W 〜 想い、違えて 〜



 月神祭を二日後に控えた夜。
 僕は暗殺者に狙われている当の本人二人よりも狙われている心地で、既に精神的に参っていた。常にどこからか見られているのかもしれないという錯覚を覚え、必要以上に警戒が続いていて無駄な体力を消耗し続けていた。
 要するに僕、河渡 燕は心身共に疲れ果てている訳です。
 対して狙われている当人達は至って元気そのものだった。
 ニフラ様はまぁ元気っていうかいつもと変わらない立ち振る舞いだし、たまに廊下ですれ違った時は色々とからかわれたりする。お姫様の方も特に気にすることなく、公務にお勉強、お茶等々こっちもいつもと変わらない。
 僕からすればちょっと肝が据わりすぎなんじゃないだろうかと思わずにはいられない。何か僕が二人の心労を軒並み引き受けてる感じだ。
 カミネやレスティアさんもいつもと変わらない。どちらも上手い事お互いのスケジュールを調整してどちらかが必ずお姫様の隣にいるようにしてるけど、それもまぁいつもの事。
 ロマリアさんにも事情は話されていて、彼女の部屋の前には警備が付くようになったし、親善大使としての仕事以外ではおいそれと城下町に出たり出来なくなっている。カミネがいるときは外出したりしているが、一人の時は大抵部屋の中にいるみたいだ。本人に聞いたところによると部屋にいても目を通さないといけない書類が結構あったりとかでそんなに暇でもないらしい。
 しかし、この事態に唯一恩恵を受けてしまっていたのがお姫様だった。
 彼女はカミネやロマリアさんがお茶の時間に必ずと言って良いほどに相席するようになったのでかなりご機嫌だった。お茶の時間には終始ロマリアさんにアルステッドの話を聞かせて貰ったりしている。
 もっとも僕もこれにはかなり興味があったので、聞いていてもつまらないなんてことは無かったんだけどね。
 むしろお姫様と同じように次から次へとロマリアさんに質問を浴びせて、答えを聞いては感心するという行動を彼女と二人して続けていた。
 恐ろしいくらいに平和だった。
 まるで嵐の前の静けさのような……

 お城の情景とは違い、城下町の様子は日々というより文字通り刻々と変化していた。月神祭まで後二日、町は祭りの準備で彩られていき、それに比例して活気付いている。
「毎度の事だけど、今回も気合い入ってるなぁ」
「月に一度のお楽しみですからね」
 僕達は城下町の視察に来ていた。これもお姫様の公務の一環だ。彼女が町の様子を逐一見に来る事で、町の人達はさらに活気付く。
 今日の視察にはロマリアさんも一緒で、彼女は僕が最初この光景を見たのと同じように呆然としている。
 そりゃ驚くよね。誰でもこれだけの盛り上がりを見せられればびっくりしますよ。既にお祭り始まってるんじゃないだろうかって、勘違いしたっておかしくないくらいなんだから。
 既に祭りの賑わいを総出で担う露店のほとんどは開いていて、行き交う人々に声を掛けている。これは明日の宣伝も兼ねていて、露店戦争はもう始まっているのだ。
「話には聞いていましたけれども、これは凄いでございますねぇ」
「ですよね。僕も初めて見た時は驚きましたよ」
「この国は本当に平和でございますねぇ」
 ロマリアさんは慈しむようにその言葉を口にする。
「本当に。暗殺者がいるなんて信じられないですよね」
「案外暗殺者の人もこの国を気に入ってくれて、そんな危ない事止めてくれるかもしれませんよ?」
「そうなれば良いよね」
「はい」
 お姫様の話は儚い理想だと分かっているけど、そうなってくれれば良いなとは思う。
 それだけの魅力がこの国にはあると思うから。
「あ、ツバメ様あれ食べませんか?」
 お姫様の目線の先には一件の露店があった。
 そのお店からはこの時期特有の強烈な暑さを忘れさせてくれるような素晴らしい空気が放たれていた。対照的なひんやりとした空気は、それだけで僕の体から熱を奪い去ってくれた。
 そこは僕がスーリアに来て初めての月神祭で食べたフローズンジュースのお店だった。これはジュースの氷を使ったかき氷で、シロップの代わりに練乳よりも甘い練乳のようなモノをかけて食べる。
「良いね。食べよう、食べよう」
 この暑さにだれまくっている僕に断る理由はない。むしろ大歓迎。
「ロマリアさんはどうしますか?」
 レスティアさんとカミネは断らないだろうと踏んだ僕はロマリアさんに尋ねる。彼女が食べないのに僕達だけ食べる訳にもいかないしね。
「是非、頂くのでございますよ〜」
 ロマリアさんは修道服の色に合わせたフードの中から顔を覗かせて答える。その額にはやはり暑いのだろう、結構な汗と多少疲労の色が見えた。
「では少し休憩にしましょうか」
「賛成」
「助かるのでございますよ〜」
 僕とロマリアさんは全く同時に賛成の意を示した。

「ふはぁ、涼しいねぇ」
「極楽なのでありますよ〜」
 石の壁というのは非常にひんやりとした空気を感じさせるモノで、見ているだけでも涼しくなれる。勿論、感じ、だけじゃなくて、実際にこの空間にはそういう魔術が使われているのだけれど。
 僕達はフローズンジュースを各自購入して、すぐ近くにあったここに避難していた。
 この建物は普段食堂として使われている。
 しかし、今はそれに加えて休憩所として解放されてもいた。
 月神祭を間近に控えたこの時期、こういって本来の営業に加えて休憩所の役割を果たしているお店はとっても多い。ある意味一種のステータスであるとも言える。
 特に季節柄の猛暑のせいもあって、休憩所としての建物はおおいに賑わう。それをターゲットに本来ならないようなメニューが追加されたりするくらいだ。日本で言うなら、夏になって冷やし中華始めましたの札がお店の入り口に掛かるのと同じような感覚なのかもしれない。
 本来ならこういう役割の建物っていつでも混んでるイメージがあるかもしれないけど、ここではそういうことはない。それは休憩所として解放されている建物が驚くほど多いのと、みんな祭りを楽しみたいために準備に余念がないからで、僕達は誰かに席を譲って貰ったりすることもなく、あっさりと座る事が出来た。
 紙コップ越しに感じるフローズンジュースの冷たさが心地良い。手だけじゃ飽きたらず頬ずりだってしてみたり。あぁ気持ちいい。
 冷たさを味わうようにちまちまと氷を口に運ぶ。
 口の中にひんやりとした氷の食感と爽やかな酸味、そしてコクのある甘みが広がる。
「美味しいなぁ」
 僕はオレンジに似たアッキスの酸味をじっくりと堪能する。
 アッキスはこの世界で僕の好みに一番あった果物だ。オレンジに似た味がしているけど、それよりも遥かに甘く、それでいてさっぱりしている。とりあえず僕に言わせればオレンジより全然美味しい。他にもこっちの世界に来てからいくつか未知の果物を体験したけど、未だにアッキスが一番美味しいと感じる。
 まぁ、必ずしも美味しい果物ばかりを食べさせて貰った訳でもないしね……
 一度は何をトチ狂ったのかカボチャ大のモノをレスティアさんに渡されて、「明日になれば熟して美味しく頂けますから〜♪」とか言われたこともあったんだよね。するとまぁ翌日には恐ろしい事にそのカボチャはモンスターになってましたとさ。
 ……危うく僕が逆に食べられる所だったよ。
 思い出しただけでも顔が引きつる。
「どうかしましたか〜♪」
 えぇ、ちょっと思い出を噛みしめてたんですよ。
「まだお若いのに大変ですね〜♪」
 その大変の多くには貴女が関わっているような気がしてならないんですけどね、レスティアさん。
「まぁ、若いうちの苦労は買ってでもしろって言いますし〜♪」
 どっちかって言うと貴女によって引き起こされるのは苦労というより悲劇とか惨劇っていう言葉のがしっくり来ると思うんですけど、どうでしょう?
