X そして僕が選ぶ道



 いつもそこにいた君。
 いつも笑っていた君。
 いつも僕を支えてくれた君。
 掴み損ねた手。
 冷たくなってしまった手は強く握りしめても痛いと反論することもなく、そっと握り返してくれることもない。
 何で?
 どうして?
 何度問いかけてもその答えを得ることは出来ない。
 それは分かっている。分かっているんだ。
 でも――
 分かりたくないんだ。
 君がいない世界なんて。
 何が君を壊わしてしまったんだろう?
 何で君はいなくなってしまったんだろう?
 僕では力になれなかったんだろうか?
 僕は何もしてあげられなかったんだろうか?

 僕にもっと力があれば――
 僕に君を守るだけの力があれば――
 僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が僕が、僕が僕が僕が、僕が僕が、僕が――
 僕が無力だったから――
 これじゃあ――
 僕が君を殺したも同然だ。

「うわぁあああああああッ!」
 叫びと共に跳ね起きた。
 じっとりと顔に張り付く髪。ベッタリと肌に張り付いたパジャマ。
 息が荒い。体中の血液が脈打つのが聞こえる。
 ドラムのように激しくなる鼓動がうるさい。心臓を鷲掴みにしたくなる。
 自分の中に自分の知らない自分がいるような感覚。
 心臓の代わりに汗をたっぷりと吸ったパジャマの上から左胸を鷲掴みにする。跡が残りそうなほどに爪を突き立てて、激しい痛みを感じる。
 何がしたいんだ、僕は?
 荒い息をゆっくりと整えて深呼吸に変えていく。
 カーテン越しに淡い光が部屋の中に差し込んでいる。
「朝か……」
 既に居心地が悪くなった布団をノッソリと抜け出す。それもきっと今日の夜にはまた柔らかな物に変わっているんだろう。
 僕は重苦しい足取りでカーテンを引き、窓を開けて風を招き入れる。
 何だったんだあれは……
 全く覚えてはいない夢。
 しかし今までに感じたことのない不安と寂しさを感じた夢。
 引いていく汗と共に静まる鼓動。もう今は何ともないと自分で確信を持って言える。この国に訪れたときのような怠さも体の重みも感じない。
 朝の風は少し冷たく今の僕には心地良い。徐々に汗は引いていき、少し肌寒ささえ感じてきた。
「ふう」
 一息入れて窓を閉める。ちらりと時計に目を向けるとまだ起きる時間には少し早い。本来なら二度寝したいところだが、それも出来そうにはない。
「それにこの状態で二度寝するのも気持ち悪いな」
 自分の今の服の状態に閉口し、僕は備え付けられたフカフカのタオルを手にして浴場へ向かった。

 空が青い。
 世間様一般では良い天気とか言う状態だ。
 でも、そんなことは誰が決めたんだろうか?
 俺は空が黒い方が好きだ。あの濁った水のような空の色の方がたまらなく好きだ。それが良い天気ではいけないんだろうか?
 案外あのガキのような神様が空が青ければ良い天気だと決めたのかもしれない。
 まあどうでも良いか。そんなこと。
 そういえば人は良く天気の良い日は『何々日和』だと口走る。
 洗濯、遠足、お出かけ、デート。本当に色々だ。
 でもそれはどれもがその人がやりたいと思ったことに、自分自身で拍車を掛けているだけなんじゃないだろうか?
 俺の今したいこと。
 近づいてきたあの白くて大きな城を赤くしてみたい。ベッタリとした赤い血でドロドロに塗りたくってみたい。
 よし俺も自分のしたいことに拍車を掛けてみよう。
 空が青い。
 良い天気だとは思わないが、良い天気だということにしておこう。血という赤は黒い空の下に塗った方が映えるとは思うが、青い空の下でも映えると思うことにしよう。
 良い天気だということにしよう。
 今日は『塗り絵日和』だ。
 血の赤で城というキャンパスを塗りつぶそう。
 ほらキャンパスはすぐそこにある。

