望む強さ



 その広場の光景は既に悲惨としか形容の仕方がないくらいに酷かった。ここだけを見てしまったらとてもではないが、この国が月神祭の真っ直中であるなんて誰も信じられないだろう。
 そんな広場を、彼女は出ようとしていた。
 祭りの喧騒が響く方へゆっくりと歩いていく。
 藍と呼ぶには少しばかり色素の薄い蒼い髪と瞳。身に付けていた濃紺の修道服は既にボロボロで全身が血化粧で彩られている。それだけでも彼女には鬼気迫るモノを感じるが、彼女の力無く下がる両の手には大地を削り鳴らす銀の刃があった。ブンディ・ダガー、ジャマダハルと呼ばれるその刃は彼女が暗殺者である事の何よりの証明だった。
 力無い腕とは対照的にその足取りはとてもしっかりしている。大地を踏みしめる足は確実に一歩一歩と先に進んでいた。
 全身に走る血化粧は激しい苦痛をロマリア=シュペルディイムに与えていた。
 しかし、それが今の彼女にはありがたい。
 そうでも無ければ彼女の心はとても耐えられなかっただろう。
 仕方の無い事とはいえ、家族と呼べる存在を手に掛けてしまったのだから。
 肉体的にはまだ動く事は全然可能だ。だが、精神もそういう訳にはいかなかった。
 彼女の精神面は肉体を遥かに上回ってボロボロである。本当はもう動きたくないほどなのだ。
 それでもまだ動こうとするのは彼女の信じる世界の為だった。
 世界という不平等な天秤をあるべき美しい姿に戻す。
 そして愛しき家族を手に掛ける事となってしまったその要因を破壊する。
 その為だけに彼女の心と体は動いている。
 背後ではドス黒い穴を大地に穿って、彼女が横たわっている。
 出来るだけ痛みを感じないように、優しく殺したつもりである。
 しかし、それでも微塵の後悔も無いのかと聞かれれば否としか答えられない。それくらい彼女を手に掛けるのは辛かった。
 だって彼女はきっとこの世で巡り会える事の出来たろう最後の家族なのだから。
 共に触れあう事が出来た最後の“霞の血族”だったから……
 だから、やはり悲しい。
 そして、そんな時に風が吹いた。
 荒々しくも優しい風。
 まるで彼女のようだとロマリアは思ってしまった。
 だから、その風はきっと彼女なのだろうとロマリアは解釈する。そう思うとそんな強風も自分を叱咤激励してくれているような気がした。
 そうだ、しっかりしなくてはいけない。
 まだ自分は世界のバランスを元に戻していないのだ。
 自分に強く活を入れる。思いを強く持ち直す為にロマリアは彼女の横たわる場所を振り返った。
 彼女に誓う為に。
 そうして、ロマリア=シュペルディイムは僅かな未練と後悔をそこに捨て置く為に、もう一度だけ後ろを振り返った。

 カミネ=ハインアートは落ち行く黄昏の中で独り、アルバムのページを捲っていた。そこに飾られる幾数ものページの多くにはやはり無名王女である彼女の姿が映っている。
 幼い頃からに出会ってからずっと一緒だった。何度も些細な事で喧嘩してはその度にニフラやレスティアに怒られ、共に泣いた。常駐の兵士に怖い話を聞かされた時には夜が怖くて眠れず、お互いの手を握り合って一緒の布団で眠った。二人でこっそり城を抜け出して城下町に遊びに行った事も数え切れないほど。月神祭であの奇跡を目にして感動し、人々の幸せそうな笑顔と共に笑い、はしゃいだ。
 全てがカミネにとって掛け替えのない素晴らしい思い出だ。
 孤りであるにも係わらず、胸の奥が温かくなるのを感じながらカミネはアルバムのページを又一つ捲った。
 そこにはやはり、まだ幼い自分と彼女の姿があった。

 幼い子供二人にとってそこは飽きの来ない遊び場だった。
 いくつもある部屋に広すぎる廊下。少し薄暗い倉庫や、埃の匂いが充満した広大な図書室。
 それこそ追い駆けっこや、隠れんぼのような遊びはやり出したらキリがなかった。時には二人で、時にはレスティアを交えて、そして時には休憩中だったメイド達を巻き込んで。
 遊んでお腹が空いたらキッチンに忍び込み、こっそりとおやつを摘み食いした。お茶の時間まで待てなくて、レスティアに何度も怒られたけどやっぱり止められなかった。
 遊びの時間だけではなく、勉強の時間も楽しかった。ヘリオルの話はとても分かりやすくて、彼は二人を色々な所に連れて行ってくれた。森の中で珍しい花が咲く場所だったり、多くの動物たちが静かに暮らす湖の畔。勿論、国の歴史や、その他諸々も含めて彼は二人に万物の知識を披露してくれた。今でも彼に頭が全く上がらないのは、きっとこの時の彼の英知に感動したからなんだろう。
 あの頃は毎日が楽しかった。
 新しい知識を得る事が出来て、隣には彼女がいる。
 それがどれだけ素晴らしい事なのか、今ならば心から強く感謝する事が出来た。
 何故なら、この時のカミネは確かに笑えるようになっていたのだから――
 それは好奇心旺盛な少女達の午後。
 日差しは柔らかく、緑の生い茂る月だった。
 その日は授業が無く、一日中遊べる日だった。午前中もずっと遊びっぱなしだったが、まだ子供な二人には関係なかった。お昼御飯を食べて昼寝をすれば元気なんてすぐ戻ってくる。
 お茶の時間まではまだ幾ばくかの時間があった。いつものお茶を楽しむテラスで待つには少し遠く、もう一度隠れんぼをするにはやはり足りないそんな時間。
 二人はそんな時間を利用して、馬小屋に行く事にした。つい先日ヘリオルに馬への接し方を習ったばかりの少女達はそれを実戦したくてしょうがなかったのである。
