君忘れたまふことなかれ



 そこは戦場だった。
 遊び場だった森は血化粧で気味悪く染まり、村には屍が山となって積まれている。
 死体を積んで出来た山はある程度の高さを手に入れると火葬され、独特の異臭を放った。
 それさえも、まだ死んでいった彼等にとっては幸せな方だったのかもしれない。
 中には火葬すら行って貰えず、そのまま朽ち行くのを待つだけの者や、運ぶことすらはばかられるような死に体の者もいたからだ。
 地獄絵図だ、と少女は思った。
 今はこうして茂みの一角に隠れることが出来ているが、自分もその内そこに加えられるのだろうか?
 そう思うと恐ろしさのあまり、少女の小さな体はより一層に縮こまった。
 どうすれば良いのか分からなかった。
 父も母も死に、仲の良かった友達も皆いなくなってしまった。
 自分は独りになってしまったのだ。
 もう父に肩車をして貰ったり、母と果実を摘んだり、友人達と花畑で追い駆けっこをすることも出来ないのだと悟った。
 そして、この先に自分が生きていられるかどうかも分からない。
 絶望。
 まさにそう呼ぶに相応しい状況だった。
 全てが暗闇。それこそ足下すらも見通せないような深淵の深い、深い、闇。
 一寸先には冥界の鎌が切っ先をもたげられているかもしれない。
 少女の頭は更に迷走する。
 何を。
 どうすれば。
 無駄だと分かっていながら、ひたすらに少女は見通せない闇の中で灯りを探していた。
 それがどれだけ小さなモノでも構わなかった。
 ただ、生きていけるのならば――
 気がづいた時、世界は暗闇で満ちていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
 かつてない極限状態に、少女の精神は自分が微睡んでいたことにすら気づけないほどに磨り減っていたのだ。
 かつては自分の家があった村だった場所に篝火が灯される。
 それが少女には道を照らす灯りに見えた。
 あの炎に触れることが出来れば、自分は独りじゃなくなるような、そんな気がしたのだ。
 少女の精神は既に限界だった。
 生でも、死でも、もうどちらでも良かった。
 ただ、楽になりたいと思った。
 楽になれるのならば、もう――
 無意識に足が動いていた。
 今まで隠れていた茂みを掻き分けもせずに歩いていく。
 母が綺麗だと誉めてくれた白い肌に、何本もの朱色が線を引いていく。
 しかし、痛みは感じなかった。
 それほどに少女の精神は摩耗している。
 常人でもこれだけの光景を目の辺りにしていれば、発狂していてもおかしくはないだろう。少女がまだ意識を保っていられたことの方が奇跡と呼んで良い。
 あと少し――
 もう、ほんの数メートルを歩くだけで、自分はきっと楽になれる。
 その瞬間はきっと痛みを伴うだろう。
 けれど、この先ずっと独りでいるよりは遥かに良い。
 ようやく茂みを抜け出した時、そこには誰もいなかった。
 それが、少女には少しだけ残念に思えた。
 目の前では篝火がゆらゆらと揺れている。
 少女の藍の瞳に、炎の朱が混じり込む。
 温かさと、チリチリとした熱さが少女の体に触れている。
 その炎にゆっくりと手を伸ばす。
 ゆっくり、優しく。
 産まれたばかりの赤子に触れるように柔らかく。
 その炎が自分を焼いてくれるような気がしたから。
 だから少女はその手を伸ばす。
 本当はそれで救われる訳なんてないのだと知りながら。
 しかし、その伸ばされた手が炎に触れることはなかった。
 また、彼女の手を焼くことも。
 圧倒的な力でその手を掴む何かがあった。
 それが人の手だと知るのに数十秒はかかった気がする。
「――――」
 何かを問われたのだろうか。影が音を発している。
 何故か姿は見えなかった。影の背後に隠れた篝火のおかげでその輪郭だけが浮いて見える。
 あぁ、これで自分はようやく死ぬのかと思った。
 感慨もなにもなかった。
 ただ、そう思っただけ。
 そして、少女は気づいた。
 自分が笑っていたことに。
 自分が泣いていたことに。
 彼女は泣きながら笑っていた。
 何がおかしいのか分からず、何が悲しいのかも分からない。
 しかし、止めどなく涙はこぼれ落ちていき、無性に笑みが溢れ出す。四肢にはこれっぽっちも力が入らず、捕まれた手もそのままに少女はぐったりとその場に座り込む。
 そんな少女をただ影は静かに見下ろしていた。影が一体何物なのか、それは相変わらず分からない。
 だが、少女にはその影が笑っているように見えた。
 影が動いた。
 ゆっくりとその姿が浮かび上がってくる。
 そして、篝火がまた少女を照らす。炎はやはり温かく、熱い。
「――――」
 何かの言葉が紡がれた。何かを問われているような気がした。
 頷く。
 全てをそれに委ねた。
 もう、どうにでもなれと。
 パチリと篝火が弾けた。
 飛んだ火花が少女の周りで踊る。
 それはゆらり、ゆらりと落下し、暗い大地に吸い込まれるように溶けて、消えた。
 少女はまだ、泣いて、笑っていた。

 何故、こんなことになっているのか?
