「うぅ、眠い……」
 翌日、僕は未だに慣れない規則正しい生活への不満を一言口にして、フカフカの絨毯が伸びる廊下をいつも通りに歩いていた。一応、起き抜けにシャワーは浴びてきたけど、それでも完全に目が覚めない。僕が地球でどれくらいぐうたらな生活を送ってたのか良く分かる。でも大学生の生活ってきっとみんな似たようなものだよね?
 僕は地球にいた頃の生活に思いを馳せながら、微妙に整いの悪い髪を何度も撫でつけた。
 湿気はやっぱり髪の天敵だと思う訳ですよ。
 きっとお姫様もいつものようにカミネに髪を梳いてもらってるに違いない。そこの角を曲がれば、今日もまたお姫様とカミネが――
「あ、おはようございます。ツバメ様」
「おはよう、お姫様」
「おはようございます〜、眠そうですね〜♪」
 今日のカミネはなんだかシワ一つないメイド服を着用していて、藍色のショートヘアーも綺麗に栗色で、いつものポニーテールで……
「……あれ、レスティアさん?」
「はい〜、レスティアさんですよ〜♪」
 うん、いない。今日はカミネじゃなくてレスティアさんだった。珍しい。あのカミネが、お姫様の身の回りの世話をすることが生き甲斐みたいな彼女が、お姫様の髪を梳くというある意味彼女にとっては至福の時間をレスティアさんに譲るなんて……
「珍しいですね、いつもカミネなのに」
「うふふ、私もたまには姫様の綺麗な御髪に触りたいのですよ〜♪」
 あなたが言うと本当なのか嘘なのか判別しづらいんですよね。本当にそんな理由でカミネからお姫様のお世話役取っちゃいそうだから。
「うふふ、どうなんでしょうね〜?」
 もう、あなたに心を読まれるのにも大分慣れました。最近ではちょっと便利だとすら思える時があるくらいです。
「それは良かったです〜♪」
 そう思わないと、ね?
「良い心がけですね〜♪」
「……それで、カミネはどうしたんですか?まさかこの雨の中、鍛錬でもやって風邪でもひいたとか?」
 僕は大きな窓から雨降りの空を眺めながら冗談交じりに尋ねた。
 そう、今日は雨が降っている。
 山の月は恐ろしい暑さが印象的な月だけど、ちゃんと雨だって降る。
 ただし、その場合はほぼ一日中。
 それはだいたい六日に一回くらいの割合で、シトシトと静かに、まるで今までの暑さをゆっくりとなだめるかのように降り続ける。
 そのおかげか、この日はいつもに比べて遥かに過ごしやすい。それは街を行き交う人の数がいつもより多くなるくらいで、お姫様の話だとこの日に人々はまとめて買い物とかをしてしまうらしい。まぁ、あんな暑い日に毎日買い物とかして、重い荷物抱えるのって大変だしね。
「まさか、カミネちゃんが風邪をひくなんてあり得ないですよ〜♪あの子人一倍健康には気を配ってますから〜♪」
 ああ、やっぱり。
「そういえば、私もカミネが病気になったのなんて見たことないですね」
 そこまで凄いとは思ってなかったけど。
「それは凄いね。でも、病気じゃないとすると……」
 そう、病気でもないとするとますますここにカミネがいない理由が想像出来ない。
「カミネちゃんには今日から数日の間、ロマリアさんのお世話をお願いしてるんですよ〜♪」
 レスティアさんが僕の疑問を解決してくれる。
「カミネがですか?」
「ですよ〜♪」
 でも、僕にはあのカミネがお姫様以外の世話をする姿が想像出来なかった。想像出来たのは客にぶち切れるホテルのドアマン姿のカミネ。うん、似合いすぎ。
「カミネは、ああ見えて意外に世話焼きなんですよ?」
「いや、うん。それは分かっているつもりなんだけどね」
 なんていうかやっぱりいまいち想像出来ないわけで。何回思い直してもやっぱり行き着く光景は同じだったり。
「うふふ、カミネちゃんはしっかり者なんで大丈夫ですよ〜♪メイド頭の私が言うんだから間違いないですよ〜♪」
 それを聞くと余計不安になるのは気のせいじゃないと思うんだけど、まぁ良いか。
「それにしてもやっぱり何か想像出来ないなぁ。本当にカミネで大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。カミネなら」