 ヘリオルからは二人だけでやることは止められていたが、城にいる馬は勿論訓練されたそれであるから、気性も穏やかで接しやすいだろうと踏んだのだ。
 しかし、やはり見つかれば怒られるだろうと二人の少女はコソコソと物陰に隠れながら目的地を目指した。ちょこちょこと物陰に走っては止まり、周囲を伺う様は見ている者を微笑ませる光景だった。
 そして、そんな二人の行く様は城では既にお馴染みの光景であり、暗黙の了解で見ない振りをする事になっていたので、誰もが二人の可愛いらしいスパイを見逃していた。
 そんな現実など露知らず、二人の少女は綺麗に後ろで束ねられたおそろいのポニーテールを揺らして走っていた。先行する少女の尻尾は長く艶やかな黒で、後ろを追い掛ける少女のものは深い藍の色をした短い尻尾だった。
 言うまでもなく前を行くのが幼き無名王女、後ろの藍の尻尾がカミネである。
 どちらの尻尾もいつもレスティアがしている栗色のポニーテールを真似したものだ。
 二人は誰にも咎められることなく馬小屋に到着した。どうやら今はいつも馬の管理をしているお爺ちゃん兵士もいないらしい。シンとした空気の中に馬達の鼻息がヒヒンとこだましていた。
 無名王女とカミネは顔を見合わせて頷く。打ち合わせなどしなくとも、まずは何をすれば良いかが分かっているのだ。
 程なくしてその捜し物は見つかった。
 一番端の小屋の中で二人の背丈を足しても届かないような高さを持った干し草の山。
 その数秒後の光景は、誰かが見ていればきっと笑っていたに違いなかった。可愛い尻尾を揺らしたポニーが二人、干し草を馬に差し出していたのだから。
 馬はどれも毛並みに艶のある立派な体躯をしていた。
 威風堂々といった言葉がしっくりくるような立派な名馬達だ。
 二人は迷うことなく一匹を選んで近づいていた。
 どれもが立派な毛並みで美しい馬だったが、その中でも群を抜いた輝きを持った馬である。白い毛並みは美しく、太陽の光だってほのかに弾くほどの光沢を持っている。目の光りは落ち着きの深さがあり、優しそうな気配を纏った牝馬で、皆からはケリオミネという名で呼ばれて親しまれていた。
「こんにちわ、ケリオミネ」
 そう言って小さなお姫様は馬の鼻筋をそっと撫でつける。
「こんにちわ、ケリオミネ」
 カミネもそう言って彼女の鼻筋を撫でて、その口元に先程山から引っこ抜いてきた干し草を差し出して、ご機嫌を取った。
 馬は小さく鼻を鳴らして干し草をムシャムシャと食べる。それを嬉しそうに眺めながらカミネと無名王女は少しずつ干し草を交代であげては少しずつ大胆に彼女に触っていった。
 その大胆さが顔を首筋に擦りつける程にまでエスカレートした時、無名王女が言った。
「そうだ!ケリオミネに乗せて貰おう!」
「えぇっ!」
 それはとても魅力的な提案だった。
 というのも、二人はつい先日、ヘリオルと馬達を世話する老兵士の立ち会いの下で彼女の背に跨ったからだった。ケリオミネの上から見た世界はまるで別物で、自分が巨人になったような錯覚を覚えてとても楽しかった。
 途中でレスティアがやって来て、彼女は二人の後ろに乗ってケリオミネを軽く走らせてくれた。その時の感覚は数日経った今でも鮮明に覚えている。
 まるで自分が風と友達になったかのような素敵な感覚だった。
 あの時のように風の感覚を味わえるなら是非とも味わいたいと思った。
 しかし、二人はあの日ヘリオルにこう言われている。
 「お二人はまだ幼いので決してイタズラ心でケリオミネや他の馬達にまたがったりはしませんよう、ほむほむ」と。
 ヘリオルの言葉はどんな時でも大方正しかった。たまにお遊びの嘘を付く事もあったが、こういった注意を促す時にそんなお遊びをする事は彼の場合まずあり得ない。
 だからこそカミネは、無名王女の出したその魅力的な提案への返答に渋っていた。
「でも、ヘリオルはダメって……」
 ヘリオルに怒られるだけならまだ良いが、そこに更にレスティアも加わるとなるととても嫌だ。怒ったレスティアはとても怖いのだ。それはもう思い出しただけでも……
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。だってケリオミネは優しいもん」
 「ねっ!」と、その自信はどこから来るのかと聞きたくなるくらいに不思議な自身が無名王女の笑顔には満ちている。
 そして、そう言った彼女はケリオミネの首にじゃれつきながらも既に彼女に跨ろうとしていた。
 鞍が付けられていないのにも係わらず、小さなわんぱくお姫様は器用に壁を蹴ってケリオミネに飛び乗る。衝撃にブヒンとケリオミネは鼻息を荒立てたが、まだそれだけに留まってくれた。
 早鐘を打つ心臓を撫でつけながら大きく息を吐き出した。
 もうこうなったら腹を括るしかないだろう。
 カミネは幼いながらに固く決心する。無名王女は変な所で頑固なので、ある程度進んでしまってから戻るという事をしないのである。それがまさに現状だ。
 ここまで来たらあれこれと悩むより、腹を括って、備えた方が良い。
 カミネはそう思うや否や、ケリオミネに三度干し草を与える。そして、鼻筋を優しく撫でて、落ち着かせてから体軽やかに彼女の背中に飛び乗った。これでも村にいた時は何度か馬に乗せて貰った事があるのだから、無名王女を一人で乗せるよりはマシだろう。どちらにしろ馬上は意外に揺れるので、後ろで彼女を抱えた方が良いだろうと判断したのだ。
 カミネは無名王女の腰にしっかりと腕を回すと、美しい牝馬の腹を柔らかく蹴る。