 全身を映す姿見の前でカミネは大いに困り果てていた。
 まさか本当にこんな姿をするハメになるとは……
 窓から入ってくる早朝の風が、足下まで伸びた布地をゆらゆらと揺らしていた。
 布は体のラインを露骨に表すデザインだった。
 特に腰回りはピッタリと、いつサイズを測ったのかと尋ねたくなるほどにフィットしている。特に抵抗があるのはその左側面で、深いスリットが入っていて、太腿の下部までが露出して見えているということだ。
 カミネはスカートを着ていた。
 正しくは着せられたのだが……
 事の起こりはほんの十分ほど前のことだった。
 カミネはいつものように起床して早朝の鍛錬を行い、それこそいつものように男装に身を包んでいた。
 そして、これからロマリアの元に向かおうかと思った矢先の出来事だった。慌ただしくノックされたドアがカミネの応答も待たずに開き、彼女が表れたのだ。
 気づいた時には既に遅かった。
 否応なくスカートを渡されて、こうして着用するハメになっていたのだ。
 このような格好をするのはいつぶりだろうか……
 姿見に映る自分の姿を凝視する。
「…………」
 いつもの男装のせいか、やはり違和感が先行している気がする。帯剣してはみたがやはり落ち着かない。今からでも着替えてしまおうかとすら思ってしまう。
「…………」
 ちょこんと片手でスカートをつまんでみる。裾を広げる姿はそれなりに決まっていない事も――
 ガチャリ。
「カミネ様、いかがでございますか〜」
「ひゃうっ!」
 ピンポイントで扉が開いた。顔を覗かせたのはそもそもの元凶、ロマリア=シュペルディイムだ。
 またしても彼女の前で失態を……いや、そもそも、何故彼女はこうも絶妙なタイミングで現れるのだろう?というか、何故彼女は先程も今回もノックをしないのだろうか?
 カミネの中で失態を見られた恥ずかしさと、彼女のある意味での間の悪さに対する怒りがコトコトと煮込まれては、混ざり合っていく。
「どんなご様子かと伺いに来たのでございますが……、どうやらカミネ様もまんざらでもないご様子のようでございますね〜」
 「ウフフ」と口元に笑みを浮かべながら言うロマリア。
「ち、違います。これはただ派手なのではないかと。と言いますか、何故にロマリア殿はノックをしないのですかッ!」
「そんなの決まってるではございませんか。ノックをしてしまったら、慌てふためくカミネ様が見られないからでございます」
「そんなもの見なくて結構ですッ!」
 羞恥で顔を真っ赤にし、肩で息をしながら反論する。でも、次も彼女はノックをせずに中に入ってくるような気がしてならない。
「まぁ、それは置いておいてでございますよ」
 そして、その「ならない」という思いは、この瞬間にカミネの中でしっかりと確信に変わった。次からはちゃんとカギをかけようと心に誓わせるというオマケ付きで。
「朝食のお時間だそうでございますよ」
「もう、そんな時間ですか」
 時計にチラリと目を向けると確かに時間が迫っていた。思いの外長い時間を過ごしてしまったようだ。
「分かりました。では、すぐに着替えて――」
「もう、皆様お席に着いているらしいので、残念ですがこのまま参るのでございますよッ!」
「え、ちょっと、まッ――」
 カミネが制する前にロマリアは彼女の腕を掴んで走り出す。
 走り出したロマリアの背後でゴツンと何かが音を立てたが、彼女はそれでも止まらない。
 不意の行動にカミネは抗う事も出来ずに、引きずられていく。すれ違うメイド達の目にカミネのスカート姿は次々と晒され、その度に「おはようございます」をもらい、ついでに「カミネ様のお召し物が〜」と小声で口にするのが聞こえては遠ざかっていく。
 今すぐにでも引き返して、いつもの格好に着替えてしまいたかったが、主たる無名王女やレスティアを待たせる訳にはいかないので我慢して走る。それはもう全力で。
 しかし全力なのは走る方ではない。我慢の方である。
 ちなみに何人ものメイド達とすれ違いはしたものの、誰一人としてカミネのおでこが赤くなっていたのには気づかなかった。ロマリアの奇行に抗えなかったのはきっとこのせいだとカミネは何度も強く自分に言い聞かせた。

 朝はやっぱり眠いけど、美味しい朝食が待っているのだと思うと多少はマシに感じられる。それでもやっぱり眠いものは眠い。そんな僕よりも毎日早起きしてるお姫様のはつらつな姿は、僕には到底真似出来ないと思う。
 今日のお姫様はいつもよりも更に元気でご機嫌だった。
 それが今日の朝食の席にちゃんとカミネがいるからだっていうのは、昨日カミネと一緒に朝食を食べる事が出来なくて、ちょっと淋しそうだった彼女の姿を見ているから分かる。勿論、そこにはロマリアさんも一緒で、それも彼女のご機嫌の良さに一足買っているのだろう。
「今日はご機嫌だね?」
「はいッ!」
 にこやかに答えるお姫様はとっても可愛い。
 でも、それがカミネのせいだと思うと僕の心境としては少しばかり面白くない訳で、僕は少しだけ意地悪したくなる。
「やっぱり僕とレスティアさんじゃ役不足なんですかねぇ」
「残念ですが、そのようですね〜♪」
「え、そんなこと――」
 そして、そんな時の強力な味方は勿論この人。こういう時ほどレスティアさんがいて心強い時はない。
 僕とレスティアさんは、先行くお姫様の後ろでテンポ良く言葉を並べ立てていく。
「僕達といてもお姫様の心はときめかないんですね、やっぱり」
「でも、それもきっとしょうがないと思うんですよ〜♪姫様なんだかんだ言ってカミネちゃんッ子ですから〜♪」
「え、う」
 僕達の嫌味ちっくな言葉にお姫様はとうとう足を止めて、ゆっくりと振り向いた。
 お姫様はちょっと涙目で、対する僕達は(レスティアさんはいつもと変わらないけど)ニヤニヤと笑っていた。
 それを見てお姫様はすぐにからかわれたんだと気づいて、ムゥッと頬を膨らませる。そして、さっきの涙目は何?って聞きたくなるような早さで歩き出した。
「怒った?」
「…………」
 お姫様は黙々と歩いていく。
 まさかこんな展開になるとは思ってなかっただけに、ちょっと気まずい。
 やりすぎた……かな?
