count475,200 〜 傷口を抉る鈍い痛み 〜
その訪問者は唐突だった。
凍えるような真冬の深夜にシルクのパジャマにガウンだけを羽織った格好でガラス張りの自動ドアに体を豪快にぶつけながらやってきたのだ。その腕に一人の少女を抱えて。
誰もがまず少女を軽々と抱えて表れた彼女の存在に疑問符を浮かべたが、そんな疑問は全て一瞬でかき消される事となる。
それだけ彼女の様相と抱えられた少女の容態が刹那を争うような深刻さを伝えていたからだ。
薄暗いリノリウムの廊下に無数の足音と緊急を訴える医師の指示が響いた。
それを彼女はただどうすることも出来ずに眺める事しか出来なかった。
何故?
どうして?
そんな事だけが思考の中で堂々巡りを繰り返している。
常人では到底不可能な無理極まりない行動手段を選んで未時は今ここにいるが、その呼吸に乱れはない。あるのは今までにかつて無い程に混乱した思考と激しく脈打つ鼓動に裏打ちされた確実な不安。
それが未時を身動き出来ないまでに縛る。
看護婦が掛けてくれたコートも彼女の肩からいつの間にか滑り落ち、床に落ちるだけの存在と化し、音も希薄になっていた。目の前で移りゆく光景もやけにスローに見えている。
自分の心臓はこんなにも速く脈打っているのにもかかわらず、何故世界の速さがそれに追いついていないのだろう。
あぁ、そうか――
悟る。
それは意味のない事なのだと。
だからこんなにも心が軋んでいるのだ。
ぎりぎり、ぎりぎりと。
ぱっくりと血に染まった傷口の奥に覗く肉に、抉るように乱雑に刃を押し込んでいくような感覚。
ようやくそれを理解して、なお未時の体は解放されない。
それでもまだ彼女の心は否定したがっていた。
“そんな事実”を、認めたくはないのだと……
星海 未時の心だけがまだ、その事実を否定し続けていた。
それ以外の彼女の全てがそれを事実として受け入れていたのにもかかわらず――
未時の体がようやく自分の思い通りに動かせるようになったのは、日が昇り朝が夜を追い払おうとする時間になってからだった。
それでも彼女の体が動くのはまだどうにかといったレベルで、何も出来なかった自分の不甲斐なさでどうにかなってしまいそうだった。
まだ、そうなっていた方が良かったのかもしれない。
そうなっていれば、まだ未時はその事実を見つめずに済んだのだから。
「お疲れのようですね」
その声は病院の出入り口にある誰もいなかったはずのタクシーのターミナルから聞こえた。
「まぁ、僕の方も結構色々大変だったんですけどね」
未時とは対照的な軽口である。
服装も又彼女とは対照的。
時代錯誤な雰囲気の夜色のローブにその下から覗くあまりにも場違いな法衣。そして、特徴と言った特徴が見られない、まさにそれこそが特徴と言わんばかりの顔に浮かぶ人を小馬鹿にしたような微笑。
そんな人物を未時は一人しか知らない。
魔術師、霧羽 総弥(きりはね そうや)である。
「何の用?」
そして、それは未時が今一番見たくも、会いたくもない人物である。
しかし、同時に会わなければならない相手でもある。
「昨夜は本当に大変でした」
未時の問い掛けに答えず、霧羽は自分の身の上を語る。
「まさか窓を突き破るとは思っていなかったので、僕があの窓の真下にいたのは幸運としか言いようがないですね。何と言っても昨日は人の世界でも代表されるイベントデイなわけで、もし、僕があそこにいなければ流石に甚大な被害が及んでいた事でしょう。
それにその後も色々駆け回ったんですよ?
後先考えずに行動するのはあまり感心しませんね。
僕が何カ所の壁面や屋根を修復したと思いますか?