「ツバメ様も一応男なんですから、細かい事にこだわっていてはいけませんよ〜♪」
 全然細かくないと思うんですけど。ていうか一応ってなんですか、一応って。僕だってこれでも一人の男ですよ。
「ケダモノですね〜♪」
 それは違います。断じて。
 何を言い出すんですかこの人は。気を付けないと僕の人格が勝手に改算されてそうだ。
「ケダモノがどうかしたんですか?」
「い、いや別に何も」
 首をかしげるお姫様に慌てて答える僕。
 そして、その言葉を聞いた途端に正面から突きつけられる殺気は恐ろしいほどに鋭い。
 ……勘弁してよカミネ。
 カミネの視線にビクビクしていると、横からカップの中にスプーンが突っ込まれた。スプーンは迷うことなく練乳シロップのたっぷり掛かった部分を山盛りで持って行く。
「ああ……」
 僕の叫びも虚しく、白とオレンジの山を盛ったスプーンは躊躇なく、持ち主の口の中に吸い込まれていった。
「アッキスも甘くて美味しいですよね」
 お姫様がウットリしてその礫を飲み干した。コクリと喉を鳴らすその仕草が可愛くも、今は憎い。
「い、一番美味しい所が……」
「……女々しいヤツめ」
 カミネが呆れたようにボソリと言った。先程レスティアさんと男云々なやりとりをしただけに、彼女の一言は僕の心に深く刺さる。
 しかし、僕だってこのまま彼女にしてやられたままというのは口惜しかったので、返すようにボソリと言ってやった。
「自分だってお姫様の隣に座れなくてむくれてたくせに」
「貴様ッ!」
「何だよ!」
「はいは〜い、二人とも落ち着きましょうね〜♪」
 仲の悪い犬のように唸りあう僕達の間に、珍しくレスティアさんが割って入った。
 いつもなら完全放置で高みの見物を決め込むのに、今日に限ってだった。客人のロマリアさんがいるからとかそういうのは理由にならないだろう。レスティアさんはそういうのをほとんど気にしない人だし。
 しかし、レスティアさんの声はいつものトーンでありながらも、どこか底冷えするかのような迫力を含んでいた。本気で止めようとしているのが今までの経験から理解出来る。
 何故か?
 導き出される答えは一つだけだった。
 僕とカミネは壊れかけた機械のような鈍重さで首を動かし、彼女を見た。
 今にもこぼれ落ちそうな程目尻に涙を溜めたお姫様。
「……何でお二人はいつも喧嘩ばかりするんですかぁ」
 やばい。表情は明らかに泣いてるけど、声だけは泣いてない。
「ま、まぁ落ち着こうお姫様。ほら、良く言うじゃないか。喧嘩するほど仲が良いって」
「そ、そうですよ、姫様」
 僕達は必死になって作り笑いを浮かべている。共に上手く笑えていないのは分かっているけど、そんな所にまで気が回らない。とりあえず何とかして笑わなければという使命感だけが、各々の感情はどっかに置いておいて、今の僕達の協力関係を作り上げている。
「えぅ、本当ですか?ひぐっ」
「本当、本当」
「本当です」
 言い合わせたように首を縦に振る。
「二人とも反省しているようですし、許して差し上げてはいかがですか〜♪」
「そうでございますよ〜。お二人とももう仲良しさんのようですし〜」
 レスティアさんとロマリアさんも助け船を出してくれる。
「ほら、僕ももう怒ってないし、ね?」
 そう言いながらお姫様の目尻を指で拭う。
 そもそも僕は元から怒ってないんだけれども、お姫様の機嫌が直ってくれるのならこの際いくらでも泥くらい被る。だって嫌じゃない?二時間も正座してお説教されるんだよ?
 しかも大理石の上で。
 カミネの視線が又しても僕に突き刺さってるけど、さっきの今では怒る事など出来る訳もなく、あらん限りの殺気を放って我慢している。
 もう僕の方としてもカミネから殺気を貰うのに慣れてきてたりする。ただ、追いかけられるのだけは絶対に僕の方がダウンするから何とかして欲しい。
「えぐっ、はい。ぐすっ」
 心の底からホッとする。
「ほら、もっと食べる?」
 僕は自分のフローズンジュースの入ったカップを差し出す。少し溶けてしまったけど、これくらいでも練乳と氷の溶けたジュースが良い具合に混ざってて、又違った美味しさがある。
「良いんですか?」
「うん」
 差し出されたカップから一すくいして口に。
「美味しいです」
 少し目は充血しているけれど、お姫様はそう言って満面の笑みを浮かべてくれた。
 しかし、ここからが問題だった。
「じゃあ、今度は……」
 そう言ってお姫様が差し出したのは自分のフローズンジュースの入ったカップだった。
 それは僕のと同じようにちょっと溶け出していて、練乳の白と混ざり合っている。ジュースの色は赤だからイチゴかもしれない。この世界にもイチゴはあったし。
「…………え?」
「私だけが貰ってばっかりだと不公平じゃないですか。だから今度は私のを食べてみて下さい。ラズベリーも美味しいんですよ?」
 へぇ、お姫様のはラズベリーなのか、ってそうじゃなくて。
「はい、お口開けて下さい、ツバメ様。あ〜んです、あ〜ん」
 うん、あ〜ん。
 って、そうじゃなくてッ!
 それはやばいと思うんだ。
 いくらさっき仲直りしたばかりとは言え、流石にまずいんじゃないだろうか。
 いや、嫌だとかそう言う訳じゃなくて、むしろとっても嬉しいし、あ〜んってしたいんだけどね。やっぱりやばいと思うんだ。
 ……僕の命が。
 ほら、見てる見てる。もの凄い形相でこっち見てるよ。
 鬼が……
 チラリと盗み見ると、カミネが放送禁止になりそうなくらいの恐ろしい顔をしていた。とりあえずあれに凝視されれば子供は泣くと思うし、下手するとトラウマにでもなるんじゃないかってくらいやばい顔だった。
 正直に言ってしまうと鬼でも逃げると思う……
 しかも今回に至ってはレスティアさんも鬼門だった。
 いつも通りのミステリアスな笑顔を見せてくれてはいるけど、それは表情だけだった。彼女を中心にして発せられる何かが限りなく重く、鋭い。
 無言の圧力という意味でならレスティアさんのそれはカミネのモノを遥かに凌ぐ。
 先程まで賑やかだったお店の中が急に静まりかえり、誰もが息を呑むのにも躊躇っていた。そんな事が出来る人がいるなら、その人はまさに勇者と呼ぶに相応しい。
 でも今の僕にはその勇者が必要だった。
 この呼吸すら我慢しないといけないような現状を打破出来る勇者が。
「ほら、ツバメ様早くあ〜んして下さい。溶けちゃいます」
「え、え〜っと……」
 僕は体が全て石になってしまったかのように、指一本すら動かす事が出来ない。ただ、ただ、冷たい汗が頬を伝っていく感触を感じることしか出来ない。
 本当に、どうしよう……
 誰か助けてくれないだろうかと、横目をちらちらと向けてみても誰も助けてくれそうにない。それどころか目線だって合わせてくれない。
「…………」
 もう観念するしかないのだろうか?
