count 396,000 〜 縋り付く希望が絶望へと変わる時 〜
思ったよりも体は重たくなっていた。背負い始めたばかりのランドセルの重さにまだ慣れず、どことなくぎこちなく歩いてしまう子供のような感じだった。
そう思いながら未時は面会時間が始まる時間ぴったりに病室のドアを引いた。
体調が体調なので、まだ寝ているのかもと思い、音を立てないように静かにそろそろと中に入る。が、入った先には先客がいた。
年の頃十歳前後の見目可愛らしい少年である。
少年はいかにも子供らしいはしゃぎようで海空のベッドに上半身を預け、足をばたばたとさせながら海空の髪に触っていた。
「おねぇちゃんの髪は綺麗だね!」
「あら、ありがとうございます。まだ小さいのにお上手ですね」
そこにはコロコロと笑う海空がいた。昨日の今日で心配していたのだが、思ったより顔色は良さそうである。昨日彼女の体内に魔力を促して、その流れを整えておいたのが功を奏したようだった。
「調子は良さそうね」
「あ、未時おはようございます」
「おはよう海空。調子はどう?」
上半身を起こしている海空に勧められるまま、備え付けのパイプ椅子に腰を下ろしながら未時は彼女の様子をもう一度つぶさに観察する。塵一つ見逃すまいと自らの力の片鱗をその眼に働かせて、視る。
「今日は昨日よりも調子が良いみたいです。さっき看護師さんに脈と体温を計ってもらったんですけど、平常に戻ってるみたいでしたし」
はにかむ海空に笑顔を返しながら視てみると昨日よりも体の調子が良いのは嘘ではないらしい。昨日視たときに暴れ狂っていた何かから猛毒のような激しさが抜けている。まだ少し歪に蠢いているように感じるが、昨日と比較すればかなり沈静化していると言えるだろう。
これには少しホッとする。まだ油断しないに超した事はないが、彼女の体調が少しでも元に戻っているのならそれが喜ばしい事に変わりはない。
「退院出来ますかって聞いてみたら、まだ油断しちゃダメだって怒られましたけどね」
「まぁ、昨日の今日だものね」
それだけ昨日の彼女の容態が深刻だったということだ。それにその要因はまだやはり彼女の中に在るのだ。いつ昨日のような状態になってもおかしくはない。
「でも、元気になっているみたいで安心したわ。これならきっとすぐに退院できるわよ」
「はい。私も病院で年を越すのはちょっと困るので、頑張りますよ?」
そういえばもう今年も終わるのかと思い出す。昨日の今日で色々陰鬱な思いばかりが巡っていたが、世間ではもうそんな時期なのだ。病室の中を見渡してみてもなるほど、確かに部屋の隅っこには来年のカレンダーらしきものが丸められて立てかけられていた。
「そうね、海空には頑張ってもらわないとね。年末も新年も色々あるんだから」
「はい。年越しそばは大事なイベントです!」
既に気分は大晦日のようだ。二人でこたつに潜り込んで、年越しそばをすするのはきっと楽しいだろう。その後には勿論一緒に初詣に行くのだ。
「ま、それはまたおいおい話すとして、」
良いながら未時は傍で話に付いてこれずきょとんとしている少年に目を向ける。
「この子はどちら様かしら?」
「もしかしてボーイフレンド?」なんてからかってみたりしながら尋ねた。
「あ、この子はですね……」
「忘れてました」と言わんばかりに慌てる海空だが、その言葉が続かない。
「えーっと、君、名前は?」
「…………」
どうやらまだ自己紹介もしていなかったようだった。
まぁ、それも仕方のない事かとも思う。何せ未時が海空を訪ねてきたのも面会時間が始まってすぐの事だったのだし。それを思えばおそらくこの少年は未時がやってくるほんの少し前に海空の病室を訪れたのだろう。
それにしても改めて見るとやはり可愛らしい少年である。ぱっと見少女に間違いかねない愛らしさだ。少し長めの髪はサラサラで、ボブカットなのが彼を余計に少女めいて見せているように思う。服装も見てみるとどこか中性的な感じである。この寒いのにハーフパンツを履いて、膝小僧が剥き出しだしなのに、チェックのセーターにモコモコしたコートを着ているのだ。まるで寒さに戦いを挑むお洒落好きな年頃の女学生の如しである。もしかしたら年の離れた姉がいて猫っ可愛がりされているのかもしれない。
「私は蒼井 海空、こっちの美人のお姉さんは星海 未時っていうのよ?」
少年が何となく話しづらそうだったからか、海空が先に自分と彼女の名前を少年に教える。それに少年は聞かれた事を思い出したかのようにゆっくりと口を開いた。
「……ミチル」
そして口から漏れたのは本当に少女のような名前だった。それもやはり可愛らしい言葉で綴られた。
「ぷくく――」
思わず、笑ってしまう。見事にツボに入った。
「む、やっぱり笑ったぁ。だから言いたくなかったのに……」
「え、あぁっ。ご、ごめんね。ほら未時も謝って、ミチル君泣いてますよ!」
「いや、あまりにも似合った名前でつい。ごめんね、ミチル――(ちゃんと言いそうになるのを堪えた)。大丈夫、きっと将来その名前に似合った美人になれるわよ」
けたけたと笑いながら未時は言う。当たり前だが、子供心には全然フォローになっていない。
「ボクは美人になんてならないもん!
