count 291,900 〜 日向と日陰が混ざり合う場所 〜



 一日は長くも短くもある。
 今日という一日は星海 未時にとってもやはり長くもあれば、短くもあった。
 彼女は今日も年末という慌ただしさに急かされることなく病室に訪れ、蒼井 海空の傍にいた。それは彼女にとってなんら疑問を抱くような事ではない。
 それが今日も又区切りを迎えようとしている。窓の向こう側はオレンジ色に染まっており、その波は締め切った窓ガラスを通り抜けて未時の半身も同じように染め上げていた。
 刻々と染め上げられていく自らの体を無感動に眺めながら未時は思考に没頭している。幾重にもそれを重ね合わせ、その上で眼を閉じシミュレートを繰り返す。もう今日だけでこの作業を幾度繰り返したのだろうか。少なくとも百は下らないだろう。正確な数は数えていない。そんな余計な事に思考回路のコンマ数パーセントをくれてやる余裕はないのだ。
 隣では未時の肩に頭を預けて、彼女が眠っている。
 手はほとんど握ったままだった。
 今日一日、未時はずっと自分の魔力を海空の体に供給し続けていた。
 以前、彼女はこれと似たような事を偽善事業として行った事があったが、それとは供給し続けている魔力の量に圧倒的な差があった。いくら自分の魔力が膨大で在る事が分かっていても、慣れない行動は肉体的にも精神的にも体力を激しく削る。更に状況は遅々として改善されず、悪化する一方だ。未時自身も無視を通すには厳しくなるくらいの疲労を感じ始めていた。
 しかし、だからといって止める訳にはいかない。
 不本意な掛け金は残念ながら安くはない。そこには彼女の大切な存在の全てが賭けられているのだ。
 今日の海空はとても良く眠っている。
 時間的にも、深さ的にも。
 実際、彼女が今日起きていた時間は非常に短かい。朝、未時が訪れた時にはどうにかミチル少年の相手をしていたが、その顔からは珍しく眠気が抜けきっていなかった。普段の彼女ならそんな失態は自分以外には見せないはずなのだが、今日の海空にはその余裕もなかったらしい。「おはようございます。未時」と口にするや否や、口に手を当てて小さく欠伸をしていたくらいだ。
 未時は今日もミチル少年をからかいにからかって、面会時間開始早々追い払ったのだが、そこから程なくして海空は眠りについている。
 それから食事やら、検査やらで度々起きる事はあったが、それでもその時間は長くはない。長くて十分程度。
 しかも自分から起きたわけではなく、全て未時が彼女を起こしている。余りにも海空らしからぬ反応だった。
 つまり今の彼女にはそれだけ余裕がないのだ。少なくとも日常生活で使用する体力を本能的に惜しむ程に。
 それは彼女自身よりも、彼女と繋いだ手を通して未時の方が遙かに良く理解していた。
 容態はやはり悪くなっていく一方だった。供給している魔力が同時にセンサーの役割もこなして未時に旗色の悪さを伝えてくる。
 今、海空の体内では非常に無意味な釣りが行われている。針を垂らすのではなく、恒久的に餌を撒き続けているという状況である。未時の魔力という餌を海空という大海に撒いているのだ。魚は彼女の中に君臨する何かだが、その何かは非常にタチが悪く、撒き餌を与え続けなければ海空という大海を我が物顔で荒らし、まだ垂らしてもいない針でさえ飛び出して喰らい、体内に平然と飲み込もうとしている。
 現在それを防ぐ手段は未時自身が行っている撒き餌という魔力の浪出行為しかない。しかし、それは起死回生の一手とは程遠く、撒き餌だけに結局はその何かを育てるという事にしかなっていない。今朝から海空が眠る傍らで思考を総動員して何度も繰り返しそれを追い払う術を探っているのだが、それは一向に実を成していない。今もその一連の流れが結果を生み出さずに終了したところだった。
「ふッ――」
 張りつめた空気を吐き出し、額を拭う。暖房が掛かっているとはいえ、それでも少し肌寒い室内で未時の額には幾筋の汗が雫となって浮かんでいた。体内に熱が籠もっていて、今の室温でさえ暑く感じてしまう程だった。
 集中するという事は本来はそういうものだ。
