誰が為に風は鳴く
意識が遠く、暗く沈んでいくのが分かった。
深く、深く。
それは速くもあり、ひどく鈍重なスピードのようにも感じられる。
これが死へと至る道筋なのだと本能的に理解した。
自らの死が早すぎるとは思わない。
彼女はいつでも自分をそういう世界に置いてきたのだから。
ここが自分という命の終着点だった。ただそれだけのことだ。
そして逆に長すぎたとも言えない自分の人生を思い起こす。
走馬燈のように人生の全てを思い出すというのは、きっとこの果てしない暗がりの中を落ちていく間、何も他にやることがないからだとこの時彼女は知った。
まぁ、それも悪くはないと思う。
自分の歩んできた軌跡は決して悪い物では無かったと思えるから。
辛かった事が無かったと言えば嘘になる。
あの時やはり死んでおけば良かったと思った頃も幼少の頃にはあった。
しかし、今この時を経て――
カミネ=ハインアートはその歩みを素晴らしいモノだったと思うことが出来た。
まだ感覚のはっきりしない浮遊感の中で、カミネはその想いを噛みしめるように抱き締めた。
どこまでも、どこまでも。
彼女の身体は遥か下まで落ちていく。
暗く、冷たい闇の中を。
その胸に柔らかく、暖かい想いを抱いて。
ロマリア=シュペルディイムの人生の軌跡は血肉の彩りであると表現しても過言ではなかった。
結果として霞の血族が殲滅されるという惨劇が起こったあの日、ロマリアはようやく片手の指の数を追い越した年齢になるかならないかといった頃だった。
この頃の子供というのは兎にも角にもひたすらに遊びたい盛り、何よりも好奇心旺盛な年頃である。その日もロマリアはいつもの如く仲の良い友達数人と、既に恒例となっていた集落周辺の探検をしていた。山岳部にある集落周辺は当たり前だが一体が森であり、こういった類の遊びにはもってこいだった。日が落ちてから村の中心で焚かれる巨大な篝火の灯りが見えない範囲に出る事は禁じられていたが、それでも子ども達は飽きる事なく、毎日村の周辺を歩き回っていた。連日同じ所を通ってもその度に発見するモノは変化していたし、豊富な草花の種類は何度首飾りを作っても同じモノが出来る事はない。
しかし、その日はたまたまそれだけで終わらなかった。
いつも通りに周辺を探索し終えた時だった。たまたま、偶然に、ロマリアは村の篝火の灯りが見えない森の奥に行く事になった。それもたった一人で。
理由はもう良く覚えていない。恐らくは子供同士に良くあるいざこざ。変な意地の張り合いだとか、恐がりであるかそうでないとかそんな事が発端となったのだろうと思う。
兎に角ロマリアは一人でまだ見ぬ領域に踏み込む事になったのである。
踏み込んでから後悔したのは足に疲労感を覚えた頃だった。どこまで行って、何を結果として戻るかを決めていなかったのである。
しかし、何も得られずに帰る事は出来なかった。幼いながらも、いや、まだ幼かったからこそ意地の張り方というのは変に頑固だったのだろう。誰かに見張られている訳でもないのに休憩することなく、少女はひたすら歩き続けた。
森の中に夜が訪れる頃まで歩いてから、そろそろ引き返そうと思い始めた。きっと家族は心配するだろうと思ったから。というのは言い訳であり、本当は暗くなってしまった森の中に一人でいるのが怖くなったからである。
これは怖いから引き返す訳じゃない。家族に心配をかけない為だと自分の中で良い訳をし、帰る途中でも凄い何かは見つけられるとポジティブに考えながら村の篝火を目指す。
そしてその帰路の途中で、ロマリアは確かに奇異な存在を見つけた。
まだ幼いながらも村で暮らしている彼女は夜目が利く。少女はその中に確かな何かを見たのである。それが人影、いや、人の群影だと言う事に気付いたのは村の篝火が夜空に映りだした頃だった。
少女の目にもはっきりと分かるほどに影は物騒な格好だった。剣に槍に戦斧、弓矢に銃器。体を覆うごつく、厳めしい鎧はそれだけで少女の体の重さを越えてしまうだろう。
その彼等は音も立てずに村のある方向へ迷うことなく進んでいく。
まだ少女だったロマリアの本能が叫ぶ。
先回りしてでも村に帰り危険を知らせるべきだと。
しかし、思うことは出来ても体が動くかはまた別問題だった。
少女の身体はすくんで動けなかった。
初めて見る兵士達の目に見えない圧力と押し隠された殺気にロマリアは完全に呑まれていた。ようやく動けるようになり村へと駆けつけた時、彼女の焦りは一瞬にして後悔に塗り潰された。
村の中心にある巨大な篝火の山の隣にもう一つ、別の山が出来ていた。
こうこうと燃える炎に照らされるそれは見知った者達で作られた山だった。
父がいた。母がいた。数刻前に別れたばかりの友がいた。毎朝挨拶を交わしていたお爺ちゃんがいた。いつも花の蜜で作った飴をくれるお姉さんがいた。
ある者の顔は絶望に、またある者は痛みと恐怖に歪んでいた。どれもが微動だにせず、その山の一部としてそこに埋まっていた。
屍の、山。
理解した瞬間に喉を胃液が逆流した。抗う事も出来ずに嘔吐する。
何度も。何度も。
胃液すらはき出せなくなるまで嘔吐を繰り返し、ようやく彼女は現状を把握した。
このままでは自分も殺される――
考えた瞬間に歯がカチリと鳴った。体の震えは止まらず、腰は抜け歩く事さえも出来ず、ロマリアは這うようにして逃げた。
それは結果として功を奏し、ロマリアは運良く見つからずに深い茂みに入り込む事が出来た。そこはかくれんぼで彼女がいつも使う隠れ場で、だれにも見つかった事のないとっておきの場所だった。震える体を無理矢理に押さえつけ、ジッと息を殺す。
ようやく自分が落ち着いたのだと気付いたのは目が覚めた時だった。どうやら眠ってしまっていたようだ。深い闇の澄んだ空気にさらされて、徐々に意識が覚醒して来る。それに連れて現実はジワジワと彼女の精神を蝕んでいった。
死にたくない。怖い。だけど独りは嫌だ。淋しい。誰もいない。孤独。怖い。助けて。誰か、助けて。誰でも良いから誰か――
叶うはずのない願いを胸に秘めて少女は絶望と必死に戦った。
だが、幼い心がそれに耐えられる時間はそう長くない。
崩れだした少女の心の防壁は綿飴のように脆かった。
火の放たれた死体の山に駆け寄り、呆然と眺めた後、自分も炎に包まれる事を選択した。少し手を伸ばせば届く距離とはいかず、数歩歩けばその山に届く距離。
しかし、それは少女には遠く、果てしない距離だった。
肉体的にも、精神的にももう限界だった。
一歩も歩きたくない。
一秒も生きていたくない。
一秒でも早く――
そう思って無心に届く距離にあった篝火に手を伸ばしていた。
今思えば馬鹿な話である。篝火程度の小さな炎では肉を焼かれる痛みを長く感じる事はあっても、家族と同じように焼け死ぬ事など到底出来はしないのに。
そして、更なる結果としてロマリアの手は焼かれなかった。
彼女の手を掴んだ者がいたのである。
少女だった彼女の手を掴んだのはごつく、汚らわしい男の手だった。自己顕示欲にまみれ、常に他人を蹴落とす事を考え、いかにして富と力を手に入れるか。そんな事ばかりを考えるような醜悪な面構えの男だった。
男が何かの言葉を口にした。言葉であろう事は理解できたが、外の国の言葉などまだ幼いロマリアには分かるはずもない。
ただ、もうどうにでもなれと思い、どうせ殺されるのだからと決めつけていた。
その内、男の汚らわしい顔を見上げるのにも疲れてコクリと少女は首を落とした。視線の先にあるのは異臭を放ちながら轟々と燃え行く家族達の山である。
そんな彼女の様子を見て、男はやはり汚らわしい笑い声を上げた。何がおかしいのか知らないが、とても嬉しいらしい。
ふざけるな。
この状況の何が面白いというのか。これだけの人を殺しておいて!