「お〜い?」
「…………」
 やっぱりお姫様は黙々と、そして、僕はそれを追いかけるように慌てて付いていく。レスティアさんは僕等の少し後ろをさっきと変わらないマイペースな早さで追ってくる。
「ご、ごめん、ね?」
 僕はさっさと白旗を上げる事にした。このままお姫様と気まずいままなのはとってもきつい。というか、正直に凹む。
「…………」
 でも、やっぱりお姫様は黙々と歩いていくわけで。
「ちょっとした冗談だってば」
「…………」
「本当にごめん。もうしないから許してッ!」
 今度は回り込んで拝むように謝った。これにはお姫様も流石に足を止めてくれる。
「…………」
 やはり沈黙を続けるお姫様を、僕はゆっくりと目を開けて見据える。
 そこには後ろでニコニコと佇むレスティアさんと同じように微笑むお姫様の顔があった。
「うぇ……?」
 何度思い返しても間抜けな声だと思えるような声が出た。
「フフ、ごめんなさい。ちょっとからかい過ぎちゃいました」
 口に元に手を当てて、また「フフフ」と笑う。
「あの〜」
「本当にごめんなさい。必死になるツバメ様が面白くて、つい」
 どうやらからかった仕返しにからかい返されたらしい。僕の必死な謝罪は、見事に余計な気疲れとなった訳だ。
「人間やり慣れない事はあまりやるべきではないということですね〜♪」
 それは僕にひたすらにやられ続けろということですか……
 僕は心の中でレスティアさんに突っ込む。
「まぁ、出来る相手がいるなら良いんじゃないでしょうか〜♪」
 それもそうだ。
 この際だから僕はどんな相手ならからかえるのだろうかと考えてみる。
 まず、レスティアさんは論外っと。
「あらあら〜♪」
 心の中覗かれたんじゃ話の種にもなりませんからね。
 次にカミネ、は……ダメだ。簡単に騙せそうな気はするけど、その後で地の果てまで鳴神掲げて追っかけてきそうだ……
 お姫様は今回は上手くいったけど、心の中覗かれたらやっぱりダメだし、何より地味に仕返しされるしなぁ。まぁ、それはそれで楽しいから良いんだけど、何か違う気がするし……
 となると、ヘリオルとか?
 あの爺さんなら何かいけそうかもしれない。
 いや、待てよ。でも、意外にあっさり見抜いてきそうな気も……
 それに終わってから何か変な小言を長々と言われそうだし、最悪勉強会終わってから課題とか出される恐れが……
 ダメだ。やぱりヘリオルもダメだ。
 他にも何人かいるお城の顔見知りを思い出してみても……
 あれ?いやいや、そんな馬鹿な。
 …………
 ……………………
 …………………………………………
「…………」
「どうかしたんですか、ツバメ様?」
「いや、うん。大丈夫」
「それが現実というものなんですよ〜♪」
 そんな現実僕はこれっぽっちも要りません。
「でも事実ですから〜♪」
「うぅ」
 レスティアさんの言葉がグサグサと僕の心を串刺しにしていく。もう、滅多突き。これ以上刺す所なんて見当たらないくらい。
「だ、ダメですよ、レスティア。ツバメ様をあんまり苛めちゃッ!」
「苛めた訳ではありませんよ〜♪ただ、ちょっとだけ現実を教えて差し上げただけですよ〜♪」
「良いんだ。僕なんて所詮……」
「えぇッ!ツ、ツバメ様、元気を出して下さい。きっと大丈夫です。何とかなりますからッ!」
「うぅ、ありがとう」
 お姫様の優しさが身に染みる。
 レスティアさんは相変わらず軽い足取りで、お姫様は僕の事を心配しておろおろしてて、僕の足取りは限りなく重い。
 三者三様、それぞれの足取りで僕等は食堂に向かう。

 朝食の席に着いて、カミネは呆然とした。
 そこにはまだ誰もいなかったからである。
「あれぇ〜、おかしいでございますね〜?聞き間違えたのでございましょうか〜?」
 ロマリアの声はどう聞いてもとぼけていた。
 考えるまでもない。確信犯だ。
 ワナワナと拳が震えている。彼女はこの思いをどう処理しろと言うのだろうか?