 周囲の環境に左右されず、自身の中でのみ世界が動く。それには自身のありとあらゆる神経が本来の役割を放棄して目的の為に必要な行動の支援に回されるのである。それは想像する以上の疲労を本人にもたらす。そもそも本来とは違う体の使い方をしているのだ。慣れない事をすると体がいつもより多くの疲労を感じるのと同じ事である。
 空いている方の手で髪を梳くと少し湿り気を帯びているように感じた。もうかなり長い時間同じ事を繰り返しているから当然といえば当然だった。
 しかし、休憩を入れる事はない。
 そんな余裕は勿論ないし、まだ彼女の精神は根を上げるまでに至っていない。むしろ精神的にはまだ余裕がある。
 それは未時自身が自覚している決して多くはない自分の長所の一つであった。
 未時は自身の性格が非常に厄介な性質である事を理解している。それがそもそも彼女自身をこの世界から切り離すような境遇へと導いた発端でもあるのだ。そんな彼女の性格は非常に鉱物的なモノだ。
 常温は他人には冷たく感じ、それでいてその融点と沸点は他人に理解され難いほどに高い。その為、常人からすれば十分に驚くべき事でも、星海 未時にとっては取るに足らない事柄とそう大差ない。数千度単位の温度計の中では十足らずの数等さして気にするような温度にはならないのだから。
 故に星海 未時という存在は今の今までずっと世界から外れた場所に置き去りにされていたのである。誰も彼女という存在を加工する事が出来るだけの熱量と技量を持ち合わせていなかったのだ。まさにダイヤの原石だった。
 その原石を削るのに霧羽 総弥という魔術師の存在は正に打って付けだったと言えるだろう。彼は荒削りだがそれ故に得られる大胆な技巧で彼女をその原石の大きさだからこそ出来る作品へと着実に昇華させている。それは嫌々ながら未時自身も認めざる得ない事実だ。
 そして――
 そんな彼女に常に火をくべ続けたのは言うまでもなく蒼井 海空だ。
 火をくべる作業というのは非常に繊細な管理を必要とする。如何に加工が可能になるまでに必要な温度が数千度を超えるとはいえ、それはただそれだけの事でしかない。そこから先は素人には計り知れない熟練の領域へと突入する。ほんの数度の違いが原石に見るに耐えがたい傷を生むことも珍しくはない。確かにそれは素人目からすれば大したことのない傷かもしれない。
 しかし、未時が飛び込もうとする世界、ずっと望み続けてきた場所はその妥協すら許されない領域を遙か向こうに覗かせている。それを知っていて無視できるほど未時は大人しいわけではない。
 誰だってそうだろう。
 初めて自分が居ても良いかもしれない場所を見つけてはしゃがないはずがないのだ。それこそ未時のように今までずっと孤独感が隣を歩き続けていたような存在ならそれはなおの事だ。
 それを知ってなお、海空は星海 未時という原石に火をくべ続けてくれたのだ。
 いつか別れる事を理解して、それでも彼女の隣に居ようとしてくれた。
 未時は海空と出会った事でたくさんの経験と出会った。今まで知っていても出来なかった事、つまらないと思った事が本当は楽しかった事。その全ては海空がくれたモノだ。
 彼女は教えてくれた。
 未時がまだこの世界にいても良いという事を。
 それがどれほど未時を救ったか、きっと彼女は知らない。
 でも、それで良いと思うのだ。人は自分の事だって全てを理解できているわけではない。なのにどうして他人の事を理解できるというのか。
 それは傲りだ。
 誰かを完全に理解したいという願いは決して叶わない。理解して、なお人はそれを願う。
 そして未時もまた願う。
 これからもずっと――
 海空の事をもっと知りたいと。
 だから彼女には隣に居てもらわないと困るのだ。
 もっと知りたい。
 もっと知って欲しい。
 ずっと、ずっと。
 何処までも何処へでも一緒に行きたい。

 その願いだけは諦めるわけにはいかない。

 やはりそれが傲りでも。
 どれほどに傲慢でも。

 それだけは譲るわけにはいかない――

 吐き出す息が白いのはこの冬の寒さからだろうか、それとも体を絶えず襲うようになった疲労のせいだろうか。今日という何も変わらないはずの日が刻々と無下に終わりへと向かうのを未時はまた何も出来ずに見送っていく。
 斜光を窓から見送るだけの自分が非道く滑稽に感じられた。こんなにも危機的な状況下で出来る事がただそれだけだという事に呆れてしまっているのだ。
