count 49,800 〜 無限の蒼の向こう側 〜
彼等にとって人の生という時の流れは非常に微々たる時間でしかない。
それは彼等にとって時とは限られたものではなく、限りなく無限に近いモノだからだ。
その為、少年の容姿を象ったアーティファクトがただ時が過ぎゆくのを苛立ちながら待ち続ける光景というのは非常に珍しいものだった。それだけでも一見の価値があるような気がしないでもない。
「とりあえず、少しは落ち着いたらどうですか?」
彼の口から出た言葉が心中と真逆となっているのはきっとその為だろう。
そして、それをアーティファクト自身も分かっているから、彼の精神は当然の如く逆撫でされる。
「――黙れ」
鬼すら退けそうな形相で睨んでくる少年を霧羽 総弥は実に楽しそうに眺めていた。
たった五分間の享楽ではあるが、されど五分間の悦楽でもある。
そんな霧羽の視線の意味を知っているからか、少年の姿をした道具は忌々しげに舌打ちをして、こちらには視線をくれずにボロボロになった部屋の調度品の中でベッド以外に唯一と言っていい程に無事な掛け時計を凝視する。
針の動きはとても緩やかだった。
カチコチと刻まれる規則正しい音が空間の凍結を証明している。
霧羽が約束した時間は五分。
彼が蒼井 海空に払った対価は二つ。
一つは星海 未時に彼女が綴った手紙を渡す事。
そして、もう一つは万が一の場合、少しばかりの時を稼ぐ事。
その時間がまさしくこの五分だった。運命の五分間と言っても良いだろう。
この五分で彼女が目覚めなければ彼女達の負け、目覚めればおそらくゲームはまだ続くだろう。
しかし、結果云々はともかく、霧羽が約束したのはその五分を作る事だけだった。海空自身もそれを納得した上で、彼にこの行為を約束させている。
果たしてこの時間は意味在るものになるのだろうか。
針は刻々と動いていき、あと十数秒もすれば氷は溶けてしまう。
「残り、十秒」
呻くようにミチルが呟いた。
同時に溜まったストレスを纏めて発散しようとしているのか、強大な魔力を右手に収縮させていく。
「五、四、三、二、一――」
掲げられた手からは既に魔力がこぼれ落ち、周囲の壁を溶かすまでの熱量を放っていた。
少年の顔は溢れ出る狂気に彩られ、鬼気迫る笑顔を放っている。
「――ゼロ!」
針の音が止み、氷が溶ける。
同時、病室の中心を魔力が喰らった。闇が湧き出し、一瞬の内に空間を食い潰す。魔力によって空間を圧縮して生み出された極小のブラックホールは、その場に止まっていれば、霧羽さえも容赦なく喰らっていただろう。
「あはっ!」
溜まったフラストレーションを一気に吐き出して、ミチルの顔には快活な笑顔が戻る。
しかし、そんな少年の頬を一筋の風が撫でた。
「ほぅ……」
霧羽の口から思わず感嘆の呟きが漏れた。
視線の先には彼女達がいる。
「どうやらまだ劇は続きそうですね?」
「そうね」
彼の問い掛けに彼女は凛として応える。
「まだ少しだけ続くわ」
まだ温もりが感じられる彼女の体をそっとベッドに横たえる。布団を掛けても、既に病室はボロボロで風が自由に駆け回れるような酷い惨状だったので、それだけでは寒かろうと更に自分のコートも脱いでかけてやる。これなら少しは温かくなるだろう。
それにこのコートは彼女が選んでくれた大切な一品である。これから起こるであろう出来事を考えると汚すのは頂けない。
「もぅ良い、おねぇちゃん?」
少年が壊れた笑顔を向けている。
「ボク、今までこんなに時間を長く感じたの初めてだよ。
おかげでもう殺したくて、殺したくて、殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくてコロシタクテコロシタクテコロシタクテコロシタクテコロシタクテコロシタクテコロシタクテ――」
「奇遇ね」
狂ったように唸る少年の声を遮って彼女は言う。
「私も今丁度貴方を殺したくて、壊したくてしょうがないのよ。
だから――」
言った刹那、彼女の姿は少年の眼前にあった。
「とりあえず返しておくわ」
言葉と共に拳を繰り出す。
反射的に少年は今まで通り障壁を展開してそれを阻もうとするが、そこは今まで通りとはいかない。
ミシリと確かな手応えが彼女の腕を伝う。
「――弾けろ」
呟きと共に魔力を解放。先行して頬を撫でる風に命じる。
――吹き飛ばせ!