 汗を流すと気分もさっぱりする。服もパリッと糊の利いたシャツに替えたので気分爽快だ。
「あ、ツバメ様」
「おはよう、お姫様」
 僕と同じように彼女もお風呂に入っていたらしい。浴場のすぐ傍にあるリビングでカミネが濡れた彼女の髪に櫛を通している。
「カミネもおはよう」
「フンッ」
 鼻であしらうなよ。それにしても嫌われてるなあ、僕。
「ツバメ様も入ってらしたんですね」
「うん、ちょっと汗かいてたからね。そのまま服着るのはなんか嫌だなって思ってさ」
「そうですね」
 ゆっくりととかれていくお姫様の黒髪が柔らかい刺し日で少し茶色く見える。
 少し離れた場所に腰掛けた僕の鼻をシャンプーの匂いが擽る。風呂上がりでまだ少し上気している肌で、静かに髪を梳くカミネに話しかけてたわいもない話しをする彼女は何故かとても色っぽい。いや、艶っぽいと言った方が表現は正しいのか。
「昨日は良く眠れましたか?」
 ボーッと彼女に目を向けていると唐突に彼女に声を掛けられた。
「え?うん、まあそこそこかな。君は?良く眠れた?」
「はい、昨日は葡萄酒を口にしましたので、お部屋に帰ったらすぐに寝ちゃいました」
「そっか」
 起きたときに感じた不安。僕は寝ている間に一体何を見ていたんだろう?それは僕にとってとても大事なことのような気がする。
 オミリアは言った。僕の中には靄が渦巻いていると。
 僕はきっとそれを晴らさなければならないんだろう。
 他の誰でもない自分のために。
「……様、ツバメ様?」
「あ、ゴメン何?」
 しまった、考え混んでしまった。彼女の前では宜しくない事だ。普段は彼女自身も見ないようにしているが、彼女にはこちらの考えを見透かしてしまう力がある。彼女自身も自分の力を使うところはわきまえているが、それでもいつかは使ってしまうかもしれない。彼女自身が覚えた不安のために。
 だから彼女にあまり心配はかけたくない。
 出来ればずっと笑っていて欲しいと思う。
 無名王女という重い名札を与えられてしまった彼女には。
「大丈夫ですか?もしかして少しお疲れなのでは?」
「いや、大丈夫だよ。今日も僕は元気だ」
「なら良いんですけど」
 彼女も僕の言葉をそれ以上は追求しようとはしない。僕の言葉を信じてくれているからだと思う。
「それで、なんの話しだっけ?」
 忘れないうちに話しを戻しておこう。放っておくと彼女も自分で振った話しを忘れそうだし。
「そうでしたね。えと、ツバメ様は今日、どうされるのかなって思って」
 ちょっと頬を赤らめるお姫様。か、可愛い……
 そしてその背後で静かに髪をとかし続けるカミネさん。怖いですよ。ええ、本当に。閻魔様もビックリするような形相で僕を睨むのは止めて欲しい。マジで怖いから。
「ど、どうっていつも通り君について回って勉強するつもりでいるんだけど?」
 僕は負けませんよ。そんな脅しには屈しませんよ。カミネ嬢の顔に「私のことを言ったら切る」とか書いてて、それに負けて必死に冷静を装ってるとかそんなことは全く、あ、ありませんよ。
「今日はお休みなんですよ」
「休み?」
「はい」
 嬉しそうに笑う彼女。いくらお姫様でも休みは嬉しいらしい。何が休みなのかまだ分かんないけど。
「何が休みなんだ?」
「言ってませんでしたっけ?」
 はい、全く聞いてません。
「少なくとも僕は聞いてないな」
「そうでしたっけ?」
「うん」
「えっとですね――」
 「それじゃあ」と楽しそうに話すお姫様は実に楽しそうで可愛い。周りに花を咲かせたいほどだ。これで背後に鬼の形相で控えてるカミネがいなければ最高なんだけど。いつその腰に携えてあるカトラスを抜かれるかどうかドキドキ。もうスリルありすぎ。
「月神祭の翌日。つまりは今日、月の初めはですね私の公務がお休みになるんですよ」
 なるほど。それはお姫様のテンションも上がるはずだ。
 彼女の日頃行う行動のほとんどは公務だ。
 それは王女としての仕事と、女王になるための勉強も含めての事なので、公務が休みになるということは彼女が今日一日は自由に行動できるということだ。
「なるほど、だからお姫様は今日機嫌が良いわけだ?」
「はい、あの、やっぱり分かります?」
「そりゃあねえ」
 これほど楽しそうに話すお姫様はやはり年相応の女の子だと感じる。彼女も一六そこらの女の子だ。やはり遊びたい年頃なんだろう。
「ここまではしゃぐ君は初めてだ。何よりカミネが髪を梳き終わっても気付かないくらいみたいだしね」
 クスクス笑いながら背後を指さしてやる。
 そこには櫛を抱えたままこのあとどうするか決めかねているカミネがいる。お姫様の髪型をこの後弄るかどうかで悩んでいるらしい。お姫様は尋ねられても無反応だったし、余計にどうするか決めかねているようだ。
「あ、カミネ違いますよ。えっとその、決して気付かなかったわけではなくですね、あの、その」
「いえ、大丈夫ですよ、姫様。とりあえず今日はこのまま流しておきましょうか」
 慌てるお姫様を見てクスリと笑うカミネ。お姫様を見るときの彼女は本当に優しく、いい顔をする。
「あ、はい、ありがとうございます」
 そしてその言葉に嬉しそうに頷くお姫様。二人を見ていると仲の良い姉妹を連想してしまう。何とも微笑ましい光景だ。
「で、今日の話しだね。君はその休みをどう過ごすんだい?」
 物語の中だけだと思っていたお姫様のそれも舞台裏とも言える休日の過ごし方。それは大変興味がある。
 僕のイメージにはありきたりな物ばかりだけど、今日のような気持ちの良い空の下で読書をしながらのティータイムや、広大な庭をペットを連れてゆっくり散歩したり、極めつけはやはり夜に行う知人、友人を招待しての舞踏会とか。何とも可憐な休日を想像してしまう。
 そしていよいよそんなお姫様のリアルな休日が明らかになるのだ。興味がないなんて嘘八百も良いとこだ。もう、知りたくてたまらない。
「その、もし良ければ、本当に良ければなんですけど、一緒に町に遊びに行きませんか?」
「町に?」
「はい、その、ダメですか?」
 お姫様の休日の過ごし方が町ですか。なるほど、そう来ましたか。なるほど、なるほどね。いや、でも、うん。
 それは何だかとっても彼女らしい過ごし方だと思う。
 隠そうとしても隠しきれない笑いがこみ上げてくる。それでも我慢に我慢を重ねてまだ笑う。全くこのお姫様はいつも期待を綺麗に裏切ってくれる。もちろん良い意味で。
「何か、変ですか?」
 きっと彼女にとって、この国にとって、それは別段変わったことではないのだろう。でも、僕にとってそれは十分に面白いものだ。何とも下町じみたお姫様だ。それとも逆にお姫様だからこそ町という世界に興味を持つのだろうか。
「いや、全然。気にしないで」
 そうきっとこの状況で変なのは僕なんだろう。
「それで、どう、ですか?」
「うん、もちろん。ご一緒させて頂きましょう」
 少し笑いすぎて腹筋が痛い。微妙に涙目になっているに違いない。こんなに笑ったのは久しぶりな気がする。最後に思い切り笑ったのはいつだっただろうか?このお姫様の隣は本当に居心地が良い。
「ほ、本当ですか?」
「うん。昨日はあんまり君と回れなかったしね。出店がないのは残念だけど」
 そう言って僕はお姫様に目配せする。
「そんな事はないですよ!普段の街も凄い楽しいんですから!」
 はしゃぐお姫様。後ろでカミネが止めようとしているが、いまいちというか効果は全く見られない。
 その結果として徐々に僕に恨みがましい視線が向けられているのはきっと気のせいじゃないだろう。
 とりあえず僕に出来るのは乾いたごまかし笑いくらいだ。
「とりあえず着替えてきた方が良いと思うよ」
 そしてそろそろ僕の命に危険が迫って来た気がするので僕はお姫様に声を掛ける。
 いけないと分かっていても視線が向いてはいけないところに向いている。これは何ていうか、人として、いや男としての本能と言いますか。
 絶対に自分が赤くなっているのとカミネの右手がカトラスに掛かっているのを直感で知って、とりあえず目を反らしておく。その際に極力さり気なくを心がける。きっとカミネにはバレてるんだろうけど。お姫様が去った後はまず逃げることだけを考えよう。
 お姫様が着てるのはお風呂上がりのバスローブ。どうやらサイズが彼女には少し大きいようで、まず手が出ていない。そして何よりこれが一番やばい。
 胸元が深く見えている。
 男なら気にしないというのが嘘だろう。しかもそれが超絶美人のお姫様です。この法則は絶対です。日本人の主食が米だというくらいに絶対です。
「………………」
 リンゴよりも赤く。穴があったら入りたいという言葉をまんま表したようなお姫様の顔。きっとお互いが今もの凄く恥ずかしい。とりあえず憤怒の化身と化してるカミネはこの際置いておいて。
「す、すぐに着替えてきますッ!」
 風よりも早く、後につむじ風が起こるんじゃないかと思うほどに騒然と彼女は立ち上がり自分の部屋に向かう。彼女の部屋はこのリビングの目と鼻の先、とまでは言わないが二〇メートルほど離れたところにある。彼女はそこに脱兎の如く駆け込むとおしとやかという言葉とはほど遠い動作でドアを閉めた。
「さてと」
 これでやっと話しが出来る訳だけど……
「貴様ッ…………」
 先に逃げた方が良いかもしれない。
 というかとりあえず逃げよう。
「まあ待て。とりあえず落ち着いてその右手に掴んでいる凶器をしまえ」
「問答無用だッ!」
 無論、僕はやはり話し云々よりも逃げ出した。

