count 517,200 〜 Stand by 〜
深夜と言えど、街を喰らう闇はそれほど深くはない。近年でそんな表現が通じるような場所はよほどの田舎町くらいである。
少なくとも彼が今此処にいて眺める限りでは、この街並みは闇と呼ぶには値しない。
いくつものネオンがぽつぽつと輝き、車のライトは忙しなく夜の中を行き来している。本当の闇とはそれさえも飲み込んでしまえるのだから。
そんな光景を眺めながら、彼は淡々と呟いた。
「……やれやれ」
それはこの眼前に広がる面白くも何ともない光景に向けて呟かれたモノではない。
既にそんなモノへの興味はとうの昔に捨ててきている。漏らされた嘆息は観測対象の彼女の行動によってもたらされたモノである。
「本当に……」
言いつつ、彼は今自分の目に映っている闇とは呼べない夜のように薄く笑う。
「僕が今ここにいなかったら大惨事ですね」
そういう彼の手元には遠くから届くネオンの光を受けてキラキラと色付く無数の何かが浮いていた。
いや漂っていたという表現の方が近かった。
それらはてんでバラバラに、彼の手元を泳いでいたからだ。動き方に規則性があるわけでもなく、それでいて同じように動くわけでもない。
ゆらゆらと、ふらふらと。
それらは不規則に、ただ漂っていた。
だが、それは彼の手元のみに限っての事ではない。
それは彼の周囲およそ半径十メートル程の範囲で起こっていた。
物体は彼の周辺を遊泳しているのである。
たまたまそのうちのいくつかが彼の手元に泳ぎ着いただけという事だ。
そして、物体の動きが不規則であるのと同じようにその大きさも不規則極まりなかった。
今、彼の手元にあるような飴玉程度の大きさのモノから、はたまた人の胴体程大のモノまで、その数は数えるのが億劫になるくらいに存在していた。形もまた同様で、形容するにし難い。
強いて言うなら、そう。
何かを砕いたようなイメージを受けるだろう。
もし仮にそれらの欠片を全て綺麗に集め、繋げる事が出来たのなら、それらは十メートル四方の大きさを優に超えるくらいの大きさにはなるだろう事が分かる。更につぶさにそれらの欠片を観察すればそれらの全て、一つ一つに何か靄のようなモノがまとわりついている事も、また。
しかし、それらの正体はすぐに気付く事が可能である。
何故ならば、それらの靄のようなモノは彼の足下を飲み込むようにその空間を絨毯のように覆っていたからだ。
その範囲は分かりやすくも無数の欠片の漂う空間と同じである。
つまり、その靄がその不可思議な現象を起こしているのだ。
そして、その靄とは霧であった。
薄く、薄く。
それは確かにそこに広がっていた。
その霧は闇と呼ぶには少し頼りないとはいえ、確かに夜の中で視認できるほどの存在感を持っていた。
それは明らかに異常な光景である。
その異常の根元は、彼。
嘆息を付きながら薄く笑い、時代錯誤な服装をした彼なのだ。
冷たすぎる風が彼の身に纏うローブを激しくはためかせた。
道端にいればまだそこまでの激しさを感じる事もなかったのだろうが、残念ながら彼が今立つ場所は道端ではなかった。その足下がコンクリートであるということは同じではあるのだが、そこは地上を見渡す事が出来る程に高所だった。
でなければ彼が今ここでこうしている事は無意味なモノになっていただろう。
その理由は後付の物でしかなかったが、元々の理由が興味本位というどうでもよすぎるものだっただけに、後付としてでも“事実を隠蔽する為”という理由が出来たのは喜ばしい事なのかもしれない。
とりあえず端から見ればではあるが――
もっとも、たとえ端から見たとしても、それが些細な事だという事に誰もが気付くだろう。何故なら、そこにはまず誰もが目を疑うような光景があるからだ。
それは彼の周りに漂う無数の欠片とは一線を引いてまた別の意味で、異常な光景である。
彼の周りに漂う無数の欠片を不可思議な異常と表現するならば、別なる異常は奇術的異常であると言えるだろう。
まるで全てを意のままに操るかのように振る舞う奇術師の如く、彼は夜の街並みを簡単に拝む事が出来る地上五十階建てのホテル、その中腹の壁面に悠々とほぼ垂直に立っているのだから。
その光景には異常と異様が混在していた。
高層ホテルの中腹壁面に立つ彼に、その足下のみに漂う薄い靄のような霧。更にはそれらを覆うように浮かぶ無数の欠片。
その奇術とも怪奇現象とも呼ぶべき奇蹟を起こす術を彼は所持していた。
その術の名は魔術。
人にあらざる者だけに持つ事を許され、その者にだけ理解する事が出来るであろう絶対論理によって形成された一種の奇蹟の敬称である。
彼はそれを操る存在――魔術師だ。
彼のその論理によって全ての怪奇的現象は実現する事が可能だった。
それもそれは彼にとって茶番にも満たないどころか、ほんの少し意識する事で組み上げる事が可能な小さな小さな断片の中の更なる欠片の一つ程度だ。
そんな欠片の欠片程の論理を行使して、彼は彼自身が今立つ壁面の更に上方――最上階から降り注いだ無数のガラス片を粒一つ残さず、全て自身の周囲に留めていた。
「こんな事をする為に僕はここに居るわけではないんですけどね」
呟き、視線を夜の彼方へと向けた。
即ち彼女が跳び去っていった先へと。
無茶をするものだと彼は思い、しかしすぐにそれがもう彼女にとって無茶と呼べるような行動ではない事を思い出す。
彼女は彼が今まで覗いた限りではかなりのリアリストだった。
冷静に自分と世界の距離を測り、その上で自分の行動を最善の選択で決定する節があるのだ。おそらく今はその冷静さの大部分を欠いているのだろうが、彼女が腕に抱えた少女の為に使用した思考に関しては彼の想像以上の冷静さでそれを行ったに違いない。
それは推測ではなく確信である。
そうでなくては彼女はこうも自分の存在に気付かず、更には彼の手を煩わせるような手段を選んだりはしないだろう。
今も、この後も。
「まぁ、これも料金の前払いだと取っておけば問題ないんでしょうけどね」
そう言いながら彼は彼女の気配を視線だけで追う。
どうやら視る限りでは彼女は問題なく、辿り着きたい場所に至る事が出来そうである。
後は自分がその後始末をしておけば問題はないだろう。
「……やれやれ」
嘆息しながらもその彼の言葉は少しだけ弾んでいる。
そこに込められているのは密かな期待。
これから起こるであろう事象がどの方向に転がっていくのだろうかという不謹慎な期待だ。
「とりあえずどうなろうとも面白い事になるのは確かなんでしょうね」
「少なくとも僕にとっては――」とは続けない。
決して咎められる事がないのは分かっていても、それを続ける事ははばかられた。
理由などはない。
そんなものは何となくの一言で済ませる以外にない。
そう、何となくなのだ。
「……やれやれ」
また、嘆息する。
但し、今度はそこに行動を伴って。
彼の姿はそこには無かった。
ただ、何処かへ。
彼の姿はその言葉を最後に、その周辺一帯から見渡せる場所には映っていなかった。
光景が在るべきモノへと戻っている。
何処にも気を掛けるような箇所は存在しなかった。
例えば――
そう。
彼が立っていたホテルの最上階で、つい先程巨大な窓ガラスの一つが砕け、空を舞ったのだという事が夢現であったのだと思う程に。
何処も――
Last Episode“Star in to the Blue 1st Interval count 517,200 〜 Stand by 〜”
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