 ケリオミネはそれに合わせて低く鳴いて、ゆっくりとリズミカルに歩き出した。

 分かっていた事だが、馬上の揺れは想像していたよりも激しかった。つい数日前に彼女に跨った時よりもそれが強く感じられるのは、きっと彼女の手綱を引くヘリオルや老兵士がいないからだろう。
 カミネは既に途方もない後悔を感じていた。せめて鞍と手綱を付けてからにするべきだったと猛省している。それならまだ何とかなったかもしれないのに……
 白い毛並みの美しい牝馬に跨る少女二人。
 その構図はいかにも楽しそうに見えるが、その実態は違った。
 牝馬――ケリオミネの前に乗る無名王女ははしゃいでいるが、それは彼女が単に現状を理解していないからである。
 逆にカミネの顔色は悪かった。無名王女の腰に回す手の平は既に嫌な感じの汗でべっとりとしていた。
 その理由はただ一つ。
 今の彼女達は自分達を乗せているケリオミネを誘導する術を何一つとして持ち合わせていないのだ。
 だからケリオミネの動きは全くと言っていいほど統制が取れていなかった。まさに彼女の気の向くがままである。スピードだって勿論それに準じていて、パッカパッカと緩やかな音が響く事もあれば、そんな音を聴く余裕がないくらいの速さで動き出したりもした。
 無名王女はそれを存分に楽しんでいたようだが、カミネはもう必死だった。大事な大事なお姫様が振り落とされないように、それこそ躍起になって上体だけでバランスを取り続けていた。
 が、それは単に彼女がバランスを取るという事だけに神経を集中していたのと、何よりも運が良かったからこそだった。
 だからそんな彼女が繋ぎ止めていた精一杯は、ちょっとしたハプニングですぐに穴が空く。
 小屋にいなかった老兵士が戻ってきたのだ。
「コラッ!誰じゃッ!」
 大慌ての声が飛んできた。
 その声に含まれた怒気にカミネの体がビクリと反応する。
 ダメだ。
 怒られる。
 早く戻らなければ――
 そう焦ったのが引き金を引いた。
 刹那、ケリオミネが嘶いた。
 今まで見えていた景色が空一色に染まる。
 手綱がなかったのが致命的だった。そう理解した瞬間に少女達の体は勢い良く大地に叩き付けられた。
 幼い少女が耐えるには厳しすぎる痛みが全身を襲う。衝撃は肺の中から限界以上に酸素を奪いさって、更なる苦しみを植え付けてきた。
「けほっ」
 絞り出された声はまさに最悪としか言いようがなかったが、唯一の救いは腕の中にちゃんと彼女を納めていた事だった。自分と同様に痛い思いをしてはいるだろうが、幾ばくかはましだろう。怪我をしてなければ良いけれど。そう思って目を開けた先にそれはいた。
 猛スピードで迫り来るケリオミネ。
 その彼女の足が既に少女達の眼前にあった。
 もう、ダメだ――
 そう思って、身を竦ませた瞬間に胸元をギュッと捕まれた。
 それはとても小さな手だった。
 小さな震える手がギュッとカミネの服を掴んでいた。
 それはとてもとても愛おしい少女の手だった。
 そんな少女がすがるように自分にしがみついていた。今にも泣きそうな顔で、カミネの服を掴んでいる。
 そんな少女の姿を見た瞬間、カミネの体は自然に動いていた。
 そして――
 脳を揺さぶられるような激しい、しかしなぜか痛みのない衝撃を感じた。
 宙を舞った体は嘘みたいに軽くて、なんだか風になったようだった。
 その後の記憶は無かった。
 何故なら次に目覚めた時には自分は布団の中にいたからだった。
「気が付いたようですね〜♪」
「レスティア、ねぇさま……?」
「はい、そうですよ〜♪大正解です〜♪
 ついでに問題ですけど〜、ここはどこでしょ〜♪」
「お布団の中……?」
「はい、正解です〜♪」
 そう言ってレスティアはカミネの頭をくしゃりと撫でてくれる。
 触れられた手は温かくて、とても優しい感触だった。
「では、ついでにもう一つ答えておきましょうか〜♪」
 そして次に続いた言葉は少し鋭かった。
「何でカミネちゃんは今ここで寝ているのでしょうね〜?」
 その言葉はチクリとカミネの胸を抉った。思わず布団の中でギュッと手を握りしめた。
「思い出したみたいですね〜♪」
「うん……」
 ちゃんと思い出していた。
 自分達が何をして、その結果に自分がどうなったのかを。
 そしてハッとする。
「ねぇさ――」
 尋ねようとした瞬間にレスティアに口を押さえられた。
 そしてもう片方の手の人差し指がそっと彼女の口元に当てられる。指はカミネが声を出すのを止めると今度はゆっくりと下を向いていった。
 そこに彼女がいた。
 穏やかな寝息を立てて。
 傷一つ無い幼い少女がそこでカミネの服の裾を握りしめていた。
「ずっと泣きっぱなしで大変だったんですよ〜♪部屋に戻るように言っても全然聞いてくれませんし〜♪」
 困り顔で笑うレスティアの視線の先には泣き腫らした小さなお姫様がいる。
 小さなお姫様はギュッとカミネの服を掴んで話そうとはしなかった。解こうとするとますますもって強い力で彼女はカミネの服をしわくちゃにする。
「本当に姫様にも、貴女にも困ったものですね〜♪」
 そう言ってレスティアは、カミネと無名王女の頭をさっきと同じように優しく撫でてくれた。
 温かくてこそばゆい感触は慣れ親しんだ優しさの象徴だ。
 こうされるとカミネはいつも母の事を思い出す。母もカミネがイタズラをした時は、いつもそうやって困った顔で笑い、優しく頭を撫でてくれた。
 そして――
「でも、本当に良かった。貴女が無事で――」