全部で百三十五カ所です。それが一カ所に集中してくれているのならお手の物ですが、そういうわけにもいかなかったので、大変でした。おかげでここに来るのにこんな時間になってしまいましたよ」
それは一言で言ってしまえば愚痴である。
そして、霧羽が言った事は全て未時の後始末にあたる。
窓を破壊して飛び出したのは確かに未時だし、その後後先考えずに全力で街の至る所に破壊の爪痕を残しながら移動したのも事実である。
「それで?」
そう。確かに事実ではあるのだが、
「結局、貴男はここにそんなどうでも良い事を言いに来たのかしら?」
そんな事実、今の未時にとっては些細な事に過ぎなかった。
確かに窓の破壊はそのまま放置していれば甚大な被害を及ぼしたかもしれない。無関係の人間を巻き込んでいたのかもしれない。未時が足場に使用した際に破壊した街の至る箇所にしても、放置しておくわけにもいかないだろうし、修繕費用も莫大なものになるだろう。
だが、だから何だと言うのだろうか。
それは今、未時の目の前にある問題に比べればとても小さな事に過ぎないのだ。
誰だってそうだろう。自分の大事なモノが、何よりも大切にしている存在が、今この瞬間に危機的状況に陥っているのにいちいち他人の事まで構っている事なんて出来ないはずだ。その行いに常識の是非はあるのだろうが、それこそそんな事を今目の前にいる人物に言われるのはそれこそ畑違いというものだ。
それは未時が一番良く知っている。
何故なら彼女もまた魔術師であるのだから。
その存在の傲慢さ、利己主義的思考は十分に理解している。
だからこそ、それが未時には苛立たしい。
目の前の魔術師が大げさに嘘を付いているという事が。
彼が付いた嘘は二つある。
まず一つとして、彼が大変だったという事そのものが嘘だという事。彼の魔術師としての膨大な力を使えば、彼が行った善行と呼ぶべき所業は全て数分といった単位で行う事が可能だろう。それは今までに未時が見せつけられた彼の実力が証明している。
二つ目。
それは先ほどから未時の苛立ちにしか役立っていない彼の態度そのものだ。
大変だったのだが、ようやく駆けつけた。
そう見せようとしている態度そのものが虚偽である。
彼にそんな人のような気遣いは有り得ない。
在るのはただ、自分の欲を満たす為の行動、その一点に尽きる。
つまり、彼が今此処にいるという事はそういう事だ。
未時の体をつい先刻縛り付けたあの不安がまた彼女の心を這い回る。
霧羽 総弥という魔術師の存在が今こうして星海未時の目の前に在る。
ただ、その事実だけが未時の不安の全てを肯定している。
「言いたい事があるのなら、はっきり言いなさい」
それは虚勢だ。
未時が彼を目の前にして出来るおそらくは唯一の強がりだ。
「では、遠慮無く――」
そして、目の前の魔術師はそれを虚勢と知りながらも乗ってくる。
未時の全てを嘲笑うかのような嘲笑と共に――
「僕に何か聞きたい事はありますか?」
グンッ!
それは大気の軋んだ音だ。
その位置は一瞬前まで霧羽が存在していた座標と等しく、軋ませたのは殺意を微塵も隠すことなく放たれた一撃。
その拳に視線を向けて、霧羽は彼女の前方に変わらず存在していた。
やはり顔には薄い笑み。
何も変わらない未時を苛立たせて止まない笑みだ。
「今の私に冗談や無駄話は効果的じゃないわ。さっさと話しなさい。
必要なのは冗談や戯れ言じゃない。真実だけよ」
未時が吐き捨てた言葉は八つ当たりと同じだ。
彼は本来ならこの件に関しては全くの無関係なのだから。
更に彼は魔術師という存在である。
そんな彼がこの場に現れて、未時に意味のある“何か”を提供しようとしている事自体が既に彼という存在の普段からすれば異様。特例中の特例と言って良いだろう。
それを分かっていても未時は苛立たずにはいられない。
理解する事と感情の働きかけはまた別のモノだ。
この状況で、未時の激情とも呼べる感情は理性を遠くに置いてきてしまっている。故に彼女の言動はその感情そのものに大きく左右される。
しかし、それでこそ、彼女もまた魔術師であるという事の証明なのであるが。
朝日の裾が街を照らし始めていた。
徐々に昇ってくる日の光を受ける街中で二人の魔術師が対峙している。
この世界から弾かれるべき存在は二つ。それが本来存在し獲ない世界で他に在るべき者を弾いてこの世界の一種の始まりを迎えようとしていた。
「良いんですか?