風が吼えた。
忠実に命じられるまま、牙を剥き、ミチルを喰らおうと彼を弾き飛ばした。
「なっ――」
声がその場に止まる事もない。ミチルは彼が彼女を放り投げた横穴から追い出されていった。数秒しても破壊音が響く事が無かった為、有効打とはいかないだろうが、時間稼ぎとしては十分だろう。
「行くんですか?」
「邪魔しないでよ」
「そんな無粋な真似はしませんからご安心を。僕はここで留守番でもしてますよ」
「彼女と一緒にね」続ける霧羽を彼女は一瞥する。
「この娘に触れる事は許さない」
「なかなか難しい注文ですね」
「貴方にそれが出来ないとは言わせないわ」
霧羽の特性は既にある程度把握している。彼女の要求に彼が応える事が出来るという事は既に今把握している部分だけでも十分に判別出来る。
「別に構いませんが、対価は頂きますよ?」
「好きにすれば良い」
「ではそのように」
それで二人の間に必要なやりとりは終わる。
だから、ベッドに横たえた彼女の絹のような白髪を梳く。
「大丈夫、そんな危なくないわよ」
そして、彼女は微笑む。遊びに出かける前の子供のような無邪気な笑顔で。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわね」
そう言って星海 未時は愛する者への誓いを胸に抱き、赴く。
「今生の別れは終わったのかな?」
「必要なのは貴方でしょう?」
「ほんの五分の間に随分と生意気になったね」
「ごめんなさいね。元々なのよ」
淡々としたやり取りを暗闇の中で交わす。
しかし、それだけだ。このやりとりに大した意味はない。
語る事は何もない。
必要なモノは既に彼女の中に在る。
全てはソレが証明するだろう。
それで十分だ。
「――我が身舞うは一条の風が如く」
呟きと共に星海 未時の姿が疾駆する。
ダンッ!
同時、一足後ろで弾ける空間に、やはりミチルは手を打たずともあの一撃を打てる事を確信する。
だが、状況が変わったのはお互い様だ。
今の未時の速さはまさに風そのものだ。ミチルが衝撃を穿つ瞬間に生まれる大気の僅かな震え、魔力の流れ、その全てを先刻よりも遙かに精密な感度で察知し、コンマ単位で動きを変えて除け続ける。
互いの姿が揃った時はまだ厳かな装いを保っていたフロアがわずか数秒足らずで崩壊した。この間僅か十八秒。ミチルより放たれた手数は秒間三十にも上る。
瓦礫が崩落する間にも攻防は続く、牽制と必殺、そして妨害の一撃は次から次へと瓦礫を破壊し、標的へと殺到する。
対する未時も瓦礫を足場に縦横無尽に飛び回り、一撃も体に掠らせることなく瓦礫を蹴り飛ばし、相手を牽制する。
二人の姿は数秒足らずで階下へと降り立ち、その頃には瓦礫と呼べるような大きさの物は一変として見あたらなかった。
そこへ――
「戦場を駆けるは三条が旋」
言葉と共に疾風が舞う。
砕かれ生まれたリノリウムの粉塵が同時に撒き上がり、両者の視界を埋め尽くす。粉塵同士の擦れ合う雑音は聴覚を麻痺させ、感覚のみをその場での拠り所とする。
「甘いよ!」
雑音の中でさえ響く絶叫と同時に放たれた圧倒的力量。魔力によって生み出された真空波が粉塵ごと空間を切り裂いた。
吹き荒れるこの粉塵の中で僅かな違和感を伴った気配を片っ端から魔力の刃が襲う。
魔力の閃光が一筋走る度、病院のフロアの一画が崩れ落ち崩落音を響かせる。閃く刃は気配を断ち尽くしても止まらず、次はまだ切り裂いていない空間へと道筋を走らせる。人ならざる者にとって、気配を消すなんていうのは技術ですらない当たり前の行動だ。
だから閃光は幾筋も軌跡を重ねて走らせる。
どこに標的が潜んでいても殺せるように。
この後すぐにでも血の臭いが自分に届くように。
無数の閃光が粉塵を夜気にすっかり吸わせてしまってようやく視界が開ける。そこは既にとてもではないが病院の名を語れるような場所ではなかった。
上を見上げれば切り取ったような狭苦しい空に見下ろされ、部屋と呼べるような空間はどこにもない。申し訳程度の隔たりとそれに代わる瓦礫が無秩序に転がっている上に、どの箇所もいつ瞬きした後に違う光景へと変わるかもしれない。
だが、彼にそれを確かめてみる事は出来なかった。
一瞬の間すら待たずして、ミチルは大きく後退する。その彼の眼前に暗闇を切り裂いて深々と突き刺さる巨大な槍の一撃。
否、それは槍ではない。
暗闇の中でいてなお僅かばかりの月光を反射するそれは一本の巨大な氷柱だった。それが深々とリノリウムの床に突き刺さっていた。サイズとしてはおよそ三メートルにも届くだろうそれが目の前の地面に深々と刺さっている光景は見るべき時に見ればそれはそれでどこか幻想的かもしれない。