 カミネが危ない事をした時は、そう言いながら、抱き締めてくれたのだ。
「生きていて本当に良かったですねぇ……」
 今自分がレスティアにされているように。
「ねぇさま……」
「姫様を庇った事は素直に誉めてあげたいんですけどね〜♪でも、私は貴女が傷ついても悲しいんですよ、カミネちゃん?」
 背中に回された腕に力が強く込められる。
 痛いけど、抗えない。
 そんな心地良い痛みが胸の奥にまで染み込んでくる。
「だからこれだけは忘れないで下さいね〜♪」
 囁くようにレスティアが耳元でそっと呟く。
「私も姫様も亡くなった貴女のお母様も、他のみんなも、貴女がいなくなってしまったらとても悲しいんですよ〜♪だから、それだけは、絶対に忘れないで下さいね〜♪」
 その言葉はとても痛かった。
 心の奥底にしっかりと刻み付く程に深い痛みをカミネに与えた。
「…………ごめんな、さい」
 そしてようやく出た言葉はそんな拙いものだった。
 しかし、だからこそこの言葉は重く、強い。
 自然と視線が小さな吐息の根元に向いた。
 目元を赤く貼らした小さな無名王女がそこにいる。吐き出される吐息は穏やかながらも、その可愛らしい眉は不安そうにゆがめられていた。レスティアが言うように彼女はずっと泣いていて、でもここにいてくれたのだろう。それがどれだけ嬉しかったかなんて言うまでもないことだ。
 愛おしい想いが胸の中に広がっていく。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 何度も何度も同じ言葉が口から漏れる。
 この時、カミネは初めて強くなろうと思った。
 大切な人が命を賭してまで守ってくれた自分の為に。
 大切な人を二度と悲しませない為に。
 そして、今度はその大切な人を自分の手で守る為に。
 カミネは強くなろうと思った。
 だから、カミネ=ハインアートはそこに立ったのだ。
 あの娘を守るための騎士として――

 そして今、暗闇の中に彼女は立っていた。
 いつの間にか沈んで落ちていくだけの闇は終わっていた。
 ここが底なのかと思う。
 何も感じず、何も存在しない。
 虚空の闇の中に彼女は一人だけだった。
 気付くのが遅かったのか……
 そう感じずにはいられない寂しさと後悔が渦巻いていた。
 自分が何の為にその場所を選んだのかを忘れているなんて……
 そんな大事な事を今になるまで思い出せなかったなんて……
 城の仲間達はきっと悲しんでくれるだろう。
 新しい家族達も私は守る事が出来ないのか――
 あの人もきっと悲しむだろう。
 もう、悲しませないと誓ったのに――
 そして、あの娘は――
 姉妹のように共に育った。一緒に笑って、泣いて、学んで、怒られて。
 どんな時でも一緒だった。
 だから守りたいと思ったのに。
 自分を一番救ってくれたのはあの娘だったから。
 誰よりも、強くそう願った。
 願って、祈って、自分を磨いて。そして、ようやくあの娘の隣に立つ事が出来たのに。
 私は――
「君はもっと自分の存在を自覚するべきだ。君はたまに自分の存在を忘れてしまいそうになっていないかな?」
 彼の言葉が脳裏をよぎる。
 今ならその言葉の意味が理解出来る。
 まさかこんな当たり前の言葉を彼から言われるなんて思いもしていなかった。
 違う――言われてはいけなかったんだ。
 あの時に十分に思い知ったはずだったのに。
 なのに私はこんなところにいるのか。あの娘を残して。
 自分が許せなかった。
 こんなに弱い自分が……
 もっと強くなろうと思う。
 今の自分をいつか笑ってしまえるくらいに強く。
 もっと強くなろう。
 ずっとあの娘の隣に立っていられるように。
 支えてあげられるように。
 強く、強く。
 誰よりも強く――
 ここが死の淵である事などとっくに理解している。
 しかし、だからといってそれが諦める理由になるとは限らない。思わない。
 もうここが光りの届かない場所であることも知っている。
 だけど、それが何だと言うのだ。
 私はまだ、何もしていないというのに――
 諦めるなんて愚の骨頂だ。
 だって、私はまだ、
「諦めてなどいない――!」
 その時、風の音が聞こえた。
 ずっと慣れ親しんだ声。何よりも握り慣れた感触。手に吸い付くような感触は絶対に忘れたりはしない彼女だけの剣。
 あの娘を守る為に取った剣、“鳴神”――
 命に代えても、何ていう強さは捨ててしまおう。
 自分の欲するモノはそんな強さじゃないのだから。
 刻み付けよう。
 もう二度と忘れないように。
 自分の望む強さを。
 そのためにまず、目を覚まそう。
 そして、大地を踏みしめろ。
 風を纏え。
 カミネ=ハインアートという命の目指す強さの為に。
 大切なあの娘をずっと守り続けられる強さの為に――

 そう。それは本当にたまたまだった。
 たまたま彼女の姿をもう一度だけ見ておこうと思っただけだったのだ。
 それなのに――
「何で……」
 どうして、そんな言葉しか出てこなかった。
「何で貴女はそこに立っているのでございますかッ!」
「何、大した事じゃない……ちょっと思い出しただけさ」
 そう言って彼女は淡く微笑む。
 何故彼女の声が耳に届くのかが分からなかった。
 何故彼女が微笑んでいるのかが分からなかった。
 何故彼女がそこに立っているのかが分からなかった。
 確かに殺したはずだったのに。痛みを与えないように優しく。感じる暇もないほどに速く。何かを考える隙も与えないほどに正確に。確かに殺したはずなのに。
 誰が?