 冷や汗が頬を伝っていく中、いよいよ気力に限界を感じて僕の口はゆっくりと開いていく。カラカラの喉に届く少しばかりの冷気は容赦なく僕の抵抗力を奪っている。
 その時奇跡が起こった。
 カサリ、と僕のフローズンジュースの入ったカップが本当に小さな音を立てて、振動とはほど遠いほどの感触を僕の手に伝えた。その感触が奇跡的にも僕の思考と理性を神業的なタイミングで呼び戻した。
「ちょ、ちょっと待って!」
 徹夜でカラオケを熱唱した時みたいなぼろぼろに掠れた声だった。
「お姫様、流石にそれは不味いと思うんだ!」
「えっ……?」
「ほら、だってみんな見てるし……」
「あ……」
 僕の必死の呼びかけにお姫様は何とか今僕達が何処にいて、それでいてどういう状況なのかを思い出してくれた。一瞬、彼女の周りだけ時が止まったのかと思うほどにお姫様は見事にピタリと止まり、おどろおどろと首を回した。
 そして顔を元の位置に戻してからまたピタリと止まる。
 僕とお姫様の視線が綺麗に重なる。
「えっと……」
 僕は何を言って良いのか分からず、申し訳なく頬を掻いてみる。いや、だって何か恥ずかしいし。
 ボッとコンロの火を勢いよく点けた時の音が聞こえたような気がした。
 お姫様の顔が彼女のフローズンジュースの色よろしく、いやそれ以上に紅く染まっていた。
「あう、えっと、ツバメ様。あの、これはその」
 しどろもどろになって良い訳しようとするお姫様。
 でも、それは全然言葉にもなってなくて、彼女はもう訳も分からずにフローズンジュースをその色と同じ顔で勢いよく口に運んでいく。やはりよほど恥ずかしかったのだろう。顔はもう僕の方に向けられていない。ちらちらと様子を見るためにせわしなく視線だけがこっちに向いたり向かなかったり。
 段々それは僕にも伝わって来て、見ている僕まで恥ずかしくなってきた。頬も熱を持ってきて、何だか僕も落ち着かない。とりあえず何をしたらいいのか分からず、無駄に溶けかけのフローズンジュースを掻き混ぜる。
 溶けかけのフローズンジュースは益々液体状に変化していき、冷たさも失われていった。
 それは僕の体温が吸い取られていったからなのかもしれない。
 とりあえず僕が何とかその細い生命線を繋ぎ止める事が出来た事だけは確かだった。
 そう、とりあえずは。

 ようやくお城に帰り着いた僕はクタクタだった。それこそ身も心も疲れ果てていて、色んな種類の汗を流してしまったので、一刻も早く洗い流してしまいたかった。勿論、その時の苦い体験も一緒に。
「何か色々と疲れちゃったなぁ。とりあえず汗も掻いちゃったし、お風呂にでも入っちゃおうかな」
「私もお風呂入りたくなっちゃいました」
「先に言っておきますけど、今のは僕が悪いんじゃないですからね」
 また変な汗を掻かないように今回はレスティアさんに対して、先手を打っておいた。また休憩所みたいな思いをするのは二度とゴメンだからね。
「責任転嫁ですか〜♪」
「断じて違います」
 僕はキッパリと無実を主張する。いくらなんでも冤罪だ。
 そりゃ確かに?僕もある種の男であるのだから一緒に入れるなら入りたいけれども……
「首だけで空中散歩をしたいのならどうぞお好きなように〜♪」
 だからしませんってば。
 僕は全力で否定する。だって命は大事だ。そうでしょ?
 何だかんだ、あれやこれやとレスティアさんに突かれ、カミネには何度も鳴神の口火を切られかけながら、僕は何とか自分に宛われた部屋に辿り着く。僕の部屋はお姫様の部屋の行く途中にあるので、彼女達はそのまま前で待ってくれている。
 僕はさっと着替えとバスタオルを手にとって再び部屋を出る。
「お待たせ」
 そう言ってまた僕等は歩き出す。
 ロマリアさんもやはりかなり汗を掻いていたらしく、彼女も途中にある自分の部屋によってお風呂セットを取ってくる。このままだとどうやらみんなお風呂に入りそうだ。ぞろぞろお風呂セットを持って歩く僕等の姿は何となくだけど、下町で銭湯に向かう集団に似ているような気がした。
 そういえば昔は僕も友達とこんな感じで良く銭湯に行った時期があったなぁと思う。特に何かを目的にしたりした訳じゃないんだけど、本当に良く銭湯に行った時期があった。
 もしかしたら家のお風呂の数倍の広さを持つ銭湯という場所に憧れる時期が、誰しも一度は来るのかもしれない。
 僕は風呂上がりにみんなで飲んだミカン水の味を思い出す。漫画やアニメではお風呂上がりはフルーツ牛乳だとかコーヒー牛乳を飲むのが通例なんだけど、僕等の間ではミカン水がメジャーだった。うっすらと付いたミカンの安っぽい味が当時まだ小中学生辺りだった僕等の味覚には良かったのかもしれない。値段もお馴染みの牛乳系に比べると安かったしね。
 でもやっぱり飲み方は足を肩幅に開き、腰に手を当てての一気飲みだったりする訳で、ついでに言うと飲んだ後に「ぷはぁ」とかわざとらしく言うのもお約束だった。今思うと何がしたかったんだろうね、あの頃は。
 今も行くと同じ事をやりたくなるのだろうか?こればっかりはその時のノリとかそういうのもあったりするし、もうかなり長い事行ってないから僕には分からない。案外、行ってみると懐かしくなってまたやってしまうのかもしれないよね。
 ちなみに一気飲みは体に良くないのでちびっ子はやらずにゆっくり飲む事をお勧めしておく。一応。
 まぁ、ここにいる限りは少なくとも銭湯よりも遥かに広いだろうお風呂にほとんど貸し切りで毎日入る事が出来る訳で、おまけにお風呂上がりには美味しいフレッシュドリンクも飲めたりするので別に銭湯の方が良いとかそういう事はない。むしろどっちが良いかと聞かれれば迷わずこっちを選ぶだろう。だからと言って銭湯が悪いという訳でもないんだけどね。どちらにもお互いが持ち合わせていない良さっていうのはあるてことだ。
 まぁ、考えてしまったからにはやはりとても懐かしく感じてしまうんだけれど。
 そんな懐かしい思い出を今と少し比較してしまったりしていたら、前を行くカミネの背にぶつかった。いきなり止まられては困ると言いたいところだけど、僕も前方不注意だったりするので、逆にカミネにガミガミ言われそうな気がする。今日はもう散々叩かれた後なだけにもうそういうのは勘弁して欲しい所だ。上げて良いのならすぐにでも白旗を振ってお風呂に入りたい。
 が、それはどうやら叶わないらしい。
 かと言って僕がカミネに追いかけ回される訳でもないようだ。
 それとは違う、ある種の緊張がカミネから僕に伝わってきていた。
「カミネ……」
「黙っていろ」
 尋ねようとして、遮られる。
 お風呂までは後数メートル、お姫様のお部屋まではもうあと一息の距離にある彼女が毎日髪を梳いて貰うその広場。そこには僕にでも分かるくらいの異様な気配が漂っていた。
 もう全部掻いてしまったのではないかと思っていた汗がまた手に滲んでいる。
 それは勿論暑さからのそれではない。
 この気配を僕は知っている。
 あの紅い魔術師の使っていた、そんな気配にとても良く似ていた。
 これは悪意の籠もった魔法のそれだ。
「来るぞ!」
 言葉と同時にカミネの剣は空を走る。
 ただ闇雲に奮った一撃ではない事はすぐに分かる。
 カミネの奮った鳴神がビシリと不可解な音を立てて、何かを弾く。その音を皮切りに、高速で走る矢が流星群の様に僕達に降り注いでくる。
「フッ!」
 小さく漏れる吐息ともに流星を遥かに凌駕するスピードで鳴神が空間を踊る。ダンスパートナーは蒼い髪を放線状に散らしながら激しいタンゴを美しくリードする。
 力強く、誇らしく。
 振る舞うカミネの姿はこんな状況では不謹慎かもしれないが、恐ろしいほどに美しい。全ての流れ星を彼女はその願いを成就させることなく撃ち落とす。
 しかし――
「まだまだ甘いですね〜♪」
 レスティアさんが背後からいつもの調子で声を掛けた。
「姫様ちょっと失礼しますね〜♪」
 口調はいつものままだが、その動作は鋭い。音もなくお姫様に近寄るとトンと一押し。フワリとお姫様のスカートが翻り、その軽い体が僕の腕の中にやんわりと収まる。
 直後、というよりそれは刹那のタイミングだった。彼女の頭部があった場所を綺麗に射抜くように、別方向からの流星がその場所を通り過ぎていった。余風がお姫様の髪をブワッと巻き上げて行く程の危ないタイミング。