将来ははぁどぼいるどで、わいるどな男になるんだもん!」
どころか未時の言葉は痛烈だったようだ。ミチルと名乗った少年は涙ぐんだ声で反論する。おそらく口にした言葉の意味は理解していないだろう。だが、彼が示す男はきっと漢字の漢と書く方の男なのだろう。
しかし、それがまた未時の笑いを誘う。
「はいはい、将来は立派な豪傑になって三国を支配して頂戴。期待してるわ」
「なんで三国志なんですか。て、ほらそうじゃなくて、未時ももっと大人になってください」
「だって私まだ子供だもーん。十八歳だもーん」
「ばーか、ばーか!
未時ちゃんのばーかっ!」
「あらミチル知らないの?
他人を馬鹿にする人がお馬鹿さんなのよ?」
「うぅ――ッ!」
「もぅ、未時いい加減にしてください。ほらミチル君も泣きやんで」
海空だけが年相応に子供二人の相手をしている。近くに置いてあったティッシュを取り、ミチルの鼻を噛ませたりと本来なら寝ていなければならないはずの人間が大忙しである。
そんな子供との戯れを経る事半時ほど、ミチルは最後に「ボクは男前になるんだっ!」と未時に宣戦布告をして逃げるように去っていった。いや、ここは大目に見て戦略的撤退と取ってあげるのが戦場での義というやつなのだろうか。
「ま、子供はあれくらい元気な方が良いわよね。無邪気で」
「私には終始、未時が苛めていたようにしか見えませんでしたけどね」
「あら、気のせいよ。ちゃんと可愛がってあげてたじゃないの」
「その言葉はとても理解に苦しみますが、まぁとりあえず良しとしましょう」
「話の分かる裁判官で助かるわぁ」
「大いに感謝してください」
「はいはい」
くすくす笑いながら交わす言葉は本当にいつも通りの楽しいモノだ。本当に、いつも通りの――
「体は――」
未時はそっと手を伸ばして、触れる。
「本当に大丈夫?
苦しくない?」
いつも通りにその髪に。
優しく、優しく。その全てを愛するように。
「もう、未時は心配性ですねぇ」
そして、その手を取って海空はやっぱり困ったように笑う。心配されるのには困るのだが、でもそれがやっぱり嬉しくて。その手の温もりに安堵して笑う。
「本当に大丈夫ですから。
まだ、完全にって感じはしないですけど、でも、本当に大丈夫ですから。私の中に何かがいる感じはするんですけど、今はちゃんと大人しくしてくれてるみたいです。だから――」
差しのばされた手を優しく握り替えして彼女は笑う。
「大丈夫ですよ?」
「本当に?」
「本当です」
「本当の本当に?」
「はい。本当の本当にです」
そんなやりとりを「子供みたいですよ?」と海空に笑われるまで未時は続けた。それでもまだ続けようとして「もぅ、いい加減にくどいですよ」と釘を刺されてようやく止める。
何となく何かの間が訪れて静寂になる。
当たり前だが、病室の中は静かだった。基本的に必要な物しか置いていないのだから当たり前だが、娯楽色に欠けているのだ。
白い白い部屋の中で未時だけが異物のように色があるように感じる。
海空だってこの部屋から見れば明らかな異物であるはずなのに、彼女はこの部屋の一部のように溶け込んでしまっていて、何だが違和感がない。
それは彼女がもつイメージがこの部屋のそれに酷似しているからなのだろうか、それとも……
何となく不安になってきて、座りっ放しだったパイプ椅子から腰を上げ、海空の隣に腰を下ろしてしまう。
二人分の重みで少しばかりベッドが軋む。
図々しく腕を絡めて、読書中だった海空の邪魔をする。そんな事をしながらやっぱり自分は子供だなぁと思う。朝来た時もそうだった。馬鹿みたいにミチルをからかったのは、それこそ海空と親しそうにしていたからだ。
つまりは嫉妬したのだ。
せっかく自分がいる傍で海空に他の誰かと仲良くされたのがちょっとだけ、ほんの少しだけ嫌だったのだ。もっと私だけを見て欲しい。他の誰かを見る余裕なんてないくらいに。
「私はまだ子供なのねぇ……」