 自分が。
 なら――
 何で?何で、何で、何で、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデ――
「何で貴女は生きているのでございますかッ!」
「今、言ったじゃないか、ちょっと思い出しただけだと」
 彼女は緩慢な動作で血に濡れた剣を構える。
 その姿はロマリアが今まで見た中で誰よりも美しく、勇ましい。そしてそんな彼女を今一番美しく見せているのは他でもない。彼女が着慣れただろう騎士服でもロマリア自身が彼女に履かせた深いスリットの入ったスカートでもなく、自分と同じ真紅の血化粧だった。今も流れ出す自分達が家族である証が、何よりも彼女を美しく見せていた。
「だから、やはり貴女を行かせる訳にはいかないんだ。ロマリア=シュペルディイム」
 カミネ=ハインアート。
 それが彼女の名前。ロマリアにとってきっと最後の家族で、きっと最後の友達と呼べる存在で、きっと最後に苦しんで殺したはずの存在。
 そして、彼女は――
「敵になるのでございますね……」
「貴女がこのままその道を進むというのなら……」
 それは自分という存在が受け入れられないことの何よりの証明だった。
 ならば――
「もう、何も言う事はございませんね!」
 そう言ってロマリアは大地を蹴った。同時に全身を走る血の道筋をイメージし、魔力の流れを全身で感じ取る。
 結果、その二歩目は驚異的な瞬発力を彼女に与えた。
 カミネのいる方向とは真逆へ。
 つまりは広場の出口に向けて。
 この状況で、精神は狂いそうな程に不安定だったが、その思考はいたってまともだった。いかに人を効率的に殺すかを考えた上で、ロマリアの頭には一番もっともな考えが浮かんだ。
 そう、何も無理してまで戦う必要はないのである。何せ相手は再び立ち上がったとはいえ、手追いで、しかも致命傷なのだ。そこに間違いはない。
 だったら戦わなくても、放っておくだけで自分には勝ちが転がり込んでくる。
 放っておくだけで彼女は死ぬのだから。
 だから彼女は全力をもってしてそこから離脱しようとした。彼女が追ってくる気配も予想通り感じない。
 そら見たことか。
 振り返った先にはきっと再び倒れ伏す彼女が居るに違いない。
 そして、彼女は再び振り返った。
 その先に力強く言葉を紡ぐ彼女がいるとも知らず――

 体には既に感覚というモノなど存在していなかった。
 ただただ全身が重く、限りなく寒い。大地を焦がすかのような強烈な日差しですら、カミネの体を温めるにはひどくぬるい。こんなに全身を動かすのが苦痛に感じたのは初めてだった。
 しかし、その逆に――
 カミネは体の中をかつてないほどの大量の魔力が滑らかに流動しているのを感じていた。
 速く、優しく。それはカミネの中を心地良く駆け回っていた。
 これが、魔力。
 これが、血族の力。
 これが霞の血族の魔力――
 遥か昔、カミネがまだ訓練を受け始めたばかりの頃、カミネは何度もレスティアを初めとする腕利き達に問われ、勧められた。
 何故、魔術師としての道を歩まないのか、と。
 それは皆が皆、カミネの霞の血族としての力と彼女自身の素質が限りなくそれに相応しいモノであることを見抜いていたからだった。そんな彼女たちからすればそれは当然の疑問だったのだろう。
 だがしかし、カミネは剣を取ることを選んだ。
 迷うことなく、暇さえあれば剣を振るってきた。
 探せば理由はいくつもあった。
 自分の魔力が強大すぎて、暴走させてしまえばそれこそこの国すら滅ぼしかねない事。魔術の勉強が退屈で仕方なく感じていた事。魔術の道を選んでしまえばレスティアや義母、義父に会える時間が減ってしまう事。
 だけども、いつでも思い浮かぶ理由はたった一つだけだった。
 彼女の傍に居られるから――
 あの娘がそう望んだから――
 直接的に望まれた訳じゃない。
 ただ、一緒に読んでいた絵本にお姫様をどんな困難からも守る騎士がいて、あの娘がその姿を憧れるように眺めていたから。
 だから、カミネは騎士になることを強く望んだ。
 あの娘の憧れでいられるように。
 誰よりも傍にいてあの娘を守れるように。
 そして、カミネは騎士になった。
 無名王女の近衛騎士を任されるほどの強さを手に入れて、ロイヤルガードの称号も手に入れた。
 その軌跡の大半は確かに剣を振るうことに費やされた。
 しかし、だからといってカミネが魔術の修練を積んでいないのかと聞かれれば、それは確固たる言葉を持って否定できる。
 否――と。
 カミネには魔術師としての才能が確かにあった。
 だからこそ彼女は剣を振るう片手間に行った独学でも、並の魔術師以上に魔術を扱うことが出来る。常に。
 そして、今なら――
 自分が不利なのは分かっていた。
 それは一重にロマリアが逃げに徹した場合、明らかにこちらが保たないであろう事が明白だったからだ。
 だからまずはそれを防がなければならない。
 今ならば出来るはずだ。
 イメージする。自分を覆っている風を掴み、自由に編むイメージ。手足よりも柔軟に、想像よりも壮大に、全てを包み込むイメージ。
「風刃、血界――」
 短く紡がれた言葉はその瞬間に意味を持つ。
 風が瞬時にカミネに従って動く。彼女のイメージ通りに、そしてそれよりも速く。広場全体を包み込む。
 逃がす訳にはいかない。
 視線が交錯する。
 ロマリアの思いをカミネは知らない。
 きっと辛いことばかりだったのだろう。それは想像は出来る。
 だが、それはあくまでも想像に過ぎない。カミネが事実としてそれを体験することは絶対に出来ないのだ。
 そして、それはロマリアも同じ事だ。
 カミネの思いをロマリアは知らない。
 伝わらない。
 どれだけ伝えたくても、伝わらない。
 だから止めなければならない。
 カミネは自分の思いを信じているから。
 彼女がそう思っているのと同じように。