お話ししても……」
話を切り出したのは霧羽だった。
霧羽が彼女に関わるのは常に彼の都合――彼自身の娯楽欲を満たす――によるモノばかりである。それが今のこの状況で未時にとって望むべき方向に転がる可能性は限りなく低い。むしろ絶望的であると言わざる得ない。
だが、それでも未時は聞かねばならないだろう。
大切なのは現実であり、真実だ。
たとえそれがどうしようもない絶望だとしても、それとまず向き合わなければ前に進む事は出来ないのだ。
今は少しでも手がかりが欲しい。
海空を助ける為の確かな情報が。
そして、それはきっと未時が今まだ足掻いているこの世界では得る事が出来ない。
それを分かっているからこそ、彼も今こうして出張ってきているのだろう。
少しでも彼自身が楽しめるエンターテイメントを作る為に。
霧羽の思惑に乗るのは癪以外の何物でもないが、背に腹は代えられない。
未時は渋々ながら目だけで促す。
それを霧羽はクスリと笑い、一拍を置いて語るべき事を語る。
「一言で言ってしまえば彼女の状態は深刻と言わざる得ません。それも深刻を通り越して絶望的とすら言える程に」
その言葉は未時の琴線を震わせるが、霧羽はそれに気付きつつも変わらぬトーンで先を続ける。
「言ってしまえば彼女がここにいるという事自体にほとんどメリットは存在しないでしょう。得する事と言えば身の回りの世話をして貰える事と彼女がこの世に存在しなくなってからの後処理に困らないということくらいでしょう」
ドンッ――!
その言葉と同時に病院の入り口を覆うコンクリート製の屋根を支える柱の一つが砕け散る。分かりやすくも未時の拳がその方に向けられたまま止まっている。視線だけを彼を刺し殺すように仕向けて。
「これは失礼」
変わらぬ笑みのまま、霧羽が謝罪。
その謝罪すら今の未時には苛立ちの火種である。視線だけで必要な情報のみを語る事を促し、拳を握りなおした。
「やれやれ」と溜め息を漏らしつつも霧羽はそれに同意する。
「つまり、彼女の容態は貴方達の世界の科学、医療と呼ばれるあらゆる技術では手に負えない無縁のモノです。それこそ畑違いと言っても良いでしょう」
それは決定的な言葉だった。
「要するに――」
「えぇ、今の彼女は完全にこちら側にいるという事です」
未時の言葉を霧羽が継ぐ。
「彼女は魔術に喰われています。
このままでは後数日で完全に朽ちるでしょうね」
絶望の鐘が打ち鳴らされた気分だった。
だが、それでも前に進まなければならない。
その為に今の自分の存在があるのだと、未時は頑なに思いこむ。絶望だって纏めて返却してみせるのだ。
それだけの力と可能性を自分は持っているはずだから。
「私は諦めない」
霧羽を睨み付けて宣言する。
「海空は絶対に助けてみせる」
そんな宣戦布告を眼前の魔術師は待っていたようだった。
いや、きっと待っていたに違いない。
そのストーリーこそを彼は望んでいるのだ。
「では、少しだけ良い事をお教えしましょう」
それは悪魔の囁きだ。
足掻いて、藻掻いて、絶望と踊れと嘲笑っている。
抗ってみせる。
そして、その先に勝利を――
傷口を抉るような痛みを心に伴って、未時はその囁きに耳を傾けた。
霧羽から話を聞いた後、未時はまずホテルに戻って怪訝な顔をするドアマンや支配人達を纏めて言いくるめ、二人分の荷物を持って一度帰宅する。クールダウンと海空への気遣いの為にシャワーを浴びて身なりを整え、今度は海空の家を訪れた。
海空の現状がいかに理解され難い状況とはいえ、流石に彼女の両親に知らせないわけにはいかない。
やはり心配するだろう。
人の親とはそういうもののはずだ。
自分の状況下では有り得ない、人である海空の事だからこそ未時はそう思えた。きっと彼女は心配して貰えるはずだ。未時の知る蒼井 海空という人物は誰にでも愛されるべき存在なのだから。
意外な事に未時が海空の家を訪ねたのはこれが初めての事だった。