「そうですね。これはとってもおかしいで――」
 その場で朝食の準備をしていたメイド達が皆震え上がるほどの低い声が口から響き出す。その声はそれまでチラチラとカミネに目を向けていたメイド達が、揃って彼女を見るのを止め、仕事のペースを一気に上げたほど空恐ろしいものだった。
「カミネッ!」
 しかし、その恐慌は天使の一声で終わりを告げた。
 腰回りにギュッとしがみつく彼女がいたからだ。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、カミネ」
 自然とお互いに笑みが零れる。
「今日は一緒にいられますか?」
「ずっとという訳にはいきませんが、昨日よりは恐らく」
「嬉しいです」
「私もですよ」
 一瞬前とは一八〇度打って変わった空気が流れていた。チラチラとメイド達はまたカミネに視線を向け始める。
「誰かと思ったらやっぱりカミネじゃないか」
 何とも空気の読めない奴だと思う。
 カミネはギロリと燕に睨みをきかせてやる。
 が、最近はそれにも慣れたのか、多少のおどおどしさは見せたものの、ひょうひょうと言葉を口にする。
「どうしたんだ、その格好は?ついに女の子に目覚めたのか?」
 ブチッ。
 また空気が元の深淵まで戻っていった。メイド達は再びせわしなく働き出す。動じていないのは無名王女とレスティア、それにロマリアの三人のみ。地雷を踏んだ当の河渡燕は冷や汗を浮かべながらもまだそこに留まっていた。
 その勇気を後悔に変えてやろう。
 カチャリと音を鳴らし、ゆらりと鳴神を抜き放つ。
 そこにまとわりつくのは一陣の風。
「ま、まぁ落ち着こうカミネ。早まるな」
「安心しろ。私は十分に落ち着いている」
「嘘付けッ!じゃあなんだその片手に持った鳴神はッ!何か明らかに風を抱いてるじゃないか!」
 燕の絶叫を無視してカミネは言う。
「貴様に与えてやる選択肢は二通りだ。今すぐこの場で鳴神の錆となるか、必死に逃げ回った後に無惨な姿を晒して鳴神の錆となるかの二つに一つ……」
「そこにもう一つ、このまま和やかに朝食を食べるという選択肢は追加されたりしないかな?」
「却下だ!」
 叫びと共にカミネの鳴神が閃いた。
「斬るッ!」
 ゴウッと旋風が一カ所目掛けて殺到する。
 しかしそこには既に目標物はいない。先を見越して既に逃走を開始していたのだ。
 だが、カミネもそれを確認するやいなや追走している。その様たるやまさに鬼の形相である。
「逃がすかッ!」
「そんなもん振り回されれば誰でも逃げるよ!」
 ある意味いつものことであるとも言えるこの光景にオロオロとするのはロマリアただ一人。無名王女とレスティアは既に席に着いていた。朝食の準備に追われていたメイド達も微笑みを浮かべ、朝食の準備を進めていく。
「よ、よろしいのでございますか?」
「いつものことですから〜♪」
「それよりもロマリアさんは朝食のお飲み物は何になさいますか?私のお薦めはカフェオレなんですけど」
「わ、私はコーヒーをお願いするのでございますよ〜」
 ロマリアは誰一人として慌てない様子になんとか順応してみせる。
 その場の誰の耳にも小さく燕の絶叫は届いていた。

「ゼェ、ゼェ、ゼェ、ゼェ、ゼェ……」
 約十分後(僕には何時間にも感じられたけど……)、僕は食堂の大テーブルに突っ伏していた。
 脈は異常なほど速く鳴動していて、このまま死ぬんじゃないだろうかと思えるような音をさっきからずっと鳴らし続けている。突っ伏す僕の左斜め前――お姫様の隣で、僕を死の淵まで追い込んだ張本人は息一つ乱すことなく朝食を談笑しながら食べ進めていく。一体彼女はどういう構造の体を持っているんだろうか?
「ゼェ、ゼェ、ハァ、ハァ、ハァ、ゴクッ、ゴク。ハァ、ハァ……」
 大きく肩で息をしながら何とか水を喉に流し込む。
 水分は瞬く間に僕の体に染み渡っていく。
 しかし、僕の体はまたすぐに渇きを覚え、更なる水分を要求してくる。けれど僕の体は指一本動かす事すらストライキしていて、とりあえずは空気を、酸素を止めどなく取り込んでいく。
 つまり、水を飲むという行動だけでも、今の僕にはとっても大変な労働になるわけで、とてもじゃないけど朝ご飯なんて食べられる状態じゃない。足だって既に筋肉痛の痛みを訴えているし、感覚に至っては既に棒そのものだ。
 それでも日に日に出来る生傷が減っているのは、なんていうか僕の生きる事への本能が高まっているということの証明何じゃないかとか僕は思ったりしている。とってもポジティブな考えだよね?レスティアさんには「単に逃げるのが上手くなっただけなのでは〜♪」とか言われたけど……
「ツバメ様、今日は食べられそうですか?」
 右の手首から上だけをどうにか上げてプラプラと横に振る。つまり無理ってこと。しまった、これでまた水を飲むための体力が減った……
「そうですか、残念です……」
 明らかにしょげるお姫様。何かとっても嬉しい。いつも気遣ってくれるのは君だけだよ、本当に。
「では、賭けは私の勝ちということで〜♪」
 今何か不可思議な言葉が聞こえたような……
「残念です……」
 まさかお姫様まで、そんな……
「お茶の時間のケーキ選択権が取られてしまいました」
「ふふ〜♪姫様もまだまだですね〜♪」
「ちょっと待って、それはちょっとひどくない?」
 と僕は言いたかったんだけど、体は虚しくも動かず。せいぜい出来たせめてもの抵抗は右手でコツンとテーブルを叩いただけ。
 その意図を汲み取れたのは悲しくもカミネのみ。
 そして、その彼女の口から吐かれた言葉はひどいモノだった。
「自業自得だ」
 ひどすぎる……
 そもそも僕はカミネを馬鹿にしたくてあの言葉を言った訳じゃない。僕はこれでも地球では美大に行ってたりする訳で、それなりに人物画も描いてたりする。
 そして僕は女の子に対してそこまで失礼な物言いをする気はない。
「それなりに似合ってると思うよ?」
 僕はそう言おうとしただけなんだけど……この結果はあまりにもひどくないだろうか?その辺どうなんですか、レスティアさん?