 だから、その初太刀とも言える衝撃をまともに喰らわずに済んだのは完全な偶然だった。ただ、満身創痍で立っていた彼女の姿とその唇の動きに怖気を感じたからだ。そして、その本能とも呼べる感覚にロマリアは躊躇なく従った。次の踏み込みを既に前方に付きすぎてしまった勢いに逆らって真横に向ける。
「くっ――」
 修道服の裾が常人ならぬ力で引っ張られる。どれはどちらかと言えば、巻き込まれたと言った方が近かった。とてつもないスピードで暴走する馬車の車輪に長いシーツが巻き込まれればきっとこんな感じに違いない。
 ビッと背中で布地の裂ける音がした。
 同時に背後に向かって左手を振るった。
 背骨を軋ませて振るったジャマダハルは瞬時に既に裂けかけていた修道服を分断する。
 そして、コンマ数秒後に左手にぶれるような衝撃が走った。それが金属の破砕音だと気付くのに更にコンマ数秒。更に更にコンマ数秒後には、今度はそのぶれるような衝撃で自分の体がバランスを失って地面に叩き付けられた。
 痛みに歯を食いしばりながら無理矢理受け身を取る。思わず大地を叩いた左手に響くような痛みが走った。折れるまではいかずとも、骨はその異常を訴えている。もっとも、そんなモノを聞いていられる余裕などは無かったが。
 自分が閉じこめられたと理解したのはその直後。そして、それが彼女の魔術だと直感したのは同時。
 逃げられない。
 ならば、もう――
 その先を思う間もなく、ロマリアの体は瞬時に動いていた。
 ただ、前へ――

 やはり、と言うべきなのだろう。ロマリアの反応にカミネは内心舌を巻いていた。タイミングを見計らい、必殺の時と判断したと同時に展開した“風刃血界”だったが、期待した以上の成果は上げられなかったようだ。もっとも、絶対条件であるロマリアを逃がさないという課題はクリアしているし、風が届けてくれた破砕音からすると、及第点は越えていると言ったところか。
 しかし、それでもこちらの不利は未だ変わらない。
 だが、どうしてだろうか――
 どうにも負ける気がしないのは。
 頭上から振り下ろされる一撃を半身になって鼻先すれすれでかわす。続いて体を捻るようにしてロマリアの体の死角から放たれた一撃を、これまた服の布地ギリギリの間合いを飛びすさって避ける。破砕して長さが三分の二程になってしまったジャマダハルが今はありがたい。今は砂粒を拾う事すらカミネにとっては重労働だ。
 それでも体は動く。
 動かすことが出来る。
 体は重いけど、軽かった。
 今なら国中の音だって拾える自信があった。
 風が全てを教えてくれる。
 風が体を後押ししてくれる。
 放った一撃はとてもではないが、力を込めたモノではなかった。普通ならその辺の兵士にだって払い落とされるような弱々しい一撃。
 しかし、その一撃は確かにロマリアの右肩に届いた。
 風の教えてくれたタイミングで放った一撃は絶妙な間隙を縫ってロマリアの肩を抉る。
「――ッ!」
 だが、そこはロマリアも達人の領域に至る反応を見せる。
 淡い痛みに一瞬不可解に顔をしかめつつも、すぐに鳴神を弾いて牽制の一閃。かわされることも予想の内だったろう。そこを見計らってカミネを思い切り蹴り飛ばす。
 一気に開く間合い。
 その距離にして、約十五メートルと少し。
 蹴り飛ばされたにしては開きすぎなその間合いは、明らかに不自然な距離だ。
 その不自然さがカミネによるものだというのはロマリアだって既に気付いているだろう。
 ならば、ここからが勝負という事だ。
 一戦目はロマリアに完敗した。
 言葉巧みに動かされ、我を忘れてしまっていた。
 二戦目はカミネがかろうじて勝利したと言えるだろう。
 だが、それは一戦目とは逆に今度はロマリアが狼狽したからだ。
 そして、今――
「決着を付けよう……」
「今度こそ殺して差し上げるのでございますよッ!」
 同時に大地を蹴った。
 魔力はみなぎっていても、やはりカミネの体は思い通りに動いてはくれなかった。出来ることなら今すぐにでも全てを放棄してしまいたい。
 それでも、カミネは大地を思い切り前へ蹴った。
 体が倒れるくらいの前傾姿勢で最初の一歩を地面から解き放つ。跳躍と呼んでも良いくらいの勢いを持って、カミネはただ前を見る。
 体は既に警報を発している。限界は既に通り越している、と。
 けれど、そんな考えは既に纏った風が振り払ってくれていた。
 もし、ここが今の私の限界だというのなら――
 風の感覚を更に鋭敏に捉える。
 もっと速く。
 もっと柔軟に。
 全てを吹き払えるくらいに荒々しく。
 そんなモノは今すぐに越えれば良いだけの話だ!
 一歩目よりも強く次の足を踏み締める。
 大地よりも確かにその感触はカミネに伝わった。
 それは忘れもしない風の感覚。
「疾ッ――!」
 言葉と共にカミネは強く宙を蹴る。
 放たれた矢の如く加速する身体を風が押し、追ってくる。
 その速度は魔力で無理矢理強化したロマリアと同等。
 いや、それ以上――
 風の勢いに乗ったまま、カミネは全力で鳴神を振るった。
 甲高い音が鳴り、共に大きく体が流れる。血を流しすぎた分と一刀である分、カミネの方が確実に不利だ。予想通りカミネの体勢が崩れた所にロマリアの折れたジャマダハルが横薙ぎでやってくる。本来なら今体勢を空中で崩してしまっているカミネにそれを避ける術はない。
 そう、本来なら。
 だからカミネも全力で打ち込んだのである。
 即ち、今のカミネにはそれを回避する術がある。
 流れに逆らわずそのまま体を反らす。
 そして、ただ風を蹴る。
 そこが地面であるが如く。自然に。
 一蹴り目でジャマダハルを回避し、ロマリアの側面に回り、もう一蹴りでその死角にまで入り込み、払う。
 肉を斬る感触を鳴神を通して感じ取る。そして、その後すぐさま響く金音。折れたジャマハダルが鳴神の行く手を阻んでいた。更にその真横から休む間もなく、縫うように伸びてくるもう片方の刃。
 ロマリアが体を無理矢理捻って、抉られる腕の肉と血を代償にの突きを放ったのだ。
「チッ――」