「お二人とも動かないで下さいね〜♪」
 いつの間にか自分と同程度の身長のロマリアさんを小脇に抱え、レスティアさんはやっぱりいつも通りの口調で呟く。
 が、忘れる事なかれ、彼女はロイヤルガードである。
 彼女――レスティア=カーネルこそが、この国最強の称号を掲げるロイヤルガードの長なのである。
 故に、彼女の奏でるメロディは神曲の領域。
 その頂きにある。
 キッチリと着こなしたメイド服の裾だけが大きくはためく。
 同時に、迫っていた流星が瞬時に爆ぜていく。爆風は激しく、レスティアさんの髪をせめてもの復讐と言わんばかりに激しく弄ぶ。抱えられたロマリアさんはその爆風の被害をもろに受けていて、髪だけではなく、良くずれるメガネまでも持って行かれないように必死になって耐えている。「あわわわわ〜ッ!」と叫ぶのが聞こえるが、次々とやって来ては落とされていく星の音にかき消されて彼女の悲鳴は遥か彼方から聞こえてるようにしか届かない。
 僕とお姫様を挟み込む形で二人のロイヤルガードはそれぞれの妙技を走らせていた。
 妙技は僕達というプラネタリウムに向かって次々とパノラマで広がる流星を全て塵芥に変えていく。その数はまさに夜空に広がる星の如く無数。無限に近いのかもしれない。
 だけどその数は近いだけであって、やはり有限。二人のロイヤルガードの繰り出す技の数には遥かに劣る。
「ざっとこれくらいですかね〜♪」
 熱気すら孕む風をどうということなく受け流しながらレスティアさんが良く通る声で言う。
 それは僕達とロマリアさんに無事が訪れた事を知らせる合図だ。
 僕とお姫様はお互いが身を寄せるようにして抱き合っていた事が急に恥ずかしくなり、せわしなく距離を取って何だかよそよそしくなってしまった。
 気まずくなってしまったのを紛らわせるように広場のソファーに向かおうとして、レスティアさんに首根っこを捕まれて引き倒される。
「少しそこで待っていろ、馬鹿者」
 レスティアさんの言葉を代弁するようにカミネが不機嫌そうに言い放ち、いつも彼女がお姫様の髪を梳いていた空間に一番乗りで足を踏み入れる。窓から入り込む強い陽光を抜き身の鳴神で弾きながら彼女はその空間に鋭い視線を四方八方に走らせていく。
 たっぷりと時間を掛けてようやくカミネは鳴神を鞘に収めた。
「もう良いぞ」
 その言葉で僕は彼女の意図するモノを知る。
 彼女はこの広間にもうトラップが仕掛けられていないかどうかを確認していたのである。
 カミネの言葉を聞いてお姫様はようやく大きく息を吐来だした。ロマリアさんもようやくレスティアさんから解放されて、荒れ狂った風でボサボサになってしまった髪を何度も撫でつけていた。いつもずれているメガネは更にずれていて、何だか嵐の中を歩いて帰ってきましたとでも言えそうな格好になってしまっている。
 レスティアさんがいつの間にか広間の中央に立ち、カミネ同様にそこから空間全体に目を広げる。
 ゾワッと一瞬だけ背筋を何かが通り抜けた様な感覚が走り去っていって、また何事もなかったかのようにシンとした気配を感じた。
「確かにもう大丈夫のようですね〜♪カミネちゃんも成長したようでなによりですよ〜♪」
「これくらいなら造作も無い事です」
「だったら後はもう全部任せてしまっても良いですよね〜?」
 あちこちと欠けてしまっていたりする壁を見てレスティアさんが言う。別にあちこちが欠けたりしてしまったのはカミネのせいじゃなくて、こんなトラップを仕掛けに仕掛けた犯人のせいなんだけれども、その全てをレスティアさんは何の損傷もなく片付けてしまっていて、結果だけを見ればそれは全てカミネがやってしまったという事になる。
「特別に一日猶予をあげちゃうんで、それで何とかしちゃって下さいね〜♪」
 だからと言ってこの部屋の有様を一日で何とかしろって言うのは流石にちょっと無理があるんじゃないだろうか?
 壁のひび割れ何かはまだ優しい方かもしれない。いくつかの調度品は完璧に砕け散ってしまっていたし、窓も数カ所が割れてしまっている。カーテンだってボロボロだし、これを一日で完璧に元に戻すのはかなり厳しいモノがあるんじゃないだろうか?何より明日は月神祭である。きっとカミネには他にも仕事が山のようにあるはずだ。
「……分かりました」
「大丈夫なのか、カミネ?」
「私で良ければ手伝いますよ?」
「いえ、大丈夫ですから」
 そう言ってカミネは淡く微笑んで見せた。
「貴様も余計な気は回さないで良い」
 カミネは僕に背を向ける。
「大丈夫でしたか、ロマリア殿?怪我などはされてませんか?」
「はい〜。おかげさまで〜、何とか大丈夫でございますよ〜」
 ロマリアさんはちょっとフラフラしてて、足下がおぼつかない。明らかに大丈夫じゃない。顔色は少し青くなっていて、まるで車にでも酔ったかのような苦悶の表情を浮かべている。
「ほ、本当に大丈夫ですか?とっても顔色が悪いようですけど……」
 こうしている間にも益々酷くなっていくロマリアさんの顔色にお姫様が心配する。彼女は元々人の心を読むという力を持っている分、人の表情を読み取るという事においてはかなり鈍感なのだけれど、そんな彼女にも分かるくらい今のロマリアさんの顔色は悪い。もう今は真っ青だ。
「本当の、本当に、大丈夫なのでございますよ〜」
 気丈にもガッツポーズまで見せようとする。
 しかし、それはあえなく失敗。フラフラとよろけて倒れ込んでしまう。幸いな事にカミネが受けとめて不幸中の幸い、と行きたい所だったけど、逆になってしまった。
 受けとめたカミネの手が哀しい事にロマリアさんの鳩尾に入ってしまったのだ。まさに泣きっ面に蜂。マーフィーの法則の到来だった。
「う、ぷッ――!」
 うん、何て言うかここから先は放送禁止で一つ……

 夜。
 夕食を済ませた僕はお姫様の部屋にいた。
 彼女は今本日三度目のお風呂を上がったばかりで、髪を梳いてもらっていた。いつもならこれは彼女の部屋のすぐ近く、お風呂場へと繋がる空間で行われている光景なのだけれど、昼間の件のこともあってまだあそこは使えない。軽い応急処置程度に石の破片等は片付けられているけれど、まだそれだけだ。そんな場所でお姫様の髪を梳くなんて行為は出来る訳がない。される本人はきっと気にしないに違いないけれど、する方は大いに気にする。特に今夜は数日ぶりにカミネがお姫様の髪を梳いていた。カミネにとってお姫様の髪を梳く行為というのは恐らく僕の目線から見て最上の至福であるはずだ。そんな彼女はきっと道具、場所にもこだわるに違いない。
 でもそんなカミネの様子が少しおかしかった。
 彼女にはあり得ない事に至福の時間であるにもかかわらず、元気がなかった。心ここにあらずというか、どことなく落ち込んでいるような感じがする。
「カミネ、そんなに落ち込まないで元気出して下さい」
「はい……」
「そうだよ、らしくない」
「らしくない、か。確かにそうだな……」
「私で良ければ相談に乗りますよ?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから……」
 そう言ってはにかむ姿もやはりどこか影がある。こんなカミネは初めてだった。いつもことある事に僕を追いかけ回すのも困るけど、これはこれでやっぱり困る。何よりこの元気の無さははお姫様にも伝播するのだ。このままだとお姫様も落ち込んでしまいかねない。それは僕としてもとっても困る。
「明日は月神祭なんだ、カミネにはしっかりして貰わないと困るよ」
 そう、そして明日は月神祭当日なのだ。
 まだ暗殺者の問題は解決していないとはいえ、国民に不安を与える訳にはいかない。よって月神祭を中止にする訳にもいかない。これは何度も尋ね、延期に出来ないか頼んでみたけど結果はNOだった。
 こればっかりは国を治める立場としてやはりどうにもならないらしい。
「そう、だな……私がしっかりしなければいけないんだな。私が…終わらせなければ……」
 カミネの言葉には何か重いモノが感じられた。
 月神祭前日の夜、僕にはそんなカミネの姿にやっぱり不安を覚えずにはいられない。
 何故、明日なんだろうか?
