count 334,800 〜 Nightmare 〜



 今宵の月はなかなかに良い色をしていると思う。こうこうと怪しく、淡く輝いていて、実に自分好みの色をしていた。強いて注文を付けるとすれば、それが満月ではないという事くらいだ。まだ月が満ちるまでは数日を要するだろう。おそらくは……そう、大晦日辺りがその頃合いとなるだろうか。自分の予定と照らし合わせてみると、それはそれでまた乙なモノがあるので良しとする。思わず頬が弛むのも仕方のないことだ。
 夜闇の見通せる窓ガラスに映るそんな自分の顔を確認し、それがどうにか見目相応のものになっている事に安堵する。いくら人目が無いとはいえ、それで気を緩める事は出来ない。この世界には壁に耳あり障子に目ありという諺があるくらいなのだ。気を付けるに超した事はない。
 もっとも今自分がいるこの場所に壁はいくらでもあるが、障子等は確実に一枚もないのだけれど。
「でも、それはあくまでもこっちの世界の話だし、君やボクには関係のない話か。それこそそんな考え方をしているようじゃ君ほど長く在り続ける事は不可能だ」
 呟きとも取れる呼びかけは木霊して、吸い込まれていく。
 それは本来なら誰にも聞きとめられる事のないはずの囁きだが、そんな考え方は“こっちの世界”のものでしかない。
「とりあえず褒め言葉として受け取っておいて良いんでしょうね。その調子だと」
 だからボクの呟きにちゃんとした答えが返ってきたのはある意味で至極当然の事と言えた。何故と問う者はそこには存在しない。何故ならば、それこそ今ここには自分も含めて“彼等”のような者達しか存在しないのだから。
「勿論。ボクは君と違ってくだらない嘘を付くのが好きじゃないからね」
「それだと僕がとても嘘付きなように聞こえますが?」
「あれ、違ったかな?
 ボクの記憶だと君は大したペテン師だったと記憶しているんだけどね?」
「とりあえず、それも褒め言葉として受け取っておく事にしましょう」
 やや呆れたような返答は記憶している中の彼の姿と見事に重なる。それがどことなく面白い。人と戯れるのも久しぶりなら、それ以外の者と戯れるのも又久しぶりだった。どちらも非常に娯楽要素としては優れているが、やはり戯れるのなら後者か。緊張感のないようで、その背後に潜むプレッシャーはこっちの世界のモノを弄んでいてはそうそう味わえない珍味のような味わい深さがあるのだ。
「そうして貰えるとボクとしては有り難いね。久しぶりの再会がギスギスとしたものになってしまうのはどうかと思うし」
「では、そのように」
 彼のそういうところは好ましい部分だった。彼等の中にはボク達を見るや否や目の敵のように襲いかかってくる者も多いくらいなので困るのだが、それに比べれば彼はとても話が分かる方だ。ただ、話が分かるから安全だとは言えない訳で、どころか彼はそんなものとは遙かに縁遠いランクに分類されるような危険な存在だ。
「それにしても本当に久しぶりだよね。どれくらいぶりかな?
 ボクの記憶だと軽く百五十年ぶりくらい何じゃないかと思うんだけど?」
 言いながら振り返った先にはやはり自身が良く見知った彼の姿があった。
 時代錯誤という言葉を知らないんじゃないだろうかと疑いたくなるローブを身につけているのも相変わらずだ。何もかも自分が知っている彼と変わらないまま。貼り付けられた微笑の裏側にはやはり油断ならない濃密な魔力が変わらずに巣くっている。
「そんなに経っていましたか?
 どうにも長く生きすぎると時間の感覚が薄くなってしまっていけませんね」
 そんな言葉を口にしつつも、彼は油断の“ユ”の字も見せはしない。端から見れば明らかにそうとしか見えない態度ではあるのだが、それこそが彼のスタイル。逆にこちらに仕掛けてこいと言わんばかりにその身を晒すのだ。これ幸いと不意打ちを掛ければそれこそ彼の思うツボだ。彼はそれこそを手ぐすね引いてそれを待っているのだから。
「本当に。君は油断ならないよね」
「それはこちらの台詞だと言っておきましょう。貴方が私達の歴史の中にどれほどの武勲を残しているか。身に覚えがないとは言わせませんよ?」
「それを言われるとどうしようもないけど、それは君も同じ事だろう?
 君だって一体どれほどボクの同士を破り捨ててくれた事か」
 ボク等が放った言葉はどちらも皮肉であり、違う事なき真実だ。どちらの名も異質であることを常とするボク等の世界では広く知れ渡っている。
 敬意と畏怖、その両方の概念を伴って。
「まぁ、ここでそんな事を言っても始まらない。そうでしょう?」
 別に互いに今すぐここで死合たい訳ではない。彼の性格はこれでもそれなりに知っているつもりだ。お互いに娯楽思考が強いので、余程互いの目的に反した内容でない限り、共に論理と力を交える意思はないはずだ。
「エンドレスミスト、君は何故ここに?」
 エンドレスミスト。
 それが彼の論理の名だ。同時にボク達の間で簡単に通じ合う通り名でもある。その名の通り、彼の魔術論理は霧を操るモノとして構築されている。
 決して晴れる事のない永遠の霧。
 その名に偽りなく、彼の霧は彼以外の意思で絶対に晴れる事はない。故に彼の強さはその名が証明している。永遠に晴らされることのないまま。今日まで。
「いえ、特に用事という程の物はありませんよ。ただ、少しばかり懐かしい魔力を感じたものですので、顔を見に来ただけです」