ぽつりと口から言葉が漏れる。
「何を今更言うんですか」
ぱらりとページを捲りながら、海空は込み上げてくる笑いを堪えながら言う。
「そんな事ずっと前から知ってますよ?」
「それはそれでなんか複雑じゃない?」
「そうですか?」
ぺらりと又ページが捲られる。何となく素っ気なく見えるのかもしれないが、本を読んでいるときの彼女はいつもこんな感じである。それに素っ気ないわけではなく、ちゃんと読みながらでもその表情はころころと変わっている。
少なくとも未時にはそう映っているから良いのだ。
「私はそれも未時の良いところだと思いますよ?」
ほら、また表情が変わった。
「欠点でもありますけどね」
ま、また変わった……
「特に朝のあれはダメです。子供イジメちゃダメです」
「べ、別にあれは苛めてたわけじゃないのよ?そう、なんていうかあれよ、あれ。スキンシップ!」
「イジメちゃダメ、です!」
「ハイ……」
こういう時の海空は最強だと未時は思う。
人という存在から大きくはずれてしまった未時をこうもあっさり説き伏せてしまうとは一体何者なのだろうかと思わずにいられない。自分の思いのままにならないのは気に入らない。気に入らないはずなのになんだか彼女といるとそれも良いかなぁと思えてしまうのだ。まるで一種の魔術に掛かったよう。
気づいたら引き込まれていて、抜け出せない。抜け出したくなくなっている。
彼女の世界はとても心地良い。
そんな彼女の世界に未時はいつも甘えてしまう。今も、そんな事をしている場合ではないのに、未時の手は海空の手を放そうとしない。
が、コトンと先に首を傾けたのは海空の方だった。
「あ、すいません。何だか、眠くなってきちゃって……」
「良いのよ、寝て。海空は病人なんだから。
……きっと疲れているのよ。今日もぎりぎりまで一緒にいるから寝てて大丈夫よ」
「でも……」
それでも、寝ぼけ眼を擦りながら海空は睡魔に抵抗する。
その意図を未時はあっさりと看破してみせ、もたれ掛かっている彼女の頭に自分の頭をコツンと当てる。
「それじゃあ一緒に寝ましょうか?」
それはとても素敵な提案だった。
「実は言うと私も少し眠いのよね。だからここで少しの間だけ一緒に寝ちゃわない?
それならちっとも勿体なくないでしょう?」
海空がささやかな抵抗を見せていたのは二人でいる時間で片方だけが一人でいる事が寂しくて、勿体なかったからだ。でも、これだとそんなことは少なくともない。どちらも一緒にいられる。繋がっていられる。
その証明は今こうして繋いでいる手だけで十分だ。後は迷う彼女の背を押すだけで良かった。擽るように海空の首元に自らの髪を絡ませて言う。
「ダメかしら?」
最後の一押しはダメ押しである。
互いの事を理解しているからこそ打てる効果的な一手。これには海空も首を縦以外には振れない。
「絶対に放しちゃ嫌ですよ?」
そう言って繋いだ手をギュッと握り返すのが彼女に出来るささやかな抵抗だった。
「勿論」
前日と同じ答えを彼女に返して、未時もまたその手をギュッと握る。
先に寝息を立てたのはどちらからだったろうか。それに気づく事が困難に感じるほど、二人の呼吸は重なって繰り返されていた。
どこまでも穏やかに。
ただ、静かに。
見た目は呼吸から、視る者には二人の体を潤滑油の如く流れる魔力の流れまで全てが繋がり、重なっているのが分かる。そこでは二人の心と想いと、魔力が美しく混ざり合い、心地よく踊っている。
ただ一つ、黒い流れを除いて。
それだけがひっそりと抗うことなく蠢いてる。
だが、その蠢きをも包み込んで、未時の魔力は循環する。自分と彼女と、二人の体を交互に巡り、その流れと痛みを共有していく。
穏やかに流れる時と吐息の裏側で、彼女たちの思惑はまだその抗いを、止めない。
静かな時は夕刻まで続いた。
「ん……」
先に目を覚ましたのは未時の方だった。頬が受ける冷たい風で目が覚めたのだ。
