count 291,600 〜 Sneer 〜



 謀られたと気付いたのは病院中の自販機をすっかり巡り終わった後の事だった。
 結局目当ての飲み物は見つからず、自販機の補充が行われるのが明日であるために品薄状態だということを知ったのも最後の自販機を確認した後という非常にタイミングの悪い瞬間だった。
 体力的に余裕はあるものの、精神的に疲弊しきった彼女の足取りは当然の事ながら重い。
 面会時間ももう終わろうかというこの季節のそんな時間帯、リノリウムの廊下に彼女以外の姿は見あたらない。コツコツと小さく響く自分の足音だけが耳に届き、淡い電灯の光が心許なく足下を照らす。
 歩みがどんどん早くなっているのは恐怖からではない。早く病室に戻り彼女の無事を確かめたいからだ。
 本当は全力疾走で向かいたいところなのだが、病室を出る時に注意された看護士につい先ほどばったりと出くわしてしまい、これでもかという程じっくりことことこってりと絞られたため流石に走るに走れない。故に、今の彼女は競技者に匹敵する程の競歩で病室へと帰還している所である。
 両手には合計で三つの飲み物。二つの缶コーヒー(激甘)と、誰もが良く知るコーラが一つ。
 激甘のコーヒーは自分と彼女のもので、コーラが歓迎したくもない彼のものだ。
 彼女が病室へと帰還する最中で必要以上にコーラの缶を持つ手を激しく上下させているのはせめてもの仕返しの現れである。もっとも彼はそれを簡単に見通してきそうな気もするが、何もしないのも癪なのだから、それならやらないよりもやった方が遙かにマシである。
 それにしてもえらく時間を掛けてしまったと反省する。
 彼女が病室を出てから既に一五分近くが経過している。
 早く戻らなければならない。
 早く戻りたい。
 彼女の元へ――