 コツコツと小気味良い音が鳴る。骨と骨を打ち鳴らした様な音に似ている。
 でも本当に骨と骨を打ち鳴らした音はもっと気持ちいい。鳴らす度に背筋がゾクゾクするような快感がやってくるのだ。
 それを思うとこんな音などクソのようなものだ。自分でこんな音を鳴らすのも馬鹿馬鹿しい。
 ガッガッガッとワザと舗装された道を削り取るように歩く。自分の履く靴は底に鉄板が敷かれている。思惑通り所々の石が欠けていく。これは何とも気持ちいい。
 でも今からやることはきっともっと気持ちいいに違いない。考えるだけでもオーガズムに達しそうになる。
 赤く。紅く。
 綺麗な物を赤く、紅く染めていくのは何にも代え難いほどに気持ちいい。
 やっと辿り着いた見事な城門。これも綺麗な形をしている。でも色が気に入らない。白なんてダメな色だ。やはりこういうところには赤こそが相応しい。
「ちょっと待ってくれ。お前さん今日はこの城に何の用だ?」
 丁度良いときに声を掛けてくる衛兵。こんなところに赤の材料があるじゃないか。さて、どのようにこの門を塗りたくろうか。
「おい、あんた聞いてるのか?」
 衛兵は二人いる。これなら結構な範囲が塗れるんじゃないだろうか。本当は紅が一番良いのだけれど、まあお楽しみは後に取っておくことにしよう。何と言ってもこれから入る場所は城だ。中には紅も掃いて捨てるほど働いているに違いない。その分邪魔な物もたくさんいるんだろうけど、それは我慢して赤くしていこう。美味しい物を食べる前に不味い物を食べておいた方が後のお楽しみは美味しく感じるのと同じだ。今からでもよだれが滴ってきそうだ。
「おいッ!聞いてるのかッ!」
 近寄ってきた衛兵が叫ぶ。五月蠅い。これだから赤は嫌なんだ。
 握り混んでおいた手を放す。
 石畳にコツンという音。
 さあ始めよう。
「おいでカーマイン」
 ゴリゴリと岩が変動する音。
 自分のいる空間が陥没する。上体を後ろに倒す。何も恐れることはない。尻餅を付く前に自分を受けとめる物体。これがカーマイン。俺の絵筆。
「やろうか、カーマイン。まずはこの門を赤く染めようじゃないか」
 うごめくカーマインの豪腕が有無を言わずに衛兵を鷲掴みにする。石畳に擦りつけながらそのまま投擲。目標はもちろん白い門。
 グシャリという音が鳴って赤が飛び散る。
 大丈夫。門が砕けないように調節するようにカーマインには伝えてある。だから大丈夫。ほら、綺麗な赤が広がっているじゃないか。本当に紅じゃないのが勿体ないくらいだ。
「良くできてるねカーマイン。ほら、もう一個だ」
 今度は絵の具のチューブを絞り出すように足を掴んで後は同じように石畳をガリガリ削りながら門へ放り投げる。
 ベシャリとまた赤が散る。
 昨日の花火なんかよりもこっちの方が全然綺麗。
 やはり俺の絵筆は最高だ。
 そしてきっと今日は最高傑作を作れるに違いない。
「さあ、行け。俺の絵筆達。この大きなキャンパスを赤く、紅く染めてくれ」
 バラバラと撒き散らす宝玉は一回コツンとバウンドして大地に沈み込む。これも僕の大事な絵筆達。
 さあ行こうか。
 無名王女という極上の紅を求めて。

「じゃあ話しは聞いてるんだな?」
「ああ、一応な。レスティア姉から聞いてはいる。まあやることはいつもと変わらないがな」
 オミリアにもらった予言。それは昨日の内にレスティアさんに話しておいた。一応兵備は強化しておくという話しだ。今カミネにもやっと確認出来た。
「しかし、本当にそんなことがあり得るのか?オミリア様の予言と言えど、我々のいる前で姫様に酷な出来事とは」
「ないに越したことはないけどね」
 そう、確かに外れるならそれに越したことはない。しかし、言うならばそれ以上に用心するに越したことはないということだ。
「でも、油断はしない方が良い。油断は最大の敵になる」
「そんな事は貴様に言われなくても分かっている。姫様は我々が守ってみせる」
 それは自信と誓いに満ち溢れた言葉だった。
「期待してるよ」
「貴様に期待されても嬉しくもない」
 そして相変わらずの減らず口でいらっしゃいますのこと。それがなければ本当に立派で格好良いんだけどね。
「で、町に出るのは構わないのか?」
 僕の考えではそっちの方が良いとは思うがこういう事はプロの意見も聞いておくべきだろう。目の前の彼女はそのプロなんだから。
「構わないも何も姫様がそう望んでいるんだ。やらない訳にはいかないだろう?」
 それだとプロの意見とは言えないんじゃないだろうか。
「それに姫様を重圧から解放できる唯一の日だ。私はそれを潰したくはない。あの方には幸せだと思える時間を一秒でも長く過ごして欲しい」
 でもそれは姉としては立派な心がけだろう。
 無名王女とカミネやはりこの二人は仲睦まじい姉妹に見える。
「お待たせしました」
 カチャリと今度は静かにドアが開く。お姫様の着替えが終わったようだ。
 飾り立てない桜色のワンピース。装飾も少なく質素だが、それが彼女にはとても合って見える。胸に見知らない花のブローチ、頭には若草色の髪留めをワンポイントに着けている。それにしても彼女がいつも軽装になるとワンピースなのは彼女の趣味なのだろうか?まあ、似合ってるから良いんだけど。
「どう、ですか?」
「大変お似合いですよ」
「うん、可愛いよ」
 もちろん、似合っているものをけなす気は毛頭無い。カミネに至っては似合う、似合わないに係わらず可愛く見えていそうだ。でも、まあこのお姫様はどんな服でもよっぽどの物で無い限り可愛く着こなしてくれそうだが。
「それじゃあ、朝食を取って、少し小休止を入れてから出発しようか」
「はい」
 今日の朝食は何だろうか?
 そう考えられる余裕が今の僕にはまだあった。