 「そしたら案の定」と彼は続ける。その言葉はつまり今ボクがどういう状況にいて、何でどう楽しんでいるのかを知っているという事と同じだ事だ。それはボクとしてはあまり歓迎すべき事態ではない。何故ならそこには彼が魔術師という存在であり、ボクがそうではない存在であるからという最も大きな隔たりがあるからだ。
「それはどうも御丁寧に。付き合いもここまで来ると腐れ縁だからね。共に長く生きる身として嬉しいよ。本当に」
「僕もです。再会できて後衛ですよ、ミッシングページ」
 呼ばれたのは自分の名。
 かつて死神の書や神書等と呼ばれた曰く付きの魔導書。その存在すら知るものは彼等魔術師達の中でも多くはない。ボクはその内の一ページだ。全六百六十六ページの中の第六百六十七ページ目にあたる。存在しないはずの一ページ。故のミッシングページ。禁書の中からでさえ溢れてしまったのがボクという存在の成り立ち。
 別に悲観する事ではない。むしろソレはボク達からすれば歓迎すべき事象なのだから。
「それで?
 ボク達は今どういう立場にいるのかな?」
 それはとても重要な事だ。
「ボクとしては出来ればまだ君と遊ぶ時間は先延ばしにしておきたいんだけどね」
 その言葉は嘘ではない。
 事実、彼と論理を奏であうにはこの場所は余りよろしくない。不可能なのではなく、その為には事前の準備が足りていないのだ。最低でもボクのオモチャはどこか遠くに避難させておかないと、確実に壊れてしまう。ボクも他の同類達と同様に果てのない時を得ている身ではあるが、だからと言って時間を短く感じるわけではないのだ。むしろ余計に長く感じる事の方が多い。今回のオモチャは手に入れるのにかなりの時間を有しているので、壊されるのは感心しない。それはボクの楽しみなのだ。
「まぁまぁ。そこまで警戒しなくても大丈夫ですよ。今は、ですが」
 という事は今後にはあり得るという事か。
「それは貴方の行動次第ですよ。現状のままならば特に問題はないでしょう」
「ということは君のはアレなんだ?」
「そういう事です」
 なるほど良い趣味をしている。確かにアレなら彼が気に入るのも納得できる。それくらいに彼女は魅力的だ。ボクも現に今のオモチャがなければ手を出していたに違いない。
「ダイヤは磨くためにダイヤ自身を使うというけど、どうやらボク達のオモチャはそういう関係にあるようだね。奇跡的にも」
「ただし、それを美しく裁断するには知恵の輪を解く以上に頭を捻る必要がありますけどね」
 相変わらず嫌な性格をしている。
 それは警告に他ならなかった。
 つまり彼は手を出すのなら注意しろと言っているのだ。導火線は非常に短い。絡み合う知恵の輪を片方のみにしか触れずに解けと、そう言っている。
 面白い。
「良いよね。そういうの」
 考えるだけでゾクゾクする。
 ゲームは難しければ、難しいほど面白い。簡単に終わってしまうようなものは娯楽とは呼べない。いかにこちらの手を煩わせてくれるかという点にこそ、自分がゲームを楽しめる要素が多分に含まれているのだ。それはきっと彼も同じだろう。
「そういうの嫌いじゃないんだよね、ボク。むしろかなり好きだよ」
「それは、それは」
 そう言う彼の言葉はフェイクだ。彼から放たれる無言のプレッシャーがボクに抗い難い衝動を伝えてくる。今すぐここで彼と舞ってしまえればどれほど楽しいだろう。ボクにとって本能の赴くままに全てをぶつけ合える相手というのはそうそういるものではない。
 しかし、今はまだ我慢すべき時だ。
 衝動を抑え込むように舌で唇を湿らせ、冷静さを取り戻す。
 今はまだダメだ。
 相手は確かに極上だが、自分の手中にある果実は超一級品なのだ。言ってみればデザートとメインディッシュの違いのようなもの。ボクの感情は今その超一級品の果実を求めて止まないのだ。それに彼とはいつでも相見える事は可能だが、この一品はそういうわけにもいかない代物だ。何せとても長い時間を代償として払っているのだ。その対価はしっかり回収しなければならない。
 アレは彼との火遊びを我慢してでももぎ取る価値のある果実足り得る。
 もう一度、今度は違う意味で舌が唇を撫でる。
「何にしろ楽しめそうで何よりだよね」
「えぇ、全くです」
 お互いが求める娯楽性はきっと微妙にずれているだろう。
 だが、だからこそ面白いと思う。
 それはボクにとってきっと良いスパイスになる。その結果がどうであれ、きっとそこには最高のディナーが首を綺麗に並べて並んでいるに違いないのだ。
「じゃあ、そろそろ遊ぶのも止めにしないとね」
 月光が照らす闇の中、おもむろに虚空に手を伸ばしソレを掴み取る。
 それはちょっとしたスイッチのようなモノ。
 今までただ弄んでいたモノを動かすための、ただそれだけのボタン。

 躊躇い何てものはない――

 握りしめた拳の中で確かにソレは弾け、動き出した。
「さぁ、始めようか」
 視線の先にはもう柔らかな闇だけが残されていた。


                 Last Episode“Star in to the Blue 3rd Interval count 334,800 〜 Nightmare 〜”


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