海空が未時の家を訪れる事は幾度とあったが、逆というのは何故か今までに無かった。いつもどちらが相手を招待するというわけでもなかったので、別にそんな偶然があったというただそれだけの事ではあるのだが、それでもそうなる確率は結構な低さだろう。
そんな未時の家は誰が見ても立派だと思う程に綺麗な良く手入れされた洋館だった。
庭園には良く手入れされた薔薇がアーチを作っているし、その傍では春になれば咲き誇るだろう花々を眺めながらくつろげるお洒落なテーブルさえある。見れば誰もが少なくとも多少の憧れを懐くに違いない。海空の家はそんな家だった。
しかし、その立派な洋館を見て、未時は思う。
それだけきちんと手入れされているのにもかかわらず、生活感を全く感じられないのは何故だろうと。
そこに引っかかりを覚えつつ、未時は何故かまだ真新しく感じるチャイムをけたたましく鳴らした。
機械音は正常にそれでいてどこか虚しく響く。数秒の間を置いて落ち着いた声が反応を返してくる。
「お待たせいたしました。蒼井でございます」
「私海空さんの御学友の星海というものです。緊急の所用がございまして、海空さんの御両親に面談したいのですが」
誠意を込めつつも、それでいて緊急な用件であることが伝わるように息継ぎをせずまくし立てるように未時は一気に言葉を継いだ。
「……了承いたしました。
解錠いたしますので、お手数ですが屋敷の方までお越し下さいませ」
思考を意味する沈黙を数秒経て、未時の言葉は受理された。
システムによって門がガチャリと音を立て、未時を招き入れるために開いていく。インターホンからくぐもった声が何かを呟いていたようだが、未時にそれは届いていなかった。
彼女は門が完全に開ききる前にもう既に走り出していたのだ。
一秒でも無駄にしたくない。不作法だと分かりつつも、未時は客人をもてなす為に美しく整理された庭園の情景に目を向ける事なく、玄関へと直進する。
相手の話を無視して玄関に特攻したにもかかわらず、その扉が開かれたのは未時がドアノブに手をかけるよりも早かった。
未時を出迎えたのは年の頃二十代後半辺りくらいで、髪を後ろで纏めた女性だった。
動きやすそうなジーンズにタートルネックのセーターを着用しているが、その上から白いエプロンを付けているところから見るに彼女はきっとこの家のハウスキーパーだろう。インターホンで未時の応対したのもおそらく彼女だ。何となくだが、物静かで淡々とした対応された時と同じ雰囲気を感じる。
「ようこそおいで下さいました、星海様。いつもお嬢様がお世話になっています。かねがねお話はお嬢様よりお伺いしております」
マニュアル通りの、しかしそれでいて嫌みのない動作で彼女は体を折る。
「いえ。海空には私の方こそいつも助けてもらってばかりですから」
迎えられた未時は目礼を返しながら、答える。
「それで申し訳ないのですが、時間がないんです。海空の御両親に面会をお願いしたいのですが」
海空が未時と昨晩出かけているのはきっと彼女も知るところだろう。そして、今ここにその海空がいない。これがどれくらい急を要するかというのは彼女の対応の迅速さからするとおそらく読み取ってもらえるはずだ。
しかし、未時に返ってきたのは予想の遙か逆を行く言葉だった。
「申し訳ありませんが、その用件にはお応えできかねます。只今、旦那様、奥様、御両名共に不在でございます。そして、御両名共にどのような用件であろうとも取り次ぐなと言われております」
「それでも今すぐに彼女の御両親に連絡を付けて話をさせてください。さっきも言いましたが、緊急を要するんです。
もしかしたら海空の命に関わるかもしれないんです!」
「存じております」
食って掛かろうかという未時の感情と相反して、返ってきた言葉はぞっとするくらいに機械的だった。
「それでも取り次ぐなとの御命令でございます」
「なっ――」
その言葉の真意を未時は本気で疑った。一瞬、自分の言語理解能力がこの世界のありとあらゆるネットワークから切り離されでもしたのかと思ってしまったほどだ。