 いや、お姫様からすればきっとそうなんだろうけどね。
「まぁ、ツバメ様が信じられないのも何となく分かりますけどね〜♪でも、本当にカミネちゃんはしっかり者なんで大丈夫ですよ〜♪」
「心配だなぁ……」
 詐欺集団の勧誘に頑張って耐えている。今の僕の心情ってそんな感じ。
「きっとツバメ様が信じられないのはいつもカミネちゃんに追いかけ回されてるいるからでしょうね〜♪」
 それは十二分にあるだろう。何せ最初からカミネには追いかけ回されてばかりだし。彼女のせいでいつの間にか生傷の絶えない子になってしまった気がする。いや、もう子とか言える年じゃないんだけど。
「でもですね〜、カミネちゃんに追いかけ回されているのなんてツバメ様くらいなんですよ〜♪」
 今何かとても理不尽なことを聞いた気がするんですが……
「そういえばそうですね」
 お姫様も言いますか……
「マジですか?」
「マジですよ〜♪」
 念のために確認してみてもやっぱりダメなものはダメ。どうしよう、なんかもの凄いやりきれない思いに駆られますよ?
「それはもう諦めてもらうしかないかと〜♪」
 なんていうか、うん。世の中理不尽すぎる……。

 降り続ける雨のせいだろうか、この時期は常に美しい光景が見れるはずの教会はかなり薄暗い。それでいて湿気は籠もっているし、多少の肌寒さも感じるので、こういった日の教会というのはどうにも居心地が悪く、多少の気味悪ささえ覚えてしまう。
 それはいくら鍛錬を積んだロイヤルガードでも同じだった。
 カミネ=ハインアート。
 彼女もまたそういった不快感に耐えていた。正しくは耐えなければいけないと思うほど不快に思っていないのであるが。
 彼女は教会の入り口からもっとも近い場所にあるイスに多少体を預ける形で立っていた。その表情は厳しく、油断など微塵も感じさせないほどである。
 しかし、彼女の全体図を見ればそれは一転して、何かを思案しているかのようなイメージを与えていた。腰辺りで組まれたその腕の指先が、彼女の相棒とも呼べる宝剣“鳴神”の柄を何度もせわしなく撫でているからである。
 今現在、彼女の思考回路は真っ二つに別れて使用されていた。
 一つは昨日から与えられた任務のためである。
 要人警護。
 彼女はアルステッドからの親善大使、ロマリア=シュペルディイムの身辺警護、兼世話係の任を女王陛下であるニフラから勅命で言い渡されていた。それは国に仕える身であるという点だけを取ってみれば大変名誉なことであると言える。それだけ自分の能力が高く評価されているということだからだ。これを断るなど本来ならあってはならないことである。
 しかし、しかしである。
 世の中には例外というものが存在するのだ。
 つまり今、この瞬間のカミネの思考残り半分は、その例外で占められていた。
 その例外とは他の誰でもない無名王女のことである。
 彼女こそがカミネの全てであると言っても過言ではない。彼女を護るために、カミネは幼少の頃からひたすらに鍛錬を重ね、ようやくロイヤルガードに入った。そして他の誰に譲ることも許さずに彼女の身の回りの世話もしている。
 溺愛していると言っても良い。それこそ自他共に認める所だった。
 カミネにとって彼女の事は他の何よりも優先すべき事柄なのである。
 特に今、この時間はカミネがいつも無名王女の髪を梳いているであろう時間だった。
 壁に掛けられた古びた時計に目を向ける。時計はやはりその通りの時間を刺している。
 ああ、姫様はちゃんと起きれているだろうか。今日は雨が降っているからいつもよりしっかりとブラッシングしてあげないといけない。代わりはレスティア姉がやると言っていたらきっと大丈夫だろうけど。でも考えてみればレスティア姉が代わりをするならまずこっちを代わってくれても良いんじゃないだろうか。いやいや、しかしそれではニフラ様からの勅命を無下に断っているのと同じ事になってしまう。けれども、いやしかし――
 気付けば思考は常に彼女のことで手一杯になっている。気付いて思い直してもまた占領されての繰り返し。結局は同じ結果にしか移行されない。