私の家族を殺しておいて!
止めどなく涙が零れていた。
怒りと悲しみの涙だ。
そして同時に悟る。
この世はとても不平等であると。
毎日食事の度に祈りを捧げた神様も、どこかの国の知らない神様も、全て不公平で無責任だ。一方的に奪われる者がいて、一方的に奪い続ける者がいる。
それこそが世界の真理。
それに気付いた瞬間、狂おしいほどに笑っている自分に気付いた。
目の前に佇む男のように、汚らわしく、醜悪に。
ロマリアは笑っていた。
そしてこの数日後、彼女は新たなる生を受ける事になる。この醜悪な男の国に連れ帰られて、男の手の入った家に養子として組み込まれたのだ。
その日、少女は霞の血族のロマリアではなくなった。
ロマリア=シュペルディイムの生誕だった。
養子として組み込まれたというのはまさに言葉そのままの意であり、決して温かく迎え入れられた訳ではなかった。
本当にただ組み込まれただけである。
ろくに食事も与えられず、寝床は家畜用の小屋に餌として積まれた牧草の山の中。ストレス発散に殴られる事など当たり前だった。食事だって与えられた回数よりも、深夜に小屋を抜け出して残飯を漁った回数の方が断然多かった。
そして更にそんなゴミ同然に扱われる日々の中で、ロマリアは毎日のようにあの男と彼の引き連れた魔術師や騎士達にさもそれが当たり前であるかの様に厳しい戦闘訓練を受けさせられた。はっきり言ってそれはシュペルディイム家の者達が彼女に対して振るう暴力など可愛らしく見えてしまうほどに、熾烈を極めたモノだった。何度も死にそうになりながら、更にそれを上回る回数を無理矢理に起こされて、彼女は人殺しの機械としての訓練を強いられたのである。
その生活ははっきり言って地獄以外の何物でもなかったし、彼女は何度もあの時家族と共に灰になっていれば良かったと思った。
そんな生活とも呼べない生き方は八年ほど続いた。
もう自分の年など数えるのが億劫になっていたロマリアは、ある日自らの成長過程を見せる事になった。血族としては不幸な事にロマリアの魔力は霞の血族の中では恐ろしいほどに低かった。それ故に彼女の髪と瞳に宿る青の色素は、本来彼女らの一族が有するものよりも遥かに薄い。
霞の血族では魔力の強さがそのまま瞳と髪の色素に現れ、それはそのまま魔力の強さに比例する。それを知っていたあの男は、本来の霞の血族の魔力を封じ、管理することは不可能でも、ロマリアの魔力なら管理することが可能だと踏んだのである。
そしてその成果がこの時試された。
封じられた魔力の制御からの解放と引き替えにロマリアに科せられた命令は一つ。
暗殺。
ターゲットは複数。手段は問われなかった。今持てる全てを出し尽くして殺して見せろと命令された。
ロマリアはそれを拒まなかった。むしろ歓迎したと言っても良いくらいだった。
神様は不公平だ。
この世は常に奪われる者と奪う者の二つに分けられている。
それを気まぐれで分けるのが神様だ。
そしてそれは気まぐれ故に一度生を受けた後でも変わる事があるらしい。
これを幸運と呼ばずに何と呼べというのか。
躊躇なんて欠片も無かった。
ただ、そこには純粋な殺意だけがあった。
例えそれが初めての事であったとしても、ターゲットの命を慈しむという気持ちが沸いてくる事は無かった。
なぜなら、ターゲットはロマリアをシュペルディイム家の家族として受け入れておきながら、彼女をゴミ同然のように扱った当のシュペルディイム家の人間全員であったのだから。
ロマリアは彼女を機械に仕立て上げた者達の予想を遥かに上回る結果を出して見せた。
一時間以内と指定されたタイムリミットを笑い飛ばすような時間で終えたのだ。
命令を完遂した時間は十分にも満たなかった。たったそれだけの時間でロマリア=シュペルディイムは使用人を含むシュペルディイム家の人間全て――計八名を惨殺して見せたのである。
その結果に彼女に暗殺術のイロハを叩き込んだ魔術師や暗殺者達は舌を巻いたが、ロマリアをその世界に巻き込んだ男だけは違った。彼だけは、手を打って大いに喜んだのだ。
彼は野心家であった。誰よりも強い権力を握り、ゆくゆくは国の中枢にまで入り込み、国を乗っ取ろうとまで考えていた。男は結構な年を積み重ねていたが、年を取る程に内に秘めた野心は大きくなっていた。そして、霞の血族掃討戦を最後に前線を退き、内政干渉を本格的に始めようかと考えていたのだ。
そして、そこで彼はロマリア=シュペルディイムという駒を手に入れた。
その出会いに彼は神託を感じた。
ロマリアを上手く立ち回らせれば、自分が考えていた野望を遥かに上回る力を得る事が出来ると考えたのである。
そういう意味でロマリアは彼にとっての青い鳥であったと言えた。彼女はその日から男が命じられるままの人形となって働いた。
深夜の月明かりから隠れて男と敵対していた大臣を殺した。男の事を権力の犬と侮蔑した誇り高き騎士をなぶり殺した。男の手下に加わらなかった魔導師を殺した。男の感情を逆撫でした罪無き人々を殺した。
手段は問われなかった。ロマリアは誇り高き騎士ではない。暗殺者だ。暗闇に紛れ、日の光を浴びず、ただ人を殺す事だけが全てだった。いちいち殺す相手の土俵の上で戦う必要など全くない。魔導師相手には体術を、騎士には魔術を主戦術として戦った。後から知った事だが、ロマリアに戦う術を伝授した者達はどれもがその筋の人々からは一目置かれる程の存在であったので、彼等と死に物狂いの手合わせを繰り返してきたロマリアにとってはたまに歯応えを感じる程度で、大した苦にはならなかった。それどころか彼女にとって殺人は娯楽に成り代わっていった。
奪われる者から奪う者へ。
彼女はその構図が世界の真理だと理解している。だから全てを奪う。一度奪われた苦しみを振りまくように奪い尽くす。特にロマリアは国の上層に居座る人間からは徹底して奪った。いきなりターゲットを殺すような事はしない。まずはターゲットが最も親密としている者を殺し、数日を空け、そしてまた次を殺した。
じわじわと追い込むように、いたぶるように。
ロマリアは相手の精神をも殺していった。そうやって満身創痍となった相手を更に彼女はいたぶって殺した。爪を剥ぎ、指をちぎった。腹を割いては臓物を引き出して針を打ち込み、耳と鼻を切り落として暗闇に晒した。
