らない他人が見ればゾッとする程に冷たかった。
 しかし、そんな彼女を見ていると海空は悲しくなる。
「そんな事はないですよ。だって未時はこれからも生きていくでしょう?」
 それは人としてでも、魔術師としてでもどちらでも良い。ただ生きていくのだという事実だけがそこにあれば良いのだ。
「それは誰だってそうでしょう?」
「でも未時はその誰だってに入らないのでしょう?」
「あ……」
 どうやら失念していたらしい。
 彼女自身では十分に自覚しているつもりらしいが、事実抜けている所も多い。それがこういった考え方だった。ある種の特異な人柄の人間とは付き合いのある未時だが、それ以外の赤の他人と見れる相手には彼女は別段気を割かない。
 海空が指摘しているのはまさにその部分だった。
「私が言いたいのはそういう事です。
 未時がこれから何処へ向かうにしても、必ず貴女にとって無関係な人とは関わって生きていく必要があるんです。買い物にしても、公共機関を利用するにしてもそうですよね?
 昨日会った霧羽さんにしても、まったく人と関わらないなんていう生活はしてないんじゃないですか?」
「まぁ、それはそうでしょうけど」
「だったら尚のこと、未時はもっと周りを気にするべきだと思いますよ。その方が今後生きていく上できっと楽になるはずです」
「そんな時が来るのかしら?」
「未時次第ですけどね」
 尋ねられた問い掛けに海空は正確な答えを返す事は出来ない。それはこれから先の事、未来の話なのだからそうだと断定出来なくて当たり前だ。
「でも、」
 しかし、海空は信じている。
「未時がそうしてくれるなら世界はきっと未時に味方してくれます。
 貴女の素敵な所に気付いてくれる人はきっといます。見たままではなく、その心を感じ取って少しでも歩み寄ろうとしてくれる人がきっと出てきますよ。私が保証します」
 自分が今この世界を好きになれたように、彼女だってきっとこの世界を好きになってくれると。
 そしてそうなった時、世界が彼女を嫌ってしまっていたら意味がないのだ。それだと今彼女が置かれている状況と何も変わらない。
 だから変わって欲しい。
 信じて欲しい。
「今すぐにとは言いません。
 だから私を信じてください。
 きっと世界は変わります。だって私の大好きな未時が変わるんです。貴女の周囲の世界が貴女の為に変わらないはずがないじゃないですか」
 それはあまりにも突拍子のない理論だ。
 例えるなら超常現象を信じない友人に、「私が信じるんだから貴方も今日から信じなさい」と言っているのと同じだからだ。
 だが、二人の関係だからこそそんな理論でさえも完璧な正論に成り得る。
 星海 未時と蒼井 海空。
 二人の関係は親友という枠には当て嵌まらない。むしろそれでは温すぎる。
 もっと深く、それ以上の深淵で。
 二人の絆は繋がっている。
 魂が響き合い、鳴いていた。
 “私達は同じだ”と。
 即ち、それ以上の証明は有り得ない。
「……はぁ」
 そうなってしまうと未時にはどうする事も出来なかった。
 これで信じないというのが彼女の中では有り得ない。
「努力はするけど、あまり期待はしないでよ?」
「今はそれで十分ですよ」
 そう、今はまだそれで良い。
 きっと彼女ならこの世界を素敵なモノに変える事が出来るから。それは今すぐではなくても構わない。彼女が必要だと思ったその時が、きっとそうなる瞬間なのだから。

