count518,400 〜 世界が壊れゆく音 〜



 どれくらいそうしていたのだろう。それが分からなくなるくらいにはそうしていた。おそらくは二十分以上、三十分未満とか、それくらい。
 二人は寒空の下、胸の前で両手を組んでいた。
 空には無数に流れては去っていく流星の群れが煌めいている。
 十二月二十五日の聖夜。
 そんな日の終わりを彼女達二人は満点の星空の下で迎えようとしていた。
 星に願い事をして、祈って。大事な想いが届くようにと。
 このままずっとこうしていても良いかもしれない。
 そんな想いを胸に懐きつつ、横目で彼女を見ながら星海 未時(ほしうみ みとき)はそう思った。
 その矢先の事である。
 隣の彼女からクチュンと可愛らしい音が鳴ったのは。
「流石にずっとこのままじゃ風邪ひいちゃいそうね」
「そうみたいです」
 申し訳なさそうに答えたのは蒼井 海空(あおい みそら)だ。
 未時と海空、両名共に大いに人目を惹く魅力的な容姿をしている。
 一般的な女性と比較してそれよりも手足が長く、スラリとしたモデル体型のお手本の様な体躯をしているのが未時である。
 髪の長さは肩に触れるか触れないか程度。顔付きは可愛いと言うよりは美人と表現するのが相応しい整った顔付きで、その表情には意志の強さが明確に感じられる。一言で表現するならば気の強い美人とでも言うべきだろうか。
 一方の海空は未時とはまた違う意味でモデル体型のお手本と言えた。
 少し小柄だが、女性的なフォルムを強調する胸部。女性ならば誰もが一度は憧れたであろう見惚れるくらいに白くて美しい肌をしている。髪は長く、緩やかなウェーブを描き、腰まで届いている。顔立ちは美人と言うよりは可愛いと呼べるもので、宿る表情は誰もを安堵させるような穏やかで優しい笑みある。
 そして、海空には更に特徴的な美しさがあった。
 それは緩やかなウェーブを描いた長い髪の色だった。
 その色は一片の陰りすら映さないような白であった。
 純白である。
 年月を帯びた結果に得られる白髪の白さではなく、誰もが見惚れてしまうような美しさを携えた白だった。
 それが彼女をより一層神秘的に、穏やかに見せている。
 どちらも共に美を謳うに相応しいが、それぞれが全く別の種類のソレを携えたそんな二人である。
 未時と海空は共に通う学院がある地域でほぼ皆が皆知っているであろうくらいには有名な高級ホテルの最上階。そのスイートルームのテラスにいた。
 最上階全てが一つの部屋であるそのスイートルームを貸し切り、二人は最高級のディナーを堪能し、その後バスタイムを満喫。そして今の今まで示し合わせたかのようにクリスマスにやってきた流星群に見とれ、可愛らしくも願い事をしていたのである。
 その結果、先にお風呂に入ったのが悪かったか、どうやら海空は少し湯冷めしてしまったようだった。願い事をするにはもう十分すぎる時間が経っていた。これだけ祈ればどれだけ流れ星の旅路が急ぎ足でも、一つくらいは気紛れを起こして耳を傾けてくれている事だろう。
 自分の肌が少し冷たくなっている事でそれを実感し、改めて未時は海空に中に入る様に促す。
 すると海空は少し名残惜しそうに夜空を眺めたが、数秒流星群を目に映すと「そうですね」と言って中に入ってくれた。
 部屋の中はやはり温かい。
 暖房が効いているのだから当たり前ではあるのだが、それ以上に風がないのが有り難かった。
 未時は海空を先に数あるベッドルームの中の一つに行くように指示し、自分はテラスの入り口から数歩足を伸ばしたところにあるポットに向かい紅茶を入れる。通常よりも少し薄くし、両方のカップに多めのミルクを入れる。角砂糖の数は海空の分には一つ。自分の分には三つ。
 それをかき混ぜてしっかり混ざり合ったのを確認してから、未時は両の手にそれぞれカップを持ち、ベッドルームに向かう。