しかし、それだけやってもロマリアはまだ満足出来なかった。
きっと彼女の家族達はもっと苦しかっただろうから。
ずっと痛かっただろうから。
だからロマリアはその痛みを思い知らさんとばかりに、徹底的に痛めつけてから殺した。それは端から見れば狂気としか言い表しようのないものになっていた。
その内に度を超した彼女の暗殺は男の目にも余る処遇となってきた。男は何度もロマリアに自粛するように命令した。
だが、その声がロマリアに届く事は無かった。何故なら彼も又、ロマリアにとっては今までのターゲット達と変わらなかったから。
彼がその事に気付かされたのは彼が国の全てを手中に収めた翌日。全ての邪魔者を排除し、王を傀儡として手に入れた彼は最早事実上国の支配者同然の地位を手に入れたのと同じだった。
しかし、だからといって彼が幸せになった訳ではなかった。彼は一度昇った頂上から一気に転げ落ちたのである。それもどうしようもない高さから。
ロマリアは恐ろしいほどに強かった。外れに外れた戦闘思考のタガはロマリアを暗殺者として育て上げた者達の想像を絶する程の強さに仕立て上げていた。
技術、センス、戦略。
全てにおいて彼女のそれは彼等を上回っていた。
そして何よりも彼等を驚愕させ、絶望の淵に追いやった最大の要因は、皮肉な事に彼等が必死になって押さえ、滅ぼしておきながら更に利用した霞の血族としての力だった。試行錯誤の末にロマリアの血の力を利用した術式は奇しくも彼等自身とロマリアの力量の差を圧倒的にすることになったのだ。
ロマリアは暗殺者として男の周囲に群がっていた者達を一人残らず掃討した後、躊躇無く男を殺した。今までと同じように男が泣いて懇願してくるまでいたぶり、更に全てに絶望して意識を無くすまで追い込んだ。意識がなくなってもすぐには殺さなかった。わざわざ意識を呼び戻してようやく殺した。
その瞬間を境に彼女を知る者は誰もいなくなった。
彼等は全て彼女の歩いてきた後ろで物言わぬ屍となって赤い絨毯を敷いている。振り返ればいくつもの恨みの込められた視線が彼女を射抜くように見据えてくるだろう。
しかし、だから何だというのだろうか。
彼等の愚かな欲望の為に家族は死に絶えていった。霞の血族はただ静かに暮らせていれば幸せだったのに、彼等がそれを壊していった。もう、二度と取り返しのつかない程完膚無きまでに。
彼等が壊し尽くしていった。
彼等の人の上に立ちたいという欲望が。
一人一人ではそんな大それた事など考えはしても実行などしないくせに、彼等が集い形成した国という汚れた囲いがそれを形にして不幸を呼ぶ。
人は弱い。
それは事実だ。認めよう。一人ではきっと生きていく事は出来ないだろう。だが、国のように大きく群れていてはもっとダメだ。
それは絶対に格差を生む。軋轢を生む。蔑みや嘲笑を作り出し、決して逆らう事の出来ないという理解しがたい社会を創造してしまう。
そしてその対価として生み出される笑顔の何と少ない事か……
国とは本当に必要なものなのだろうか。自らの家族が滅んでまで存在している意味が、この世にあるのだろうか。
ロマリアは世界が不公平なものだと知っていた。
世界を見て回ってもそれは変わらなかった。
不条理な世界に不公平な国。
やはり国はこの世界に不必要なものだ。国は苦しみを無尽蔵に生み出すための意味のないシステムでしかないのだ。
こんなモノの為に自分の家族は犠牲になったというのか。
こんな、腐りきった世界の為に。
だったらこんな世界はいらないだろう。
だから彼女は壊す事にした。
この世に蔓延る無意味なシステムを。
そのシステムを司る愚かなヒトとという生き物を。
「では、今日もまた、皆でこの月生まれた新たな生命に祝福を与えようぞ」
オミリアがつい数分前までとは全く違う、厳かな声を広場一杯に響かせる。その声には厳かながらもとても愛おしい思いが込められている。現にその顔は厳しい顔つきにはなっていなくて、大輪の花のような可愛い笑顔が咲いている。
「今月の新たなる命の灯火よ前へ」
無名王女が静かにこの祭りの真の主役達を小さな神様の眼前に呼び寄せる。
前に進み出てきたのはいずれも二人一組の男女。否、三人一組の夫婦と赤子。この山の月に生まれたばかりの新しい命とその父母だ。
「山の月に生まれし新たなる命達よ。汝らにこの土地の祝福を、わらわの願いを。強く清く、そして優しく生きよ」
進み出た人々に向けて、オミリアが言葉を唱える。
それはこの瞬間にだけ起こるほんの数十秒の奇蹟の開始を告げる宣言だ。
光が一瞬にして彼女の腕から広がった。
この世に存在する全ての色が混ざり合いながらそこに在る。同一と化す事無く、一つにならずにそこに――
全ての色が共存しているのだ。
赤も、青も、緑も黒も。
単身では受け付けがたい色も、イメージとして得難い色も、その奇蹟の中では全てが平等で美しい。絵画などでは絶対に表現出来ない色彩の黄金律がそこに在った。
誰もがその世界に息を飲み、コンマ一秒とて見逃すまいと瞬きを惜しむ。
全ての色を携えた光は気付いた時には帯を成し、人々の頭上を舞い踊る。青い空をキャンパスに違和感なく踊る奇蹟は、遠目に見ても分かるほどにハッキリとした色を未だ持ったままだった。帯はキャンパス上で日の光と絡み合い、よりその美しさを増しながら予め道筋が決まっていたような軌道を辿って降りてくる。
向かう先はオミリアの眼前。寄り添うように立ちすくむ夫婦達の腕の中。
どの命も穏やかな顔で二人の仲に収まっている。今から起こる奇蹟が当たり前だと信じ切っているかのような安心した寝顔だ。
その赤子等に光の帯は緩やかに優しく巻き付いて違和感なく染み込んでいく。
誰もがその瞬間に感嘆を覚え、酔いしれる。
光の帯は最後に少しだけこの世界に留まりたいような躊躇を見せるが、一瞬後にはまるでそれが嘘だと言わんばかりにあっさりと消えてしまった。立つ鳥跡を濁さず。そんな言葉を連想させる瞬間だった。
「主等にこの一年の生を約束しよう」
ふぅと一仕事終えたという意味の息を吐き出し、小さな神様は声高らかに誓った。
熱狂と歓迎。人々の喜びがその空間に広まった。
喝采の合唱。ピューイと鳴らされる口笛の音。「おめでとぉ」と謳われる絶叫に近いんじゃないだろうかとも思える声。頭上で鳴り響く色とりどりの花火。ヒラヒラと舞い降りてくる無数の紙吹雪。