「そういえば」
 と海空は思いつく。
「未時も引いてみませんか?」
 差し出したのは既に何度も入念にシャッフルを繰り返したタロットの束である。
「占い?」
「嫌ですか?」
 差し出したカードの束を見つめる未時の表情は硬い。
「別に嫌って訳じゃないわ。ただ、あんまり好きじゃないだけよ」
 海空はいっぱしの女の子らしく、占いといった類が今はそれなりに好きだが、未時はそういったモノがあまり好きではない。
 理由としては不確定要素だからの一言に尽きる。
 特に彼女の場合、自らの勘がかなりアテに出来るだけに余計に占いといった類に興味がない。どちらかと言えばむしろ信じないタイプに分類される。
 そんな未時が海空に付き合ってタロットカードのあれこれを覚えてしまっているのは、それこそ海空に付き合ったから以外に理由は存在しない。
 しかし、その一方で海空の方も初めから自分で占ったりする程にのめり込んでいた訳ではない。そういう意味では彼女も未時と同じで占いをあまり信じる方ではなかった。
 ただ、海空はその絵柄の美しさに惹かれたのだ。
 最初に惹かれたのは空に浮かぶ人の絵が描かれたカードだった。四隅にそれぞれまた別に小さく人が描かれたものだ。それが正位置での意味は“完成”、“約束された成功”、“旅”の意味を持つ“世界”のカードだと知ったのはそれからかなり後の事だった。
 何故、その絵柄に惹かれたのか。
 その意味が今なら分かる気がする。
 それはまさにそのカードの意味そのままだったからだ。
 “約束された成功”――
 これ以上の成功はなかっただろう、と今だからこそ思える。
 彼女と出会えた事こそが、海空にとってはこの上ない約束だったのだから。
 その絵に何故か惹かれて立ち止まっていると、未時が言ったのだ。「欲しいの?」と。
 今でもその時の事は良く覚えている。

「別に欲しい訳じゃないんですけど」
 少しくすんだショーウインドウの前での会話だった。
「何となく綺麗だなぁと思って」
「なら、入って見せて貰いましょうよ」
 そう言って未時は強引に海空の手を引いて普段なら絶対に入らないような古びたアンティークショップに入っていったのだ。
 古びた外見同様、中もおんぼろとしか言えないようなレイアウトだった。とてもではないが綺麗とは言えない。鼻につく匂いは埃っぽくて、大きく吸い込んでしまうと咽せてしまいそうだった。
 そんな事を思いながら匂いに顔をしかめている内に、未時は既に店の奥に隠れるようにして納まっていた店主のお爺さんと何やら話をしている。海空がそれに気付いてから二言三言言葉を交わすと、お爺さんは小さく頷いて顎で色んなモノで覆い尽くされ殆ど外の見通せない窓を指し示す。
「勝手にとって見てくれて良いって」
 そう言うと未時ががらくたとしか思えないような物と物の間を擦り抜けてはめ込みガラスの傍から一組のカードの束を取ってくる。
「はい」
「ありがとうございます」
 渡されたソレは思ったよりもずっと重たかった。一枚一枚がトランプよりも分厚く、海空の手に納めるには大きすぎた。
「タロットカードね」
「ですね」
 ゆっくりと丁寧に一枚一枚を捲っていく。そうしていくとやがて自分が先ほどガラス越しに見とれた絵柄が姿を現した。
 “The World”
 とても見にくい形でそれは書かれていた。
 その絵柄で海空の手は止まった。
 なんとなくそれを見つめたくなる。見ているととても安心するのだ。
「これいくらなんでしょう……」
 気付けばポツリとそんな言葉が漏れていた。
 なんでそれが欲しいと思ったのかは分からない。
 占いなんて自分ではやったこともないし、タロットカードの事だってその用途の一つだという事くらいしか知らない。
 しかし、先ほどまで少し重たかったカードの束はいつの間にかすっかり手に馴染んでいる。
「ちょっと待ってて」
 言うと未時は再び店の奥へと潜り込んでいく。再度店主に声を掛け話し込んでいる。彼女が値段を交渉しているのだと気付いたのはそれを眺めだして、少ししてからのことだった。思い出してみればこのタロットが飾ってあった所には値札が置いていなかったのだ。
 見渡してみればこの店に置かれている物にはどれも値札がなかった。おかげでどれが商品なのかも分からない。それともこの物が飾られている棚でさえ商品なのだろうか。
 案外有り得るかもしれない。
 それくらいにここに無秩序に並んでいる棚はどれもこれもが年季が入っている。
 交渉の方は難航しているようで未時はまだお爺さんと話し合っている。
 その光景はいつも学院で過ごす時の彼女を全く思わせない活動的な絵だ。
 そして、それを見て今の未時の方が綺麗だなと海空は思う。
 自由気まま。
 そんな言葉がとても似合う。
 気分屋でまるでネコのように、彼女は自分のやりたいと思った事を楽しんでいる。そんな彼女はこの世界にとても“合っている”。
 はみ出してなどいない。
 彼女はちゃんと此方にいられる。
 そう思うと嬉しくなる。
 そして――
「あの……」
 海空はそんな彼女の傍に居たいのだ。
「このタロットを売って頂けませんか」
 その為には自分も一緒に進まなければならない。
 そうでないと置いて行かれてしまうから。
 実際、もしそうなったら未時は立ち止まってくれるだろう。微笑みながらいつまでも待っていてくれるだろう。
 でも、それは嫌だった。
 足手まといにはなりたくない。ちゃんと隣を歩きたいのだ。
「……ふむ」
 店主が呻くように尋ねる。
「お嬢さんはそれが気に入ったのかね?」
「分かりません」
 正直に答える。気に入る、気に入らないの問答とは違う気がする。