「眠れないといけないから、少し薄めにしてあるわ」
 そう言って海空にマグカップを差し出す。
「ありがとうございます」
 既にベッドに下半身を潜り込ませていた海空は笑顔でそれを受け取り、一口啜る。付いて出たのは「美味しいです」の一言と、より一層の笑顔。それを見るだけで未時の心は穏やかな気持ちで満たされる。
 自分もカップの紅茶を啜りながら、未時は海空の隣に腰を落ち着け、手を伸ばした。
 触れたのは白い髪で覆われた海空の額。
 少し温かい感じはするが、熱があるわけではないようだ。単に体が冷えただけだろう。
「温かくしておかないといけないわね」
「はい」
 ずり落ちてきたガウンを再び海空の肩に掛け直して、未時は正面の壁に掛けられた時計に目を向ける。
 アンティーク調の時計の短針はまだ十一時にも届いていなかった。楽しい時間が経つのはあっという間だとは良く言うが、今日はそうでもなかったらしい。自分の体内時計も意外と気の利いたサービスをしてくれるものだ。
 カップに残っていたミルクティーを一気に飲み干して体をベッドの布団に潜り込ませ、隣でまだちびちびとソレを啜る海空を見上げる。少し体が温まってきたのか頬が上気して、紅く染まっていた。
 そんな彼女を眺める事約数分。
 海空もようやくミルクティーを飲み終えて、未時同様ベッドに全身を沈める。
「今日は楽しかった?」
「はい。とっても」
 返ってくる答えが分かっていても、それを実際に耳にするのはやはり嬉しい事だ。現に未時はそれを聞いて良かったと改めて思っている自分を感じていた。
「あのディナーは評判通りでしたね。デザートもとっても美味しかったですし」
「そうね」
「それに飲み物のバリエーションをたくさん用意しておいてくれたのは嬉しかったです。私チャイなんて初めて飲みました」
「あれは私も初めてだったわね。思ってたよりも飲みやすくて美味しかったわね」
 潜り込んだベッドの中で話に華が咲く。話題は主に今日のディナーについて。あれが美味しかった。でももっとこうして欲しかった等のありきたりな感想から、贅沢すぎる我が儘まで話の種は次から次へと芽吹いてくる。
 途中度々海空が咳をする度に未時が眉をひそめて心配したりもしたが、その度に海空は「大げさですよ?」と言って笑いかけるという光景が続いて一時間と少し。今度の時計の針は全力疾走でもしていたかのように進んでいて、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
「もう、こんな時間なのね」
「あっという間ですね」
「確かにそうね」
 さっきまではまだこんな時間だと思っていても、気付けばあれからもう一時間以上が経過しているのだ。本当に人間が感じる時の流れとは現金なもので、同じ時の長さでもその価値はピンからキリまで果てがない。
「少し早いけど、今日はもう寝てしまいましょうか」
「まだ良いと思うんですけど……」
 駄々を捏ねたのは珍しく海空の方だった。デパートで親にお菓子をねだる子供の様に、彼女は上目遣いを未時に向けている。
 そんな自分の前でしか見せてくれない純粋な彼女が未時は好きだが、今日、この瞬間はその誘惑に手を伸ばすのをグッと堪えて、嗜める。
「ダメよ。もし、風邪でも引いたら大変だもの。今日は少し早めに寝て、体調を整えないと」
「私なら大丈夫ですよ?」
 そう言う傍からコホンと海空の口から咳が漏れる。
「ほら、やっぱりダメよ。今日は大人しく言う事を聞きなさい」
「う〜」
 コホコホと咳をしながらも今日の海空は良い粘り強さを見せてくる。そんな可愛い意地らしさに未時は苦笑せずにいられない。
「そんなに焦らなくても大丈夫よ。今日早く寝る代わりに、明日は早く起きるんだから。
 そうね、早起きして、朝日を眺めながらもう一度お風呂に入るのはどう?