全てが彼等を歓迎するという同一の目的で鳴らされ、動く。
ようこそこの世界へ。
ようこそこの国へ。
全てがそう謳っていた。
生きる事はとても苦しい事だけど。
生きる事はとても辛い事だけど。
決してそれだけじゃない事を彼等は歓声の全てに込めて伝えている。
それでも世界は素晴らしいモノなんだと。
私達は君達を歓迎します。
産まれてきてくれてありがとう。
カミネ=ハインアートは戦場で拾われた。霞の血族には姓を持つ習慣は無かったので、ハインアートというのは変名国家にやって来てからカミネを引き取ってくれた老夫婦から貰ったものだ。
カミネが助かったのは偶然ではなく彼女の両親が身を挺した結果だった。
まず犠牲になったのは父だった。父は自分と母を逃がす為に戦線に立ったのである。
この日、村の若者達が村の集会では廃止となった村を覆った結界の破壊作戦を決行してしまっていた為に、襲撃は一瞬にして惨殺の舞台になった。父は彼等を最後まで止めようとしたが、振り切られてしまったらしい。前の日に肩を落とす父の背中を当時のカミネは鮮明に覚えていた。
その村人の分断が偶然の産物か故意による物かは判別する術を持たないが、結果としてそれは霞の血族にとって絶望的な結果しかもたらさなかった事だけは確かだった。
カミネは母に手を引かれて森の中を走っていた。母に握られた手と、力一杯引かれる腕がとても痛かったが我慢した。息が切れても走り続け、その内呼吸すらままならなくなってカミネは足をもつれさせてしまい転んだ。
母はカミネが転んでしまってからようやく彼女が子供であることを思い出し、「ごめんね」と一言だけ謝り、彼女を抱きかかえてまた走り出した。
母の体は汗ばんでいたが、その匂いはやはりカミネの母の匂いであり、まだ少女だったカミネを深く安心させる。母の首に小さな両手をしっかりと回して、抱き付くと背後まで追っていた恐怖がスッと遠ざかっていく気がした。
しかし、いくら大人と言えどもカミネの母も女性である。そう長い距離を走れるはずもなかった。おそらくは時間として十五分前後といったところだろう。彼女はカミネを抱きかかえたまま木の根元に座り込み、喘ぐようにして酸素を求めてしまっていた。
「大丈夫。きっと助かるわ」
無理矢理の笑顔を浮かべて掠れた声で母はカミネにそう言い聞かせた。それでもカミネが不安な顔をすると今度は頭を優しく撫でて、もう一度「きっと大丈夫」とカミネを抱き締めながら囁いた。
それは祈りにも似た懇願で、声には隠しようもない焦燥が滲み出ていた。
父は「すぐに追いかけるから」何て言っていたけれど、それが無理だろうことはカミネにも何となくであるが分かっていた。ただ、母を少しでも励ませるならと、賢明に泣くのを堪えて母の胸元に顔を埋めた。
子供を抱えて走るという事は考えるまでもなく激しく体力を消耗する。
そしてそれを回復させる事も普段から訓練など行っていないカミネの母にとっては時間の掛かる事だった。
それを母自身が理解したのは、村での悲劇が嘘のように静まり返っていたはずの闇に飲まれた森の中で閃いたほの明るい光に気付いた時だった。言うまでもなくそれが村の家族達である可能性など微塵もない。
「おかぁさ――」
「静かにして」
低い声で口を塞がれてカミネは勢いに負けて黙る。それが危機的状況だと本能で理解した。
オレンジ色の灯火は今にも駆け出したいくらいに魅力的な光だが、母の体は明らかに強ばっていた。今までよりも強くカミネを抱き締め、体をこれでもかというくらいに縮め、今までもたれていた木の陰に押し込む。
運の悪い事に灯りは二人がそこに隠れているのを知っていてワザと焦らしているのではないだろうかと思うくらいにジワジワと近づいてくる。今はまだこちらをチラチラと照らすくらいだが、周囲を同じ色に染めるのもおそらくは時間の問題だろう。
そしてそれは母も感じ取っていたらしい。
母はその温もりを慈しむようにカミネをギュッと抱き締めた。今までにない程に強く。
そして言う。
「お母さんが見えなくなったら向こうに向かって走りなさい。向こうに行けばきっと助かるから」
根拠のない自身だと分かる。
「おかぁさん」
「愛してるわ。カミネ」
でも、カミネはただ母を呼ぶ事しか出来なかった。
弱々しく呼ぶ声を励ますように額に触れた唇。
時がこのまま止まってしまえば良いのに。
そうすればずっと一緒にいられるのに。
子供心にそんな不可能な願いを抱いてしまう。
そして、やっぱりその願いは叶わない。
掴み損ねた風のように、カミネの手はするりと母の体から離れていった。
何処にも行かないで。
今すぐそう叫びたかった。
しかし、出来なかった。
今にも泣き出してしまいそうな母の悲しい笑顔を見てしまったから。
きっとそれが今生の別れだと何処かで理解してしまったから。
母は暗闇の中へ颯爽と躍り出ていった。ワザと小枝を踏み折り、茂る草木を駆ける。
まるで自分がここにいる事を伝えるように。
それは事実、その通りだった。母の姿はすぐに灯りに照らされた。違う、彼女自身が躍り出たのだ。
カミネを逃がす為に。
追っ手の反応は早かった。何せ彼等の目的は霞の血族の殲滅。標的自らが身を晒してくれたのだから歓迎こそすれ、追い返したりはしない。
ただ、その拍手は勇ましいにも程がある。
彼等は躊躇無く剣帯から獲物を抜き放ち、声を荒げて標的の発見を叫ぶ。
全ての灯火が一斉に母の姿を追った。
その動きは一目見て訓練された者達である事が分かるほどに揃っている。逃げ道を塞ぐようにジワジワと彼等は母の姿を取り巻いていく。
母の姿が何とか闇の中に消えそうになった時、カミネは思いがけずに腰を上げた。すぐにでも母を追い掛けようとして、その足はどうにか踏みとどまった。
「向こうに走りなさい」
優しい母の声が耳元で聞こえた気がした。その方向は母の去っていった方向とは真逆だった。
母の示した方向は暗い。何処までも闇しか見通せない。
対する母の去っていった方向は同じ暗がりだが、ポツポツとした灯りが見える。それは道先を示すような形で奥ばっていて、とても魅力的に見えてしまう。
しかし、何度もそちらに足を進めようとすると母の声が鳴った。「向こうに走りなさい」、ただその一言だけが何度も繰り返し聞こえてくる。
カミネは何度も悩みながらも、ギュッと歯を食いしばるとその灯りに背を向けて走り出した。