そして、何よりもその対応にどうしようもない違和感を未時は感じた。
だって、それではまるで――
未時が再び病院を訪れたのはお昼を回る少し前のこと。
その足取りは重い。
疲れていないわけではない。
だが、それは何ともないくらいの疲労だ。誰もが日常を送っていれば感じるようなたわいのない疲労と同じ。
未時の足取りを重くするのは、彼女が担ぐボストンバック。その中身を獲るまでの経緯だった。
海空の家を初めて見たあの時に未時が感じた異様なまでの違和感は、まさに彼女が胸に抱いた感想そのままだった。
即ち、生活感の欠如。
人が生活する家にはそこで生活する人間特有の雰囲気が宿るものだ。生活臭と言うやつである。
海空の家にはそれがない。
皆無というわけではない。
それは例えば今未時を出迎えたハウスキーパーが出入りしているであろう玄関から望める勝手口だとか、その彼女の背後から覗けたちょっとした食堂だとかからはそういったものが感じられる。
しかし、その他。未時が目を向けるこの屋敷の二階部分、そしてそこに至る豪奢な階段には明らかにそういったものが感じられない。よく手入れはされているようだが、そこに使われたという感覚は存在しなかった。
それはやはり異様な光景である。
確かに人はそこに住んでいるはずなのに、この屋敷からは決定的にその生活感の濃度が感じられるのだ。
つまりそれはそこに住んでいる人間がそれを完璧に持て余していることを証明する。
そして、その証明は事実としてハウスキーパーの口から静かに、それでいて冷淡に語られた。まるでいつかは誰かに語ることが初めから決められていたかのようにゆっくりと淀みない口調で。
それを受けて、未時は弱々しい冬の日差しを受ける病院を立ち塞がる壁のように見上げていた。
きっと彼女はこの事実を知られることを望まなかっただろう。
でも、未時は知ってしまった。
それは揺るがない事実。もう変えようのない事だ。
だからまずはそこから埋めていこうと思う。
二人が今までと同じでいられるように。これからも一緒に笑えるために。
大きく息を吸い、白いドアに手をかける。
その向こうにいる彼女に今自分が出来る精一杯を捧げるために。
引いたドアは少し重く、どこかにひっかかりを感じさせながら開いた。
「あら、未時」
ちょっと昼寝でもしてたかのように彼女は未時を迎えた。
いつも通りの彼女らしい対応に気を削がれたのは未時の方。釣られて微笑みながらもその口からは矢継ぎ早に海空の事を心配する言葉しか出てこない。
「起きてて大丈夫なの?どこか痛むところはない?先生はなんて?」
「大げさですよ、未時。とりあえず少し落ち着いてください」
「貴女が倒れたっていうのに落ち着けるわけないじゃない。私にとっては世界が滅亡するよりも重要な事よ。貴女だって私の立場ならそうするでしょう?」
「それは、そうですけど」
海空は苦笑しながらも納得すると、未時に椅子を勧めながら未時が持ってきた鞄に視線を向けた。
「……家に行ってくれたんですね」
「……えぇ」
「すいません、言えなくて」
海空の顔が沈痛な面持ちになる。未時に隠し事をしていた事、そしてそれを言えなかった事で自分を責めている。そんな感じだ。
「別に謝ることじゃないわ。誰にだって人に言えないことの一つや二つはあるでしょう?」
そして、それは親し過ぎる間柄であるからこそ言えなかったのだと未時は信じている。
蒼井 海空という少女はそんな子なのだ。
「でも、そうね――」
未時は生活用品一式の入ったボストンバックを備え付けのラックに置いてから、ベッドの端に腰掛け、そっと手を伸ばす。
伸ばした先にあるのは咎められる事を恐れる海空の顔。
繊細に造られた他の何にも変えられない彼女の綺麗な顔に優しく触れる。愛おしくその頬を撫でて髪を梳く。
そして不安に彩られた彼女の体をそっと抱きしめて、囁く。