 ああ、楽しい。
 そう、楽しいと感じられるということは素晴らしいことだ。
 群がってくるゴミ共を片っ端から赤に変えていくこの上ない快感。
 嫌いな白が赤く染まっていく。
 でも足りない。
 紅が足りない。何故か綺麗に紅が逃げている。
 誰だ。
 誰が俺の紅を取っているんだ。
 どこに紅を隠しているんだ。
 独り占めはずるい。
 俺にもよこせ。
 赤はくれてやろう、だから俺に紅をくれ。
 また目の前で赤が散る。
 赤は好きだ。
 でも――
 紅はもっと好きだ。
 赤じゃない、紅をくれ。
 さあ、この部屋はどうだろう?
 今度こそ紅がいれば良いのに。
「カーマイン」
 命令一つで開かずの扉も無意味になる。これが自慢の絵筆、カーマイン。
 吹き飛んだドアの向こう。そこで俺はようやく見つけた。今日初めての紅だ。
「ああ、やっといた。これでようやく紅が見れる」

 目の前のドアが吹き飛んだ。随分とマナーの悪い来客だ。
 既に報告は受けていた。だから正面から入ってくれば奥に進むためには絶対に通らなければならないここで待っていれば良かった。
 彼――河渡燕には感謝せねばなるまい。
 彼のおかげで私は一番大事な人をこうやって守ることが出来るのだから。
「いらっしゃいませ〜♪」
 そこにレスティア=カーネルはいた。
 体に一本針金を通したかのように綺麗に背筋を伸ばしてそこに立っている。
「ああ、やっといた。これでようやく紅が見れる」
 岩で作られたゴーレムの肩の上で男はただそう言った。
 赤いローブにフードを目深に被り、その奥から緋色の髪と紅の瞳が覗き。こちらを狂気一杯の卑猥な視線で汚してくる。
「本日は何のご用でしょうか〜♪」
 緋色の魔術師に向かって言う。姿勢は崩さず、一歩も動かない。
「用、用か。用ならある。とびきり極上の紅の出そうなあんたにッ!」
 男の駆るゴーレムは巨大だ。その大きさは軽くレスティアの三倍はあるだろう。豪腕だけで人を三、四人束ねたような太さだ。
 それがその容姿からは想像できない速度で唸り、迫る。
「あんたの紅を俺にくれぇええええええッ!」
 ゴーレムの一撃が粉塵を巻き起こし突き刺さる。
 一撃は床を軽々と打ち抜き、肘に当たる部分までが埋没している。すさまじい破壊力。一撃の当たりが必殺とイコールだ。
「ああ、しまった。カーマインやりすぎだ。折角の極上の紅をグシャリと潰してしまったか。ゴメンよカーマイン。少し興奮しすぎたようだ。しょうがないから君の拳に着いた美しい紅を俺に見せてくれ」
 ゴウッと騒音を立てながら引き抜かれる豪腕。パラパラと砂埃を落としながらそれを男の前に引き寄せる。
 紅くはない。それどころか紅の欠片一つ散っていない。
「私の判断しましたところ〜♪」
 カツンと小気味よい音が鳴る。
「残念ながらあなたは我が主の城に相応しくないお客様のようですね〜♪」
 フワリと翻るスカートの裾。
「申し訳ありませんが〜、直ちにお帰り願えますか〜?」
 一ミリもずれの無いヘッドレス。
「そうだな、この城を紅く塗りつぶしたら帰らせてもらおう」
「そうですか〜♪」
 キュッと右手にはめられる彼女の誇り。
「では、僭越ながら、ロイヤルガード、レスティア=カーネル参ります〜♪」
 それは唐突に宣言された。
「イフリートボルケーノ〜♪」
 間延びする語尾と共に発射された無数の小爆発。それらは全てが連動し一瞬にしてゴーレム――カーマインを埋め尽くす。
 しかし――
 灼熱の業火を抜けて豪腕が振り下ろされた。
 ズガンという音と共にまたもや一撃必殺のハンマーは床を深く打ち抜いた。
「なるほど〜♪対魔術使用のゴーレムですか〜♪」
 ゴーレムの側面に瞬時に移動していたレスティアは素直に感心していた。魔術を完全に防ぐ術式はかなり高度なものだ。それをゴーレムに組み込むとは、完全に狂った魔術師であるがかなりレベルは高いらしい。
「今のは危なかった。このカーマインじゃなかったら消し炭になるところだ。レスティア=カーネル、俺はついている。まさかかの有名なレスティアが最初に現れてくるとは。最初の紅にして大当たりを引いた。たまらないな。今すぐにその紅を見たい」
 どうやら目の前の魔術師はついでに変態でもあるらしい。すぐに掃除してしまわねばなるまい。こんな物を主様達に近づけたくはない。
「今すぐ投降して下さ〜い♪じゃないと半殺し程度じゃ済まなくなりますよ〜♪」
「嫌だね。極上の紅を目の前に止められるわけがない?」
「人が折角半殺しで済ませてあげると譲歩してあげているのに分からない人ですね〜♪」
 会話が成り立っているのかどうかがいまいち微妙に判断しかねるこの会話。しかし両人はそれぞれの考えを思いつくままに述べる。
「もっと世界は紅くなるべき何だ。紅く、紅く」
「殺しますよ〜♪」
「ああ、でもそうだな。俺がここにいたままじゃあ、あんた相手にはカーマインもやりづらいな。俺は先に他の紅を拝ませてもらおう。どのみち全てのゴーレムは僕にリアルタイムでキャンパスの彩り具合を送り続けてくれてるんだ。生であんたの紅が見れないのは残念だが、俺がここで死ぬ可能性が低くなるんだから我慢しよう。カーマイン」
 男の声と共にゴーレムの豪腕が彼を掴み、そして石壁に向かって思い切り投げつけた。
 男がグシャリと潰れるビジョンとは裏腹に、男はその壁にするりと溶け込んだ。ズボリと音を立てて埋まり、中で反転したのか頭だけをこちらに向けてくる。
「まあカーマインと遊んで綺麗な紅をぶちまけろよ。このホールをあんた専用のキャンパスにしてやるよ」
「マドスイングのスキルまで持ってるんですか〜♪厄介ですね〜♪」
 これではここで男をしとめることが出来ない。かと言ってこのゴーレムをここに放置するわけにもいかない。ゴーレムを確認と同時に全ての使用人達に避難命令を出してあるが、もしかしたらまだ逃げれていない者がいるかもしれない。そして何より、姫様が危ない。ニフラ様は既に逃げおおせている。それは確実だ。彼女の傍にもいつもロイヤルガードがいる。
「俺はあんたが舞っている間に別の紅を探しに行くよ」
 ゆっくりとその顔が壁に沈んでいく。壁を今度から魔力素材で覆った方が良さそうだ。
「じゃあな」
 壁には跡形も残らない。それでもあの壁は叩き壊して塗り替えようとレスティアは即決した。そして――
「まずはこれを壊さないといけませんね〜♪」
 姫様の元に駆けつけるのはその後だ。彼女の傍にはカミネがいる。彼女も誇り高きロイヤルガードだ。自分の最も信頼する近衛騎士だ。だから不安は無い。あるのはただまっとうなる使命遂行の意志。
 しかし時間を浪費する気も無い。
「スレイプニル〜♪」
 レスティアは名前を呼んでスカートの裾をちょこんと摘んだ。