「やはり日頃の行いではないかと〜♪」
 僕の日頃の行いがそんなに悪いとは思えないんだけど……
 これはもう神様のイタズラとしか……
 神様のイタズラ……
 ということは、この世界だとオミリアのイタズラ………
 十二分にあり得そうだ。
 何か僕へのカミネの八つ当たりの大半が彼女のせいという気がしてきてならない。次の月神祭の時にもう少しどうにかして欲しい、というかむしろ止めてくれとお願いしてみよう。いや、きっと無理だって言われるんだろうけど。
 僕の懸念をよそに談笑はたんたんと行われている。なけなしの体力でコップの水を一気に飲み干し、またテーブルに突っ伏す。
 けれど結局体力は戻りきらず、僕は朝食を食べる事が出来なかった。
 数時間後のランチが待ち遠しくなったのは言うまでもない。

「うぅ、気持ち悪い……」
「大丈夫ですか、ツバメ様?」
「何とか……」
 午前中とはまた違った苦しさを僕は覚えていた。まぁ、何て言うか、今度は食べ過ぎたんだよね。
「ここの御飯は美味しいからつい食べ過ぎちゃうんだよなぁ。お腹の空いてる、空いてないにかかわらず」
「私もいつも食べ過ぎないように気を付けてます」
「僕も気を付けないとなぁ」
 とりとめのない会話をしながら僕とお姫様の二人は食休み中。
 レスティアさんはメイド頭としての仕事が少しあるらしく、今はそっちに行っている。すぐ帰ってくるって言ってたから本当にすぐなんだろうけど。僕達はそれまでの談笑中な訳。
 カミネはロマリアさんとまた教会巡りをするらしく、準備をするために自室に戻っていった。何でも後二日くらいは同じような日程になるらしい。それでいながらロマリアさんは親善大使としての仕事をちゃんとこなしていたりするから凄い。挨拶回りとか色々あるみたい。親善大使って結構大変なんだね。勉強になります。
 一方、僕達の方はいつもと変わらない日々を過ごしている。
 ヘリオルの難しい授業を受けたり、レスティアさん達を交えてお茶を飲んだり。
 お姫様が公務で一緒にいられない時、僕はこの城にある図書室で勉強したりとか、お城から出て図書館に行って本を読んだりしている。最近ではニフラ様のご厚意でこの国の上流院に行って、勉強させてもらったりもしている。僕が出させてもらっているのはやっぱり美術関係の講義なんだけど、地球の文化とは違う面が多くてやっぱり面白い。最近ではそういうのを利用して絵を描いたりもしているしね。
 今日のお姫様の予定は昼から公務があると聞いてるし、僕は王立図書館にでも行ってみようかな?この間の上流院の講義を聴いていくつか読みたい文献もあることだし。
「お待たせしました〜♪」
 そうこうしているうちにレスティアさんがやってくる。僕達の食休みもこれでおしまいだ。
「ではツバメ様、お茶の時間には戻ってきて下さいね」
「分かった。気を付けるよ」
「ツバメ様一つの事に没頭すると時間の事忘れちゃうみたいですから本当に気を付けて下さいね?」
 僕は以前時間も忘れてスケッチに夢中になって、お姫様達を心配させたのを思い出して苦笑いする。あの時はお城の図書室にいたから時間も分からなくてついやってしまったんだっけ。お姫様にも泣かれるし、もうしないようにしないと。
「肝に銘じとくよ。じゃあ、また後でね」
「はい」
「お気を付けて〜♪」

 王立図書館は城下町の一角、城から歩いて一五分ほどの距離の場所にある。そこはどちらかと言えば街の外れに位置する場所なんだけど、周囲はこの王立図書館のおかげでそれなりの賑わいを誇っている。中が飲食禁止だから周囲にはそういう関係のお店がとっても多いんだ。あとは図書館を利用して勉強する人のために文具を扱う店がいくつか。
 王立、というだけあってその蔵書量はかなりのものだった。
 お城の図書室に置いてある本のほとんどは貴重な資料だとか、歴史書とかが多いんだけど、王立図書館の方はどっちかっていうと庶民向けの書物が多い。それこそ僕にとっては市立図書館と同じ感覚で利用出来る。
 僕が主にこっちを利用するのには分かりやすい資料が多いというのがある。
 まだこっちの言語や特有の文化について慣れていない僕には、城に置いてある小難しい資料よりもこっちのかなり噛み砕いた資料まで揃っている図書館の方が利用しやすいという訳。子供にいきなり百科事典を渡して意味を理解しろって言うよりも、絵本を渡してまず基礎から埋めていくのと同じ感覚。
 但し欠点が一つ。
 それは本を読むのは良いけど、借りて帰るにはちょっと距離が遠すぎるってこと。僕はいつも本を借りて帰るんだけど、多くが自分の持てる量をオーバーして四苦八苦する。それは今日も例に漏れずにそうなっていた。
「重い……」
 僕は肩に食い込む鞄の紐に恨めしい視線を向けながら弱音を吐いていた。
 まだお城までの道のりの半分にも達していない。
 更に照りつける日差しはいつものように容赦なく、僕からどんどん体力を奪っていく。このままでは午前中のグッタリが再現されてしまいそうだ。
 僕は次こそは借り過ぎないようにしようと心に誓う。
 未だにこの誓いが達成されたことはないんだけどね……
 それにしても重い。推定一五キログラムはあるだろう鞄が今は恨めしい。図書館を出る時はあんなに輝いて見えたはずなんだけど。
「ふぅ……」
 建物の影に隠れて小休止を入れる。今日はこの間の反正を活かして、早めに図書館を出発したからお茶の時間までには余裕でお城に着くはずだ。また時間を忘れるとお姫様を泣かしてしまうしね。
 その時の事を思い出すと苦笑いが漏れる。あと、その後のお姫様のお説教と。