ただ、彼にそんな思考を行う時間は与えられなかった。
その一撃は今度は在らぬ方向から訪れた。まるで彼の言動を全て見ているかのような絶妙なタイミングで、闇の中にほんの僅かな輝きが閃く。
しかし、その一撃もミチルは飛び退いてかわす。
だが、そこにまた襲いかかる氷柱。
そのタイミングは完璧だった。ミチルの体躯はどこも地に着いておらず、完全な的だった。
それをミチルは初めての余力を費やしてかわす。
地に手を付き無理矢理方向を逸らしたのだ。
それを境にミチルの表情から今までのような余裕のある笑みが消えた。
今度は彼が踊る番だった。
降り注ぐ氷柱がほの明るく反射する月光を浴びて、少年の姿が闇に舞う。ダンスフロアは広くはない。たかだか半径数メートル程度の領域だ。
しかし、そこに彼を縫いつけるような氷柱による一撃が彼を襲う。
その数、計十柱。
その最後の一柱が深々と床へと突き刺さったその瞬間、莫大な魔力の鼓動がミチルの視線を空へと向けた。
「潰れろッ!」
振り下ろされた拳と共に叩き付けられたのは超圧縮された、風の塊。
一体どれ程の風を掻き集めればそれだけの風圧が生まれるのか、未時が振り下ろした風の鎚はミチルが何度も彼女めがけて撃ち放った一撃をいくつも束ねたような圧倒的な重さと、破壊力を孕んでいた。
魔力が衝突した瞬間に周囲にそびえ立っていた氷柱は纏めて砕け散り、欠片が視界の隅に映る事すらなく落下する。床は氷の欠片が降り立つよりも先に崩れ落ち、再度二人の姿は階下へと移動する。
「ッぁあああああああああああああああああッ!」
その中で未時が拳を振り抜いた。
ミチルが展開していた魔力障壁が砕け散る。それまで塞き止められていた風の奔流が一気に流れ出し、ミチルの全身へ殺到する。落下速度が一気に増し、まだかろうじて床として機能していたリノリウムさえも大きく陥没させる。反動で四肢が跳ね上がる事すら許さず、どんな鉱物すら遙かに凌駕するような硬度を生み出した風圧がミチルを圧殺した。
「七度洩らされるは火龍の吐息!」
その姿を見届けることなく未時の言葉が闇を照らす。
彼女の手元が紅く彩られる。
灯された火は七つ。
七つの吐息は瞬時にその形を短剣へと転じ、未時の意図を汲み取り、飛んだ。
七つの短剣は未だにミチルを圧殺している暴風の壁に容易く切り込み、少年の全身へ被爆する。爆撃は暴風の壁に阻まれ、拡散することなくその全ての熱量を彼に伝え、代わりに目も眩むような風を空へと巻き上げる。
その風に未時は乗る。
まるで木の葉のように軽やかに彼女の体は上昇気流に運ばれ、空へ昇る。少年が貼り付けにされているフロアより一つ上の階に降り立った彼女は、そうしてようやく息を吐き出す。
見下ろす先には粉塵蠢く闇がある。
その闇に無かって未時は吐き捨てる。
「いつまでも寝てないでさっさと起きなさいよ」
「いやぁ、久しぶりに感じた痛みだからつい感動しちゃってさ」
ちぐはぐな答えが闇の底から返ってくる。
「あー、痛かった。何十年ぶりかくらいに痛かったよ。本当、今日はとっても良い日だ」
「マゾヒズムにでも目覚めたのかしら?」
「残念な事にボクはサディストなんだ」
「あら奇遇ね私もなのよ」
言いながらも未時の口調は辛辣だ。彼女の視線には嫌悪と殺気しか込められていない。
対するミチルの顔には本当に愉快そうな笑顔が浮かんでいた。
そして、そこに共存する僅かな思考。
「さっきからずっと考えてたんだよね」
その思考がようやく終わりを告げる。
「目覚め立てがどうしてここまで動けるのか」
ミチルの疑問はもっともだった。
普通、覚醒したばかりの魔術師というのは今の未時程、論理を巧みに操る事は出来ない。それは手に入れたばかりの論理がもたらす膨大な魔力を操るどころか、逆に振り回される事が多いからだ。希に器用に使いこなす者もいるが、彼女のソレはミチルが感じる限りではどこか違和感がある。まるでじっくり観察しているのに、何故か相手の姿がぶれて見えるようなそんな感じだったのだ。
それは今も変わらない。
こうして言葉を交わしている今もミチルが視る彼女の姿はどこかぶれているように感じられる。
しかし、その理由に今のミチルなら心当たりがある。
「おねぇちゃん上書きしたでしょ」
「…………」
答えは返ってこないが、口に出してみるとその解答は今感じている違和感をミチルから実に綺麗に拭い取っていった。
論理の上書き。
それはある種のタブーである。
魔術師にとって個人の持つ論理とは他の何よりも代え難い重要機密にあたる。彼等は独自が構成する論理によって人に在らざる力を行使する。それが一般的に魔術と呼ばれるモノである。