暗闇の中をひたすらに走るのはとても辛かった。ゴールの見えない駆けっこはどこまでも続いている。それでいて後ろからはいつ家族以外の人間が迫ってくるかも分からないのだ。
いつやってくるか分からない死神に、果てしないコース。それは幼い少女に絶望を感じさせるのに十分な拷問だった。
もう、どれくらい走ったのだろうか。何度転んだのかも覚えていなかった。膝小僧は擦り傷だらけ、つい数日前に母に作ってもらったばかりの服も飛び出していた小枝に引っ掛けて何カ所もやぶれてしまった。足の感覚なんて物は既に無く、ただ動いているという感覚だけを感じている。
鉛以上の重さになった足が出しゃばっていた木の根に引っ掛かった。
抵抗する術も無くカミネはべちゃりと転んだ。膝にはまた擦り傷が一つ増え、血が滲む。
痛い。
涙が溢れた。
父も母もいなくなってしまった。友達も、村に住む他の家族も。皆……
一人は淋しかった。心細かった。怖かった。
それでもカミネはゴールの見えない暗闇を泣きながら歩き続けた。
まだ、母の言葉を信じたかったから。
そうしなければきっと少女の足は止まってしまう。
何かにすがらずとも歩き続けられるほど、少女の心は強くない。
だから――
その時、再び木の根に引っ掛かり転びそうになったカミネを抱き留めた手があったのは奇蹟に違いないと思った。その腕は細かったがしっかりと、それでいて柔らかく少女だったカミネの体を受け止めてくれた。
「良く頑張りましたね〜♪」
間延びした、この状況の雰囲気にはあまりにも似合わない声だった。
しかし、その声はひどくカミネを安心させた。
こんな人の手の全く入っていない森の中であるにも関わらず、ほつれ一つ所か汚れ一つ着いていないエプロン。それにやはりこの場には全く似合わないほど長い丈のフレアスカート。それはカミネが後に知る所のエプロンドレス――メイド服と呼ばれる物だ。
そして何よりもカミネを安心させたのは鼻孔を擽る柔らかい香り。
それはカミネの傍についさっきまでいた母の優しい匂いに似ていた。
そんな優しさと温もりに抱かれて、小さな少女の記憶は途切れていった。
ただ、一言「おかぁさん」という悲しい呟きを残して。
ロマリア=シュペルディイムにとって人を殺すという行為はとても自然なモノになっていた。何故そうなったかとかではなく、気付いた時にはそうなっていて、そう感じるようになっていた。
人が毎日何かを食べるのと同じように。
人が呼吸する事のように意識しなくとも自然に。
男の子飼いだった時にはまだ、いくばくかの躊躇いを意識の片隅に覚える事もあった。が、いつの間にかそれすらも消えてしまっていた。
本当にいつの間にか。
それは自分が人でなくなってしまったからなのかもしれない、とロマリアは思った事がある。人が生きる為に牛や豚を躊躇無く殺すのと同じように。
しかし、ロマリアは人を食べる事など当たり前であるが、しない。
だから彼女はその行動を生存本能のようなモノだと解釈している。
狩りをする生物は基本的に自分たちが必要な餌の分だけ狩りをする。しかし、時として生物はその生態系バランスを維持する為に多くの無駄な狩りをする事があったり、また自らの種族の個体数を減らす事によって全体的なバランスを維持する事がある。
自分の行っている事もそれに近いのだと思う。
霞の血族という個体数は圧倒的に少なくなってしまった。ならば、この世界のバランスを保つ為にはヒトという存在の絶対数を減らす必要がある。
だからロマリアは出来る限り効率良く人を殺す事にしている。
その最たる方法は国という無駄な囲いを自分が管理している。もしくは出来ると思っている者を全て殺す事だ。そうすれば後は勝手に、人という生き物は個体数を減らしていく。
無用な者にすがっていた為に低下している自立心が引き起こす混乱。
自己欲望に思うまま従う為に起こる無意味な闘争。
そしてそれによって引き起こる貧困と虐殺。
それは時として不公平な采配を見せる事もあるが、神に見逃された者を残して確実に人という生き物の個体数を減らしていく。
その様を見て、ロマリアは世界という天秤がほんの少しだけ水平に近づくような絵を思い浮かべる事が出来た。
霞の血族と人という存在の間には数えるのが嫌になるくらい数の差が存在している。だからそれは一度や二度では済まない。何度も、何度もロマリアはその方法を使ってバランスを取ろうと試みて、その揺れが止まるまでを眺めた。
今回天秤のバランスを元に戻そうとして彼女が選んだ国は変名国家ニフラだった。
選んだ理由は特にない。
強いて言うのならばロマリアがどの角度から重りを減らそうかと考えている時に、目に止まったのがその国であっただけのことだ。単にその場所から降ろすのが効率的であると思ったからだった。
しかし、それは予想を遥かに上回って困難だった。ニフラを支えるロイヤルガード達は自分よりも腕の立つ者達ばかりであったし、その警戒態勢にも隙は無かった。特にレスティアの存在は恐ろしかった。一目見た瞬間に本能で勝てない事を悟った。苦労して何日もかけたトラップを汗一つかかずに払い除けられた時はもうどうしようもないんじゃないかとも思った。
だが、神様の気まぐれはまだこっちを支持してくれているらしい。
ロマリア自身はまだ野放しにされている。
何よりも彼女がいた。
カミネ=ハインアート。
彼女の容姿を見た瞬間に泣きそうになった。
空よりも深い藍の髪と瞳。
それは紛れもない霞の血族の証だった。
今すぐに彼女を抱き締めて泣いてしまいたかった。
しかし、瞬間的に理性を抑え込んだ。
彼女は憎むべき囲いの中にいた。
変名国家ニフラの柱、ロイヤルガードの一柱。無名王女の傍に――
何故?――そう思わずにはいられなかったが、逡巡して直感した。彼女はまだ良く理解していないだけなのだと。
だから自分が彼女にそれを教えてあげないといけない。
きっと彼女は分かってくれる。
だって彼女は家族なのだから。
霞の血族の絆は何よりも強いモノだとロマリアは信じて疑わなかった。たかだか囲いの中でふんぞり返っているだけのお姫様に負ける訳がないのだと。もし、多少の躊躇いがあるようなら“彼女”を殺してしまえばきっと大丈夫。それで吹っ切れてくれるはずだと……
だが、カミネは立ち塞がってしまった。