「言わなくても良いけど、もっと頼ってくれた方が私は嬉しかったわ。何でも話すことと頼ることはまた別でしょう?」
「あ、――」
その一言で海空の体から緊張が抜けた。
肩が下がり、吐息が漏れる。
「そうですね。ありがとうございます」
漏らされた囁きは優しくて、甘い。
「良いのよ。これくらい、海空の為だもの。何でもないわ」
「はい」
海空の体の温もりを感じる。
この温もりを放したくない。
だから、未時は戦わなければいけない。
この理不尽な世界と。
繋がる絶望の世界と。
全ての世界を敵に回しても未時のこの意志は変わらない。
誰よりも傲慢に、誰よりも強欲に。
思うがまま自己欲に忠実に。
それこそが彼女の本質。
魔術師であるべき、彼女の――
「ほら、まだ少し疲れてるんじゃない?寝ていた方が良いわ」
「あ、はい。そうですね」
互いの温もりに名残惜しさを残しつつも、未時は海空をベッドへと押し戻す。
「そんな目を向けなくても、大丈夫よ。ちゃんと寝た後も一緒にいるから」
「本当ですか?」
海空がベッドに体を潜り込ませながら上目遣いでこちらを見やる。
「本当よ。だからそんな顔をしないで頂戴」
「その顔は反則よ?」と言いながら、未時は苦笑する。
「じゃあ、手を握っててくれますか?」
「お安いご用よ」
そっと差し出された手を握る。
優しい、その手を。
「私が寝ても手を放さないでくれますか?」
「勿論。約束するわ。ちゃんと時間ぎりぎりまで一緒にいてあげる」
「絶対、です…よ……」
一瞬で懇願が規則正しい吐息へと変わる。やはり無理していたのだろう。
それは視る事で既に知れていた事だ。だから無理にでも促す必要があった。そうしなければきっと彼女は今以上に無理をする。
海空の中には不規則な流れを持った魔力が渦巻いている。
それが彼女を苦しめる原因であり根元。
そう魔術師、霧羽 総弥は未時に告げた。
これが事実だという証拠はない。
しかし、これはきっと真実だ。
霧羽の性格上、彼がここで嘘を付くことは有り得ない。そして、未時の人ならぬ研ぎ澄まされた感性が告げている。
この魔力の流れは邪悪なモノだ、と。
魔力の流れから明らかな敵意が感じられるのだ。
それに今未時は触れようとしていた。
繋いだ海空の柔らかい手を通じて彼女の中に自分の魔力を流し込んでいく。黒く、禍々しい魔力の流れに、自分の流れを割り込ませ少しずつ同調させていく。
「っ――!
これ、は……
」
同調率が高まるに連れて、その渦の一部が未時に流れ込んでくる。
体を芯から蝕まれていくような圧倒的不快感を伴った痛みだった。ピリピリと、ジクジクと、その痛みはこの世に存在する全ての痛みを混ぜ合わせて、更にじっくりと熟成させたような残酷なモノ。
そんなモノを海空はあの時からずっと体に宿していたのか。
「くッ――ぁあッ――!」
苦痛に漏れそうになる声を下唇を噛み、耐える。
ギリッとした感触は程なくしてそこから鮮血を滴らせた。
ぽつりと服の裾に落ちたシミがジワリと広がるのを眺め、空いた手でもう片方の腕を潰さんばかりに握りしめる。
それでも未時はその手を放さない。
その手だけは変わらずに柔らかく、優しく、包み込むように握りしめる。
約束したのだ。
放さないと。
誓ったのだ。
絶対に助けてみせると。
狂おしいほどの痛みに耐えているにもかかわらず、未時の意識は驚くほどクリアになっていく。
いや、それはきっとそれほどの痛みだからこそなのだろう。耐え難いからこそ、それ以上に見据えるべきモノが見えてくるのだ。
鈍く、重い痛みを感じながら未時の意識は澄んでいく。
勝たなければならない。
大切なモノを守るために。
それは鈍い重みを伴って、この瞬間から始まった。
Last Episode“Star in to the Blue U count475,200 〜 傷口を抉る鈍い痛み 〜”
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