 きっととっても気持ち良いと思うわよ?」
 我ながら上手い手引きだと思った。
 そしてそれは事実そうだったようで、海空の天秤ばかりは未時の方にしっかりと傾いた。
「……未時も一緒ですか?」
「勿論」
「本当ですか?」
「何だったら指切り二十回くらいやっても良いわ」
「……じゃあ、寝ます」
 ムスッと小さくほっぺを脹らませ、少し拗ねたようにしながら海空はベッドに深く潜り込んだ。
 その様子に内心笑い出すのを堪えながら未時は海空の頭を撫でてあげる。
 サラサラの髪が指の間を流れていき、それと同時に海空の目元が弧を描いていく。
「指切りはしなくても良いのかしら?」
「良いです」
 そうしてからかうつもりで口にした言葉は未時にとって不利に働いた。
「未時が寝坊したら私がしっかりと起こしてあげます。未時の弱点は既に書店に並べればベストセラー間違いなしなくらいに把握済みですから」
 海空の手がある辺りの位置の掛け布団が僅かに動いたように見えた。
 ミルクティーで温まったはずの体を何か薄ら寒いものが通り抜けていく感覚。
 既に目を瞑り、睡眠体勢に入っているはずの海空の口元がイヤらしく歪んだのはきっと気のせいじゃないはずである。多分。

 海空の吐息が規則的に聞こえるようになったのはそれからすぐの事だった。
 元々寝付きの良い方なのだろう。時折、身じろぎしたり、咳をしたりするものの、その寝顔は穏やかの一言に尽きる。
 しかし、未時がそんな彼女の髪を撫でると不思議と彼女は気持ちよさそうな顔をするものだから、未時としては本当に海空が眠っているのかどうかを何度も疑ってしまう。
 そんな事を繰り返す事、数回。
 海空が眠ってしまってからまだ数分しか経っていない。
 時計の針は今度は鈍重にその歩を進めていて、まだ日付を変えるに至っていなかった。
 恐ろしいくらいに静かだった。
 聞こえるのは自らの息づかいと海空の寝息。そしてカチカチと規則的に進む時計の音の三つのみである。
 何故か、未時は寝付けなかった。
 布団に潜り込んでまだ数分としか経っていなかったが、その感覚に未時は絶対を懐いていた。
 いつもは寝付きが良いにも程がある程、未時はあっさりと眠る事が出来る。今日は隣に海空がいるので、それはなおさらの事だった。彼女といるとより一層未時は眠りに付くのが早い。何故か海空といると安心して、いつもより更にあっさりと眠りに落ちるのである。
 そう、いつもなら。
 しかし、今日は違った。
 それどころか、もう既に今日きっと自分は眠れないだろうという確信が彼女の中には存在していた。どっしりと腰を落とし、そこから動く気配がしないのである。
 何かがある。
 それを未時の直感が訴えていた。
 只の気のせいとして無視する事等彼女には出来ない。
 何故なら、そこには未時自身が今まで経験してきた裏付けがある。
 そして、何よりも。
 今の未時にはそれ以上に自分の直感を信じるに足るだけの理由が確かにあった。
 世界にたゆたうヒトという存在には感知出来ない流れを彼女は視、感じ取る事が出来る。その人にあり得ざる彼女の魔術師としての本能が警告を発している。
 その警告音は今まで彼女が感じたモノの中で最も曖昧だったが、代わりに今までの中で最もけたたましく成り響いていた。
 その警告音を感じ取りつつようやく数分が経ったのである。
 時計の針はやっと日付の変化を訴えようとしていた。あと三十秒にも満たない時間である。
 その一秒、一秒がひどく長く感じられた。つい、今自分がどこにいるのかも忘れて、シワがしっかりと残るくらいにシーツを握りしめてしまった程である。
 理不尽すぎる時の流れの遅さに耐えながら、未時はその瞬間を警戒していた。来るならその時だとそう思ったのだ。
 自然と視線は正面にあったアンティーク調の時計を射抜いていた。
 そして、カチリと音を鳴らして時計の三つの針は確かに重なった。
 同時に息を呑み、周囲の気配を隈無く探った。
 それによって得られた回答は恐ろしいまでの静寂だけ。
 その静寂さえも信じられず、未時は未だ周囲への警戒を怠れない。視線を、気配を至る所へと伸ばし、決して見つからない捜し物をやっきになって探す子供のように何度も何度も世界を視た。
 しかし、やはり何かを視る事は出来なかった。
 未時がその行為に無意味さを感じられるようになったのは、零時を過ぎてから十分以上が経ってからの事である。