 募っていくのは焦燥ばかりで、依然として状況は好転しない。
 出来る事も餌を撒くだけの自殺行為だけ。
「こんな事をしたくてここにいるわけじゃないのに……」
 嘲笑して、自らの不甲斐なさを自覚する。一体自分は何をしているのか、何が出来るのか、考えても考えても出来る事は何一つとして浮かばない。
 潰されて、削られて、時間だけが刻一刻と冷酷に過ぎ去っていく。
 それを事実として受け止めるだけの時間を過ごし、自らが稀薄になっていく。
 そして、

「こんにちわ」

 そんな海空の声で自分がいつの間にか眠ってしまっていた事に気付く。外は既に暗く、後小一時間もすれば面会時間も終わってしまうだろう。そんな時間の中で、彼女の声はどこへ向いているのか。
 それに気付くのに時間はさほど必要ではなかった。
 しかし、それを理解するのに未時の思考は数秒を要した。
 それは未時の中では有り得ない事柄だった。彼女が誰よりも魔術師として認識しているはずの人物がそこにいるという事実。
 それは紛れもないイレギュラーでありながら、絶対とも言える意味を何かしら持つ出来事に他ならない。
 彼が、魔術師、霧羽 総弥がそこにいた。
「何故、貴男がここにいるの?」
 警戒を隠すことなく未時は問う。
「別に良いじゃないですか。僕だってそういう気分になる事もあります」
「はぐらかさないで」
 霧羽が気分屋であることは未時だって重々承知している。
 しかし、だからといって彼がここに現れるということもそれで片付けて良いのかと言われれば、それは間違いなく否である。
 彼は未時を観察する事を娯楽としている存在だ。そんな彼がこの状況下で出てくるのなら、そこにはそれこそ何らかの意味、理由が絶対に存在する。
 だから未時は再度彼に問いただす。
「何の用?」
 射抜くような視線は霧羽を逃すまい、進ますまいと睨み付ける。
 対する霧羽はやれやれと首をかしげるだけ。
 いつもならばそれだけで多くの時間が浪費されていくのだが、今この状況はいつもとは違った。
「まぁまぁ、二人ともそんなに気を張らなくても良いじゃないですか」
 あまりにも場にそぐわないのんびりとした優しい声色。
 それは間違いなく未時が良く知る彼女のモノ。
「海空……」
 まるでここ数日の体調不良が偽りと思えてしまうくらいに、今の海空の持つ存在感は未時が良く知る彼女のものだった。
 全てを包み込む柔らかさ。
 誰もが見とれる汚れ無き白が凛としてある。
「はじめまして、ですね」
「そうですね」
 そう、それは奇しくも初の対面だった。
 未時にとって日常の象徴である蒼井 海空と非日常の象徴である霧羽 総弥は、この日ようやく、話で聞くばかりだった互いと対を成す存在と邂逅を果たしたのだ。

「何の嫌がらせな訳、これは?」
 人目を憚ることなくガツンと自販機に蹴りをくれてやる。たまたま近くを通りすがった看護士に注意されても何処吹く風か。幼い子供のようにツンとそっぽを向いて未時は全速力で次の自販機を目指して駆けていく。背後から自分が女性である事も忘れてヒステリックに叫ぶ看護士の声がするが、勿論これもガン無視である。
 むしろ叫びだしたいのはこっちの方だった。
 何が悲しくてこんな状況下でパシリの真似事をしないといけないのか。これが単なる彼女のお願いであるなら未時の方だってやぶさかではない。むしろ嬉々として行ったに違いない。
 だがしかし、病室に残してきた二人の存在が彼女の精神を激しく揺さぶっていた。方や歴史の裏にこそ名を馳せる一騎当千を容易に屠る魔術師、方や何の力も持ち合わせずただ純真なる白を抱く少女である。
 霧羽 総弥と蒼井 海空。
 未時にとっては間逆にしか配置しようのない二人が、今この瞬間に彼女が与り知らぬ会話を交わしている。いや、それはまだ構わない。未時だって二十四時間常日頃海空と一緒にいるわけではないのだから。
 しかし、それも相手に依りけり、だ。
 相手はあの霧羽 総弥である。何が起こっても不思議ではない。彼は未時の事を生涯通しての娯楽の一つとして眺めるような人物なのだ。それこそ今この瞬間に未時が想定する最悪の事態を引き起こしかねない。