 舌打ちと共に後退。
 今の一撃で仕留められなかったのは痛い。少なくとも腕一本は持って行きたかった所だ。
 自分の状態がベストでないことを痛感する。
 やはり、体はカミネのイメージ通りのタイミングで、完璧に動いている訳ではないという事だ。
 そしてこの後退をロマリアが逃す訳がない。
 鬼神が如き殺気を纏い、折れたジャマダハルの長短すらも生かして剣舞で魅せる。
 体の重さに文句を言う暇などなく、後退したながら舞いを弾く。
 一撃、二撃、三撃。
 二刀である分一撃、一撃は軽い。だが、その分数が多い。この流れを彼女にこのまま与えておく訳にはいかない。
 ならば――
 想いの打ち合う音が一際大きく響く。共に崩す微妙なバランスは甲乙の機会を均等に孕んでいる。
 崩された体勢を流れに乗せて整え、ロマリアが折れたジャマダハルで短い突きを放ってくる。
 余りにも予想通りの画像をコマ送りに感じながら、カミネは体を後ろに倒しながら風を纏わせた足でその腕を蹴り上げた。
 今度は確かに不奇怪な音が耳に届いた。ロマリアの腕があらぬ方向を向いたのを視認。そのまま今度は大地を蹴り、宙を駆け上がる。
 髪先をロマリアのジャマダハルが掠める。
 同時に、空中逆さまの姿勢から鳴神を上段から振り下ろす。
「スタッカートッ!」
 声と共にがら空きになったロマリアに、圧縮された大量の風の破裂した衝撃が叩き付けられる。
 破裂音が響き、二人の姿が対照的に空を跳ぶ。
 何度か地面に叩き付けられながら、滑空するように跳ぶロマリアと、風に導かれるまま弧を描くように跳ぶカミネ。着地音と落下音が混じり合い、双方から漏れる荒い呼吸音。
「随分と辛そうでございますわね」
「お互い様じゃないか」
「私よりもカミネ様の方がお辛いでしょうに」
「そうでもない。ちょっと休憩しているだけさ」
 視線の先に見据えるのはただ一人。
 それはもうきっとこの世で唯一家族と呼べる愛おしき存在。
 しかし、今は誰よりも自分の手で倒さなければならない敵。
 他の誰でもない自分が止めなければならない。
 歩いてきた道で積み重ねてきた大切な想いを守らねばならないから。
「随分と分かりやすい嘘でございますねぇ」
「私は演技が上手いのさ」
 お見通しか……
 確かにロマリアの私的は正しかった。
 視界が再び霞んでいた。
 先程から流れ続けていた血すら止まっている。
 全身を悪寒が包んでいて、指先までが凍りそうな程に冷たい。
 本当は今こうして軽口を叩くことすら辛い。
「トドメを刺して差し上げるのでございますよ」
「それは私のセリフだ」
 カミネが言葉を言い放つと同時に今まで以上に速くロマリアは駆けていた。その全身を彩る血が魔力を走らせているのを今のカミネにははっきりと知覚出来る。
 しかし、カミネの体は動かない。重い鎖で何重にも締め付けられたように動こうとしない。ただ、苦痛だけがうめき声となって口から漏れるだけだ。
 ここが、果てなのだろうか――そんな考えが浮かぶ。
 違う。
 自分は――カミネ=ハインアートはまだここにいる。
 まだ終わっていない。
 まだ、諦めた訳じゃない!
 今ここで立たなければ、いつ立つというのか。
 何の為にあの娘の隣に立とうとしたのか。
 その決意の重さを今のカミネは知っている。
 その重さに比べれば、こんな痛みなど――
「アァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ――!」
 咆吼。
 そして、ようやく感覚のない足は大地を蹴る。
 無謀なのかもしれない。
 無茶なのかもしれない。
 それでもカミネ=ハインアートは戻らなければならない。
 帰らなければならない。
 自分の事を待ってくれている人の場所に。
 家族のいる場所に――
 集中しろ。風の声を聞き取れ。
 今、やらないでいつやると言うんだ。
 二歩目が再度風を踏むと同時にカミネは吼える。
「マルテ、ラートッ!」
 果てしなく圧縮された流れの鎚が二人を一直線に結んで、穿つ。
 圧倒的な破壊力は再び広場一体に再び破壊の爪痕を残さんとばかりに吼えた。
 たった、一瞬。
 時間にして一秒にも満たない瞬く程の時の後、その爪痕の中心に一つに重なる影があった。
「…………」
「…………」
 どちらの背からも煌びやかに輝く白銀が天に向かって伸びていた。白銀には幾筋にも絡む朱が帯を引いていて、白銀とは対照的な暗い輝きを放っている。
「まさか、あんな方法で来られるとは思ってなかったのでございますよ……」
「だから言ったじゃないか、私は役者だと……」
「そうで…ございましたね……」
 掠れる声と共に血を吐き出したのは、ロマリアだった。
 両者の背からは確かに刃が空を目指して伸びている。
 しかし、その位置は違っていた。
 カミネは左肩から、ロマリアは左胸から背中に抜けて刃が生えていた。
 ほんの手の平一つ程度のズレ。
 だが、それがどれほど致命的な差を生んでいるか、それは当の両人達が一番良く分かっている。
 カミネの瞬間的な判断は賭けだった。それも、相当に分の悪い。
 マルテラートは物質的に感じる程圧縮した風を直線上に放つ技だ。それはこの広場の惨状がカミネの先に放ったマルテラートの四線乱射によるものであることからロマリアにも分かっていただろう事だ。
 そして、それをカミネが完全にコントロールしきれていない事も、また。
 だから、カミネはそれに賭けた。
 この土壇場で、カミネは自分とロマリアを結ぶ直線上に凶暴な風の鎚を叩き込んだのだ。
 自分の背後からロマリアに向かって。
 その行動自体に問題はなかった。
 問題なのはカミネが風を御せるかどうかという、ただその一点のみだった。
 そしてカミネはその賭けに勝った。
 完璧とは呼べないまでも風の鎚を制御し、カタパルトの要領で自分を撃ち放ったのだ。