 しかし、それでも今自分に与えられた任務の事に集中しようとして、何度も気を取り直すのがカミネという人間の生真面目さを表しているのかもしれない。
「お待たせしたのでございますよ〜」
 礼拝を終えたロマリアが足音静かに歩み寄ってくる。
 アルステッドの親善大使である彼女は同時にシスターでもある。その彼女たっての希望である教会の巡礼に、カミネは早朝から付き合っていた。本当は国中の教会全てを回りたいとのことだったが、親善大使としての仕事を考えるとそういう訳にもいかない。なのでこうしてカミネ同行の元、城から比較的近場に位置する教会を順々に回っているのだ。ちなみに今いる教会で三つ目で、この後更に四カ所を回る予定である。
「では次に参りましょうか」
「はい〜」
 その教会に勤めるシスターに一礼をし、雨の中を馬車まで走る。今日の雨は既に出発する前から降っていたので、従者台にも屋根が付いている。
 カミネは落ち行く雨の中を軽やかに跳び、従者台に座る。数秒を待ってロマリアが後ろに乗り込む音が続く。
「よろしいですか?」
「大丈夫でございますよ〜」
「ハッ!」
 カミネのかけ声が雨音を切り裂いた。
 短いやりとりを得て、馬車は雨の中を駆け出した。

 彼女は何を祈っているのだろう?
 カミネは何度も祈る彼女を見ているうちにそう思った。
 聞いたところによると、シスターの祈りというのは単純に分けるのなら、主に二種類に分けることが出来るらしい。
 単純に今日も生きていられることへの感謝と過去への懺悔と。
 前者を祈る者というのは主に偶然によって今の自分の生がある者や、年を経て何か悟ることがあったであろう者が多く、後者は過去に何か事件を起こした者や未練の残る者というのが多いのだろうかとカミネは思う。
 もし自分が彼女のようにシスターだったなら――
 一体どちらの祈りを捧げるのだろうか?
 今生きてるということ、それは確かに感謝するべきことだ。
 それは“あの時”彼女がレスティアと出会っていなければ、きっと生きてはいなかっただろうからだ。それだけの理由なら、彼女はきっと前者に該当するだろう。
 しかし彼女の中には悔いもある。
 今の力を持っていたならばという未練が。
 もし今の自分が“あの時”にいたならば――
 止めよう……
 惑いを振り払うように頭を振る。既に起こってしまったことを考えても仕方がないのだと自分に言い聞かせる。
 それに今の自分は幸せだと思う。
 城の皆がいる。ニフラがいて、レスティアがいて、そしてあの娘がいる。
 彼女たちはカミネにとってかけがえのない家族だ。そしてその家族を少なからず護ることができている自分がいる。それのどこに不満があるというのか。
 ある訳がない。
 あってはいけない。
 そんなことを言っては罰が当たってしまう。あの方の罰はきっと恐ろしいだろう。そう思うと苦い笑みが浮かんでくる。
 折角教会にいるのだからと、カミネは自分も祈ることにする。鳴神の柄を額の位置まで持ち上げ、目を閉じて額を静かに柄に付ける。そして右手を自分の胸に載せた。ゆっくりと繰り返される呼吸に合わせて上下する手で、その奥から響く鼓動を感じながら数秒の祈りを捧げる。
 戦場で行うような簡素な祈り。
 今、ここに自分がいることを感謝する。
 祈り終えて瞳をゆっくりと開けた。
 その眼前にロマリアがいた。
「ッ――!」
 予想外の出来事に身体がビクリと反応し、反射的にバックステップを踏んだ。
 自分がどこにいたのかも忘れて――
 「しまったッ!」と思った時には既に遅かった。カミネの身体がそこに固定されていた長イスを支点にひっくり返った。そう、彼女は備え付けられた長イスの端にもたれるようにして立っていたのだ。
 勢い良く景色が反転していく。
 しかし、彼女はロイヤルガードである。
 そして、その肉体は鍛え抜かれた歴戦の戦士のそれである。例えどれだけのドジを踏んでしまっても思考が飛んだりはしない。カミネの思考と身体は半ば反射的にその状況に対応した。
 ギュンッ!