ロマリアの前に、頑なな壁となってそびえ立った。
その時、ロマリアの中に居着いていた不公平な神様は囁いた。これはもう「魂を解放するしかない」と。
彼女もそうするしかないのだと同意した。
彼女は手強かった。今まで戦ったどんな相手よりも。
しかし、彼女には迷いがあった。
だからロマリアはそこを突いた。
突いた途端、カミネは恐るべき力を発揮してくれた。いや、おそらくはそれこそが本来の彼女の力なのだろう。自分と戦うという迷いが彼女に枷をはめていたに違いない。
カミネの剣は激しかった。どの一撃も貰えば確実に致命的な軌跡を描いていて、ロマリアはそれを紙一重でかわす事に全神経を注ぎ込まなければならなかった。それでも瞬く間に彼女は傷付けられていった。慣れ親しんだ痛みと共に、血が筋を成して体を伝った。
だが、それこそが彼女の狙い。
カミネの放った閃光のような風の砲弾を避ける事が出来たのは、一重に彼女の仕掛けが作動するのが間に合ったおかげだった。間一髪と言って良いだろう。やはり神はまだ私をひいきしているのだとその刹那に感じた。
全身に血が巡る感触は久しぶりだった。
決められた道筋を朱は規則的になぞっていく。
それは分かる者にしか分からないだろう不自然な軌跡。
そして更に、それが不自然だと分かっても、瞬間的にその意味に気づく事が出来る者が果たして何人この世に存在するのだろうか。
それぐらいに自然で不自然な模様。
それは文字であり、呪いであり、力だった。
霞の血族が一族ではなく血族と呼ばれる由縁は、彼等の血液にこそその強大な力が宿っているからである。それ故に彼等は周囲に位置した国々が恐れるほどの魔力を要していたのだが、ロマリアにはそれを発揮するだけの魔力は流れていなかった。せいぜいが一般的な魔術師のそれを少し上回る程度であった。
しかし、それは彼女が発揮出来ないだけであって、容量の少なさはあるが、それでも彼女の血液自体に宿る魔力量は素晴らしいモノだった。
だからそれは当然の様に活用される方向でロマリアを育てた者達は話を進めた。
その結果が“それ”だった。
目に見えないほどに浅く体に刻まれた道筋は彼女の血液を流す溝だ。そこに紅い水流が走る事でそれは初めて意味を成す。血が魔力を担い、溝がその意味を示すのだ。
身体能力限界破壊の呪印(フィジカルリミットブレイク)。
ロマリアの全身に張り巡らされた呪印は彼女の肉体能力を人としての枠から解き放つ。彼女はカミネの放った風の咆吼に飲まれた瞬間にそこから体を引きちぎり脱出した。
周囲の時が止まったような感覚の中をロマリアは容易く駆け抜けた。今までの剣撃のやりとりがまるで嘘だったかのよう。
全てはただ、彼女の魂を解放するためだけに――
少しでも与える痛みを抑える為に、優しく。
母親が眠っている幼子の頭を撫でるかのように柔らかく。
開け放った窓を通り抜けていく風のように鮮やかに。
ロマリアの刃はスルリとカミネの体を通り抜けていった。
洗練された動作などでは到底追いつかない。それはもう一種の芸術の領域である。
せめて安らかな死を――
ロマリアは祈りながら、崩れ落ちるカミネを焼き付けるように見つめていた。
どす黒いシミは彼女を包み込むように広がっていく。その出血量は既に致命的な量に達していた。
もっと見ていたいと思った。
いつまでも彼女と二人でいられればどれだけ幸せだったかと思う。
しかし、それは叶わない事だった。
だからロマリアはカミネの魂を解放したのだ。
そして、まだ彼女にはやるべきことがあった。また大きく傾いてしまった天秤を少しでも戻しておかなければいけなかった。
きっと彼女も応援してくれているとロマリアは思った。
何故なら、
――ロマリアの背中を押すように強い風が吹いたから。
興奮まだ冷め止まぬまま、僕はお姫様に駆け寄った。
「あ、ツバメ様」
そういって振り返った彼女の瞳はほんの少し潤んでいた。勿論、今し方見たばかりの奇蹟に心奪われていたのだ。
お姫様のように祈りの儀に見られる奇蹟で涙を流す人達は多い。
やはり涙するのは女性が圧倒的に多くて、その光景に感動したままその場で立ちすくす何ていうのもよく見かける光景。
「ツバメ様、今日も素晴らしかったですね。いつもの事ですけど、やっぱり私はこの瞬間がきっと一番好きです」
「僕もだよ。あんなの僕の世界じゃきっと見れない光景だしね」
そして僕とお姫様が毎回同じ感想で盛り上がるのもまたいつもの光景だった。
でも、今日はそんないつもの光景に大事なピースが一つ欠けていた。いつもいて当たり前の彼女がいないんだ。
「そういえばカミネは?」
いつもならここら辺ではしゃぐ僕とお姫様を遮るように会話に割って入ってくるはずのカミネの姿が無かった。常にお姫様の傍に常駐しているはずの彼女の姿がないのはどことなく物足りないものがある。あって当たり前のモノがないと言うのはやはり淋しいし、お姫様も少し悲しそうだ。
「今日は一緒にはいられないそうなんです」
「そうなの?」
「はい」
「またロマリアさんと一緒なのかな?」
「だと、思います。レスティアは詳しく教えてくれませんでしたけど」
「でも、今日この時間にここにいないっていうのも何だかおかしな話だよね。だって、祈りの儀は今日最大のイベントな訳だし、カミネがロマリアさんの護衛をしてるにしても連れてこないっていうのも何だか変な気がしない?」
「言われてみればそんな気もしますね。
でも、だからといってレスティアに追求するのもちょっと……」
まさに善人である彼女だからこその悩み方だった。そんなに知りたいのなら深く追求するなり、心の中を覗いてしまえば良いのだ。彼女は無名王女なのだからそれくらいの権限は持ち合わせているし、それを出来るだけの地位にいるのだから。
でも、それでもそこで悩んでしまうのが彼女という人間の素晴らしい所なんだろうと僕は思う。だからこそ彼女の王女という肩書きは疑いたくなるくらいにしっくりくる。
「それじゃあ僕が聞いてみようか?」
「え?」
「そりゃ、お姫様が教えて貰えなかった事を僕が聞けるとは思わないけどね。
でも、もしかしたらってこともあるし。まぁ、聞くだけ聞いてみるよ」
「良いんですか?」
「勿論。でも、あんまり期待はしないでね」
「はい、ありがとうございます!」
そんなに喜ばれても僕としては困るんだけど、まぁ良いかな?