 二時間弱にも及ぶ正座は非常に厳しかったのです、はい。
 しかも石畳の上で。思い出しただけでも足にしびれが走る気がする。
 気だけで済ませたい僕は休憩もそこそこにまた歩き出す。出来るだけ建物の影を選んで進み、少しでも体力の温存を図る。
 更に僕は最近城下町を歩き慣れたおかげなのか、いくつかの近道を入手していた。通るところは主に路地裏で人通りが少ない。そのため夜通るのはどうかと思うけど、今みたいな時間には別にこれといった抵抗はない。僕個人としてはむしろどんどん通っていきたいくらい。
 理由は単純に日陰が多いから。理由は単純だけど、この時期には十分すぎる理由だと思う。人も少ないから吹き込む風の恩恵も多く感じられるしね。
 まぁ、道が狭いのには困る事もあるけど、それはご愛敬って事で。
 僕は人通りの多い道を曲がって、路地裏に入る。ここからが近道だ。この道を行けばお城までの距離がずっと短くなる。道幅が狭く、両側が壁で隔てられているので、道のほとんどは勿論影になっていて僕を歓迎してくれている。
 きつい日差しが届かない通りを、僕は気を紛らわせるために鼻歌交じりで歩いていく。
 すると前方からフードを目深に被った二人組がやってきた。
 本当なら怪しいとか思わないといけないのかもしれないけど、この時期には別におかしなことじゃない。外出時に日差し避けのフードを被る人がとても多いからだ。特に露店を出してる人なんかはそのほとんどが熱中症対策にフードを被っている。こっちの世界にも帽子は存在するけど、どっちかっていうとフードの方が人気みたい。
 ちなみにお姫様は帽子派で、結構な数の帽子を持っていたりする。
 二人組は横に並んでいたが、僕に気付いたようで前後に並んで歩いてくる。
 僕も出来るだけ邪魔にならないように狭い路地の出来るだけ端に寄って、二人にぶつからないように努める。
 が、交差する瞬間に鞄の角が二人組の後ろを歩いていた人に当たる。
 僕は謝ろうと、反射的に振り向いた。
「あ、すいませ――」
 視界の隅で太陽の光を反射する煌めきがあった。
「ッ――!」
 その煌めきに寒気を覚えて慌てて飛び退く。
 風を切る音が耳に聞こえ、右腕に熱さが走った。熱はすぐにじわじわとした痛みを僕の体に伝えてくる。全身から冷たい汗が吹き出ていた。
 それに瞬間的に反応出来たのは奇跡だった。幸運と日頃からカミネに追いかけ回されて、死に物狂いになっていたのがまさかこんな時に生きてくるとは思わなかった。
 いや、こんな時だからこそと言うべきなのかもしれない。
 ゴクリ。
 思わず生唾を飲み込んで見据える。
 二人組の手には共にナイフが握られている。その片方には朱の彩り。
「僕に何か用ですか?」
「…………」
「…………」
 残念ながら答えてくれる気はないみたい。残念。
 そして二人組――肩幅と体格からして両方とも男だろう――はジリジリと間合いを詰めてきて、僕をこのままお城まで帰してくれる気はないらしい。
 僕にとっては身に覚えのない理不尽な仕打ちなだけに彼等を返り討ちにしてやりたいが、残念ながら僕にそんな素晴らしいスキルはない訳で、そうなると僕に残された選択肢なんてそうそうある訳でもない。むしろ一つしか思い浮かばない。
 つまり、逃げるが勝ち。
 僕は彼等が次の一歩を踏み出す前にきびすを返して走り出した。
 これでも逃げ足には結構な自信がある。伊達にカミネにしょっちゅう追いかけ回されている訳じゃない。とりあえず大通りにまで出てしまえば誰かに助けを求めれば良い訳だし、決して勝ち目のない勝負じゃない。
 ここから大通りに出るまで恐らく一分も掛からない。後ろから追ってくる足音に振り返ることなく、僕は鞄の重さを忘れて全力で走る。
 近道の二つ目の角をスピードを殺さずに曲がる。この先にはもう大通りが見えている。本の入った鞄が背中に何度も衝撃を伝えてきて、痛い。が、今この場で鞄を放り出す動作を行う時間すら勿体ない。
 しかし、それはどうやら正解だったらしい。
 鞄が背中を撃つ瞬間にカツンと響く音があり、僕は思わずその場所を見た。
 そこには陽光を憎らしくも反射するナイフが一本突き刺さっていた。
「げッ…………」
 出た声はそれだけだった。逃げ出す前に鞄を放り出していたらと思うとゾッとした。同時に投擲されたナイフが鞄に刺さるという幸運に感謝する。
 再びナイフを投擲されるのはゴメンだった。
 僕はスパートを掛けて、勢いそのままに大通りへと飛び出した。
「助かって――ないッ!」
 大通りに飛び出した僕を待ちかまえていたのは走行する一台の馬車だった。
 しかもタイミングの悪すぎる事に、大通りに出た時には既に僕の眼前にまで迫ってきていた。
「ッ――!」
 運に全てを任せて、走ってきた勢いそのままにダイブする。
 幸いな事に飛び込んだ先には何も、誰もなく、僕は土煙を立てながら節々の痛む体をどうにか無理矢理立たせた。
「大丈夫かッ!?」
 荒ぶる馬車馬を瞬時になだめ、御者台から人が飛び降りて来てくれた。
「怪我はないか――」
「まぁ、何とか――」
 僕達はお互い、一瞬言葉に詰まった。
「貴様、何をやっている?」
 が、僕の僕の普通じゃない様子に気付いたのか、カミネは多少不快そうな顔をしながらも尋ねてきた。
「話は後でするから、とりあえずカミネ、あれ何とかしてくれないかな?」
 僕は彼女の表情など気にも止めずに路地裏から現れた二人組を示す。
 二人組は丁度大通りに出てきたところだった。彼等は走ってきた勢いを止めることなく、腰からシミターを抜いて躍りかかってきた。