 足を大きく振って回転に更なる勢いを与える。
 するとしたたかに大理石の床に打ち付けられるはずだった彼女の身体は、見事な弧を描いて一回転した。カツンと見事な音を立てて着地する。危うく客人の前で失態を晒すところだったとホッと息を付く。
 が――
 ゴツンッ!
 豪快な音が静寂な教会の中に響き渡った。立ち上がろうとしたときに後頭部を思い切りよくイスの背にぶつけたのである。しかも角。
「痛ッ――」
 思わず涙がにじんだ。
 覚悟していなかった痛みというのは、戦場での痛みを遥かに凌駕すると、この時カミネは思った。
「だ、大丈夫でございますか?」
 慌てて駆け寄ってくるロマリアにカミネはどうにか「大丈夫です」と答えることが出来た。
 ただし、その顔にはまったく説得力はなかったが。

 失態である。
 よもや護衛する人間に間抜けな姿を晒し、その上でさらに手当までされようとは。
 カミネは長イスに座らされ、後頭部をロマリアに押さえつけられていた。冷水に浸されたハンカチのひんやりとした感触が悔しくも気持ちいい。
 どうにか大丈夫だと言い放ったカミネだったが、ロマリアも「ダメです。コブになちゃうのでございますよッ!」と言い、お互いが譲らなかった。数分に渡る意地の張り合いの結果、カミネはロマリアの「言うことを聞いて頂けないのならば、お城に帰ってからカミネ様の失態を皆様に言いふらすのでございますよッ!」という、ある意味、脅迫以上の効果を持った言葉に撃ち負け、現状を甘んじて受け入れていた。
 何と間抜けな……
 そしてカミネは大人しく従いながら、激しい自己嫌悪に陥っていた。既にその脳内では何度目かの地獄の業火が彼女の身を香ばしく焼き上げていた。
「まだ痛むでございますか〜?」
 落ち込むその姿がどうやらロマリアにはまだ痛むように見えたらしい。うつむき加減の顔を覗き込むように心配している。
「いえ、大丈夫です。おかげさまですっかりと痛みも引きました」
「そうでございますか〜。それは良かったでございます〜」
「ロマリア殿にはご迷惑をお掛けしました。もう大丈夫ですので、出発致しましょう」
 これ以上心配させまいと、カミネは出発を促した。それに事実、後頭部にジンとした感覚は残っているが、痛みは完全に引いていた。すぐにでも出発出来る。
「あら、それはまだだめでございますよ〜」
 しかしカミネの主張は受け入れられなかった。
「まだ少し腫れが残っているのでございますよ〜。もう少し我慢してくださいませ〜。さもないと〜」
「分かりました……」
 今ならほんの少しだけ彼の気持ちが分かるような気持ちがする。
 カミネはいくばくかの同情を異世界からの青年に向けた。
 しかし、それと同時に彼が今この時間も彼女といるのだと思うと、その感情は一瞬のうちに霧散した。許すまじという感情がふつふつと沸き上がり、次に見かけた時にはすれ違いざまに刃を向けることを考える。
「カミネ様?」
「あ、はい。なんでしょう?」
 とにかくこれ以上ロマリアに心配をかけてはいけない。
 これ以上の失態は許されないと、カミネは気を引き締め直す。
「どうせなら私と少しばかりお話しいたしませんかと、申し上げたのでございますよ〜」
「私で宜しければ」
 もうここまで来たらとことん付き合おうとカミネは腹を括る。どのみち時間に制限は付いていない。余り長くなりすぎても困るが、そう心配することもないだろう。
「ありがとうございます〜。私、カミネ様とはじっくりとお話ししたいと思っていたのでございますよ〜」
「私と、ですか?」
「そうでございますよ〜」