目を向けると、少しだけ開けていた窓から冷たい夜風が窓を開け広げんばかりの勢いで入ってきている。通りで寒いはずである。
しかし、体を少しばかり震わせて未時は窓を閉めずに傍らに畳んでおいたコートを羽織るだけに止め、窓は開いたまま置いておく。
傍らでは彼女がまだ眠っている。
現実を忘れるくらいに穏やかな吐息をかしずかせ、蒼井 海空はまだ穏やかに眠っている。呼吸のリズムは絶えず未時自身の左肩を通して伝わってくる。乱れる事のないそのリズムは隣に彼女がいることの何よりの証だった。
その一方で、未時の手が感じ取るのはそれとは正反対のおぞましい感覚だった。
伝わってくるのは先が見通せないくらいに黒く、冷たい何か。
それはジクジクと気色の悪い感覚を彼女自身の魔力をインターフェイスとして伝えてくる。その鼓動は以前よりも禍々しく、遙かに凶悪に育っているように感じられた。伝わってくる痛みもまた、先日感じたような直接的な痛みとは異なっていた。
精神を害する事に特化したような、人の芯とも言うべきモノを破壊する。否、喰らうかのような今にも吐いてしまいそうな悪寒が常にまとわりついているのだ。
成長している?
それは疑問からすぐに確信へと変わる。
注意を向けてみればすぐに気づく事が出来た。
海空の中に潜む何かの鼓動に以前にはない僅かな変化が見られたのだ。それは人で言う何気ない息遣いのような、本当に些細な、変化というには余りにも小さな小さなモノだった。
だが、それは確かな成長と取って十二分に足るものだ。
じわじわとそれでいて確かにソレは先日よりもおぞましい感触を未時に感じさせていた。感じ取るだけでも胸元を胃液が逆流してきそうだった。
しかし、何で急にそれは活動を起こしたのだろうか。先日はただいたずらに、弄ぶような痛みをひたすら与え続けていただけだというのに。何かが引っ掛かっている。何か忘れている。いや、気付いていない事がある。大切なヒントであるというのに自分はそれの前を何でもないただの背景の一部として通り過ぎてしまっているようなそんな感覚。
思い出せ……。
あるはずだ決定的に見逃してはならない何かが。
自分が冷静でない光景を思い浮かべてはスライドショーの様に次から次へと切り替えていく。
そして、未時はその中で微妙な躓きを発見する。
ただし、それは答えではない。あくまでも小さな小さなヒントの一つに過ぎない欠片のようなものだった。
だが、それは小さくとも十分に大きなヒントたり得た。確認する術はある。必要なのは他でもない自分自身の力。
集中する。
隣で規則的な呼吸を繰り返す海空のリズムに自らの呼吸を重ねる。徐々に意識を希薄にしていく。消えるのではなく、自分自身の中に深く潜っていくようなイメージ。
いつしか自分の周りから音が消えていた。
世界の存在が稀薄なモノへと変質していく。
続いて世界から色が消えた。
周囲の風景がモノクロで厚みのない線だけの世界へと変わる。幾重にも交わる無数の格子に囲まれた世界の中心で未時はその存在を明確に意識する。
無意識に意識する。
それは存在へのリンク。
自分という存在の枠を取り払い、彼女という存在の殻と同化する。
私は彼女。
彼女は私。
私が彼女で、彼女が私。
どちらも私。
どちらも彼女。
星海 未時は蒼井海空に、蒼井 海空は星海 未時に。
世界における二という存在の意味を上書きする。それは二でありながらにして、一つの個。全ての存在の中心に二という存在は入り得ない。
そこには私達という個だけが存在する。
そしてその中心の中で未時は見つける。
黒くて深い、深淵のようでありながらも卑しく脈打つその闇を。
対峙する。
視線が絡み合う。
知っている。
まだ知らない。
もう気付いている。
まだ気付いていない。
ソレは蠢きながら妖しく、静かに息を殺してこちらを舐め回すように見つめている。覗いている。観察しているのだ。ソレは。
誰を?