だって彼女がこんなにも喜んでくれているんだし。
それに何て言うかいつも隣にいるはずの彼女がいないっていうのはどうにも落ち着かないものなんだよね。
彼女だけじゃなくて、その周りにいる僕等も。
でも、大見得はやはり切る物じゃない。
僕がそう痛感したのはお姫様と別れてからわずか数分の事だった。
まぁ、簡単に言っちゃうとレスティアさんに予想通り一蹴された訳です。しかも話を切り出す前に、さらりと僕の心に土足で爽やかに踏み込んで荒らして去っていきました。正直、僕の心はもうずたぼろです。思い出しただけでも……
ていうか何でレスティアさんはあの事知ってたんだろ……もうこれからずっとあの人に怯えながら生きていかないといけないのかと思うと……
まぁ、人にはそれぞれやっぱり知られたくない事の一つや二つや三つくらい、むしろそれ以上にある訳で、僕はそれが既にあの人の手中に全て収まっているのかと思うともう生きた心地がしなかった。
とりあえずお姫様にどうにかごまかしつつ、事の次第を報告しようとフラフラと彷徨っていたると、僕は頭に既に慣れ親しみつつある重みを感じた。
「僕は今あんまりそういう気分じゃないんだけど……」
「何じゃお主、わらわが折角構ってやっておるのじゃからもう少し感謝せい。わらわの子等ならば泣いて喜んでおるところじゃぞ?」
そんな事言われても僕はこの世界の人じゃないからどうにも。何より彼女は神様という以前に、僕の目にはちっちゃい生意気な女の子くらいにしか映ってないのもどうかと思う。神様なんだからもう少し威厳のある姿で出てきて欲しいものだ。
というかこの状況ってどっちかっていうと僕が構ってあげてるんじゃないのかな?
「で、オミリア、僕に何か用?一応、僕これでもお姫様探してるんだけど……」
「無名王女ならついさっきニフラに呼ばれて広場から出て行ったがの」
「え……」
言われて広場一体を見回してみても彼女の姿は見当たらない。この様子だとどうやら本当にいなくなっちゃったみたいだ。
さて、どうしたものか。期待しないでとか言ったけど、それでもお姫様に報告はしておきたい。今すぐ無理だったっていうのも何だかなぁと思わないでもないけど、後から言うのもそれはそれで言いにくいと思うし。
「相変わらずお主は抜けているのか、鋭いのか良く分からんのう」
「それは誉めてるのか、けなしてるのかどっちなのかな?」
「両方じゃの」
かんらかんらと笑いながらオミリアはきっと誰かに注いで貰ったのであろうお酒の入ったジョッキを一気に煽る。視界の隅には既に彼女に飲み比べを挑んで返り討ちにあった被害者の皆さんが寝っ転がっている。これもいつもの事なんだけど、これだけは改善策を考えた方が良いんじゃないかと僕は思う。
「つまりお主が余り考えすぎても意味がないという事じゃ」
「何かそれだと僕だめだめじゃない?」
そりゃいつもビシッとしてる訳じゃないし、レスティアさんとかカミネみたいな完璧超人でもないけどさ、これでも僕だって考えて行動する訳で、というかむしろどっちかっていうと猪突猛進とは真逆だと思うんだけど。
「馬鹿じゃのう。これは誉めておるのじゃよ」
絶対に嘘だと思うんだけど……
「そういえば――」
僕の疑いの視線をはぐらかすようにオミリアは明後日の方を向く。強い日差しは相変わらずだけど、彼女にはそんな事などお構いなし。北国の方で冬に来てそうな服装の癖に汗一つかいていない。むしろ風が彼女の周りにだけ吹いていて暑さを感じさせていないような気もする。
オミリアの髪が乱れてこちらに風が流れてきた。
僕にはそれがとても不自然な絵に映って仕方が無い。
だって彼女は神様なのに、その彼女の髪を風が乱す事が出来るなんて。風だってきっと彼女の思い一つでどうにでもなるに違いないはずだから。
「先程から風が荒れておるのぅ」
それでも彼女はそれが当たり前のように口にする。
まるで子供のはしゃぎ回る様子を眺める母親のようだ。
「無名王女はまだしばらくは戻らんと思うぞ?」
その言葉に僕はとてもいじらしい物を感じた。
言葉はとても穏やかだけど。
その一言一言はとてもゆっくりと紡がれたけど。
僕は行かなければいけない気がした。
彼女を待っていたら間に合わない。
「ゴメン、オミリア。お姫様には適当に言っておいて!」
言った時には既に走り出していた。オミリアの言う事は案外正しいのかもしれない。理由を考えるよりも先に体が動いていた。
でも、それが間違いなのかと聞かれても僕はきっとそれを認めたりはしないと思う。
ただ、後悔したくないから。
そのために僕は行き先の分からない道筋を走り出した。
ゴールはきっと、今急かすように僕の背中を押す風が教えてくれるに違いない。
カミネ=ハインアートが彼女に出会ったのはレスティアの手によって彼女が変名国家ニフラに連れてこられてから一年程が経った頃だった。
当然の事ながら身寄りの無かったカミネはレスティアの遠縁にあたるハインアート家に養子として迎えられた。ハインアートの夫婦は中年だったが、子供はいなかった為、レスティアの申し出を快く受け入れ、カミネを可愛がってくれた。二年という歳月は当初は完全に防ぎがちだったカミネの心を少しだけ開けて、レスティアとこの夫婦とだけは多少の会話をかたことながら交わすようになっていた。
そんなある日の事だった。
ここ数日からカミネはレスティアに連れられて城に来るようになっていた。城内であれば目は殆ど行き届くし、信頼出来る人間ばかりである。多少の会話なら可能になったカミネを少しずつ他人に慣らせていこうというレスティアの計らいである。
まだ幼少のカミネはフカフカの絨毯を裸足で歩いていた。レスティアに履かせて貰った靴は両の手にそれぞれ片方ずつ。素足に感じられる絨毯の柔らかさはくすぐったくも気持ち良かった。
レスティアには彼女の使用している部屋で少しの間待っているように言われたのだが、当時ふさぎ込んでいたとはいえ、それでも好奇心旺盛な子供である。大人しく待っていろというのが無理な話だった。幾人ものレスティアと同じ服装の人や兵士達を物陰に隠れてやり過ごし、彼女はいくらかビクビクしながらも城内を探検していた。