「――おねえちゃん」

 病室まで後二分も歩けば着くだろうフロアの休憩所で彼女は呼び止められた。
「こんばんわ、おねえちゃん」
 それはここ数日で多少知り合うようになった少年の声だ。
「何してるの?
 僕、今少し暇してるんだ。少し話し相手になってくれない?」
 既に照明の消されてしまった暗がりの中で、窓際に背を預けて少年は言う。
 しかし、その気配に彼女は言葉に出来ない違和感を覚えた。
 そこにはたった数日とはいえ言葉を交わし、その過程で彼女が推し量った少年の言動にはどこか似つかわしくないニュアンスが含まれていたように感じられた。
 そう、例えば、今ここには居ない彼のような。
「――ねぇ、少しだけだから良いよね?」
 その感覚が彼女の中で繋がった瞬間、少年もまたそれに合わせるかのように言葉を発した。強烈な違和感を携えて、有無を言わさぬ存在感を顕わにして。
 刹那、彼女は本能的な訴えに逆らうことなく、少年から距離を取っていた。
 彼女は知っていた。
 少年が纏う強烈な存在感が当たり前として存在する世界を。
 即ちそれは少年がただの少年ではないという事の何よりの証へと直結する。
 途端、神経が研ぎ澄まされていく。
 先ほどまで感じていた疲労をとりあえず棚に上げ、手にしていた飲み物を握りしめる。
「貴男、誰?」
 問い掛け、その返答として向けられたのは純粋な殺気。
「ッ――!」
 思わず後ずさりしたくなるような圧倒的な力量差を感じ、彼女は反射的に手にしていたコーラを少年に向かって投げつけた。
 微塵の遠慮もない投擲は、しかし虚しくも少年が軽く振った手によってあっさりと弾き飛ばされる。衝撃で缶が弾け、中身がリノリウムの床を塗らす。一瞬遅れて缶の残骸の甲高い悲鳴が響くが、それに引き寄せられる者は誰もいない。既に何らかの施しによって、人除けの魔術が張られているのだ。
「大丈夫、誰も来やしないよ。まだ少し時間もあるし、もう少し付き合ってよ」
 少年は愛想良く笑いかける。まるで偶然街角で出会った友人のような物言いである。
 だが、そこにはやはりどうしようもない違和感が共存している。
「貴男は一体……」
 呟き自問して、気付く。
 この状況下でそんな存在が自分の目の前に現れる事の意味を。少なくとも彼女の望むような結果をもたらす為の存在である事は有り得ないだろう。相手の都合如何より、何よりも彼女自身の直感がそれを否定する。では、有り得る可能性は一体何なのか。
 その選択肢として彼女の中に浮かぶ候補はたった一つしかない。
「ご明察」
 問う前に少年が答えた。
「そう、僕がおねえちゃん達の敵な――」
 ゴウッ――!
 しかし、その解は最後まで語られる前に止まる。
「おねえちゃんみんなにせっかちだって言われない?」
 止めたのは彼女の繰り出した拳による一撃。
 そして、その一撃を易々と受け止めている少年の小さな片手。
「のッ――!」
 もう片方の手を容赦なく振るった。全ての殺気を拳に込めて叩き付ける。
 が、
「無駄だって事に最初ので気付こうよ、おねえちゃん」
 その拳は届かない。
 それどころか受け止められてもいなかった。不可視の力が壁を生み、彼女の一撃をあっさりと防いでいる。
「それに一撃っていうのはさ、こうやって打ち込むものだよ?」
 少年が取った行動はひどく緩慢で、ゆったりとした動作だった。普段なら一瞬にしてそれらの阻害を行う事など、彼女にとっては造作のない事だったはずなのだ。
 しかし、彼女は今の状態から一歩も動けないでいた。
 ゆっくりと動いて見える少年の動作が、実はとんでもない速さで動いていたのだと気付いたのはその拳が自身に届く直前の事。打ち込まれる寸前、唸り声のような激しい大気の嘶きを耳にしたからだった。
 咄嗟のガードすら間に合わず、衝撃が直に体を打ち抜く。全身から酸素が絞り出され、体中の骨と筋肉が軋み合うのを聞いた。直後に自分を襲う爆発物を体内で暴発させたような衝撃。整列されていた来客用のソファーを根刮ぎ吹っ飛ばし、彼女の体は床を滑って壁に叩き付けられた。
「がはッ――」
 更に酸素を吐き出させられ、続いて喉が喘ぐように出したばかりの酸素を求め出す。たった一撃で彼女は大きく肩で息をしてしまっていた。
「あぁ、ごめんねおねえちゃん。少しやりすぎちゃったかな?」
 少し悪びれるように少年は言う。
 その言葉に彼女は今の自分と少年の間に天と地程の差がある事を改めて思い知らされる。
 半人前の自分。中途半端な自分。未だに行き先を決められないままでいる自分。そんな全ての自分に心の底から腹が立つ。
「まぁ、そんなに怒らないでよ。別に僕はおねえちゃんを殺しに来た訳じゃないんだからさ。それどころか僕はおねえちゃんに忠告に来てあげたんだよ?
 僕って優しいよね、ほんと」
 まだ体が動く事を拒否する彼女の思惑を無視して少年は語る。
「僕からの忠告は他でもないアノ人の事なんだけどさ」
 その愛らしい見目からは想像したくもないような戯れ事を少年は口にした。

「大人しく諦めてくれないかな?」

 淡く、慈悲を含んだような微笑で。
「僕の欲しいのはおねえちゃんじゃなくて、おねえちゃんのお友達の方なんだよね。本当はおねえちゃんのも欲しいんだけど、ちょっと事情があって手を出しちゃう訳にもいかなくてさ」
 あくまでも少年の声は甘えるような優しい口ぶりだ。だが、そこから吐き出される言葉は誰よりも冷たく、誰よりも残酷だった。
「だから、ね?
 諦めてよ。じゃないとおねえちゃんにも手を出しちゃいそうなんだ」
「……まれ」
「ん、何?聞こえないよ、おねえちゃん」
「黙れッ――!」
 一瞬にして自分の感情が沸点に達したのを彼女は自覚した。
 此奴は何を言っているんだろう。どの口でそんな事を言うんだろう。何も知らない癖に。何も見ていない癖に。自分と彼女の全ては互いが在ればこそだというのに。
 それをあっさりと捨てろと言うのか。此奴は?

 諦めろと?

 否――

 見捨てろと?

 否――

 逃げ出せと?

 否、否、否――!