 本当なら誰もが明日を心待ちにしているはずなのに。
 僕はまだ、明日を迎えたくないと思ってしまった。

 どれだけ望んでも時間は止まらない。
 それを僕は今激しく実感している。結局昨日のカミネの様子が気になってしまって、僕はほとんど眠る事が出来なかった。いつも起き抜けは欠伸ばかりしているけれど、今日の僕はいつにも増して酷かった。
「何じゃツバメ、お主またわらわに選ばれたというのに有り難みのない奴じゃのぉ」
 現にこうしてはた迷惑にも頭の上でくつろいでいるオミリアに愚痴を零される始末だ。
「そう言われてもなぁ、出るものは出るし、眠いものは眠いから仕方ないじゃないか」
「神様に向かって無礼だとは思わんのか?」
「それを言うなら僕も一応異世界人で、お客さんなんだけどねオミリア」
 例え異世界とはいえども相手は神様である。それを相手にして呼び捨てにし、突っ込みを入れるのもどうだとうと思う人もいるのかもしれないが、それは彼女の容姿を実際に確かめてからにして欲しい。
 一メートルの半分に届くかどうかの体躯にちょこんとした手足。アイヌ辺りの民族衣装をもっと煌びやかにしたような衣装で全身を覆った小さな小さな女の子。しかも結構わんぱく。そんな彼女が神様なのである。誰だって突っ込みくらい入れたくなると思う。
「というかこれで三ヶ月連続で僕が月人になっちゃうけど、良いのかな?どうせならもっと他の子とかを選んであげた方が良いんじゃない?」
「何じゃ、お主わらわに選ばれるのが嫌か?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
 むしろ月人に選んで貰えるのは嬉しい。無数にある屋台の全てをタダで飲み食い出来て、遊べるのだからこの国の通貨をほとんど持ち合わせていない僕としては大いに助かっている。でも、だからこそ良いのかなぁと思ってしまうのもまた事実だ。
「僕ばっかり選ばれちゃうのも他の人に悪い気がするなぁと思って」
 他にも月人という幸運な役目に当たりたい人はたくさんいるだろう。だからこそ僕ばかり当たってしまうのはどうにも居心地が悪い。
「別に構わんじゃろ。問題はその力をどう使うかという事じゃ。何よりもそう考えるお主だからこそ選ばれているというのも、また事実であるのじゃ」
「そんなものなのかなぁ」
 確かに、大事なのは与えられた力をどう使うかなのかもしれない。
 例え、それがどんなモノだろうと力であることに変わりないのだから。
「うぇ、ママァ……」
 視界の中に頭上の神様とそう変わらない大きさの涙する女の子を見つける。どうやら母親とはぐれたらしい。月神祭は国中の人々や外からの人も訪れるため、人の混雑はかなり激しい。そのため僕の目の前で泣いている彼女のように親とはぐれてしまったり、迷子になったりする子供は珍しくない。オーブを使っての親の呼び出しだって良くある事だ。
「おじさん、悪いんだけどもう一本貰えるかな?」
 僕は図々しくも屋台のおじさんから三本目の棒状のお菓子を貰う。
「ママァ……」
 か細く母親を呼ぶ少女の顔は今にも泣き叫んでしまいそうなほど心細そうだ。
「えぐっ……」
「はい」
 涙をすする少女に僕はそっと貰ったお菓子を差し出した。
 少女はビクリと一瞬僕を警戒の目で見てくるけど、僕はそれに笑顔で対応する。辛抱強くお菓子を差し出しているとやがて少女はゆっくりと手を動かして、僕手からお菓子を受け取ってくれた。
「大丈夫。すぐにお母さん見つけてあげるからね」
 目を少しだけ赤く腫らした少女に僕はそう言いながら、優しく頭を撫でてやる。僕も彼女くらいの年の時には夏祭りに行って、母親とはぐれた事がある。その時も僕は今僕がこうしているように知らない人にしてもらった。それがどれだけ心強かったかは幼心でも十分に感じる事が出来たのを覚えている。
 お菓子を口にしてようやく落ち着いた少女を僕は「よっ」と勢いよく抱きかかえて肩の上へ。腕っ節にはこれっぽっちも自信はないけど、これくらいの小さな女の子を肩車してあげるくらいなら簡単だ。オミリアはどうやって避けたのかは知らないけど、ちゃんと少女の邪魔にならないように身を避けて、いつの間にかまた僕の肩の片方に器用にも僕の頭を掴んで立っていた。
「良し、それじゃあ探しに行きますか!」
 少女を励ますように元気良く僕は声を出して歩き出す。
「うむ、それで良いのじゃ」
 嬉しそうに呟くオミリアの声といつの間にか喜びはしゃぐ少女の声が、頭の少し上から聞こえた。

 いつも通りの賑わいと喧騒。
 その中で月神祭に訪れた事のある人物とそうでない人物の差異を見分ける事はとても簡単なことである。
 例えばそう、今の自分と彼女のようなものだとカミネは思う。賑わいを十分に楽しみながらもそれに流されることなく、自分なりの楽しみを持っている人。そしてただただ全てに圧倒されるばかりで、何からどう楽しめば良いのか分からない。でも、結局何かを楽しまずにはいられず、目に付いたモノから全てを体当たり宜しく体験する人。つまりはロマリアだった。
 思い起こせば、自分も初めてこの月神祭に参加した時は彼女のようにただただ圧倒されるばかりだった。保護者として連れてきてくれたレスティアに手を引かれ、そして更に自分がまだ幼い無名王女の手を引いて、見知らぬ空気とその世界に飲み込まれるんじゃないかと少し恐怖しつつも、誘惑に勝てずはしゃいでいた。
 もしかしたら今のロマリアもあの時の自分に似たような気持ちを今抱いているのかもしれない。大人げなくも口元に屋台で買った食べ物のソースを付けたまま、彼女は子供達以上にはしゃぎ回っている。
「ロマリア殿もう少し落ち着かれてはいかがですか?一応、大人なのですから」
「そうは言われましてもですねカミネ様、こんなに凄いとは思っていなかったし、何とも珍しいモノばかりでございまして、もうなんともジッとしていられないのでございますよ〜」
 そんな事はもう誰が見ても分かっていた。それだけロマリアは浮かれはしゃいでいる。カミネにもその気持ちは分からないでもない。しかし、それでも注意するのが一応社会的マナーであり、婦女子の嗜みである。何よりも彼女はシスターである。本来なら彼女が他の落ち着きのない者達を落ち着けなければならないはずだ。
 まぁ、そんな彼女の姿は見ていて微笑ましいものなのだが。
 鬱陶しい暑さも今日ばかりは大して苦にならない。誰も彼もが暑さを吹き飛ばすような陽気さと大声を飛び交わしている。そこには男も女も子供も大人も関係ない。皆が客人であり、主役である。これが月神祭。新しい月を迎えるための宴であり、去り行く月を惜しむための儀式だ。
 カミネだって勿論楽しんでいない訳ではない。
 彼女が変名国家ニフラに来てから既に十年以上の年月が流れているし、その中で何人もの知り合い、友人、顔馴染みの店がある。今、彼女の手に握られている青空色をした瓶に入った飲み物も馴染みの店の店主が出していた屋台で買った物だ。
 もう既に月神祭を堪能し始めてかれこれ二時間以上は優に経っているが、未だにガス欠にならないロマリアを少し遠目に眺めながらカミネはチビチビと瓶に入った液体を喉に流し込む。本来なら彼女は眼前ではしゃぎ回っているロマリアの警護任務のまっただ中であるため、このような失態は絶対に晒さない。今日が月神祭であるからこそ、カミネは飲み物片手に視線を走らせている。流石にアルコールなどは成分に含まれてはいないが、任務を片手間にこなすなど本来のカミネにはあり得ないことなのである。
 コクリと喉を鳴らして再び飲む。シュワッと炭酸の味が喉を走り抜け、後からゆっくりと甘みがやってくる。異世界の青年に言わせるとラムネとかいう飲み物に似ているらしく、偶然にもその飲み物もこういった祭りの時に飲む物らしい。彼曰く、この世界はとても彼のいた世界と似ているらしい。おかげですぐに慣れる事が出来たとも言っていた。
 それは良かったと本来ならカミネは言うだろう。少し前までは。
 男らしくない奴だと思うが、それも人それぞれだ。そう思っていた。ほんの最近までは。
 しかし最近は全くそんな事は思わない。早く元の世界に帰れとさえ思う。
 その原因はただ一点。
 河渡燕という青年が敬愛する無名王女と四六時中一緒にいるからである。
 しかもあろう事かその仲は誰から見ても良好で、仲睦まじいモノだ。
