〜 ニワトリとタマゴの話 〜



 ニワトリとタマゴの話を知っていますか?
 ニワトリとタマゴはどちらが先にこの世に存在したのかというアレなんですが……
 要約しますと、タマゴが存在する為にはニワトリが存在する必要があり、逆にニワトリが存在するためにはタマゴが必要なわけで、たとえどちらが先だとしても矛盾が生じるというある意味で至極ややこしい話です。
 そして、この話はどれだけ考えても結局行き着く先は堂々巡りにしかならず、数多の学者達によって論議された末に得られた結論でさえこじつけでしかなく、真実は未だに霧のヴェールの向こう側だという戯れ事の象徴でもあります。
 しかし、その真実に辿り着く術は至って単純である事をご存じですか?
 特に小細工を要する必要もなく、誰にでも思いつく方法で考えて頂ければ良いのですが。

 単に時を遡れば良いのです。

 時を遡り、ニワトリかタマゴか。どちらが先に誕生したのかを確かめて来ればいいだけの話です。
 おや、そんな方法有りはしないと言いますか?
 確かにそう思うのかもしれませんね。
 貴方達、“ヒト”という存在ならば。
 しかし、良く思い返してみてください。誰もその方法、技術とは言っていないんですよ。あくまでも僕が尋ねたのはその“スベ”なのですから。
 そして、その術を貴方達の世界の言語では魔術と呼ぶというわけです。
 先に結論を述べてしまうなら、誰にでも扱えるモノではないのですが、確かにその術式は存在すると言えるでしょう。その魔術師の論理がそれを魔術として捉えるのであれば、の話ですが。
 どうにも魔術師とは傲慢な存在の集まりなものでして。誰にでもおいそれと自らの尊厳と誇りの根元である論理を話したりはしないので、その真偽を確かめるのは些か難しいのですが、決して不可能ではないと言っておきましょう。
 最近ではそれなりに筋が通る場所に話が落ち着いているという話もちらほらと聞くようですが、それは僕的にどうでもいい話なので此処では語りません。
 「何故?」と尋ねる必要はありませんよね?
 何故なら、貴方達は既にその最も簡単な術の存在を知ったのですから。