私達を――
それを知って未時はハッとなる。今まで切り離していた世界が復元され、いつの間にか自分の口からヒューヒューと小さな風切りがなっている事にようやく気付いた。
そして、知った。
何故、ソレが変質してしまったのかを。
それは苦し紛れに手を伸ばしてしまったエデンの産物。希望と見せかけた絶望という名のペテン。破滅への標だった。
それは喰らっている。
海空の存在ではなく、彼女の生命を守るために流された未時の魔力を。
その結果、海空の中に巣くう何かは着実な変化を持って活動を始めてしまった。未時自身の取った行動がその災悪を呼び込んでしまったのだ。
しかし、そこに至るまでにあった分岐した道の先も似たようなモノだったのだろう。
もし、未時があのまま何もしなければきっと海空の命はもう事切れてしまっていたに違いない。それほどまでにあの痛みは耐え難い拷問だった。耐え続けるくらいならいっそのこと消えてしまった方が楽になれたに違いないモノだ。
つまり、どちらも破滅への頂に続いていた事に変わりなかったのだ。
だからといって未時には破滅へと移り変わっていく光景を第三者として眺める事など出来るはずがなかった。蒼井 海空という存在は未時にとってそんな小さな存在ではない。
そのむしろ逆。彼女こそ、今の未時がこの世界に留まっている理由以外の何物でもないのだ。彼女がいるからこそ、未時はまだこの世界に留まっていられる。いたいと思う。
彼女がいない世界など、もう未時には必要ない。欲しくもない世界になってしまっていた。
そんな自らの命と同等以上の存在の危機を前にして、何もせずに黙ってみていろなどという言葉は暴力以外の何だというのか。
少なくとも未時にとってそれは苦痛以上の絶望に他ならない。今でも苦しそうに喘ぐ海空の顔はあの時共有した苦痛と共に甦る。
それを知ってなお、何もせずに見守る事なんて、未時には出来ないし、したくもない。
そんな事をするために自分はここにいるのではないのだ。
この手は彼女の温もりを感じるためにあって、この眼や耳は彼女の姿を眺め、声を聞く為のモノなのだ。決して彼女が苦しむ姿や声を聞くためにあるのではない。
救いたい――
自分の全てを引き替えにしても良い。それで彼女が救われるのなら、またいつものように笑ってくれるのであれば、未時は喜んで自分の全てを差し出そう。
しかし、未時にはその何かを差し出す事すら許されない。
全ての行動が彼女を救うための道筋には至らない。それどころかその道さえも、今の未時の眼には映らない。届かない。
耐え難い焦燥感ばかりが募っていく。
どうすれば良い?
私は――星海 未時という存在はこの状況で一体何をすれば良いのだろう?
日はいつの間にか落ちていた。
すっかり冷たくなってしまった体に追い打ちをかけるように絶対零度の夜気が刺すような冷たさで肌を撫でていく。
そんな冷たさでさえ、今の未時には鈍重にしか感じられなかった。
少しだけ開いた窓の隙間から月が覗いている。
しかし、その周囲にいつもなら寄り添っているはずの星はなかった。
空が黒い。
まるで周囲の星を飲み込んでしまったのかと思ったほどに、黒い。深くて、禍々しくて、どこか邪悪な空だった。
それは先刻対峙したばかりのアレと似ているような気がする。
飲み込まれた星と、飲み込んだ黒い空と。その関係は今の自分に鬱陶しいくらいにぴったりと当て嵌まっているように思う。
では――
その中に浮かんだままのあの月は一体何なのだろうか。
闇の中にぽっかりと浮かぶ月は闇に捕らわれているようにも、自分だけは闇に捕らわれずに悠々と泳いでいるようにも見える。
それは一体何を意味するのだろう。
分からない。
今は。
分かる時が訪れるのだろうか。
いつか……
ただ、そこにもきっと意味はあるのだろうと思った。
そう思いたかった。
そうでも思わなければ、今も隣で穏やかに吐息を漏らす彼女の温もりと重みをとてもではないけれど、支え切れそうになかったから……
結局、未時の体には何かが抜け落ちた代わりに鉛のような怠さを伴った疲労がどっしりと残ってしまっていた。海空の体に大量の魔力を置き去りにしてきたからだ。いつになく疲労してしまっている自分に辟易としながら、未時はゆっくりと病院のエントランスを後にしている。
苦しませたくない。
しかし、その為には海空の体に自分の魔力を流し込みアレに餌を与える必要がある。それでも未時が今朝感じた様な精神的悪寒は残るが、耐えられない程ではない。一日中ひたすらあの拷問じみた痛みに苦しみ続けるよりは遙かにマシだと、煮え湯を飲みながら未時は決断したのである。