魔術を行使するための魔術論理は一種の自己暗示や思い込みに近いモノがある。
例えば、命を司る色のイメージとして、一般的には水を象徴とする青が上げられるかもしれない。
だが、その一方で自然を象徴する緑をイメージとして上げる者も必ずいるだろう。
又、少しばかり神話を知る者がいれば、その象徴として火を上げ、色として赤を説く者がいる可能性も捨てきれない。
つまりこういった色に限定するだけでも、考え方は十人十色どころか万人万色といったバリエーションがあるのだ。これを魔術論理に置き換えた場合それこそ無数の組み合わせが在る事は明白である。
つまりそれだけ他人と同じ論理を抱く可能性は低いという事だ。
だからこそ、論理の上書きというのは魔術師達の間でタブーとされている。
仮に他人の、それこそ全く噛み合わないイメージを論理として植え付けられてしまった場合、それだけその論理の持つ意味合いというのは薄くなる。本人の気付かない深層心理の奥底にその論理を否定する自分がいるかもしれない。その与えられた論理が本来持つリズム通りの音色を奏でられないかもしれない。
そうなる可能性は非常に高い。
むしろそうした違和感程度ならばまだ良い方だ。
過去の魔術師達の歴史を紐解けば、その一ページには論理の上書きを行ったが故にその才を失った者、また論理の扱いを見誤り破滅した者も存在する。
それ故のタブーなのだ。
しかし、そのタブーを犯してなお立っている存在が今ミチルの眼前に在る。
それをミチルのような存在は喜劇と呼ぶ。
また、ある者はそれを悲劇と呼ぶだろう。
そして、彼女達はこの光景を奇蹟と呼ぶのだろう。
二つの魂を抱いて、より強く羽ばたける彼女達の存在はまさに奇蹟と呼ぶに相応しい。
だが――
「それを壊してこそ絶望というのは訪れると思うんだ」
ミチルの右手が闇を掴み、翻す。
その手には闇を得てこそ光り輝く大鎌があった。
「やっぱ死神といえばこれだよね」
「じゃあ私は勇者らしく剣でも振るえば良いのかしらね?」
そう言う未時の手には一枚のカードがある。
「あぁ、やっぱりおねぇちゃんの論理はそういうのなんだね」
未時の論理は上書きされてようやく獲得したものだ。その手段は強力だが、その分そこには相手に論理媒体を推測されやすいという欠点もある。
星海 未時と蒼井 海空を繋ぐ物。
それこそが未時の魔術論理を構成する物に他ならない。彼女がミチルへと施した力は風、氷、炎の三種類。そしてその形式は、術者の意志により変質させる事が可能というかなりバリエーションに優れた術式だった。
確かにその候補としてそれ以上の物は存在しないだろう。
その起源は定かではなく、歴史上最古とされるのは十五世紀前半のイタリアにて使用された娯楽の一種。後に占術に使用されるようになり、今では占術の代表的道具として知らぬ物こそ数少ない。
それは七八種のカードによって形成される紛れもなく彼女達に相応しい論理の形だった。
タロットカード。
その内の一枚が彼女の手元に浮かんでいる。
輝くカードは“ワンドのナイト”。
宿すエレメントは炎。
「我振るうは燃えさかる騎士の魂」
未時の言葉に従ってカードの力が具現する。
次の瞬間、彼女の手には一降りの大剣が納まっていた。
「なるほど、便利だね」
感嘆の声を聞き流し、未時の手にはまた一枚のカード。
“ソードの二”、司るエレメントは風。
「我が背に宿るは一対の翼」
呟きと共に彼女の体が風を纏い、疾る。
「っら!」
裂拍の気合いと共に両者の刃が交差し、星空の下で輝いた。
甲高い金属音が鳴り響き、火花と熱気が闇を払う。
両者が繰り出す斬撃は舞うように軽やかで、烈火の如く激しい。全ての動作が流れるようなリズムで繋がり、一切の動きに無駄がない。
何十何百と打ち合う中で未時の大剣が焔の残影を闇に残す。触れただけでも肌が泡立つような熱気がいつしか空間を満たしていた。両者の間に障害物等意味在るものにはならず、壁や柱、残骸も全てがバターのようにすっぱりと両断され、砕け散る。
せめぎ合う力は両者ともに譲らず、まさに五分と五分。
未時が一足で距離を埋め、大剣を上段から振り下ろす。
叩き斬るような乱雑な一撃は、しかしあっさりと少年が構える大鎌に受け止められる。
そして、少年は言う。
「良い線行ってるけどまだまだ甘いね」
巧みな技とはまさにそのことを言うのだろう。ミチルが強引に押し合っていた鎌を引いた。
あまりにも絶妙なタイミングに未時の姿勢が大きく崩れる。
そこを狙ってミチルは大鎌を振るった。
膠着状態から振るった大鎌は未時を上空へと打ち上げ、その姿を闇に縫い止める。
そこへ放たれる真空波。
近距離から放たれた一撃は斬撃を思わせるような鋭さを伴っている。