 これは、そう。

「ただ、一緒に居たいと思ったんです」
 それが一番正しい。
 口にした自分の心がすとんと落ち着いた感覚。在るべき場所に在るべき物が納まった時のような心地良い感情が生まれた。
「なるほど……」
 そしてそんな海空の感情は店主のお爺さんに伝わったらしい。
「良いよ、お嬢さんにお売りしよう」
 お爺さんの顔にもうっすらと笑みが生まれていた。しわだらけの顔は余計にしわくちゃになっているが、さっきまでの表情とは別人のようにその笑顔は人懐っこい。
「大事にしてあげておくれ」
「はい、ありがとうございます」
 そう高くない代金を未時が支払い(良いモノを見せて貰ったからそのお礼と言って頑として譲らなかったのだ)、代わりに渡された小さな紙袋を優しく胸に抱きしめる。
 それはとても大事な絆のようで、海空の心を再び温かくしたのだ。

 あの時の事を思い出すと自然と頬が弛んでくる。
「どうかしたの?」
 未時にそう聞かれるまで自分で気付かなかったくらいだ。
「いえ、何でもないですよ。ちょっと昔の事を思い出していただけです」
 それは彼女が思い出したい時に思い出せる数少ない“思い出”だ。
 それがここ数ヶ月で劇的に増えたのは単純に嬉しかった。ついこの間まで機雷だった夜も、今ではそうでなくなっている。
 単純に考え方が変わったのだろう。
 どう変わったのかは自分でも良く分からないが、でも確かに何かが変わった。変えてくれたのは他でもない彼女だ。
「やっぱり引くのは嫌ですか?」
「だから別に嫌じゃないってば」
「じゃあ引いてください。大丈夫です。きっと良いカードが引けますよ」
 そんな彼女に半ば強引にカードを引かせる。負けず嫌いな彼女の事だから多少強引に持って行けば多少ムスッとしながらも引いてくれるのは既に実証済みである。
「どうですか?」
「どうなの、これ?」
 引いたカードを見て彼女は微妙な表情を見せる。解釈に困っているといった所だろうか。
 差し出されたカードを受け取る。
 引いたままを差し出されたので、彼女が見るには逆位置のとらえ方をする必要がある。海空が受け取ったカードは絵柄が逆さまになっていた。つまり未時が引いたカードは正位置という事になる。
「確かにこれは解釈に困りますね」
「でしょう?」
 引いたカードには“X”の文字が刻まれている。描かれているのは大きな車輪のみ。
 “Wheel of Fortune”、“運命の輪”。
 意味は運命、転換、変化の時等、正位置では良い意味での転換、逆位置では悪い方向への状況展開を意味するカードである。
 確かに良いカードではあるが、今の海空の状況と未時の状況を合わせると一概にそのままの意味を受け取って喜ぶ事は出来ない。
 それは未時の視点をどちらに固定するかで大きく変化するからだ。