「あぁ、もう――ッ!」
 もう四度目になる苛立ちの暴発を叫びに変えて、未時は次の自販機のある場所へ駆けていく。都合、次で六ヶ所目の自販機である。

「まったく彼女には同情を禁じ得ませんね」
 言葉だけの同情を表すのは霧羽 総弥である。その表情には口にした言葉とは真逆のさも楽しそうな色が映っている。
「まさかたかが飲み物を買いに行くだけなのにこれほど時間が掛かるとは微塵も思いはしないでしょう」
「そうですね」
 相槌を打つのはこの部屋の現在の主である蒼井 海空。今にもこの部屋に溶け込んでしまいそうな真白い髪は薄暗くなった今でも変わらず、闇に呑まれるどころか更に淡く浮かび上がってくるようでさえある。
 そんな彼女の顔に浮かぶのもまた笑みであった。
 ただし、彼女の場合は少し申し訳なさそうなという言葉が頭に付く。
 二人が話題にしているのは当然、今ここにいない未時の事だ。彼女は今海空の懇願によって飲み物を買いに走っている。普段ならものの三分も有れば買って帰ってこれるのだが、今日は未時が買いに出てから既に五分以上が経過していた。自販機が混んでいるという可能性も無きにしもあらずだが、それでもせいぜいが一分前後のロスだろう。五分というのは少し長すぎた。
 だからといって彼女の身に何かあったのかと心配するには、二人は共に未時の事を知りすぎている。彼女の身体能力や性格からしてその何かというのはまず有り得ないだろうと既に選択肢から除外しているのだ。
 では一体何があったのか。
 それは単にそれ以外の事象が起こっているというだけの事である。
 そう、例えば純粋に買う事すら出来ない状況だとか。
 海空が入院している病院は交通の便があまり良いとは言えない場所に建っている。訪れるには最寄りの駅からでもバスで三十分。それもバスは一時間に一本しか来ないような所だ。他の手段として自家用車やタクシーという手もあるが、前者は言わずもがな取りようもなく、後者を選ぶには未時の性格が邪魔をする。
 そんな場所にあるせいか、この病院に備え付けられている自販機は商品の補充が行われる回数が少ないのである。時として二週間に一回程、というのは海空がつい先日看護士より入手した情報である。
 しかし、そんな環境にあるからといってこの病院を訪れる人が少ないのかというとそれは否だ。この病院立地条件は悪いが、医者の腕は良いのである。よって当然ながら患者の数はそれなりに多いし、訪れる見舞客だってそれなりである。従って自販機の需要もやはりそれなりな訳で、自販機の補充が行われる間近になればそれこそ売り切れになる商品が出てくる事も珍しくない。一応、一階まで降りれば購買所もあるにはあるが、コンビニと比較するにはあまりにも商品の数は少なかった。
 そんな自販機の商品補充は明日である。これは昨日未時が訪れる前に海空自身が看護士に確認した事実だ。つまり今この時間は自販機の商品が最も減っている時間だというわけで、そんな中海空は未時に飲み物のお買い物を頼んだのだ。
 頼んだのは比較的多くの人が好んで飲むであろう大手メーカーの少し甘めのコーヒー。そして、その飲み物は補充の時期になると多くの場合売り切れてしまっている事が多い商品でもあった。
 つまり海空が頼んだ飲み物は今多くの自販機で売り切れているはずなのだ。海空自身も彼女の部屋から数えて三台目までの近さにある自販機のラインナップを確認しているが、昨日の夜の時点で既に全ての自販機に売り切れのランプが点灯していた。という事は他の自販機でもそうなっている可能性は十分にあるという事である。
「確信犯という訳ですか」
「まぁ、そういう事になりますね」
 少し困った顔で対応するのは海空の中にちょっとした罪悪感が芽生えているからだ。いくら目的を果たす為とはいえ、大切な親友を邪険にするような頼み事は心苦しかった。
 しかし、それだけの事をする意味はある。
「一度、会ってお話してみたかったんです」
「奇遇ですね。僕もです」
 知らないけれど、知っている。
 そんな話だけの存在と一度会話してみたかった。
 ありきたりな好奇心と大切なモノを託して良いのかどうかを見極める為に。
「改めて、初めましてと言っておきますね。蒼井 海空です」