 話を変えましょう。

 次はもう少し分かりやすい話をしましょう。丁度良い事に前フリとなる話題も出ている事ですしね。
 この世には人という存在と魔術師という存在が混在しています。
 そんな存在を認められないと思う人もいるのかもしれませんが、それは単に貴方が知らないだけなので、そこは自分の無知と既知たる世界の狭さを恨んで下さい。
 話を戻しますよ?
 僕が言いたいのは人と魔術師どちらが先かという事です。
 これが先の話と似たような話題の割に、我々の間では意外に盛り上がる話題なんですよ。我々の中には意外と人と魔術師との隔たりに敏感な者が多いようでして。それ以外の事には鈍感な事極まりないんですけどね。
 魔術師は人から変異して生まれるというのが専ら妥当な筋ではあると思うんですが、中には魔術師は生まれながらにして魔術師である。なんて言う人もいるんです。言うだけなら別に構わないんですが、これが又、案外無視出来ない論理だったりもするもので。
 何せ魔術師になる可能性を秘めた存在が魔術師へと成るその前提条件には自らが自らの存在を魔術師として認識する。という事が必要だという説もありますからね。
 しかし、そう考えるとそこには魔術師となるべく存在は最初から魔術師であり、本人が気付いていなかっただけで実は最初から人では有り得ないと言えるのではないかという話が出てくる訳です。
 そして、そうなってくると論点には歪みが生まれるわけですよ。
 つまり、初めて人だったモノが魔術師であった可能性は完全に否定出来ないのではないかという事です。
 原点回帰したとお思いですか?
 しかし、残念ながらこればかりは過去を遡るわけにもいかないんですよ。
 その理由もちゃんと用意されています。
 理由はそこに影響を与えてしまう可能性があるというただ一点に尽きます。
 もし、仮に始まりの存在が魔術師でなければそれはそれで何の問題もない。ただの事実の確認で終わってしまいます。
 けれども、それがもし逆の結論であった場合にはただの事実の確認で終わらない可能性が出てきてしまうからです。その理由は考察すればいくつか出てくるわけですが、その中でも常に最初に挙げられるのが、接触による発現です。
 つまり過去に移動する手段が存在したとしても、それにおける無意識的な影響で既にあるはずの結果を変えてしまうのではないかという理論が生まれるわけです。
 なので、結局はこの話もニワトリとタマゴの例に漏れず、結論だけ見れば堂々巡りで終わってしまうのです。まぁ、もっともこちらの話は先の話よりも遙かにデリケートな話題だと言えますが。
 ちなみに僕はこの話題に対して、興味はあまり沸いてきません。別にどちらでも良いとさえ思っています。
 僕にとって大事で、興味があるのは常に今、目先にある玩具でしかないんですよ。
 その存在はつまるところ今で言う“彼女”なわけですが……
 あぁ、彼女にはくれぐれも黙っておいて貰えますか?
 賢い彼女の事ですから既に知っていそうな気もしますが、改めて知られるとそれはそれで僕にとって利益が出る事はないと思いますので。
 それはともかく、もう少し僕の暇潰しにお付き合い願いましょうか。もっとも「もう、時間がない」と言われても、きっと僕は自分で勝手に話すんでしょうけどね。すいません。これで一応、僕も魔術師なものですから。
 知りませんか?
 僕達という存在はとても利己的な存在なんですよ。
 どこまでも強欲で、傲慢です。
 他人の迷惑を考える気なんてはなっから持ち合わせていないんです。
 そう見えないならそれは単にそれがその魔術師にとってどうでも良いから、とりあえず他人の考えに任せていると考えるのが妥当だと言えるでしょう。
 そんな訳で僕は話を続けます。
 別に聞いて貰えなくても、それはそれで良いとは思うんですけどね。でも、どちらかと言えば相手がいる方が張り合いがあって面白いじゃないですか。単純に気分の問題ですよ。気分の。
 さて、では続きですが。
 先に話した二つの話。似ているようで似ていないのは既にお気づきでしょうか?
 それについて語るのは僕としてはどうでも良いので、語りません。それほど重要な話でもないですからね。
 そんな、どちらも同じようで決定的な違いを持つ二つの話ではあるんですが、どちらも話題の論点は同じだという事です。
 つまり、どちらが先かということです。
 そして、それに関しては今までの二つの話題よりももっと素晴らしい論材があると僕は思っています。
 全てに通ずる論点と存在の根元が。
 それは“始まり”と“終わり”です。
 始まりがあるからこそ、終わりは来るわけですが、終わりが来なければ、始まりもまた訪れません。そして、この二つは他のどの話題と比較してみても全てに通じ、かつ根本的な話題だと言えますよね?
 もっとも、これこそ本当の意味で結論を得る事は不可能だと僕は結論付けていますけどね。
 だって、そうでしょう?
 全てが終わる場所に立ち会おうと思えば、自らの存在も終わらせねばならないですし、全ての始まりに立ち会うには自身の存在が邪魔になってしまうのですから。
 しかし、そんな始まりと終わりの連鎖が一つ。今、目の前で幕を開けようとしているんですよ。
 始まりと終わり、どちらが先かなんてどうでも良くなってしまうような、とてもとても興味深い一つの瞬間です。
 それは一つの始まりであり、一つの終わりでもある。
 おや、どうやらこの話には少し興味がお有りのようですね?
 結構、結構。貴方とはたまに顔を突き合わせるくらいの友人としてなら付き合っていけるかもしれませんね。
 さて、それではそろそろ時間も良い頃合いの用ですし、一緒に覗いていきますか?
 始まりの終わりである、終わりの始まりを。
 始める為に終わり、終える為に始めなければならい一つの物語を。





 これはとある魔術師の物語――



                   Prelude Zero Last Episode“Star in to the Blue 〜 ニワトリとタマゴの話 〜 ”


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