「どういう経緯かは知らないが、あまり感心は出来ないな」
 今朝の自分の行動は棚に上げ、カミネが間に立ちはだかる。
 カミネを邪魔だと判断したのか、二人組の標的が僕から彼女に移行する。
 だけどそれは彼等にとって不幸としか言いようのない事だった。
 迫り来る彼等とカミネは歩いて交差する。
 カチンと金属の響く音がした。
 それはカミネが腰の鞘に鳴神を納める音だ。
 一瞬だけ風が頬を撫でて行く。
 同時、彼等の纏っていたローブとマントが音を立てて爆ぜる。日本のシミターも根元から綺麗に折れ、地面に突き刺さる。
 圧倒的な実力差に僕は改めて彼女の強さを実感する。
 ロイヤルガード、カミネ=ハインアートの強さを。
 これだけの実力差を見せつけられれば相手は逃げおおせるだろう。普通は。
 しかし、どうやらこの二人組はどうやら普通じゃなかったらしい。彼等はカミネの太刀を受けていながら倒れることなく、今度は素手で襲いかかる。その動きはひどく緩慢で、明らかにおかしい。
「カミネッ!」
「分かっているッ!」
 僕の意図に気付いたらしいカミネが再び鳴神を抜く。
 一閃。
 風のような速さと、静かさで鳴神が閃く。
 鮮血が宙を舞った。
 二人組は同時に、今度こそ地面に倒れ伏した。
「カミネ」
「安心しろ、まだ生きている。紙一重ではあるがな」
「そっか」
 どうやら僕の言いたかった事はちゃんとカミネに伝わっていたらしい。僕は胸をホッと撫で下ろす。
「そんな事よりも説明しろ。これはどういう事だ?」
「それはむしろ僕が聞きたいよ」
 本当に。いくら路地裏が危ないとは言っても、まさかいきなり見知らぬ人にナイフで襲われるなんて思ってもいない。むしろ思いたくない。
「本当に意味が分からないよ。何より今日は走ってばっかりだ」
 とりあえず明日も筋肉痛は決定らしい。何か僕段々体育会系になってきてる気がする。
「貴様の事はどうでも良い。私が聞きたいのはあの二人の事だ」
 カミネが倒れ伏している二人にチラリと目を向ける。
 彼等はカミネに斬られたのにも関わらずまだ動こうとしている。しかし、それでも体が動かないのはカミネの浴びせた一太刀に彼等の動きを阻害するナニかがあったからだろう。
 もっとも僕にはその手段が斬り方なのか彼女の魔力によるモノなのかさっぱり見当も付かないんだけど。
「あれは明らかに何らかの方法で操られている」
 そう告げたカミネの纏う空気にはありありとした緊張が宿っていた。

 とりあえず僕は無事お城に帰り着けた訳だけど、残念ながらお茶会どころじゃなかった。お姫様には泣かれるし、そのせいでカミネには又しても追いかけられるし、レスティアさんに手当された時は絶対わざとだって気付くくらいに痛かったし、もう最悪。
 ちなみに僕がカミネと奇跡的に出くわしたのはロマリアさんとの教会巡礼の帰り道にたまたまだったらしい。又、あの時ロマリアさんが姿を見せなかったのは馬車の中で眠りこけていたからだとか。あの騒ぎの中で普通に寝ていられる彼女に僕は正直に凄いと思ったり……
 そして今僕達は王座の間に集められていた。
 いるのは全部で六人。僕にお姫様、そして、カミネにレスティアさんとニフラ女王陛下とそのお付きののメイドさん。聞いた話によるとこのメイドさんもロイヤルガードらしい。いつもニフラ様の座っている玉座に掛かっているカーテンの影に隠れてるから顔は全く見えないんだけどね。
 僕達を集めたニフラ様が厳かに言う。
「先刻ツバメ様を襲った二人ですが、やはりカミネの予想通り洗脳されていたようです。しかも非常にタチの悪いタイプですね。自我を完全に破壊し、インプットした目的を遂行するまで自分の肉体の状況に関わらず動くように術式が構成されています」
 それを聞いて僕は納得する。
 だから僕を襲った二人組はカミネの一撃を受けたにも関わらず立ち上がったのだ。
 僕から見ても分かるくらい明らかに立ち上がれるような傷では無かったのに。
「そしてこれに関する事でもう一つ」
 ニフラ様の声のトーンが落ちる。一瞬の躊躇を経てようやくその続きは語られる。
「先日、アルステッドの国王と第一王子が暗殺されました」
「――!」
 僕とお姫様とカミネの三人が息を呑む。
「その方法が今回のと酷似しているという訳ですね〜♪」
「その通りです」
「つまり今この国にはその暗殺者がいる可能性があるという事ですか」
「はい。しかもこれに関しては可能性云々の話ではありません。ほぼ確実と言って良いでしょう」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 僕はその言葉から推測される簡単な答えを尋ねずにはいられなかった。
 だって、それでは――
「それじゃあ、ニフラ様とお姫様が狙われてるって事ですか?」
「そういう事になりますね」
「そういう事って……」
 自分の身に危険が迫っているというのに随分と簡単に答えてくれる。
「大丈夫ですよ、ツバメ様。たまにあることですから」
 お姫様までニコリと笑って言う。
 でも、それが僕の心配に余計な拍車を掛けていた。
 僕には分からない。何で彼女たちがこんなに自分の命に関して無頓着になれるのか……
 それはとても恐ろしい事なのに。
 一番起こって欲しくない現実を引き起こそうとする事なのに。
「貴様はもう少し落ち着いた方が良いな」
「そうですね〜♪」
「だって――ッ!」
「なら、何のために私たちがこの国にいるんだ?」
「あ…………」
 僕は完全に彼女たちのその役割を忘れていた。彼女たちはそのためにこの場にいるというのに……