そして、ミチルの予想が正しければ、それを防ぐための手段を彼女は一つしか持っていない。
果たして未時はその通りの手段を取る。
手にした大剣を迫る真空波に向かって投擲。手から放れた大剣はそれが本来持つエレメントへと形を戻す。すなわち炎。
炎の濁流と真空波が闇の中で激突する。
茜色に染まる視界。押し寄せる肌を焦がすような熱風。
目の前に広がる光景は地獄絵図を彷彿とさせるような紅蓮。
そして、その紅蓮の中から颯爽と顔を覗かせるミチル。
「はぁッ!」
浮かぶ狂喜と共に少年が吼える。
刹那、紅蓮を切り裂いて現れる大鎌。
時が止まったようだった。
動くのは少年が振るう大鎌だけ。
咄嗟に障壁を張れただけでも上出来だっただろう。
しかし、ミチルが振るった大鎌は鋭い牙で容赦なく障壁を食い破り、未時の腹部にその牙を突き立てた。
「ぁ――」
淡く漏れた声と共に未時の姿が闇を滑る。
暗闇に鮮血が橋を架け、鈍い音を立てて落ちる。
暗闇に浮かぶ紅を眺めてミチルが満足そうに笑う。
手応えは十分だった。肉を切り裂く感触を手の中で弄ぶ。真っ二つには出来なかったようだが、この出血量なら、腹の真ん中くらいまでは割けているだろう。まだ息はあるかもしれないが、まともに動く事は叶うまい。
「上書きしたのが運の尽きだったね」
ゆったりと歩きながら少年は先達として語る。
「おねぇちゃんの論理は分かりやすすぎるよ」
ミチルの目の前で未時が論理を繰り出したのはたった数回でしかない。
しかし、その数回に彼女の論理の脆弱さが現れていた。
未時が手に入れた論理は確かに強力だ。四種のエレメントを操り、攻撃防御の両種に自在に振り分けることが出来る。
だが、協力であるが故にそのためのリスクも大きい。
「一つ目、おねぇちゃんが魔術を行使するためにはカードを出す必要がある」
つまりカードの特性を知るものが見ればある程度可能性を絞ることが出来るという事だ。これは常に超高速戦を強いられる事が多い魔術師同士の戦いでは致命的とまでは行かずとも、不利を強いられる可能性は高いだろう。
現に今こうしてミチルが饒舌になっているのがその何よりの証拠だ。
「二つ目、それは魔術の行使にスペルの詠唱が必要な事」
これにも一つ目同様のリスクがついて回る。
特に彼女の操るモノには特有の癖があるようなので相手にとっては対応しやすいだろう。
「そして三つ目、圧倒的経験値の差」
それを述べる少年の笑みは積み重ねた狂気より生まれた自信。
どんなものでも経験は貴重だ。時として感性、判断力、その全てを上回るステータスとなることも決して珍しくはない。
「つまり、奇蹟は起こりえないって事だね」
大鎌がミチルの手の中で回る。
彼が歩みを一つ進める度に、未時の影から闇に広がる染みは大きくなっていった。それを見れば見るほどミチルの顔に刻まれる笑みは深くなっていく。
まだ生きているだろうか。
それとももう死んでいるだろうか。
出来ればまだ生きていて欲しいと思う。それも今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯火のような弱々しい、しがみつくような生が良い。
そんな彼女の絶望に嘆く姿を嘲笑い、そんな彼女の脳症を抉り、ぶちまけ、死体を眺めながら彼女が愛した存在の結晶を喰らうのだ。
これほど絶望に満ち、残虐に溢れた結末があるだろうか。
いや、ない。
これぞまさに今演出できる最高の形。
ミチルの望む至高のエンディング。
「さぁ、ではフィナーレを迎えようじゃないか!
ボクの描いた理想のシナリオ通りに!」
大鎌を振り上げ、下ろす。
闇に刻々と広がっていく染みのその中心へ。
星海 未時の顔面へ――
グシャッ――
それは砕け散る音だった。
一つの命があっさりと消え去る音。
まるで早朝の水たまりに張った薄い氷を踏み砕くような小気味良い音。
快楽が全身を駆け抜ける。
愚かな運命を嘲笑う。
さぁ、あの世でせいぜい悲しむが良い。絶望に暮れるが良い。
全てに後悔せよ。
魂の随まで我が姿を刻むが良い。
愚かで、儚い存在よ――
パチッ――
しかし、異音が耳に届いた。
ミチルが振り返る事はなかった。
否、出来なかった。
全身が絶対零度に支配されたかのように動かなかった。
そこに感じる僅かな魔力の残滓。
それは他でもない彼女のモノだった。
その事に気づいた瞬間、閃光が少年の容姿を包み、爆ぜた。
闇が一瞬にして消し飛んだ。
それは作戦成功の合図だった。
手の中にカードを浮かべる。
浮かぶカードは“ソードのクイーン”。
掲げるエレメントは風。
今にも暴れ出しそうな風を生み出し、従える。力の形を瞬時に想像する。その形は長剣。王女の名に相応しい麗美で堂々たる剣の姿。