 そんな事カミネ自信にとって許される事ではなかった。
 そして月神祭という国を挙げての一大イベントを目前にしての暗殺者の密入国。しかも標的は無名王女だ。ここ数日でカミネの心労は積もるばかりである。
 しかし何も良い事がなかった訳でもない。
 同じ血を持つ者に出会えた。
 ロマリア=シュペルディイム。
 彼女はカミネと同じ、霞の血族の生き残りである。
 それはとても衝撃的であった。もう自分一人しか存在しないだろうと思っていた同族に巡り会える事が出来たのだから。
 霞の血族は家族間としての繋がりをあまり意識しない。
 何故なら、それは霞の血族全体が自らの血を誇りとし、全ての血族を家族も同然と考えていたからである。
 それは当時、まだ霞の血族として生きていた頃の幼いカミネ自身にも強く受け継がれていた。今だってその思いを感じていないなんてことは全くない。むしろ今だからこそその繋がりはとても嬉しく、思いを強く感じたと言っても良い。
 しかしだからこそその世界には霞が掛かり、カミネの視界は度の合っていないメガネで見る空のように歪んでしまっていたのかもしれない。
 だから全ての幕はカミネが自分で引かなければならない。
 このカーテンコールだけは、カミネ=ハインアート自信がその手で鳴り止ませなければならないのだ。

 日の光が一番高くから振り下ろす頃、街中を行き交って喧騒を奏でに奏でていた人々の足並みが一斉に揃いだした。誰もがお互いに声を掛け合い、連れだって歩いていく。その光景はまるで共に戦い抜いた敵を友と慕い、お互いを讃え合っている様に見えなくもないかもしれない。そんな光景の中でもやはり月神祭に初めてくる者とそうでない者の差というのは顕著に表れている。初めての者はこの一斉に移動を開始する人の波に驚き、ただ流されておろおろするしかできないのだ。
 その波に流されないようにカミネとロマリアは壁際に避難していた。避難場所にはしっかりと屋根があり、日陰になっている場所を選ぶこともぬかりない。
「皆様何処に行かれるのでございますか?」
「広場ですよ」
 勿体ぶらずに答える。
「姫様達と別れた広場に皆向かっているのです。そこで行われる祝福の儀を見に行くのですよ。何と言っても月神祭のメインイベントですからね」
 祝福の儀はこの月に生まれた赤子等にオミリアが祈りを捧げる神聖で、この国で最も美しい画が描かれる瞬間である。虹よりも多彩な彩りで飾られるその瞬間はスーリアの十大美景の一つとしてスーリア全土でも謳われる程のものだ。そんな美しい瞬間を見たくないなんて思う者はこの月神祭に来ている人の中には皆無に等しい。それくらいの人が集まるのである。見に行かないのは屋台をどうしても置いていけず、結局残らざるえなくなってしまった店主のみである。そしてその店主達の中でもまた、儀を見に行くための争いが勃発する。代表と言っても過言でない隣接する屋台の重鎮達はそれぞれが目の届く距離にある者同士で集まり、誰が代表して店の番をするか血で血を洗う戦いを始めるのである。
 最も、その争いは主にカードゲームであるのだが。
「そうなのでございますか〜」
「見に行かれますか?」
「是非、お願いするのでございますよ〜」
「分かりました。では私とっておきの近道でご案内致しましょう」
「宜しくお願いするのでございますよ〜」
 人の大波が去っていった後を二人は余裕を持って歩き出した。
 お日様のような丸い形のガラス玉が手に握られた空の中を転がり落ちていく。透き通った太陽は少しばかり残された炭酸の雲の中に沈み、カラリと小さな音を鳴らす、きっと後一度、瓶に口を付けてしまえばそこにはガラス玉しか残らないだろう。
 今日という日のこの雲一つ無い大空のように。

 城下の街に広がる道筋はさしずめ蟻の巣に近いモノがあると言える。綺麗な言い方をするのならニフラの地下に広がる水脈のようなモノだ。
 すなわち余程歩き慣れた者でなければ、今何処に自分がいるのかさえ把握出来ない事は良くある事である。それはいくらアルステッドの親善大使に選ばれるほど頭の良いロマリアでも例外でないだろう。この街の道筋はそういう事も考えて作られているのだと何年も前にレスティアに聞かされた事がある。
 そしてカミネはその数少ない例外だった。
 何年も城に仕えている歴戦の兵士でも覚えきれなかったニフラの城下町の道筋を全て暗記しているのだから。何度も城を抜け出して城に遊びに来ては、レスティアに怒られたその成果が今のカミネには大きな武器の一つになっている。
 今二人が広場とは全く逆の方向にあるまた別の広場に向かっているという事に気付いているのはきっとカミネだけだろう。今、どの方角に向かっているのかすら分からない道ばかりを選んで歩いているのだから。
 ようやっと狭い道を抜けて今頃人々が集まっているであろう広場の半分にも満たない空間に辿り着く。屋台こそ出ていないが、近場の飲食店から持ち出してきたのであろうテーブルやイスが乱雑に並べられ、その一つ一つに日除けのパラソルが立てられている。そのせいで視界は比較的悪いが、日陰は多い。
 朝から休み無く月神祭を楽しんだ疲れか、ロマリアはその日陰がすっぽりと覆い被さったイスの一つに腰を下ろした。
 しかし、その直後に彼女はイスを跳ね退けて立ち上がり、この炎天下の下では異様と言える指先まで伸びる袖の付いた修道服に通した腕を振るった。同時に彼女の両脇を小さな物体が通り過ぎていく。
 一瞬の時を経て落下した物体は静かにガラス特有の音を響かせて砕けた。数秒してコロコロと転がりイスかテーブルの脚にガラス玉がぶつかる音が寂しく鳴った。
「何の冗談でございますか?」
「それは私が聞きたいですね、ロマリア殿」
 既に二人の間にはここ数日のような和やかな空気は存在しなかった。あるのはただ殺伐とした緊張感。互いが互いを推し量る鋭い眼差しが交差している。
 カミネはただ空き瓶を投げただけである。
 つい先程まで自分が飲んでいた空き瓶を、カミネはただロマリアに向かって放り投げただけである。
 但し――
 投げると同時に思いっきりの殺気を彼女の背に向けて放ちながら、だ。
 カミネ=アインハートはニフラを支える柱。ロイヤルガードの一角である。その彼女が本気で殺気を放ち、更にそれをただ一人に向けて集中すればどれほどの威圧を相手に与える事になるだろう。
 もし、ロマリアが本当にただのシスターであり、アルステッドからやって来た親善大使であるならば、少なくとも今、目の前で繰り広げられたような状態にはならなかったはずである。
 修道服の袖から伸びる細長く、鋭い金属。
 灼熱の陽光を浴びて鈍色に輝き、それはその存在をより一層鋭く主張する。
 恐らくは手首と肘の間に装着しているであろう伸縮式のジャマダハル。ブンディ・ダガーとも呼ばれるその武器はそれが持つ本来の物よりも遥かに長い刃を持っていた。その長さは彼女が手を下げれば地面を掠めるほどで、その種の武器は主に特殊な人物が好んで使う物。いや、獲物だった。
 アサシン。
 ロマリア=シュペルディイム。彼女こそがこの国に忍んだ暗殺者であることはもう尋ねるまでもなかった。
「いつ、お気づきになったのでございますか?」
 変わらない口調に変わらない態度でロマリアはそこに在る。
 但し、彼女が纏う空気は今までとは百八十度打って変わっている。今まで何処に隠していたのだろうかとカミネが思ってしまうほどに禍々しく、鬼気とした殺気を孕んで溢れ出させている。
「昨日ですよ。ただ、気付いたのはレスティア姉でしたが……」
 カミネも昨日レスティアに気付かされたと言うのが本当は正しい。
 レスティアが気付いたのがまさに昨日の襲撃と呼ぶには怪しいトラップだった。仕掛けられた無数のトラップは魔術を扱える者にしか備え付ける事は不可能な時限式だった。レスティアはそのトラップの残骸に残っていた微弱な魔力の残り香と同じタイプの魔力をロマリアに見出したのである。
 しかし、それだけでまだ完全にロマリアが暗殺者であると判断するのは難しい。ロマリアがそう断定された最大の理由は、その時の彼女の最初の立ち位置だった。
 彼女の立ち位置だけが、トラップとして放たれた全ての魔力弾の軌跡と重ならない位置だったのである。一発、二発、いや二〇、三〇ならまだ偶然と言えるかもしれない。
 だが、それが総数一七六三発ともなればどうだろうか?