 スパ、スパ、スパッと切れていくその光景は深夜番組の万能包丁なんてただのペーパーナイフに見えてくること請け合いだ。何てったって切っている物が自分の身の丈を遙かに上回る巨大なゴーレムだし。一体どういう原理で切っているのか知りたくなってくる。
「邪魔なゴミだな。一体何体いるんだ?」
 僕にはゴミというか怪物にしか見えないけどね。
「これは、一体……」
「襲撃ですね。どちらかと言うとテロですが、しかも単独犯でしょう」
 何でそこまで分かる。あんたには予知能力か何かのも付いてるのか?
「そうですね」
 嘘。お姫様、あなたにも不可思議な能力が付いてるんでしょうか?
「魔力がどれも同じ色をしています」
 ああ、解説を付けてくれてありがとうお姫様。
「推測に過ぎませんが、多分この様子だと同じような物が複数城にばらまかれていますね。半自立型の自動稼働ゴーレムのようですから」
「で、僕たちはどうするんだ?」
「このままゴーレムを排除しながら避難するしかないだろうな。姫様を危険な目に遭わせたくはない」
「まあ、妥当な策だな」
「不満があるなら貴様はここに残れ。私は一向に構わん」
「この状況でそういう冗談は笑えないよ。マジで」
「私は本気だ」
 そうですか………
「姫様参りましょう」
 そしてこいつ本気で僕を置き去りにするつもりだ。
「あ、はい」
 ん、でも何だ?今のお姫様の微妙な顔つきは。
 とりあえず僕は彼女たちに必死について行かないといけないわけだ。

 スレイプニル。
 それは彼女が選ばれた武具の名前だ。
 彼女が選んだのではない。武具が彼女を選んだのだ。
 スレイプニルは神速を彼女に与えた。
 風を体感するとはまさにこのことだった。
 彼女はスレイプニルによって風になった。世界を一瞬にして巡ってしまえるかのような錯覚。普通の人には到底追いつけない感覚。
 それを彼女は履き慣らしてしまった。
 神風のレスティア。
 戦場で彼女をそう呼び、羨望の眼差しを向ける者は多い。
 スレイプニル。
 それは彼女を誰よりも早く、風そのものにたらしめる。
「参ります〜♪」
 最初の一歩。それが既に見えていなかった。踏み込んだのか、否かさえ判別は不可能。
 声を発するより早く、息をするよりも自然に彼女はそれの背後にいた。
 ダルマのようにゴーレムの右膝を綺麗に打ち抜いて。
 一瞬。そんな言葉すら生ぬるい。
 膝を打ち抜かれたゴーレムがバランスを失った刹那には右手が。
 揺らいだ刹那には左足首が、傾いた刹那には右肩、その更に一ミリ傾いた刹那には頭部が――
 一秒一瞬にすら満たない。
 全てが一瞬を越える刹那。
 気付く間すら与えない。
 いや、気付くことすらあり得ない。
 それが神風。
 それは終わった頃にようやく吹き荒れる。
「これが核ですか〜♪」
 どこからかやってくる風が髪を揺らす。手の中で光る核を転がし、落とす。
 次の刹那それは塵となって消えていた。
「早く終わらせてお掃除しないといけませんね〜♪」
 間延びする声、それだけがそこに残っていた。

「見つけたぞ。極上の紅だ。しかも二つも」
 それは壁から鼻から上だけを壁から出してこちらを向いていた。
 まるで水の中へ潜るかのようにそれは一度沈み、上半身から這い出てきた。
 こちらを見上げた目線が交錯する。
 背筋に冷たい物が走った。誰もが驚くような冷たい目をした男だ。その緋色の瞳に宿るのは誰の目にも明らかな狂気。
 彼は狂っている。それがはっきりと分かる。
「貴様がこの騒ぎの元凶だな」
「美味そうだ、本当に美味そうな紅だ」
 手のひらに二つの玉をカチャカチャさせながら男は彼女たちを眺めている。その顔からは本当によだれが滴り落ちて、どこかの美食家気取りのような瞳になっている。
 直感的に僕は叫んでいた。
「おい、姫様ッ!」
 しかし、それは遅かった。間に合わなかった。
「あ、ぁあ、ぁあぁぁあああッ!嫌ぁああああああああああああッ!」
「クソッ!」
 毒づいてもそれは何の解決にもならない。でもそうせずにはいられなかった。彼女は覗いてしまったのだ。
 この男の心を。
「おい、カミネ!お姫様がその気違いの中覗いちまったぞッ!」
 それはきっと彼女が法廷の台に立つ際に行っていることと、全く変わらない気持ちだったのだろう。この男が本当に元凶なのかどうか、ただそれだけを調べるためのものだったに違いない。
 しかしそれが鬼門だった。
 彼女は当てられてしまったこの気違いの狂気に。飲まれてしまっている心が。
 ちょっと垣間見るつもりが、中には予想以上の水が入っていてそれが一気にこちらに流れ込んできたようなものだろう。慣れない種類の感情に、更にその流れ込んできた情報量の圧倒的な大きさと濃度に彼女の心は完全なパニックに陥ってしまっている。これは非常にまずい。
「おい、カミネッ!」
「五月蠅いッ!分かっているッ!」
 一言で言うなら単純に荷物の重みが増したということだ。今のお姫様はパニック状態に加え、極度のショック状態でもある。体が痙攣しているのだ。これでは彼女は動くことが出来ない。これでは只の的だ。
 彼女は僕等が絶対的に守らなければならない存在だ。傷一つ付けられないほどに。
 その彼女が動けないとなると、僕等は彼女を完全に庇いながら逃げなければならない。これではそのスピードさらには戦力さえも大幅にダウンする。
 一つの解決策として、今すぐにこの場でカミネがこの男を倒すことなのだが――
「おいで、グラナード、グラベッド」
 それはどうやら少し難しいようだ。
 男の手のひらから転げ落ちた宝玉は床に落ちて一度弾かれた後、床に沈み込み、その周囲を取り込みながらゆっくりと盛り上がっていく。それはやがて壁を喰らい、窓を喰らい、二体の巨大なゴーレムとなった。その大きさは今までカミネが切り捨てた物よりも二回りほど大きい。
「チィッ!」
「さあ、お前等まずはそこのナイト気取りの紅からやってしまおうか。壁が無くなってしまったから、そうだな――」
 ふと男が目を向けたのはゴーレムの材料となって消えてしまった壁の向こう側の一室。客間として使われている場所だ。ちなみに今は僕以外の客人はこの城にいないため、そこは誰も使っていない。
「この部屋をその女の紅で染め上げようか。ここをその女の紅だけで彩ろう」
「抜かせッ!」
「やれ」
 言葉がスイッチになった。ゴーレムは一斉にカミネに躍りかかる。
 振り下ろされる戦車砲のような一撃。
 それはピンポイントでカミネのいた場所を打ち抜き、階下への風穴を開けていく。これじゃあすぐにビンゴカードのマスも埋まるだろう。
「おい、貴様ッ!」
 カミネが叫んだ。
「姫様を抱えて走れッ!」
「ぁあ?」
「姫様がその状態では満足に私も動けん。貴様は姫様を連れて先に行けッ!」
 仕えるべき主から離れること、それは彼女にとって苦渋の選択だ。逆に言うとそれほどまでにこの状況が喜ばしくないことを示している。
「分かった」
 そしてそれは僕も思っていたことだ。あのゴーレムの攻撃方法は乱雑すぎる。あのような攻撃が続けばいつかは床が崩れ落ちるだろう。それでは自分やカミネはともかく、彼女はかなりの危険を伴うことになる。
 それは避けたいところだ。
「姫様にかすり傷一つ負わせてみろ。貴様を細切れに切り刻んでやる」
「それは勘弁してくれ」
 生まれて初めてのお姫様抱っこ。それがこんな場面だとは、しかもお姫様になんてある意味最高に幸せだ。これでこんな騒動なんて起こってなければなお良いんだけど。
 どうやらそういうわけにはいかないらしい。
「死ぬなよ?」
「誰に向かって言っている」
 カミネのカトラスが風を巻き取っていく。徐々にその密度は増していき、気付いたときにはカトラスが見えないほどの濃度になっていた。
「行けッ!」
 振り払われたカトラスは視界一面を覆うほどの一撃となって、クラクションを鳴らす。彼女を守るんだ。僕達の考えがそこで重なった。
 後押しする旋風をアクセルに一気に加速する。どこまでいけるか分からない。それでも今はとりあえず走るしかなかった。