想像は一瞬、創造もまた一瞬。
一降りの麗しい長剣を携えて未時の姿が闇に踊る。
同時に再度カードを顕現。
現すカードは同じく風のエレメント“ソードの二”。
浮かぶカードを握り潰す。
淡く頬を凪ぐ風と同時に、翼が生えたかのような浮遊感と加速感。周囲の景色を全て置き去りにして彼女の姿だけが闇を駆ける。
体中で猛る力を解放する。
もう力をセーブする必要もない。
消えゆく炎の中で動くモノを関知する。一足でそこへ向かい、もう一足で視認。
炎を燻らせる少年の口元が嗤う。
その理由は高揚か快楽か。
どちらでも良い。
こっちはそれを踏みにじれば良いだけだ。
「はぁッ!」
夜に金属音が閃いていく。
その音は途切れず、続き、鳴く。
その速さは先程の比ではない。
一閃は音を置き去りにし、反射する月光さえも眩ませて走る。
そこに相まって淡い光が戦列へ加わる。
瞬時に現れる輝くカード。
剣を振るう合間、刹那の一瞬に未時の手がカードを放つ。上から振り下ろすような所作は、簡素でありながらも的確に相手の視界を斬るための軌道を取る。
が、ミチルの動作に隙が生まれる事はない。
首を一瞬傾けるだけでそれをやり過ごすと、相変わらずの狂喜を浮かべたまま鎌を振るってくる。
しかし、それで良い。
大鎌を受け止めると同時に未時は命じる。
彼女の狙い通り、真下に蹲る瓦礫の中に突き刺さったカードに。
カードが一瞬淡く輝き、溶けるように消失する。
刻まれた印は“コインの七”。
司るエレメントは土。
カードから溢れ出す魔力が瓦礫を包む。瓦礫は瞬時に取り込まれ、彼女の想像を顕現する。
瓦礫が一瞬にして生まれ変わる。強固にして頑なな鎖へと生まれ変わり、背後からミチルへと向かう。その線は七。
まさにカードが現す数と同じである。
ミチルは未時に向かって彼女の論理の脆弱さを述べて見せた。
それは確かに正解である。
但し、それが全てあっていた訳ではない。
そう彼が推測するように演じて見せただけだ。
「一番効果的に嘘を吐く方法を知っている?」
未時の一閃が大鎌を振り払う。
「それは真実と共存させる事よ」
同時、長剣の顕現を解除。右手で暴れ狂う暴風をミチルに向かって叩き付ける。
「ッ!」
ダメージを与えるには遙かに及ばない一撃。
しかし、それは時間を稼ぐには十分すぎる牽制の一撃。
暴風がミチルの動きを止めたのは一瞬でしかない。
だが、その間に瓦礫より生み出された鎖はしっかりとミチルの前進を捕らえる。
捕らえた鎖はしっかりとミチルの動きを束縛する。振りかぶった大鎌の一撃は鈍く、容易に回避出来る。
未時が大きく距離を取ったと同時に拘束を解く事に魔力を費やすミチル。
それを見逃す未時ではない。
魔力を顕現。
手元に浮かんだカードは二枚。
一つは風のエレメント“ソードのナイト”。
そして、もう一つは水のエレメント“チャリスのクイーン”。
今、一つの真実を持って、未時が二枚のカードを繰る。
暗闇に生まれたのは一条の雷だった。
闇を切り裂いて生まれ出た稲妻が蠢き、一降りの巨大な槍となる。
大戦斧、ハルバードと呼んでもおかしくないその巨大な一振りの槍を未時は大きく振りかぶり撃ち放った。
闇を光が駆け抜けた。
影法師のような軌跡を残し、稲妻がミチルを貫き破裂する。
目の眩むような閃光が闇を照らす中、未時の手の中には再度炎の大剣が握られている。彼女の身長を容易に超すようなサイズの大剣は渦巻く炎を纏い彼女の手の中にしっかりと収まっている。
「はぁあああああああああああああああッ!」
気合いの雄叫びを上げて未時が闇を掛ける。
空を蹴る一足毎に加速し、加速し、加速する。
渦巻く炎の風が未時を取り巻き、一つの弾丸として撃ち出した。
「舐めるなッ!」
ここに来てようやくミチルが声を荒げる。
魔力が溢れ、一瞬にして戒めを振り解く。砕け散った鎖が降り注ぐ中でミチルが大鎌を振りかぶる。
刹那にして、二つの影が重なる――
未時の髪が風にさらわれていく。持って行かれた髪は後ろ髪の一房だった。
散りゆく髪の背後で、真っ二つに裂け、続いて崩れ落ちていくフロア。
そして、未時の大剣はしっかりと、確実に少年の姿をした悪魔の体を貫通していた。
だが――
「まさかこれでボクを倒せるとか思ってないよね?」
体の中心を貫かれてなお、平気な顔をしてミチルは言う。
「まさか」
しかし、未時もそれに平常と返し、魔術を繰る。
ミチルが鎌を振るよりも先に炎が風となり、風は炎として少年の全身を走る。紅く輝く軌跡を彼に刻み、炎が少年を縛り、灼く。
「くぁあああああああああッ!」