 マルテラートの軌道は、カミネとロマリアを一直線に繋いでいる。ただ、しっかりと風のカタパルトを全身で感じながら、あとはそのまま前を見据え、鳴神を押し込めば良いだけだ。咄嗟にロマリアが反応して刃を差し出してきたのには驚いたが、それも致命傷は回避した。
 結果、鳴神はロマリアを貫いた。
 一撃と呼ぶには余りにも儚い瞬間に、カミネの最後の一撃はロマリアの左胸を貫いた。
 単に貫いただけではない。外観にはそう見えても、あの一撃には圧縮された風が込められていた。おそらくロマリアの体の内側はもう――
「楽しかったで、ございますね……」
 枯れそうな囁きだった。
「あんなに笑ったのは、いつぶりだったのでございましょうかね……」
 耳元で儚く笑う彼女の気配。
 その声は今までで一番穏やかな声をカミネの耳に届けていた。
「あのフワフワしたお菓子は美味しかったで、ございますよ」
「そうですか……」
「でもあのシュワシュワした飲み物ですが、私はちょっと苦手でございます。きっと、シュワシュワをなくした方が、美味しくなると思うのでございますが」
「あれが、美味しいんですよ」
「カミネ様の好みは、理解に苦しむのでございます、よ」
「ロマリア殿が我が侭なんですよ」
「うふふ、言うでございますねぇ」
 この数日間ロマリアが楽しんでいたように、また、カミネもこの数日間とても充実した毎日だった。
 まるで普通の年頃の女の子のように振り回され、怒り、笑った。
 それこそカミネの方が初めての体験だったのだ。
 無名王女とも、レスティアとも違う笑い会える間柄。これが友と呼べる関係なのだとカミネはあの日初めて知ったのだ。
「……本当に、まったく、カミネ様には困ったものなのでございますよ」
「それは私の言うセリフです。ロマリア殿が私を困らせてばかりなんですよ」
「そんなこと言いながらも、カミネ様はまだスカート履いてくれているのでございますよね」
「…………」
「本当に、カミネ様は優しすぎて困るのでございますよ……」
 紅く染まった手を振るわせて、その生地に触れる。それは今日もまた、ロマリアがカミネの部屋を早朝に強襲して履かせたスカートだ。その色はカミネの髪のように深い、深い藍の色。側面に入った大きなスリットが、朱の走ったカミネの白い肌をより綺麗に見せていた。
「折角、綺麗なのですから、もう少しお洒落もするのでございますよ」
 そう言いながらロマリアの手はゆっくりと上りカミネの髪に触れ、頭を撫でる。
「でも、カミネ様はもっとお強くならねばなりませんねぇ。私程度に苦戦していてはこの先苦労するのでございますよ」
「余計な、お世話です」
 今度はカミネの声が掠れた。
 それを聞いて、消え入りそうな大きさでロマリアがクスリと笑う。
「カミネ様は泣き虫でございますねぇ」
「…………」
 吐く息は荒く、頬に触れた指は冷たい。今のカミネですらそう感じられる程、ロマリアの指は冷たかった。
 そんな指がカミネの頬を撫でていた。
 零れ落ちる涙を、何度も何度も拭っていく。
「時が止まってしまえば、とか思ってしまうのでございますね……」
 そうすれば、ずっと一緒にいられるのに――
 そうすれば、自分は何も失わなくて良いのに――
「……………………」
 返せる言葉はなかった。
 お互いが既に分かっている事だから。
「カミネ様には感謝してもしきれないのでございます。まさか私の生にまだこれほどの幸福が残されていたなんて、思ってもいなかったのでございますよ」
「私だって、ロマリア殿に会えてどれだけ嬉しかったか……」
 もう、会えないと思っていた同族――家族に会えた事がどれだけ嬉しかった、そんな事は言うまでもないことだ。
 今、この瞬間にその事を理解出来ない者などそこには存在しない。
 ただ二人。
 宝石にだって見劣りしない程に美しい藍の髪と瞳を持った彼女達だけがそこにいて、全てを理解していた。
 嬉しかった事。
 悲しかった事。
 決して、忘れない事。
 互いの全てを忘れないように胸に刻み、無言で誓い合う。
 ほんの数秒で、その儀式は事足りる。
「カミネ、様……」
「……なん、ですか?」
 努めて優しい声でカミネは問う。
「お強く、なられるのでございますよ?」
「分かっています……」
「他の誰でもない、カミネ様自身の手で、守って差し上げるのでございますよ?」
「……………………」
 声は出なかった。ただ、子供のように頷く事だけしか、出来なかった。
「それから、もう一つだけ。これだけは、ちゃんと私に聞かせて欲しいのでございます」
 ずっと涙を拭い続けていたロマリアの指が止まるズルズルと降りていき、抗う事も出来ず、ようやく肩で指が服に引っ掛かった感じで止まった。
 そして――
「貴女は幸せでございますか――?」
 絞り出された言葉はたった一つの願い。
 全ての想いを込めて、カミネはその願いに強く、応えた。
「――はい」
 それだけは彼女に伝えなければいけなかったから。
 カミネ=ハインアートは幸せなんだと、伝えなければいけない。
 肩口を焼けるような痛みが鈍重なスピードで抜けていく。ずるずると不器用に傷を抉って、痛みをカミネに伝えている。
 痛かった。
 とても痛かった。
 痛くて、痛くて、耐える事など出来なかった。
 だから自分はずっと泣いているのだと、カミネは思う。
 だから、涙で霞んだ視界の中に一瞬通った彼女の顔が、確かに笑んでいた事など見えてなんていないのだと。最後に彼女が「あぁ、良かった――」と囁いた事等、カミネには聞こえていないのだ。
 ただ、痛いだけ。
 とてつもなく大きな痛みがカミネの体を支配していた。
 膝を落として、そっと彼女を抱き締める。傍らに転がった鳴神の音ですら、今の彼女には痛かった。
 冷たい体はその冷たさを更に深くしていく。どれだけ強く抱き締めても、彼女の体が動く事も、その体温が戻ってくる事も決してない。
 分かっているからカミネは泣いた。
 彼女が少しでも寂しくないように。
 ただ、独りで――


小説のページに戻る /X 誰が為に風は鳴く に戻る /エピローグ に進む