「そんな事をするくらいなら、死んだ方がマシよ!」
 寸前の凄まじい衝撃がまだ体を軋ませていても、彼女は雄叫びをあげた。激昂した感情の赴くまま、自らの魔力をありったけ拳に注ぎ込む。その膨大な魔力量に少年が驚嘆の笑みを浮かべた時には、彼女の体は既にその懐に潜り込んでいる。
 今、彼女に出来る全ての力を持ってして、その拳は少年に向かって叩き込まれた。
 ゴキンとまるで分厚い鉄板が真っ二つに折れるような破裂音が空間に鳴り響いた。それは二人の膨大な魔力量がぶつかり合って生じた炸裂音だ。
 ジリジリと肌を振るわせるように大気は揺れ、二人を中心に据えた周囲には割れたリノリウムの床の破片が乱雑に舞っている。
 それだけの威力を秘めた一撃だった。
 だが、それだけの威力の一撃でさえ、二人の距離を埋めるには至らなかった。
 どころかその溝は更に深く、深淵のような深い闇を彼女に見せていた。
 少年は立っている。
 ただ、それだけだ。
 本当にただ、それだけ。
 周囲で破砕した破片が散っている。大気が常識では有り得ないような音で鳴いてる。直撃すれば常人ならば即死するであろう衝撃が彼自身を襲っている。
 そんな環境下にいてもなお、少年はただ立っている。
 立って笑んでいる。
 構える事もなく、彼女が渾身の力を込めて振るった一撃をほんの少しの意識によって生み出した障壁でその全てを無かった事にしている。
 そして言う。
「その一言を待ってたんだよね」
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ少年の笑みが少年に似つかわしくない、ひどく凶悪な嘲りに変わる。
 刹那、先刻を遙かに上回る圧倒的な衝撃が彼女を襲った。
 暴風が綿毛を舞上げるように、その強大な力は彼女の体を軽々と弄び、再度壁へと叩き付けた。
「――――ッ!」
 そして、今度は酸素が絞り出されるよりも早く、それすらも許されずに彼女の全身を衝撃が乱打する。本能的にどうにか生み出す障壁も、圧倒的な力量差の前では障子紙も同然だった。易々と防御は突き破られ、人として生きているだけではきっと経験出来ないような気色の悪い感覚だけが全身を支配していく。
 それはたった数秒にも満たない出来事。
 しかし、それだけで十分過ぎた時間だった。
 今にも焼き切れてしまいそうな意識の糸をどうにか繋ぐので精一杯だった。
 その意識の切れ端に少年の声は鬱陶しくも鮮やかに届く。
「一応手加減はしたんだけど、それでもこれだけの溝がある。
 これだけの力の差を見せてもまだおねえちゃんは僕の前に立つのかな?
 どれが賢明な選択肢かなんて誰に尋ねても答えられるくらいに簡単だよね?
 四十八時間だけ待ってあげる。
 これは警告だよおねえちゃん。おねえちゃんなら分かるよね。僕の言いたい事」
「…………」
「もし、それでも僕の前に立つのならそれだけの覚悟がいるって事。その時はルールに反しちゃうけど、おねえちゃんだって頂いちゃうからね」
 一方的に言いたい事だけを言ってくれる。此方の事情などお構いなしだ。今すぐに一発ぶん殴ってやりたかった。
 そんな衝動が生まれても、今の彼女にはどうしようもない。
 たった数秒の出来事で全身は痺れたように動かない。痛みだけが全身を這い回り、指一本でさえ動かすのには当分の時間が必要なのは確実だった。
 それでもまだ目だけは死んでいない。
 意識はまだ生きてる。
「良いね。その眼。とっても摘んでみたくなっちゃう。
 でも、今日はここまでにしとかないとね。一応、ルールだからさ」
 少年が背を向ける。
 そこにあるのは期待と嘲笑。
 どちらも彼にとっては娯楽のようなものだろう。
 その証拠に少年は立ち去りながらひらひらと手を振り、その名を証す。
「では、期待してるね、おねえちゃん。全ては明後日に。おねえちゃんの姿が来たるべき時に在るべき場所に在る事を祈るよ。
 我が名はミッシングページ。
 在るべき場所に在らざる失われし最後のページ。
 貴方に全てを失う絶望と破滅が訪れますよう」
 呟きのような小さな悪意は少年めいた軽快な足音で去っていく。
 そしてそれを待っていたかのように彼女の意識もまた、深淵の中に呑み込まれていった。


                   Last Episode“Star in to the Blue 4th Interval count 291,600 〜 Sneer 〜”


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