 カミネはあまり話し上手でもなければ、聞き上手でもない。どちらかというとそういうのは苦手である。仕える無名王女は別であるが、雑談を楽しむのであれば、自分を相手にするよりも彼女だとか、燕の方が遥かに向いているだろうと思う。
 ちなみにレスティアは真面目な話し相手としては最高の相談相手だが、雑談相手には明らかに向かない。なぜなら、どう話しの方向を持って行っても主導権を握れず、からかわれてしまうからである。最近ではその被害が根こそぎ異世界からの来客である燕に移行しているが、彼が来る以前、その被害者はダントツでカミネが多かった。その点に関してのみ、カミネは素直に燕に感謝していた。
 そんな自分と話して楽しいのだろうかとカミネは思う。ただ話し相手が欲しいだけなら早く城に帰れば良いだけのことなのだから。
 しかしそんな自分とロマリアは話したいと言う。一体どんな話しだというのだろう。
「実はカミネ様には聞きたいことがあったのでございますよ〜」
「聞きたいこと、ですか?」
「はい〜」
 何だろうと首をかしげた。先ほどまでロマリアの手で押さえられていたハンカチが今はカミネの手で押さえられている。ハンカチは後頭部からその温度を奪って、少し生暖かく感じられた。
 ロマリアがカミネの髪を慈しむように指で梳く。まるでカミネが無名王女にするように。
「カミネ様の髪は美しい色をしているのでございますよ〜」
「いえ、その、ありがとうございます」
 話しの意図が見えない今のカミネにはそう答えることしか出来なかった。
「その瞳も……」
 その言葉を聞くまでは――
「深い、深い、藍の色なのでございますね〜」
 背筋がゾクリとするような声と瞳で、ロマリアが覗き込んできた。
「何が、言いたいのですか?」
 少しの間を置いて息と共に言葉を吐く。
 ロマリアが何を聞いているのかが、分かっていて、やっと。
 そして彼女はカミネが外れて欲しいと思った、その考え通りのことを口にする。

「あなたも生き残りなのかと――」

 パサリと修道服のフードが柔らかな音を立てて外された。
 中からこぼれるのはカミネよりも少し色素の薄い藍色の髪――
 まさかと思いつつ、カミネはロマリアの瞳を注視する。
 彼女の瞳は淡い黒だったはず――というカミネの思いにロマリアは、「こんなものはまやかしなのでございますよ」と言いながら眼鏡を外す。
「眼鏡はこれを隠すための魔術媒体なのでございますよ〜」
 そこにあるのはやはりカミネよりも少し色の薄い、藍色の瞳……
「ロマリア殿、あなたは……」
「言わずともお気づきでございましょう?」
 動揺を押し隠そうとするだけで精一杯だった。今すぐにそんなはずはないのだと叫び否定したい。
 しかしそれすらも許されない。
 ロマリアは決定的な一言を口にする。
「私もあなたと同じ、“霞の血族”なのでございますよ」
 “霞の血族”
 ただその一言だけが、カミネの心を激しく揺さぶった。

 ニフラの遥か北。いくつかの国をまたいだ国と国との境目に彼等は住んでいた。
 山間にほんのわずか広がる高原。
 そこは常に薄い靄のような霧に包まれ、訪れた者を惑わすという逸話すら流れる場所。
 霞の血族。
 その地域に住む彼等をいつしか誰もがそう呼ぶようになり、また彼等もそれを名乗るようになった。
 彼等はその場所にだけ住むことを余儀なくとされていた。
 周囲の国に監視され、封じられていたのだ。
 彼等一族のみが持ち合わせる強力すぎる魔力故に。
 その魔力を利用した魔術は、驚異以外の何物でもなかった。例え、霞の血族がその魔力を誰かに奮うことなど微塵も考えていなくても。
 彼等の魔力は体よく利用すれば、町一つを容易に消すことが出来る程に凄まじいものだったのである。