 ようやく粉塵が治まったと思ったときには極上の紅が一つ減っていた。すこぶる残念だ。まあ良いか。とりあえずはこの紅を味わってからでも――いや、それとも二つの紅を同時に味わうべきか。全ての絵筆は例に漏れず、俺に赤と紅のグラデーションを伝えてくれるのだ。相変わらず紅が足りない。それどころか段々と絵筆の数が減ってきているじゃないか。
 これは困った。
 これじゃあ快感が足りなくなるかもしれない。それじゃあダメだ。
 よし、もう一個の紅も確保しに行こう。
「お前の相手はこのグラナード、グラベッドにさせよう。俺はさっきの紅を取りに行く」
 ジュルリと下を舐めずる。逃げたのはサラサラの黒髪を持った極上の紅だ。あれこそ絶対に手に入れたい色だ。
 ここのキャンパスは広くて綺麗だが圧倒的に紅が足りない。
 紅を一つでも多く。塗って、塗って、塗りたくりたい。
「行かせると思うのか」
「ああ、もちろんだ」
 俺はそう答えてやる。パチンと指を鳴らし、グラナードに自分の体を掴ませる。
「やれ」
 もう一度パチンと指を鳴らしてグラナードに僕を目の前の紅の背後にある通路の壁に向かって放り投げさせた。視界が一瞬にして壁に埋まり、またおちょくるように顔だけを出してやる。
「大人しく紅をぶちまけろ。その間に俺も向こうの紅をしゃぶり尽くしてやろう」
 考えただけでもゾクゾクする。早く、紅をぶちまけたい。このままじゃ欲求不満になってしまう。いや、もうなっているか。赤だけで飽き飽きしてきている。早く紅を手に入れなければ。
「ああ、楽しみだ」
 ブクブクと徐々に顔を壁に沈めていく。
 さて逃げていく紅を追いかけよう。

「チィッ!」
 マドスイングの術を使えるとは誤算だった。きっとレスティア姉も同じ手段で逃げられたに違いない。となると急がねばならない。一時でも彼女を無防備にしておく訳にはいかない。彼女を守ることそれが私の使命で、誇りだ。
「悪いが手加減はしてやれん。私には守らねばならない人がいる」
 そして一瞬の間を挟み、風が鳴き出した。
 彼女の愛剣『鳴神』。
 それは風をかき鳴らす宝剣だ。
 一目見たときにこの剣に心を奪われた。この『鳴神』と彼女を守りたいと。あのいつも優しく、可愛らしい、自分の妹のような少女を守ろうと誓ったのだ。
 この剣に。
「目覚めよ鳴神」
 キーンと鼓膜に響くような鳴き声。
 否、それは共鳴。
 カミネの魔力が織りなす風と鳴神がたぐり寄せる風。その二つが奏でる重奏はこの世の楽器では奏でられないような神秘的な音と緊張感をその場に生み出していた。
 もっとも、そこでその緊張感を味わう者はそれを当に使い慣れているカミネただ一人。
 周りをただ思うがままに舞い、奏でていた風達はやがて一定音に治まっていき、鳴神を軸に一閃の刃となる。
「琴音」
 振り払われた風の刃が大気を切り裂く。グラナードと交差する瞬間にその一閃はハープの弦を弾いたかのように美しい音色を響かせる。
 右の脇腹から左肩までを滑らかに横切った鳴神はグラナードを綺麗に真っ二つに分断。
 数秒のずれを置いてその切り口は開き、ズルズルと分離していく。
 が、その分離は途中でピタリと止まった。そしてまるで綺麗にそこだけを巻き戻したかのようにゆっくりと元の場所まで戻ると二分されたグラナードは再び一つになった。
「なるほど、やはり核をやらねばダメか」
 カミネは嘆息し風を纏った鳴神を強く握りしめた。