絶叫を上げるミチルの恐ろしいところはそのとてつもない回復の早さだ。そんな相手を倒す為の手段はぱっと思いつく物としては二つ。常に回復力を上回るダメージを与え続け、長期戦へ持ち込むか、一撃にして相手を消滅させるかのどちらかだ。
燃えさかる火柱に全身を喰らわれるミチルを蹴り飛ばす。同時に魔力を顕現。手の中に現れたのは土くれの楔が五つ。
「はッ!」
それを瞬時に飛ばし、ミチルをその場に縫いつける。
そしてそれは次の魔術を起動させる為のキーでもある。
ミチルを中心に据えて広がる魔法陣。絡みつく無数の鎖。鎖に使用されているエレメントは土だけではない。炎、水、風と他のエレメントも全て駆使しての呪縛用結界である。
「こんなものッ!」
猛るミチルが鎖を引きちぎるが、鎖は引きちぎられても次から次へと沸き溢れ、彼を拘束し続ける。それも数が一定に保たれている訳ではなく、どころか数はひたすら増え続けていた。
ミチルの解答には大きな誤りがある。
「誤り一――」
それを今度は未時が教示する。
「私の論理において必ずしもスペルは必要な訳じゃない」
彼女の論理においてスペルの詠唱とはコントロールの簡易化と魔力消費を効率よく行う為の補助に過ぎない。大雑把に大量の魔力を消費し、イメージするだけでも同様の効果を得る事は容易に可能なのだ。
「誤り二――」
それは既に彼自身が体験している事でもある。
「私が繰るカードはかならず一枚である必要はない」
つまりカードを組み合わせる事が出来るという事だ。
それは彼女が今ミチルを拘束している結界も、その前に使用した炎の風を纏う剣と雷の槍もそうだ。特に雷の属性は水と風のエレメントを組み合わせる事で容易に再現する事が出来る。
雷とは上空に浮かぶ雨雲の中にある氷の飛礫が幾つも擦れ合って生じる静電気によって精製される。つまり氷の飛礫を風で操り静電気が起こるように操ってやれば良いだけなのだ。
特にカードにおける力の顕現はあくまでも未時の魔術論理を構築する柱でしかない。
柱が一本だけだという事がないように。彼女の論理も一本柱では勿論ない。彼女の論理はその柱の数を自ら組み合わせ、選択し、さらにその装飾までも自由に選択する事が出来るというモノだ。
そして同じ柱の構造を使用しても、外見を全く別の物にする事が可能であるように、彼女の魅せる論理の形状も彼女の思うがままに変化させる事が出来るのだ。
その用途の多様性はもはや言うまでもあるまい。
身近な例で示すのならば、トランプだ。このカードの総組み合わせ数は実に砂粒で地球を一周させた場合に七周以上させる事が出来る数だ。トランプの総枚数はジョーカーを合わせても五三枚。対するタロットカードは実に小アルカナだけでも六四枚の数があるのだ。
そして、そこに未時自身のイメージも加わるとなればその顕現手段は恐ろしい数をはじき出す事が出来る。
それこそ無限で、無尽蔵に――
「尤も、貴方がこれを覚える必要はないわ」
つまり彼女の魔術論理の特性を細部まで記憶する事は不可能なのだ。
それこそ彼女が繰る魔力を細分まで記憶し尽くし、それ以上に彼女を知らなければそんな事は出来ないだろう。
そして、そんな事が出来る人物はもうこの世に存在しない。
彼女達は一つになった。
いつまでも一緒にいられるように。
どこまでも共に飛んでいけるように。
大切なあの娘はもう自分の傍にはいないけれど、しかしずっと傍にいてくれる。
星海 未時の魂にずっと寄り添ってくれている。
だから未時は強くなる。強くなれる。
海空がそれを望んだのだ。
「貴方はただ刻めばいい」
その想いを叶え、生きていく。
「死に行く者に覚える事なんて不可能だよ」
「じゃあ貴方の本体にでも伝えればいい」
淡々と言いながら未時は気付いていた。
ミチルの魔力が彼の中でどこかに流れ込み、入り込んでいるのを。
彼は偽物ではないが、本体ではない。ミチルという存在の劣化コピーのようなものだろう。半自立型の人形という方がしっくり来るかもしれない。
いつの間にか消えている海空の結晶はきっと本体の元に送り届けられたのだろう。
それを喰らい今は此方を嘲笑っているのだろうか。それとも小気味よく笑っているのだろうか。
どちらでも良い。
大切な事は一つだけだ。
「貴方の全ては私が消す。
全ての世界の何処にいても私が滅ぼす。塵一つだって残す事は許さない」
ゾッとする程冷たい声で未時は宣誓する。
「ボクは本体じゃない。だからボクを壊したってどうにもならないよ?」
「それで?」
目の前の存在が塵一つでも在る事が許せないのに、こんな劣化コピーのような存在を残す理由になる訳がない。
「それに君みたいな生まれたての存在が本当にボクの全てを破壊出来ると思ってるの?