 魔術の軍事利用。それはどこの国もが積極的に行っていることだ。
 しかしこの時ばかりは例外だった。霞の血族の人間、誰一人として国に招くことは出来なかったのだ。
 なぜなら、彼等はたった一人で、町だって消せるのだから。
 彼等を魔術師として招き入れること、それは確かに戦力を大幅に強化する手段としては手っ取り早いものだろう。
 だが、どこの国が制御することの出来ない、いつ暴発するかもわからない爆弾を抱えたいと思うのだろうか。
 制御することが出来ない。それが問題なのである。
 周辺の国々にとっては幸いなことに、霞の血族、一人一人の制御は不可能だが、一族全てを封じることは可能だった。霞の血族の村を中心にありとあらゆる魔力を封じるという強力すぎる結界を張り巡らせたのである。それは周囲の国々の最高位魔術師を何人も集め、七日七夜もかけて行われたと言われている。
 兎にも角にも、その結界を張り巡らせ、さらに二重、三重の監視体制を引くことによって、ようやく周辺の国々は目の前の恐怖を取り除いたのである。
 しかし、それが結果として悲劇を生む。
 何世代にも渡る軋轢が反発を生んだのだ。
 反乱が起きたのである。
 霞の血族全ての民が反乱を起こした。霞の血族に対する長年の軟禁は彼等に武力の使い方と戦略を学ばせた。
 彼等は結界の一カ所を総力を挙げて狙った。
 乱戦だった。
 そう伝えられている。
 霞の血族は一人でも結界の外に出れば良かった。出れば彼等の膨大な魔力を行使することが出来るのだから。
 戦は一月の間続いたとされている。
 戦地には屍の山が築かれ、全ての野花が血に染まった。
 その中でカミネは――

「――様、カミネ様!」
 気付けばカミネは教会にいた。
 それが間違いで、自分の意識がここになかったのだと理解するのに数秒かかった。
 鼓動は激しく高鳴り、じっとりとした汗が全身にまとわりついている。自分に血の気がないのがハッキリと分かるくらいに指先は白く、冷たい。
「大丈夫でございますか、カミネ様?顔色がよろしくないようでございますが……」
「……はい、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「でも……」
「本当に大丈夫ですから」
 そういって無理矢理笑ってみせる。
「なら、良いのですけれども」
 カミネの気丈な態度に負けたのかロマリアは渋々と引いた。
 内心でホッと胸を撫で下ろす。
 同時に苦虫を噛み潰したような思いに駆られてもいた。
 まさかあの日のことを思い出すなんて……
 それは、カミネにとって忘れたくもあり、またそうでもないものだった。
 要するに、彼女自身にもどうすれば良いのか、未だに踏ん切りが付かない思いなのだ。
 理性では忘れてはいけないと思っている。それが正しいことなのだと……
 しかし、個人的な、カミネ=ハインアート個人の感情としては……
「ロマリア殿」
「なんでございましょう?」
「あなたは……」
 時間がとても長く感じられた。
 その一瞬で何回も聞いて良いものかどうか自問自答を繰り返し、そして――
「忘れたいとは思いませんか?」
 尋ねてしまった。
 何を、とは言わない。
 それはきっと伝わっているだろうから。
「……思わないのでございますよ」
 その言葉はカミネの心を軽くする。
「私は忘れたいとは思わないのでございますよ」
「何故です?」
「それが生き残った私の責務だと思うからでございますよ」
 そういうロマリアの瞳の色はやはり淡い藍の色をしている。何度確かめても、彼女が霞の血族であることは事実だった。