だが、勿論それは根本的な原因を排除したことにはならない。むしろ現状を何とか堪え忍んでいるだけで、最悪の事態をぎりぎりのところで避けているだけだし、リスクも増える一方だろう。このままでは遠からず最悪の事態を招いてしまう事は避けられない。
それが分かっていても、未時はまだ何も出来ない。何も出来ずにこうしてアレに餌を与え続けているのだ。
「ッ――」
道すがらある塀に拳を叩き付ける。
痛い。
でも、足りない。
更に強く叩き付ける。
もっと、もっと――
削り、擦るように自分の手を何度も何度も叩き付けた。
数回で未時の手からは幾筋もの紅が零れ出す。
だから、何だ。
それを無視して彼女はその意味のない自傷行為を繰り返した。
それで何かが得られるわけではない。そんな事は自分でも分かっているのだ。
でも、それでも止められなかった。
どうすれば良いのか分からない。
それを知るための手段が自分には用意されていない。
彼はこの自分の光景ですらエンターテイメントの一環として眺めているのだろうか。きっと眺めているのだろう。彼はそういう存在だ。そうある事を自分の存在として組み込んでいるのだ。
仮に未時が今ここで力の限り彼に呼びかけたとしても、きっと彼はそれを平気で無視するだろう。それでころか自分への興味を失ってしまい、これ以上こちらに干渉してくる事さえ無くなってしまう可能性の方が限りなく高い。
それは避けねければならなかった。
自分の為ではなく、彼女のために。
彼はこの状況を打破するための唯一の手がかりを持っている可能性がある人物なのだ。それを自分のくだらない行為で無下にする訳にはいかない。
何かを変えなければならない。
その何かは分からないけれど。
変えなければならないのだ。
しかし、その何かを自分で招く事が出来ないのがとても苛立たしかった。
血まみれになった自分の手をもう一度叩き付ける。紅く染まっていく自分の手がソレにあたるとは思えない。
それでもまだ叩き付けてやろうかと思う。思い、手を今までで一番高く振り上げたところで手が止まった。
脳裏に彼女の顔が浮かんだのだ。
蒼井 海空。
白くて、柔らかくて、温かい。
とてもとても大切な彼女の顔が。
こんな事をした事が彼女に知れたらと思った。きっと彼女は泣くだろう。そうする事に至った経緯まで聞いたらきっと怒るだろう。「未時は悪くないんですから」と困った顔で言って、その綺麗な顔できっと涙をぽろぽろと零すのだ。
ここまでやっておいて今更な気もしないでもないけれど、何となくそうすることを止めた。ジクジクと痛む手の感触だけが続いている。
少し先にバス停が見えた。家に帰るためにはそこからバスに乗るのが一番早い。現に未時も今朝病院を訪れるのに利用している。
けれど、未時はそれを選択から外した。
そもそもこんな手でバスに乗っては周囲の視線が鬱陶しい。それにそうする気分でもなかった。もう少し歩こうと思った。それで今のこの気分はきっと晴れないし、何も解決しないだろうけれど、それでも未時は歩こうと思った。
今の自分にはそうするのがきっと一番良い。
本当は早く帰って、少しでも体を休める必要がある。それくらいには未時の体は消耗している。
分かっていながら未時は停留所の前を通り過ぎた。振り返った向こうからはバスが丁度やって来ていた。バスの運転手と視線が絡んだ気がする。バスの運転手はおそらくこちらには気付いているだろう。乗るのだろうと思われたのかバスの速度が落ちる。
それを未時はバス停に背を向ける事で無視した。
彼女が取った行動はある意味で自傷行為だった。
でも、そのバスに乗る事を未時の意志は怠惰だと決めた。向かい合う必要があるんだと思ったのだ。自分のこの虚無感と。何も出来ない自分の無力さを今まで以上に見つめる必要がある気がした。
そうする事でまた明日、彼女の顔をちゃんと見れるんじゃないかなと思えたから。
それはとても苦しい。
でも、だから選ぼうと思う。
今、一番苦しいのは自分出はない事が分かっているから。
底無しの泥沼に自分から足を進めているのを理解しながらも、未時はまた一歩、歩みを進めた。どれだけ自分が傷ついても、きっと彼女だけは助けるんだと、手段も見えない無謀な誓いだけを胸に抱いて、また一歩彼女は足を前に出す。
ゆらゆらと朧気に歩く未時の影を、市営のバスが勢いよくスピードを上げて通り過ぎていった。
夜の闇は、まだ深まっていくようだった……
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