 ベッドの上に半身を起こした状態で海空は名乗る。視線は逸らさず、目の前の異質な存在をただ一点に捉えたままで。痛みが走る体だって今この瞬間だけは押さえつける。ブラフであることはきっと相手にも明らかなはずだった。
 しかし、それにも意味はある。
 相手に弱みは見せないという意志。
 自分は何処までも強く在ろうとする覚悟。
 その精神だけは必ずしも劣らないという強さを海空は惜しげもなくさらけ出す。
 これはただの会談ではない。戦いだ。
 想いを貫き、祈りを届ける為の戦事なのだ。
 それを理解しているのは海空だけではないだろう。
 彼女の目の前に静かに佇む彼もまた、そんな何かを思っているのかもしれない。
 海空は感じていた。
 目の前の人物が既に人外ではない力を滲ませているのを。
 手に滲む嫌な感覚は布団をギュッと握りしめて黙らせる。本能が絶えず響かせる警笛は無理矢理無視するしかない。
 逃げ出さない。
 立ち向かえ。
 今自分に出来る事はそう多くないのだから。
「初めまして、霧羽 総弥です」
 隠そうとしない威圧感に海空は背筋にゾッとするものが走るのを感じる。
 だが、まだ彼の本質にまでは至っていない。
 彼の本質が異質な部分にこそ潜んでいる事を海空は彼を一目見た瞬間に理解している。同時に自分の目が間違っていなかったのだと確信する。
 未時はこんなにも凄い人に認められている――
 そう思うと自然と強ばっていた体から力が抜けていく。無論良い意味で。この状況でリラックスしていく自分を感じる。
 この偉大なる魔術師という存在を前にして。
「一応、確認しておきたいんでけど」
「なんでしょう?」
「霧羽さんは人ではないんですよね?」
 分かっていても確認してしまう。確認したくなってしまうというのが今までを人として生きてきた者の性であろう。尋ねずともそうだと理解しているのに、それでもやはり海空は尋ねてしまった。
 好奇心からというのも勿論だが、それと相まって目の前の霧羽自身がそれを求めているように感じられたからだ。
「えぇ」
 そしてその問いに彼は嬉々として答える。
「この場において名乗らないのはやはりプライドが許さないといいますか、同じ土俵に立っていないのと同じような気がしますので、名乗らせて頂きましょうか」
 それはつまり、人としての名などは既に、彼にとって記号と同じようなものだということを海空に教えてくれる。
 今までのどこか役者めいた立ち振る舞いとは違い、毅然とした雰囲気を纏い彼は自らの存在を語る。
「我は古きから世を渡り、叡智を友とする古代を生きた五指の魔術師が一人。その名は永遠の時を告げ、決して晴れる事のない霧の名を戴く。
 掲げる論理は Endless Mist 。
 我が名は最古の魔術師が一人、霧羽 総弥――」
 恭しき態度はまだ少ししか見ていない彼の所業とは欠片も結びつかないものであったが、それを含めても十分に堂の入った彼の存在のなんたるかを感じ取れる一コマだった。
「以後、お見知りおきを、お嬢さん」
 その余韻をたっぷりと周囲に味わわせ、彼はようやくいつもの未時が言うところの胡散臭い笑みに戻り一礼する。
「はぁ……」
 しかしながら、そんなワンシーンに遭遇した海空の返した言葉はたったそれだけであった。これがただの一般人ならばその圧倒的な存在感と威圧感に恐れおののき、ぐうの音も出ないような状況だったのだが、いかんせん彼女は蒼井 海空なのである。
 彼女は霧羽が彼自身としても珍しいと思ってしまう程に入れ込んだ、星海 未時の傍に短い間でありながら居続けた希少な少女なのだ。彼女は未時が魔術師であるということをただの一息で受け入れ、その上でまだ未時の傍に居続ける事を選んだのである。
 そんな海空の判断基準からすれば、霧羽の口にした形式的な名乗りなどは相手を見計る要因として大した意味を持たない。逆に霧羽がそうした常套文句を使った事によって海空はかえって彼の事を身近に感じられてしまった程だ。
 そして冷静になったことで、海空は今の自分の反応が気になってくる。
 今のはあんまりにも淡泊な反応だったかなと思ったのだ。
 これだけ凝った演出的な自己紹介をするという事は、つまり彼等魔術師にはそれなりに意味のある行動だという事だ。海空にはその意味があまり良く分かっていないのだが、だからといって雑に扱っても良いという理由にはならない。