「確かにあの日のことを忘れたいと思ったことは何度もあるのでございますよ。誰の目にもあの光景は悲惨なモノとしか映らないでございましょうから。でも、だからこそ私は忘れてはいけないと思っているのでございますよ」
 そう言うロマリアの瞳はどこか力強い。
 それは決意、なのだろうか。
「あのような光景を再び生み出さないために生きることこそ、私が歩んでいくべき道なのだと思ったのでございますよ」
 「あぁ、そうか」とカミネは思った。
 結局、自分も彼女も思うところは同じなのだ。
 ただ、目指すものが違うだけで。
 ロマリアはその手段としてシスターを選んだ。一人でも多くの人の心を救い、また戦の火の手を消し去るために。
 今回の親善大使もそのために一役買っているのだろう。
 そしてカミネはその手段として剣を取った。
 その道は“彼女”を守るための道だ。
 彼女の目指す世界と、その彼女自身を守るためにカミネは強くなろうと思ったのだ。
 何かが晴れていく。
 背負わされた荷物を取り払って貰ったような、そんな気分。今ならその重さすら軽く感じられるかもしれない。
「そろそろ行きましょうか?」
 スッと立ち上がり、声を掛ける。
「もう、大丈夫なのでございますか?」
「はい」
「そうでございますか」
 今度はロマリアも疑わない。席を立ち、扉へと向かう。
「このことは二人だけの秘密にしておいてくださいますか?」
 口元に指を当ててロマリアは言う。
「分かりました」
 色々思うところがあるのだろうとカミネはそれを理解する。他国では霞の血族を受け入れないという国もあるだろうからだ。ニフラではそんな差別はないと思うが、それでも抵抗があるのかもしれない。
 二人は揃って外へと通じる扉を開ける。
 雨は上がっていた。
 上空には億劫となるような暑さをもたらす空が広がっている。
「本当はこんな話しをするはずじゃなかったのでございますよ〜」
 残念そうに言うロマリア。
「申し訳ない」
 色々とロマリアには借りが出来てしまったとカミネは謝罪する。それはこの護衛の任を全うすることで返さなければいけない。
「本当はカミネ様とお召し物についてあれこれと話す予定でございましたのに」
 そして実に残念そうに続ける。
「服、ですか?」
「はい〜」
 カミネは常に男装である。
 それは非常時における動きやすさや、自身が身を置く世界で見下されないようにするためである。
 残念なことにカミネはまだ若く、しかも女性である。
 それはこの世界で生きていくには見下される大きな要因となってしまうのである。それを少しでも防ぐために、カミネは常日頃から男装を主としている。
 カミネもやはり年頃の女の子に分類される年齢ではあるので、そういった話しに興味が全くない訳ではない。ただ、単純に自分がどこに重きを置くかで選んだ場合にこれは切り捨てるモノだっただけだ。そのせいで自分に関してのそういった話しには、全くもって疎くなってしまっているが。
「カミネ様は折角綺麗なお顔をされているのですから、もっと綺麗な格好をすれば良いと思うのでございますよ〜」
「はぁ……」
「スカートなどどうでございますか?流石に無名王女様のようなふんわりとしたのはご無理かもしれませんが、タイトなタイプならとっても素敵に見えると思うのでございますよ〜?」
「そ、そうでしょうか?」
「そうでございますよ〜」
 戸惑いながらも、言葉のやりとりは会話として繋がっていく。
 それはカミネに訪れた久方ぶりの友人同士らしい会話だと言えた。
 少しだけ――
 そんな思いが彼女の中で形になっていく気がした。


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