きっかけはレスティアの影に隠れて城内を歩いていた時の事で、彼女と似た服装をした女性がレスティアに頭を下げ、少し立ち話をしているのを聞いたからだった。何でも最近は良く話すようになったとか、表情に彩りが出てきたとか、おてんばになってきて困るだの等そういった内容の話だったと思う。ただ、探検という単語だけが耳に残っていて、レスティアに尋ねたその結果を現在こうして真似ているのである。
なるほどどうして。霞の血族の村にいた時とはまた違った楽しみがあった。あの頃を思い出すのは辛かったが、それでも少しは和らぐ。まだ思い出した日には泣いてしまって、レスティアに抱き締めて貰わねば眠れない日もあったが、それでもどうにかやってこれていた。現に今こうして城内を探索しているのがその成果と言えるだろう。
始めて見る光景やドキドキ感が程良く子供心を刺激してくれる。見つかったらレスティアに怒られるかもしれないと思ったが、それよりも好奇心が勝っていた。
しかし、いざ誰かに見つかった時、それはやはりビクリと叱られた時のように体が反応した。
「おねぇちゃん、おねぇちゃん」
今思えばそれは見つかった事には変わりないが、いちいち驚くほどの事でも無かったと思う。しかし、それは今思ったところで変えようもない事実であり、本当に驚いたのだからこれはこれできっと微笑ましい光景だったのだろう。少なくとも今のカミネにとっては。
それはともかくとして、カミネは彼女に見つかってしまった。
それはとても小さな追跡者だった。
黒くて長い髪をふわふわと弾ませて、少女はカミネに向かって駆けてきた。もっともそれは駆けると呼ぶにはあまりにも危なっかしい動作で、見ているこっちまではらはらさせる。今にも転けるのではないかと見ている方は気が気でなかった。
そして少女は案の定、容易く転んだ。
ボフッと可愛らしい音を立てて頭からフカフカの絨毯にダイブ。
「あ――」
思わずカミネの口からも声が漏れる。
どうしたら良いのか分からず、おろおろと周りを見渡す。勿論、視線の先には誰もいる訳が無く、カミネはますますどうしたら良いのか分からない。
さらに転んだ少女は一向に起きあがる気配を見せず、指先一つとして動かさない。
もしかしたら打ち所が悪かったのだろうかと心配になる。
「ダイ、ジョウブ?」
慌てて駆け寄って声を掛けるもその言葉は酷くぎこちない。それもそのはずで彼女はニフラの公用語を話す練習を始めてからまだ一週間と経っていないのだ。それでもいくつかの単語を聞き分け、口に出来るようになったという事は親心にレスティアすら満面の笑顔で誉めた程だった。
だからそんな慌てた状態で言葉を口にしてしまうとどうしても発音が濁ってしまう。心を落ち着かせてもう一度。今度はきっと大丈夫だと思いこんで言葉を口にする。
「だい、じょうぶ?」
さっきと比べて遥かに違和感のない単語が口から出る。胸中でホッとしつつも、それをどうにか頬を紅潮させるだけに留める。
「…………」
しかし、やはり反応はない。
ここまで反応がないということはやはり打ち所が悪かったのだろうか。
もう一度周りを見渡してみても誰も通りかかる気配はやはりない。不安が胸中を支配していき、今にも泣き出したくなってくる。
だが――
もうダメだと思った時に自分のスカートを何かが掴む感触を感じ取った。
慌てて顔を下に向けるとそこにあったのはとても小さな手。そして、その手はしっかりとカミネのスカートの裾を逃がすまいと掴んでいた。
「えへへ〜」
少女はようやく捕まえたと言わんばかりの満面の笑みをカミネに向けていた。純真無垢な笑顔の主はカミネのスカートの裾をしっかりと握ったままゆっくりと起きあがった。
カミネもそれに合わせて一緒に立ち上がり、少女がまた転ばないようにいつでも手を差し出せるよう構えていた。
「大丈夫?」
その上で更に三度目の問いかけ。
恐らくは大丈夫だろうとは思うが、やはり確認せずにはいられなかった。
もし、気丈にも痛いのを耐えているのなら言って貰った方がずっとありがたい。
「うん!」
しかし、もっとありがたい事に少女は元気良く頷いた。
更には何が気に入ったのかカミネにギュッと抱き付いてくる。
「おねぇちゃん、おねぇちゃん」
腹部にぐりぐりと押し当てられる頭部は微妙な痛みを感じさせて鬱陶しい。
けれどもそれは何故か嫌ではなかった。
振り解くにはいたらず、不快感どころかどこか温かい物すら感じていた。
それはカミネにとってとても不思議な感覚で……
不意に少女に腕を引かれた。
まとわりつくようにして全身を腕に絡ませ、カミネの体をぐいぐいと引っ張っていく。
「あ、う――」
躊躇うカミネの腕を少女が更に引っ張った。
抵抗する事など簡単だ。振り払って背を向ける事だって容易に出来るだろう。
でも、何故だろう。
少女に抗えない自分がいた。
それどころか足すらも自然と彼女の方に向かって動き出す。
「えへへ〜」
少女が何を喜んでいるのかは分からない。
でも、今はそれで良いのかもしれないと思えた。
気付けば少し頬が緩んでいる自分がいた。
それがいつぶりの笑顔かなんて考えもしなかったけど、その時確かにカミネは笑っていた。その笑顔はとてもぎこちない物だったけれど、彼女の心の中の何かを溶かしていくような温かい気持ちがそこにはあった。
それが遥か遠く、カミネ=ハインアートが無名王女と初めてであった記憶だった。
その記憶は今も色褪せることなく、大事にアルバムの中に仕舞われていた。
それを大事に胸の中に抱いて、カミネはまた一枚アルバムのページを捲る。
刹那、カミネの耳に何かの音が響いた気がした。
その音は心地良い、ひどく馴染んだ音の様な気がした。
そうまるで、優しい風のような――
小説のページに戻る /W 想い、違えて に戻る /Y 望む強さ に進む