 息を切らせて走る。こんなことになるのなら陸上部にでも入っていれば良かった。もっとも入っていたからといって、僕が人一人という荷物を抱えて息を切らさずに走れる姿など想像も出来ないし、実際にやっても出来ないと思う。むしろ途中で断念しそうだ。
「これで多少の時間が稼げれば良いけど」
 折角、数時間前に汗を流した後なのにこれじゃあもう一度入り直さなければいけない。
「ん、んん」
 どうやら丁度良いことに眠り姫もお目覚めのようだ。これで少しは楽が出来る。とりあえず支えるのは自分の体重だけで良いし。
「お目覚めか、お姫様?」
「あ、はい」
「体は大丈夫か?動けるか?」
「え?」
 聞かれて彼女は初めて自分の今の状況を知る。言わずもがなお姫様抱っこだ。
「いや、あの、そうじゃなくて。嫌、でも、いやああああああ」
「ちょっと待て暴れるな。危ないって」
 じたばた藻掻くお姫様を何とか無事に降ろす。大きく息を吐き、呼吸を整える。
「あの、すいません」
「気にするなって、困ったときはお互い様だろう?それより、もう大丈夫なのか?」
 少しまだ顔色の悪い彼女に手を差しのばす。
「嫌ッ!」
 ビクッと驚いたような反応とともに拒絶。
 おかしい。普段の彼女にはあり得ない反応だ。
 もしかして、これが――
「おい、お姫様?」
 コツリと踏み出す一歩に合わせて退く一歩。彼女は更にそのまま後退し、やがて背後に控えていたドアの中に逃げ込んだ。
「なッ!?」
 鍵を閉められてはたまらないと慌てて中に追う僕。
 そこは彼女の匂いがする部屋。落ち着いた雰囲気と優しい匂いに満ちた彼女の部屋だ。
 そしてベッドの裾にすがりつくようにただ震える彼女がいた。

 独奏。
 無数の音源がゴーレムを十に分けられた。
 二重奏。
 その十の塊に二十の音が重なった。
 三重奏。
 更にそこに三十の和音が響く。
 四重奏。
 そして最後に四十の音が一瞬というメロディを奏でた。
 無数の破片の中からカミネはキラリと輝く宝玉を発見する。
「琴音」
 キンという音が響きグラベッドの核は砕け散った。
 まずは一つ。
 しかし安堵する間もなく上空から押し掛かってくる重圧。グラナードと呼ばれたゴーレムの豪腕だ。
 しかしそれが彼女に重圧となるかどうかと聞くと彼女は否と答えるだろう。何故ならそれは彼女には届かないからだ。
 豪腕は彼女に風だけを届け、彼女に触れる前に腕の根本から砕け散った。
 そして彼女に届いた風は激しさを増す。
「鼓轟」
 もうこのおもちゃには飽きたかのように気怠げな声。
 ただ単に激しく肥大させた風の塊をぶっきらぼうにぶつけただけの一撃。
 だがそれだけにその威力は荒々しく、激しい。
 その一撃はただ触れただけでグラナードの体を削り取り、塵にしていく。一瞬にしてグラナードは跡形もなく塵となり、その中を落下する宝玉が一つ。
「フンッ」
 それを確認したときカミネは鳴神を既に収め、そこにはもう用がないとその場を背にしていた。
 コツンと宝玉が音を立てた時、それは既に二つに分けられ、崩れ始める。
 騎士たる少女の足はその様を見る事なく既に駆けだしていた。