 そんなものは軌跡でも何でもない。そこに悠然と立とうとするのは仕掛けた本人意外にあり得ない。
 カミネはその結論をそこに至るまでの過程もろとも全てを吐露していた。もしかしたら否定して欲しかったのかもしれない。どれほど下手な嘘でも良い。それでも、もし否定してくれるなら、カミネはまだ彼女を信じられたかもしれない。
 しかし、今のロマリアはそんな態度など取ろうともしない。口ごもるどころか、更に別の言葉を口にする。
「上手くいくと思ったのでございますけどね〜。まさか見破られるどころか仕掛けた魔弾の数まで数えられているとは思わなかったのでございますよ。レスティア様に抱きかかえられた時はもうダメだと思ったのでございますけれども、まだ神の御加護は私に付いて下さっているようでございますね〜」
「この地でそんな言葉が通用すると思っているのか?」
「じゃあ何と言えば良いのでございますか?」
「我が国の神に感謝しろ。これはせめてもの慈悲だという事だ」
「つまりは貴女を殺せば私は助かるという事でございますね」
「ほざけ」
 二人の中にあるスイッチが一瞬で切り替わる。手を伸ばせば切り捨てられてしまいそうな程の緊張感。相対する者は昨日まで心を許しあっていた存在ではない。全く別のモノだ。
 敵は斬らなければならない。
 それが例え自分と同じ血を引く者であるとしても。
 いや、だからこそと言う方が正しいのだろう、きっと。
 ロマリア=シュペルディイムだけはカミネが倒さなければならない。
 例えこの身が朽ちてしまおうとも――
 沈黙は数秒して風を呼んだ。
 ささやかな風は非常にも日陰に留まっていたガラス玉を転がした。それはコロコロと転がり、真っ直ぐに相対する二人の丁度真ん中に位置していたテーブルの脚に当たり、コツリとか弱い音を奏でて止まった。
「フッ!」
「疾ッ!」
 低く響く声だけをその場に残して二つの影が切迫し、鳴神とジャマダハルが甲高い歌声を響かせる。
 高速で繰り出される斬撃はどれもが必殺の軌跡。互いの殺刃を互いの殺刃が打ち消し、その勢いを殺すことなくまた繰り出されては打ち消される。
 達人同士でもここまではいかないだろう本物の死合。彼女達の存在全てをかけた一撃は鋭く、重い。斬撃のぶつかり合う甲高い音は乙女が自らの背負う宿命を詠いあっているようでもある。その詩は激しく奏でられながらも、悲しさや憂いをぶつけ合い、自らの想いを強く主張する。
 共に、歩んできた道を譲る訳にはいかないと。
「何故――!」
 叫びというよりも嘆きに近い声でカミネは斬撃を打ち払い、鳴神を払う。
「こんなことを?とでも申し上げるのでございますか?」
 高速で繰り出された鳴神を大きく後ろに跳びすさってかわしながら、ロマリアは先回りして言葉を返す。
「それは私の方こそ聞きたいのでございますよ。貴女こそ何故国などというつまらないものに、憎むべき囲いに収まっているのでございますか!」
 まるで踊るように修道服の裾をはためかせ、跳びすさった距離を一瞬にして埋めてロマリアが刃を薙ぐ。本来の刃よりも遥かな長さを持ったジャマダハルは本来なら埋まらないはずの二人の距離を埋め、カミネの上着の一部を掠め飛ばす。
 上質の絹で作られた風通しの良い布は斬風に乗って空を舞い踊る。
 飛んだ端切れが広場に備えられたパラソルの一つに着地するまでほんの数秒。そのわずかな間に二人は二〇を越える斬撃を放ち、その全てを受けとめるように斬り結んでいた。
 まさに達人の域を遥かに超えた剣神の域。
 カミネ=ハインアートは大切な人を守るための活人剣を振るい、対するロマリア=シュペルディイムはそれを奪うための殺人剣を使役する。
 恐らくはもうこの世界にたった二人の霞の血族。
 たった二人の家族であるのに。
 二人が選んだ道は奇として同じ道であるが哀しくも進む道は真逆であった。
 だからこそカミネは悲しかった。
 ロマリアも平和であることの素晴らしさを知っていたから。
 だからこそカミネは怒っている。
 ロマリアがその象徴を壊そうとしているから。
 だからこそカミネは問いかける。
 彼女がまだこちらに戻ってこれるのではないかと思えるから。
「国は断じてつまらない囲いなどではない!」
 荒い声で否定する。
「国とは素晴らしいものなんだ!
 力無き人達を守る事が出来る!
 一人では立ち向かえない困難や村でも対処出来ないような大きな災害だってくい止められる!」
「そんなモノは表面に塗られただけの幻想でございますよ」
 対するロマリアの言葉は純水で作った氷のような透明さとカミネの言葉全てを否定するような冷たさで満ちている。
「カミネ様はお忘れなのでございますか?
 我ら血族の村が滅んだのは貴女が今守ろうとしている国という汚らわしい囲いがもたらした災悪ではございませんか。確かに国の持つ力は使えばいくつかの利点をもたらすこともあるのでございましょう。
 しかしその愚かな囲いが持つ力は自然の力よりも凶悪に、遥かに残酷に我々の家族を葬っていったではございませんか」
 ロマリアはカミネの言葉を否定しない。
 しかしかといってそれを認める事はない。
 否定よりも強く拒絶する。
 絶対に認めない。
 自らの家族を残酷に血祭りにあげた国という存在を、ロマリア=シュペルディイムは絶対に許さない。
「貴女は目を覚ますべきなのでございますよ。
 真の平和とは国などという囲いの中に人がいる限り絶対に訪れたりはしないのでございますよ。そんなものはこの世界には不必要なモノなのでございます。国などと言うつまらないモノは無意味に人との繋がりを生み、無尽蔵に苦しみを生み出すシステムなのでございます。人は自分に必要な人との繋がりだけを持っていれば良いのでございます」
 そして修道服を着た暗殺者は招待状を差し出した。
「カミネ様は私と共に来るべきなのでございますよ」
 それは彼女と同じ道への招待状である。
「私と共に生きましょう、カミネ様」
「ッ――!」
 それはカミネを苦しめると分かっていての悪魔の囁きだった。
「そんな事――!」
 出来る訳がない。
 あの地獄のような世界の中でカミネを救ったのはレスティアだった。
 カミネに生きる為の世界をくれたのはニフラだった。
 その世界にいた人々はみんな優しくカミネに接し、見守ってくれた。
 そして凍てついたカミネの心を温かな光でずっと照らし続け、その氷を溶かしてくれたのは他の誰でもない無名王女だ。
 そんな世界を、この国を捨てるなんて、
「そんな事――!」
 鳴神を持つ右手に力が籠もる。
 それに呼応するように鳴神は自身を軸に渦を巻き、風を抱く。
「そんな事出来る訳がないッ!」
 カミネの叫びが、風の咆吼を産む。
 荒れ狂うような激しさで風は暴れ、鳴神が神器としての力を見せつける。
 怒れる無数の風の塊がロマリア一人に叩き付けられた。
 全てを薙ぎ払わんばかりの勢いで、圧縮された風の砲弾は一面を吹き飛ばす。イスもテーブルもパラソルも、そこに鎮座していた祭りの気配が木っ端微塵に破壊される。
 しかし、風の咆吼は彼女まで届かない。
 風の牙は濃紺の修道服の裾をわずかに削り取っただけで、ロマリアはその裾を軽やかにはためかせ上空より飛来。ジャマダハルを頭上より振り下ろす。
 今までで一番の鈍い金属音を奏でながら、ロマリアはそれを受け止めたカミネの耳元にそっと囁きかけた。
 「だから私がいるのでほございませんか」と。
「ッざけるな!」
 吐き出す怒号と共にカミネは強引にロマリアをの刃を薙ぎ払う。
「だから貴女は彼女を殺そうと言うのか!私なんかを手に入れる為だけに!」
 カミネの理性が音を立てて切れていく。
「この国の未来を奪おうと言うのかッ!」
「だってそうでもしないとカミネ様はこの囲いの外には出られないではございませんか。これは救済なのでございますよ?