ボク達禁呪の集まりを!」
「出来ない訳がないじゃない」
そう思う方がどうかしている。
今の未時は魔術師である。
可能なことは可能なまま、不可能を可能に。
その世界を思うがままに。
それこそが魔術師。
それ故に手に入れた論理。
「余計な心配はしなくても良いのよ。
貴方はただ刻めば良いんだから」
「ボ――」
言葉を口走ろうとしたミチルに鎖が絡まり、遮る。
「言ったわ。
貴方はただ刻めばいいと」
絡まる鎖が一つ増える。
「ただ、刻みなさい。
我が名と我が論理を!」
未時の論理がミチルを縛る。
一つの論理を行使しただけで、すぐに解かれてしまうならそれを上回る速度で縛ればいい。多大な魔力を容易に行使するのなら、それを阻害する術式を組み、陣を敷けばいい。
全てを同時に、そして瞬時に行うことは確かに未時の論理構成上は難しい。
だが、それ自体を実行に移すのはそう難しいことではない。
術式を組む為に必要なエレメントは全て揃っているのだから。
後はそれをいかにミチルに分からないように行うかだった。
ミチルの視界を奪ったとき、一つの論理だけを行使した時、全ての僅かなタイミングを利用して、未時は一つ一つ術式を組み上げていった。
その集大成がここにある。
コインのカードを主として組み上げた魔法陣がミチルの魔術構築を大幅に阻害し、四つのエレメントによって次々と生み出される鎖は動作の制限と属性変化における魔術構築の付加増加の役割を担っている。
使用したカードの枚数は実に二十三枚。
その拘束を解くにはミチルと言えど、まだ数秒は掛かるだろう。
そして、その数秒は確実な隙として時に刻まれる。
「我は永久に果てぬ星の海を抱く者。
我が論理は深遠なる海、蒼海の空さえも越え、果てなき世界を描く」
未時の周りに光が舞う。
その光の一つ一つ、全ての欠片が彼女が繰る論理。
その数、全部で五十六。
「その名は我が愛しき蒼の名を掲げ、無限にして永久、永久にして悠久の空を広げる」
言葉に合わせて光が踊る。
全てがタロットの形を成し、違う光を生む。
「我が名は星海 未時。
貴様の全てを滅ぼす者」
光が散り、残滓となって混ざり合う。
「その汚れた魂の隅々まで、我等の名と論理を刻め!」
魔力が繋がる。
「吼えろ、我が論理!」
世界が色付く。
そして、その名を呼ぶ――
「Infinity Blue!」
それは果てなく続く蒼き海の名であり、無限に広がる空の名前。
今まで無色透明で、味気のなかった世界に星海 未時の世界が繋がる。彼女の持つパレットが世界にリンクする。
――世界が、染まる。
魔法陣を中心として空間が隔離される。
中心に位置する存在には無数の鎖が砕けては絡み付きを繰り返している。稲光のような炎が刃のように走り回り、ミチルの肌を何度も切り裂いていく。風が激流の如く激しくうねり、動きを大きく阻害する。その大気の重さは今や鉛の域にまで達しているだろう。そして水と土の楔が瓦礫や大気中から無限に精製され、生まれる度に放たれて少年の体を貫き続けていく。
空間の扉が閉じられ、世界が封鎖される。
「消え去れ」
呟きと共に魔力が一筋の光を刻む。空から振り下ろしたように、地上から星空を見上げるように、一条の光は確かに、未時の魔力によって完全隔離された空間を一瞬にして満たし、埋め尽くす。
魔力によって閉鎖された空間には音も光も届かない。
ただ、こちらから一方的に眺め、伝える事が出来るだけ。
絶叫も、苦痛に歪む声さえも既に未時には届かない。そうなるように彼女が術式を組んだのだ。
今の自分に在る全ての魔力を注ぎ込んで未時が組み上げた最高の魔術が天を突く。
空間が歪み、軋み、鳴いた。
そして、周囲の景色が光に染まる。
――音なき世界が崩壊した。
光が明けた後、そこにはただ廃墟だけがあった。
つい先日までは彼女と過ごし、人々に溢れ、様々な感情が入り交じっていた場所は、もうそんな風景を何処にも想像出来ない瓦礫と残骸だけの集合体となっていた。上を見上げればそこには満天の星空が在り、夜風が耳を掠めていく。
静かだった。
風の音だけが彼女の耳に届いている。
吐き出す息は白く、体は今にも眠ってしまいたいくらい疲労している。
そんな中で未時は空を見上げた。
どこまでも、どこまでも、果てのないように見える空を。
そんな空を眺めて、彼女は瞳を閉じて感じ取る。
胸の奥に在る温かな感覚を。
それは確かに未時が独りでは得る事が出来なかっただろう感情で、感覚で、思い出だ。
そんな想いを抱いてこれからは生きていこう。
今はもう独りではないから。
だから、もう自分は大丈夫だ。
彼女はいつだって傍にいてくれる。
だから、一緒に行けるのだ。
これは終わりではない。
「そう、始まりなのよね……」
呟いて彼女はようやく自覚する。
これからの自分は魔術師として生きていくのだ、と。
その力が此処に在る。
大切な人がくれた大切な想いが此処に眠っている。
その想いがずっと自分と一緒にいてくれる事を彼女は誇りに思う。
空をもう一度仰ぎ見る。
そこにはやはり満天の星空。
そんな星空の下で、今宵一人の魔術師が生まれた。
Last Episode“Star in to the Blue Z count 49,800 〜 無限の蒼の向こう側 〜”
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