 人としての視点か、魔術師としての視点か……

 人としての視点でこのカードの解釈を行った場合、それは即ち海空の症状改善を意味するものとして捉えるのが一番無難であるだろう。現時点で未時にとっての何よりの好転換はこれ以外に有り得ない。
 しかし、その一方で魔術師としての視点でこのカードの解釈を行った場合、そこには一概に喜べない解釈がどうしても見え隠れする。
 それは未時の魔術師としての大成が関わってくる。
 魔術師としての大成には兎にも角にも欠かせない要素がある。
 魔術論理の確立である。
 これを自身の中で成立させてようやく、魔術師は魔術師として存在する事になる。
 そして、その論理の確立を未時はまだ為し得ていない。
 つまり――
 未時には決定的なきっかけが足りていないのだ。
 そのきっかけとして海空自身の死はあまりにも都合が良すぎる。きっかけとしては十分すぎる程に。
 それは魔術師的な視点のみを介してみれば圧倒的な好転であるだろう。
 何せ、魔術師として最も望むべきモノが手に入るのだから。
 しかし、それを星海 未時という存在は望まない。
 彼女はまだ魔術師ではないからだ。
 だが、彼女は自身を人であると言える程、人の世に自分を置いているとも思っていなかった。その葛藤は海空だって良く知っているつもりだ。
 だからこそ、この状況における“運命の輪”の解釈は難しい。
 どちらの意味もそれぞれの視点からのみ考えれば運命の転換であり、好転だと言ってしまえるのだ。彼女が渋い顔をするのも当然の事だろう。
「でも、きっと大丈夫ですよ」
 海空は言う。
 確信などあるはずもない。
 それにこの結果はあくまでもただの占いでしかないのだ。それも占ったのは占う事を最近覚え、趣味の領域にようやく突入したばかりのような海空だ。
 信じる信じないは本人の自由でしかない。
 しかし、人というのは難儀な生き物なのである。
 悪い状況に置かれた中で悪い占いが出てしまった。その事実を突き付けられて、心の底から百分率の内の一パーセントすら不安に思わない存在などいない。
 少なくとも今の未時にそれだけの心の強さはなかった。
 だから、代わりに海空が証明しなければならない。
 彼女の翼が折れない為に。
「何でそう思うの?」
 まるで子供が尋ねる疑問のような一言だった。
 その瞳は少しの不安に揺れている。それは彼女らしからぬ瞳だった。彼女はそう在るべきではない。もっと強くあるべきなのだ。
 海空が知っている、海空が大好きないつもの彼女のように。
 そんな彼女の翼に海空はそっと手を添える。
「特に理由はありませんよ。
 強いて言うなら……そうですね。ただ、私が信じているからです。それでは足りませんか?」
「今朝と同じね」
「ダメですか?」
 蒼井 海空と星海 未時という間柄だからこそ出来る証明。
 触れ合う肌同士のその距離でさえ近くでありながら、果てしなく遠い。
 そう感じてしまえる程に二人の心は近い。
 だから手を添えるだけで良い。
 それは十分すぎる程力になる。今まで散々それを事実として互いに立証してきたのだ。今更それをとやかく言う必要などあるはずもない。
「いいえ、十分すぎるわ」
「でしょう?」
 自然と零れる笑みが心地良い。
 こんな気分になるのも久しぶりな気がする。久しぶりとは言ってもほんの数日ぶりの事なのだが、それがとても久しく感じられるのはきっとそれだけの密度ある時を共に過ごしてきたからだろう。
「きっと大丈夫ですよ、未時」
「そうね。きっと大丈夫だわ」
 そういって彼女も笑ってくれる。それがどれほど海空の心を満たしていることか。
 久方ぶりに味わう穏やかな時を海空は静かに噛み締めていた。