 私は無尽蔵に苦痛を与えるステムから貴女を助け出したいだけなのでございますよ」
「黙れ!」
 言い放つと同時、いや、言葉だけをそこに残すような速さでカミネは疾走し、風を抱いた鳴神を繰り出した。
 今まで以上の荒々しさで放たれた斬撃の連打は高速を上回る神速。更にその刃に寄り添うように踊る風の刃がブンッという風切り音を唸らせてロマリアに迫る。
 本来ならば両の手に刃を這わせるロマリアの方が手数では勝るはずであるが、カミネの鳴神はそれを許さない。風の刃を纏い、不確かな刃を得た鳴神を一振りのただの刃で受け止めようなどと言うのは自殺行為も同然である。そんなことをすれば最後、風の刃は遠慮無しに鳴神の代わりとなって相手の体を切り刻むだろう。
 今両の刃で鳴神を受けているロマリアでさえ、それを完全に防げてはいなかった。防ぎ漏らした風が彼女の体を撫でる度、そこには滑らかな線が走り朱の色が後を追う。
 今や完全に拮抗は崩れ去っていた。
 カミネの繰る鳴神の力が戦況をゆっくりと斜めに傾けていた。
 しかしそれでもロマリアは揺るがなかった。
 それどころかその傾きを歓迎するように天使のような笑みを浮かべ、天秤の均衡をより大きく崩そうとする。
「貴女はこんな囲いにいるべきではないのでございます。私と共にいる世界こそが貴女に、いえ、私達血族に相応しい世界なのでございますよ。何でそれが分かって頂けないのでございましょうか?」
 そういうロマリアの顔に浮かぶのは優しい苦笑であった。
 その笑顔にカミネは深い狂気を感じ、鳴神により一層激しい風を巻き付ける。幾重にも圧縮され、重ねられた風は今やトルネードにも勝るとも劣らない風圧を秘めていた。カミネ以外の者が触れた瞬間にその部位はミキサーよりも細かく噛み砕かれるだろう。
 鳴神から漏れるわずかな風でさえ、カミネの蒼い髪と最近身に付けるようになったスカートの裾をバタバタとはためかせるには十分な流れを持っていた。
「そんな事、分かりたくもないッ!」
 再びカミネがそこに言葉だけを残して疾走。
 流れるような一連の動作の中でカミネの声が低く唸る。
「マルテラート――」
 言葉と共に閉じこめられた風がざわめき――
「カルテットッ!」
 一斉に吼えた。
 閃光ではないかと間違うほどにハッキリとした形を感じさせるほどの風の大槌。それが四重に交わるようにして大地を穿つ。地面を揺るがすような衝撃が広場を遅い、暴風が全てを薙ぎ払う。
 それは風のレールガンと呼んでも誰も否定出来ないだろう程の圧倒的威力を見せつけた。
「ハアハア……」
 全身で大きく息をする。
 圧倒的すぎる破壊力は放ったカミネ自身も大きく傷つけていた。衣服はもう二度と着る気にはならないであろう程に、修復するくらいなら買い直した方がマシとしか思えないくらいにボロボロになっていた。至る所に切り傷が出来、出血は決して少ないとは言えない。
 レスティアに見られていたらきっと「まだまだですね〜♪」と一言の元に切って捨てられ、すぐに修練を言い渡されるに違いない。何よりこの技は大雑把すぎて実線で使うには余り向いていなかった。大きすぎる威力に精密さを欠いたコントロールしか出来ないこの技は戦場では重宝されない。何より敵味方の区別無く傷つけてしまうような技をカミネ自身、使いたくはない。今回のような一対一でありながら、更に周囲に誰もいないコロセウムさながらの戦闘状況だからこそ使えた技だった。
 そして何よりもこの技――マルテラートは消耗が激しかった。カミネの体内を走る魔力を根刮ぎ吸い取り鳴神に与える為、使用後の彼女には過度の疲労が襲いかかる。それを四重に重ねて放った為、その疲労は単純計算で四倍。正確にはそのコントロールや重複発動による負荷等も合わさるため、数値的な消耗はその更に二倍。
 レスティアですら完全にかわす事の敵わないマルテラート・カルテットは、今のカミネにおける単騎決戦最大の奥義とも言える切り札である。
 いくら名うての暗殺者であるロマリアでさえ、あれを防ぎきる事は不可能だろう。ドーム状に巻き上がる粉塵からようやく覗く青空と刺すような日光に目を細め、カミネはかぶりを振って心にある靄を振り払おうとした。
 これで正しかったのだと無理にでも自分を納得させなければいけない。
 躊躇いの残る足取りで彼女の成れの果てを探そうとしたその時――
 腹部に異物が侵入するのを感じた。
 誰にも見つからないようにそっと。
 しかしそこに自分がいるのだと強く主張するように大胆に。
 目の前に突如として現れた鋼の輝きはやはり陽光を鈍く反射し、その剣身にヌラリとぬめる赤いルージュを走らせていた。
 それは紛れもなくカミネ自身によって彩られた――
「ガハッ――!」
 込み上げてきたそれを押さえきれずに吐き出した。
 飛び散った鮮血が地面に赤黒いシミを穿つ。ポツポツと落ちた小さな穴は痛みを通り越した冷たさをカミネに感じさせた。
「分かって頂けないのなら仕方がないでございますねぇ。その魂を解放して連れて行く事にするのでございますよ」
 背後で冷たく声がした。
 その声は彼女が紛れもない殺し屋であることをカミネに自覚させる。
 暗殺者、ロマリア=シュペルディイム。
 カミネ以上に凄惨な血化粧で全身を彩った彼女がそこにいた。
 既にシスターのような清楚さ、純粋さなどは微塵も感じさせなかった。鎌鼬によって切り裂かれた修道服の所々からは朱で塗りたくられた白い肌が露出し、手首をすっぽりと覆っていたはずの袖は千切れ跳んで、修道服を大胆なキャミソールにリメイクしている。力仕事など知らないとでも言えそうな程に細く、緻密な作りの手にはそれに似つかわしくない禍々しいまでの長さのブンディ・ダガー――ジャマダハル。
 ズルリとした感触を残してジャマダハルがカミネの腹部を去っていく。痛みは無く、ただ熱さだけがそこで存在を主張している。全身を襲う絶対的な強制力を持った虚脱感。全身を覆う寒さ。気付けば踏みしていたはずの地の感覚すらふわふわとした浮遊感に取って代わっていた。
 膝が地面に着いていた。
 上体を支える事すら叶わない。
 暗く塗りつぶされていく視界。
 遠のいていく風の音。
 焼けるような地面の熱さも何故か感じられない。
 体が、重い――
 クスリと笑むロマリアの声だけがカミネの耳に優しく響く。
「すぐに戻って参りますので、そこで待っているのでございますよ」
 ジワジワと地面に広がる赤黒い穴に飲み込まれていくカミネに向かって、ロマリアの言葉は鬱陶しいほどに彼女の耳に届いた。


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