 まぁ、もっともそう感じたからきちんと対応出来ると言うわけでもないのだが。そもそもそんな事が出来るのなら最初からこんな事で困ったりはしない。
 しかし、そんな海空の苦悩を霧羽は快く思ったようで、
「なるほど……」
 等と頷き、一人で何かに納得してしまったらしい。
「聞いた限りでは、もっと精神的に脆いイメージだったんですが、どうしてなるほど、確かに彼女が熱を上げるのも納得ですね。確かにこれは深い」
「……はぁ」
 とりあえずは褒められているらしいが、いまいちその実感は薄い。そもそも一体どんなイメージを持たれていたのかが気になってしょうがない。というよりも未時は私の何をどう話したのだろうか。
 自らの与り知らない所で交わされた会話の内容に非常に興味が沸く。きっと未時も霧羽も教えてはくれないのだろうが、それでも機会があれば是非とも問いただしておきたいものである。もっとも、そんな機会が自分にまだ与えられるのかどうかはかなり心許ないのだが。
「とりあえず時間稼ぎにも限界がありますから、本題に入りませんか?」
 切り出したのは海空。
 そう、彼女には時間がない。
 直感としか呼べない予感ではあるが、それはおそらく正しい。
 だから今やれる事をやっておきたい。
 その為に彼と会う機会を彼女は切望していた。
 直接的にそう伝えた訳ではない。
 しかし、そう思えば彼は自分の目の前に現れるような気がしたのである。そして事実、それは今こうして叶っているのだから、自分の勘もまだまだ捨てたものではない。
「そうですね。そろそろ彼女も戻ってくる頃ですし、手早く済ませましょう。
 もっとも、僕の用事はもう終わったに等しいんですけどね」
「そっちはもう良いかもしれませんけど、こっちはまだなんです。自分の用事が終わったら「はい、さよなら」っていうのはちょっと卑怯じゃないですか?
 商品はお金を払うから買えるんです。ちゃんとお代は払ってください。食い逃げ、万引きはいけません」
「これはまた凄い表現方法ですね。どうせならもう少し大げさな言い回しをお願いしたいところですが」
「別にどうでも良いじゃないですか、そんな事」
 霧羽の不平を海空はそんな一言で済ませてしまう。
 そして凛として言う。
「もう一度言いますけど、私にはあまり時間が無いんです。余計な手間は掛けさせないでくれませんか?」
 そこには異様な気配が満ちていた。
 全てを呑み込み、圧倒するような超絶的な何かが渦巻き、病室を制圧している。
 その中心にいるのは間違いなく霧羽だった。それは彼自身だけでなく、海空だって理解している事だ。
 しかし、その渦中において、それでも海空は自由に言葉を操り、霧羽と対等にあった。いや、この瞬間、海空は彼よりも上位にいたかもしれない。
 ただの人であるはずの彼女が。
 遙か高みからより見下ろしているはずの魔術師を。
 その彼からすれば明らかに不躾な態度にこそ、彼は満足していた。
 対等であろうとする事。
 それがどれだけ難しい事であるかを霧羽 総弥は知っている。
 他でもない彼自身がその力の意味する事を十分に理解しているのだから。
 そんな彼に満足感を提供したのはここ最近という時間軸に限定すれば海空は二人目にあたる。一人目は言うまでもなく未時である。
 その事実に理由無く納得して、霧羽はようやく彼女を試すのを止める事にする。
 彼女は舞台に上がるに相応しい。
 あの星海 未時がこちらの世界に完全に踏み込むのを躊躇ってしまうまでに、彼女の存在というのは特別足り得るモノだ。
 見届けなければなるまい。
 彼女達がどのような結末に手を伸ばすのか。
「では、伺いましょう」
 それはきっと自分に極上の娯楽を提供してくれるに違いない。
「貴方の用事というのをね」
 その為なら多少の労力の提供等安いものだ。
 ルールは守る為に存在する。
 しかし、同時に破る為にも存在している。
 どちらを選ぶのが正しいのかはケースバイケース。
 その時が今この瞬間。
 果たして彼の魔術師が選ぶのは――


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