「じゃあ明日また来るわ」
「はい、待ってます。本当は年末くらい二人でゆっくりしたいんですけど……」
「しょうがないわよ。昨日の今日だし、何よりタイミングが悪すぎるんですもの。
 でも、一緒にいる事に変わりはないんだから我慢して頂戴」
「それは分かってるんですけど、やっぱり不満を吐き出さずにはいられないんです」
 ぷくぅと頬を膨らませるのはせめてもの抵抗である。
 別れる時はいつも名残惜しい。
 もう既に面会時間は五分以上過ぎている。このままもたもたしているといつものように見回りの看護士に見つかり、また怒られてしまうだろう。
 しかし、それが分かっていても離れたくないのが二人の常である。そっと柔らかく手を繋ぎ、海空はベッドに未時は来客用のパイプ椅子にただ座っている。
 カチカチと時計の針の進軍音だけが耳に届き、それを眼を閉じて受け入れる。
 時は有限だ。
 そして、人にとっての時はとても貴重だ。見るべき時、動くべき時、静かにあるべき時、そのどれもが等しく存在し、動き続ける時だけを選ぶ事など決して出来はしない。更に気付けば在るべき時は過ぎ去り、失われてしまう事だって多々ある。
 それが、“時”というモノだ。
 その時を二人は今こうして過ごしている。
 それは全体から見ればほんの少しの小さな時間に過ぎない。
 しかし、だからこそそこに価値を見いだす事が出来るのではないだろうかと海空は思う。ただ、こうしているだけでも得られるモノはきっとある。史実として形に残る事はないモノだけど、だからこそそれはとても愛おしい。
「そろそろ行かないと」
 切り出したのは海空からだった。
 いつもはどちらからもそんな事は言わないが、今日は海空がそれを口にした。
「でも、まだ見回りは来てないわよ?」
「もし見つかって、明日未時が来られなくなったりしたら困りますから。念には念を入れておかないと、ですよ」
 そう言って海空は繋がっていた手をそっと引き抜いた。大した温度差があるわけではないのに、指先が一瞬で冷えついたような気がする。自然と繋いでいた手を引き寄せてもう片方の手で握り、布団の下に潜り込ませる。
「むぅ……」
 すると今度は未時が頬をぷくぅと膨らませていた。
 さっきと立場がまるっきり入れ替わっている。だが、彼女の場合それをやると幼さが際立っているような気がする。元々見た目が大人びて見える彼女だからこそそのギャップは大きく見えるのだろうか。
「ほら、早くしないとまた怒られちゃいますよ?」
「分かってるわよぅ」
 海空が急かしてようやく未時は立ち上がり、掛けてあったコートに袖を通す。月が明るく輝く夜空のような黒くも深い青を抱くそのコートは彼女の相貌、雰囲気にとてもよく似合っている。
「それじゃあ、行くわ」
「はい」
「何かあったらどんな時間でも良いからすぐに連絡してね?
 すぐに飛んでくるから」
「はい」
 名残惜しそうな海空の視線を見るのが辛い。それはきっと彼女も同じだろうが、いつまでもこのままではまた今日も怒られてしまう。
「それでは、おやすみなさい未時」
「おやすみ、海空」
 そして、ようやく未時の手が病室のドアに触れた。ドアが開く音はどこか乾いていて、少し切ない気持ちになってしまう。ゆっくりとスライドし、閉じていくドアの向こう側に小さく手を振り返す。ドアはほんの少しのわびしさを残して程なく閉じてしまった。
 振り替えしていた手がまた少し冷えてしまった気がする。
 ほんの数秒前まではあんなにも温かかったのに。
 自然とつい先ほどまで繋がっていた指先を見つめてしまう。心の中に漂うこのどうしようもない虚空は間違いなく寂しさだった。
 彼女と出会った事で再び感じてしまうようになった負の感情である。
 そんなモノをまた手に入れられるなんて思いもしなかった。もうそんなモノは枯れて、朽ち果ててしまっているものだとばかり思っていたのに。
 見つめる指先を大事に胸へと抱き、そして海空はやっとその手を備え付けの小さな棚へと伸ばした。
 手に取ったのは一組のタロットカード。
 それを今朝同様に丁寧に何度もシャッフルを行う。病室に響く音がカードを切る音だけなのも同じだった。
 そして、研ぎ澄ませた精神の果てに引いたカードも、また――


           Last Episode“Star in to the Blue X count 205,200 〜 信じ合う者達の臨む明日 〜”


小説のページに戻る / 4th Interval  count 291,600 〜 Sneer 〜 へ戻る
5th Interval  count 154,800 〜 White note 〜 へ進む