 そして、今までの自分の行為が本当に無駄だったという事に気付いた事も、また――
 変化はすぐ傍で既に起こっていた。
 コホンと咳をしたのである。
 彼女が。
 だが、その頻度が日付が変わる前よりも明らかにおかしかった。
 今までは多くても数分に一回の頻度だったのだ。
 それが今は断続的に起こっている。
 そして、それはすぐに更なる視覚的異常として表れた。
 海空の息が徐々に荒くなり、異常としか呼びようのない発汗。
 慌てて伸ばした未時の手は人の体温が感じられないような冷たさしか得られなかった。
「か、はっ――」
 そんな海空の苦しげな嗚咽が引き金を引いた。
 跳ね起き、海空の体に毛布を巻き付けて少しでも体を暖めるようにし、エレベータのスイッチを押しに走る。
 しかし、間の悪い事にこういう時に限ってエレベータの現在地はしっかりと一階を示す位置で点灯していた。舌打ちしながらもとりあえずボタンを叩き押し、自分の足を靴にねじ込ませて、再度海空の元へ。
 彼女の容態は数分の間に更なる悪化を見せていた。
 息遣いはかすれ、元より陶器のように白かった肌からは完全に血の気が引いている。あれだけ美しかった白い肌が明らかに青くなっているのが分かるくらいだ。再度額に宛った手にはやはり暖かさは伝わってこず、それどころか先程よりも更に体温が下がっているような感覚しか伝えてこない。
 再度、エレベータの現在位置を確認するが、まだ未時がボタンを叩いてから数十秒しか経っていない。当然、エレベータの現在位置を示す光はまだ最上階どころか、その半分にさえ届いていない。
「チッ――」
 分かっていながらも、舌打ちせずにはいられない。
 焦った未時の目に入ったのは、今日ここに来て最初に海空がはしゃいでいた巨大な一面張りの窓ガラスだった。
 エレベータを待つ時間が惜しい未時の脳裏に浮かんだのは今、この場で彼女にしか出来ないであろう妙案だった。
 悩む事に是も非もない。そこに選択の余地がなかったからだ。
 これが只の風邪と呼べるような症状なら慌てる必要もなくきっと冷静に対処しただろう。
 しかし、現実は着実に未時の精神と海空の体を蝕んでいた。
 そう。是も非も唱える必要はないのである。
 今、この瞬間。ここで止まってしまっている時間が無駄であるという事だけが事実なのだから。
 理由はそれだけで十分だった。
 同時に未時の体は動いている。
 自分の体を巡る人には決して理解出来ないであろう力の流れを強く意識して一点に集中する。余計な手加減はしない。というかそんな器用な事をする余裕は今の未時には存在しない。
 それならば確実に今、自分がやろうとしている事を成せる道を選ぶだけだ。
 目標はスナイピングライフルや、セミオート機関銃の弾丸でさえ貫通する事が不可能な巨大な合成防弾ガラス一枚。
 不可能ではない。
 むしろそれは今の彼女には容易な事だった。
 握りしめた右の拳に不可視の力が渦巻いているのを感じる。
 その不可視の力の名は魔力。
 そしてそれを操る者をこの世界の言語で魔術師と表現する。
 今、一人の魔術師がその力を振るう。魔術論理を持たない彼女の力は、まだソレと認められるモノではないにしても強大にして凶暴。
 未時の体は編集された映像のようにスムーズにしなやかに動き、大気を抉りながらその拳を放った。
 そして、巨大な防弾ガラスはまるで薄っぺらい飴細工であったかのようにあっけなく砕け、夜の闇の中に弾け飛んだ。
 入れ代わりに入ってくるのは夜気に染まった冷たい風。
 室内に入り込み、未時の髪を好きなように弄ぶ風を無視し、彼女は隣室のベッドに息を荒げながら横たわる彼女へと歩み寄る。
「ちょっとだけ我慢してね……」
 優しい声でそう囁きかけ、海空の頬にそっと触れた。
 そして、未時は海空を優しく、しっかりと抱き抱え、自身と海空の体を夜風に晒す。
 躊躇はしなかった。
 大きく息を吸い目的地を見定め、そこまでのコースを一瞬で思い描く。
 同時、一つの影が夜空へと躍り出た。


                   Last Episode“Star in to the Blue T count518,400 〜 世界が壊れゆく音 〜”


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