「フフ、でもそこがツバメ様の良いところなのでしょう?」
「そうですね」
 ニフラ様とお姫様が穏やかに笑う。こういう時の顔は本当にそっくりだ。まさに親子。
「私にはクルネが付いてくれています」
 ニフラ様が傍らのメイドさんを示す。どうやら彼女はクルネさんというらしい。カーテン越しに頭を少し下げる仕草が見えた。その時に見えたのは口元くらいだったけど、どことなくレスティアさんに似てる印象を受けた。
 案外、実の姉妹だったりするのかもしれない。
「では、私が姫様、カミネちゃんがロマリア様ですね〜♪」
「その辺は貴女に任せます、レスティア。これ以上の被害を出すことなく、解決出来る事を期待します」
「かしこまりました〜♪」
 レスティアさんに全権を委ねるニフラ様の言葉に、僕は彼女が改めてロイヤルガードの団長であることを思い出した。

「でも、本当にこれで大丈夫なのかなぁ……」
 僕はまだ自分の中で燻る不安を完全に払拭出来ないでいた。何かこう胸の中でモヤモヤした何かがまだ残っていて、スッキリしない。
「貴様に心配される程、我々は墜ちてはない」
 僕の隣でカミネが明らかに不機嫌な声を出す。
 でもきっと彼女が不機嫌なのは僕と二人でお城の中をこうして歩いているからだというのが一番の要因だと思うんだけどね。でもしょうがないじゃなか。僕だってこっちに行かない事には自分の部屋へと戻れないんだから。
「いや、それは分かってるんだけどね……」
 それでも何かが喉の辺りで引っ掛かっているからこそ、不安と言うのだと思う。
「いつもあんな感じなの?」
 あんな感じというのは勿論、さっき玉座の間で話した内容の事だ。
「そうだな。大したことではない限りはああいった感じで済ましてしまうな」
「十分に大したことだと思うんだけど……」
 少なくとも一国の王とその後継者が狙われているんだから、もう少し慌てても良いと思う。日本で天皇様とかが狙われた場合だとそれこそメディアが放っておかないだろうし、びっくりするような警戒態勢だって取るだろう。
「貴様の世界だとそうなるのが普通なのかもしれないが、ここでは違う。それだけのことだろう?」
「それは確かにそうかもしれないんだけどさ……」
「ここではそうなる事が当たり前なだけだ。第一こういう事態に陥ってから慌てて警備を増やしても連携が取りづらくなるだけだ。特に相手が単独の可能性が多い場合にはそれは逆効果になりかねない。懐に入り込む機会が増えるという事だからな」
 言われて見ればカミネの言う事にも一理ある。無駄に警戒してしまってもその分精神的疲労が蓄積されてしまうだけだしね。
 それにスーリアと地球じゃ警備に当たる各個人の実力に圧倒的な開きがある。国の柱であるロイヤルガードの名は伊達じゃない。
「つまり貴様が考えるだけ無駄だということだ」
 カミネはそれだけ言うと「この話はもう終わりだ」と歩くテンポを上げた。
 こういう時の彼女は優しいと僕は思う。
 カミネは確かに良く怒るし、自他共に認める厳しさを持っている。
 でも彼女はそれに引けを取らないくらいの優しさも持っている。
 それはとても不器用で、分かりづらいモノだけど、僕にはそれがとても彼女らしいと感じられる。しょっちゅう追いかけ回されて困る事も多いけど、僕が彼女をどうしても嫌いになれないのは彼女のそんな一面を知っているからなのだと思う。
 特にお姫様と一緒にいるときのカミネはとても良い顔をする。
 それはお姫様とカミネの二人の間にある強い絆を感じさせられて、思わず見てるこっちまで頬が緩んでしまう。ちょっとそれに嫉妬を感じてしまう事もあるけど、やはりその光景は見ていて楽しい。侵入するのが勿体ない聖域みたいな感じ。
 しかし、彼女はその聖域内で驚くほどに刹那的な表情を持っている。
 それは言うまでもなく無名王女の事。
 二人の絆は時としてカミネ=ハインアートという存在をひどく危ういモノにしてしまう。
 それはガラス細工のように繊細で、鋭い一面と酷く脆い一面を併せ持っている。
 僕にはそんな彼女がいつかあっさりと崩れてしまうような気がしてならない。
 きっと彼女の望む強さはそんな強さじゃない。
 でも、彼女はまだそれを自覚していないのだと思う。
「姫様は私が命に代えても守ってみせる」
 その言葉はきっと彼女を悲しませてしまうのに。
「カミネ……あまりそういう言葉は言うものじゃないと思うよ」
「何……?」
「それによって得られる強さはきっと君の望むモノじゃないと思う」
「貴様に何が分かる」
 カミネからありありとした感情が伝わってくる。それはいつも向けられるものとは違うピリピリと肌を焼くような殺気を孕んでいた。
 でも、僕はそれでも次の言葉を止めようとは思わなかった。躊躇せずに言葉を紡ぐ。
「君はもっと自分の存在を自覚するべきだ。君はたまに自分の存在を忘れてしまいそうになっていないかな?」
「黙れ――」
 鼻先に突きつけられる刃。彼女の愛剣、鳴神。
 その輝きも今の僕には少しくすんでいるような気がした。
「カミネ、君は君自身という存在の大きさを忘れちゃダメなんだ……」
「…………」
 突き刺さる視線を真っ向から受けとめる。節々から感じる痛みが僕を強くしている気がする。
 やがて目を反らしたのはカミネの方だった。
 音もなく鳴神を鞘に収めると、気持ちの落ち着かないまま去っていく。
 そんな彼女の後ろ姿が僕にとても大きな不安を与えて仕方がなかった。


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