 オミリアの言葉が頭の中で甦る。
「しかしあやつには、無名王女には酷な出来事になるかもしれん」
 これが、そうなのか。
 何も言わず、ただ震えるだけの彼女にゆっくりと近づきしゃがむ。もっと緩慢な動作で差し出した手に彼女はキッパリと拒絶の言葉を発した。
「来ないで下さい」
 そう言った彼女の言葉に僕の手は止まる。代わりに今度は言葉を投げかけた。
「何で?」
 そこは彼女にとって唯一の聖域なのかもしれない。
 レスティアさんがいてカミネがいて、彼女はたくさんの人に囲まれている。無名王女として。
 それでもきっと色々と辛いことがあっただろう。
 いくら姉のように慕うレスティアさんとカミネでもやはり話せないことはあるだろう。それはきっと誰でも同じ事で、誰にだって人には話せず、一人で抱え込まなければならない事はある。彼女もそれは同じだ。
 いや、普通の人よりも彼女はもっと多いかもしれない。彼女はそれを解決する時間すら少なかったに違いないだろうから。
 一体彼女はこの部屋で独り、どれだけの涙を流したのだろうか?
「また、私の為に多くの人が血を流しています」
 彼女は緋色の魔術師の心を覗いたときに見てしまった。彼が無数のゴーレムを城に放ち、多くの兵士達を血まみれにしたのを。
「私なんかの為に、多くの人が傷ついて倒れて……」
 その言葉は徐々に嗚咽となって流れ出す。
「レスティアもカミネもお城で働く皆さんもいつも私に凄く優しくて、でも私はそんな皆さんに何も出来なくて」
「それで?」
「私はいつも守られてばかりです。何をする時でも、どんな時でも。いつも誰かに守られています。私は何もしてあげられないのに」
 彼女は無名王女だ。未来のこの国の中心になる人間だ。だから守られるのは当たり前だ。でも、彼女にはそういう考えが出来ない。
「それは違うよ。きっと」
 だけどそれはきっと彼女がただ、優しいだけだからだ。
「君は無力じゃない。少なくとも僕よりはずっと」
 彼女が無力だというなら、僕は一体何なのだろうか?
「僕は君のように心を覗くことはできないし。魔法だって使えない。頭だってもの凄く良いなんていうのは君が勝手に誤解してくれただけで、本当は大して頭も良くないよ。僕は絵を描く学校に行ってたんだし」
「でも、それはツバメ様がこの世界の人間じゃないからッ!」
「世界が違うから無力なのかな?」
 そんなことは関係ないと思う。
「君は違う世界に行ってしまったら変わってしまうのかな?」
 きっと変わらないと思う。
「変わらないだろう?君はきっと。ここじゃない世界でも君はきっと誰かを助けたいと思うし、そのためなら君は魔法がない世界でも魔法を使うだろう?」
「でも――ッ!」
 涙を流す彼女を僕はギュッと抱きしめた。
「それでも、もし君が自分のことを無力だと、何も出来ないのだと嘆くならッ!」
 君は知っているはずだ。自分がどれだけ多くの人に愛されてるのかを。
「僕が、君が無力じゃないことを証明するよ」
 僕はそっと彼女に囁いた。
「だって、君は僕を助けてくれたじゃないか――」
 もし目が覚めて、最初に出会ったのが君じゃなかったらなんて考えたくもない。僕一人だとこの世界に来てから今日まで生きてなんか来れなかった。きっと絶望に打ち拉がれて、狂っていたと思う。
「だから僕は知ってるよ。君が無力じゃないってことを」
「ありがとう、ございます」
 流れる涙は悲しみから、喜びに。彼女という心を強くした。
「行こうか?」
「はい」
 泣いている場合じゃない。目が少し腫れているのだって気にしていてはいけない。逃げなければいけない。自分の為に戦ってくれている人たちがいるのだから。
「見つけた」
 ゴプリと目の前の床がぬかるんだ。
 あり得ない。何故ならそこは深い毛で覆われた絨毯だから。
「見つけた、極上の紅。きっとこの国で一番綺麗な紅」
 緋色の男。
「嫌なタイミングで出てくるなあ。あと二分くらい我慢しろよ」
 部屋の中で出てこられては向こうがゴーレムを使う分逃げ場が無い。救いとしてはこのお姫様の部屋がやたらと広いことだろうか。それでも袋小路に追い込まれたのとそんなに変わらないとは思うが。
「魔法は使える?」
 男に聞こえないようにお姫様に囁く。彼女の魔法はその威力が大きすぎるためコントロールが出来ない。そのためこういった密室では暴発したときの危険が大きいため使用に耐えうるのだが、それでも無いよりはマシだ。
「すいません、さっきあの人の心を覗いたときから美味くコントロール出来ないんです。多分一時的な麻痺症状みたいなものだと思うんですが、撃てるとは思いますが確実に暴発しますね。全く流れが読めていないんで」
「そうか」
「すいません」
 シュンとしょげる彼女。
「ま、気にするほどの事じゃないさ」
 クシャッとお姫様の髪を梳いて慰める。使えるだけでもまだ希望はある。
「とりあえず使えるんなら問題ないさ。いざとなったら何も考えずに使っちゃおう。このまま嬲り殺されるなんてやってられないだろ?」
「そうですね」
 クスリと笑うお姫様。良い笑顔だ。
「やっと見つけた。赤と紅が一つずつ。あぁやっと見つけた、もう我慢できそうにないなあ、これは。俺の絵筆達もどんどん壊されちゃってるし」
 男は完全に床から湧き出てくると。フラフラと彷徨い、部屋のドア付近の壁に背を預けてようやく落ち着く。
「何か変だな、あいつ」
「多分ですけど、魔力の使いすぎだと思います。魔力の浪費はああいった狂気に囚われてしまった魔術師にはよくある事らしいですし」
 「私もこんな人見たのは初めてですけど」と付け加えることを忘れない。あれば多分彼女は彼の心の中など覗かなかったに違いない。
「赤が、紅が足らない。早くアカを塗らないと狂ってしまいそうだ」
「もう狂ってるだろ」
 しっかりと冷静に突っ込む僕を無視し、男はガンッと荒々しく壁にゴーレムの核を叩き付ける。
「来い、ブラッド」
 それは急速に手近な空間に存在する物を片っ端から吸い込み、大きな人型を成そうとした。
 しかし、成すことは無かった。
 術者本人の魔力不足が良く分かる。それは人の形を成す一歩手前、溶けかけの泥人形のような形になってすでにズルズルと這うような音を立ててこちらに近寄ってくる。
 そしてそのゴーレムは未だに周囲の物体を吸収することを止めようとしない。
「やばいな」
 あれだと握りつぶされるとか以前の問題に触られた瞬間に取り込まれるんじゃないだろうか。一瞬、自分がこれの一部になってしまったのを想像してゾッとする。
「お姫様、こうなったらあれをギリギリまで引き付けて時間を稼いで、もう無理だと思ったら、ぶっ放せ」
「分かりました」
 男は様子からしてもうほとんど動けそうに無いだろう。
 ゴーレムは既に肥大化しすぎて、脇を通り抜けるなんて不可能な大きさになっている。
 僕たちはジリジリと後退し、バルコニーまで追いつめられた。
 バルコニーに入られた瞬間に全てが終わる。バルコニー自体の容量だとすぐに吸収されてしまうだろう。
 僕等に残された距離はあと約五メートル。
 四。三。
 お姫様が両手を前にかざし魔力を紡ぎ出したその時――
 僕等の中間の床が砕けた。
 そしてそこから飛び出てきた影が一つ。
 背筋をピンと伸ばしたメイド服の女性。
「すいませ〜ん♪遅くなりました〜♪」
「レスティアさん!」
「何なんだ、その不細工なゴミは?」
 筒抜けの壁からこちらに閉口するナイトが一人。
「カミネッ!」
「ご無事で何よりです、姫様」
 体の中から一気に力が抜けるのが分かる。緊張感が一気にたまらない開放感に変わる。
「とりあえずこれを片付けるとするか」
「そうですね〜♪」
 まさにそれは一瞬だった。僕には何が起こったのか視認すら出来なかった。気付いたときには全てが終わっていて、何ともあっけない終わり方だった。

「あ〜、今日は凄い日だな。出かけるとかどうこう行ってる場合じゃないねこれは」
「そうですね」
 僕はレスティアさんが飛び出てきた穴を覗き込んでいた。
 今いるお姫様の部屋は城の四階だ。僕が覗き込んでいるこの穴は一階まで続いている。レスティアさんによるとあまりにもゴーレムが多すぎて全部倒したのは良いが、階段から離れすぎていたので面倒くさいから上までぶち抜いて来たらしいとのこと。何ともはちゃめちゃな理由だが、あのすさまじい光景を目にした後では納得できてしまう自分がちょっと嫌だ。
「どう、お姫様?そろそろ立てそう?」
 ちなみにお姫様はさっきの出来事でただいま絶賛腰を抜かしている。
 さっきの出来事がどちらのことを指すのかは想像にお任せでお願いします。
「ほら」
 僕はどこに行く訳にもいかず、というかどこに行っても邪魔にしかならないような気がしたのでここにいる。あとカミネもお姫様の護衛のためにここにいて、レスティアさんは怪我人の救護や兵士達の混乱を収めるための指示を行うためにここにいない。
 そろそろ立てるだろうと思ってお姫様に手を差し伸べる。もう、カミネの視線が痛いとかそういうのは気にしない、ということにする。
「あ、ありがとうございます」
 お姫様がバルコニーの手すり伝いにようやく立ち上がり、僕の手を取ろうとした。
 でもそれは、叶わなかった。
 無惨にもバルコニーは音を立てて根本から派手な音を立てて崩れ落ちた。
「あ――」
「姫様ッ!」
 すり抜けていく、手。
 掴み損ねた、手――
 その時何かの絶望が僕の中でフラッシュバックした。
 冷たくなってしまった手。
 ボクハキミニナニモシテヤレナカッタ。
 ボクガキミヲコロシタ。
 ボクガ、ボクガ――
 気が狂いそうな絶望に染まったビジョンの断片の中、僕はその手を掴みに跳んでいた。
 二度と手放してはいけないと、掴まなければならないと僕の中にいる別の僕が叫んでいた。『彼女』に似た彼女を今度こそ助けなければいけないと。
 初めて彼女にあったときの感触を思い出す。懐かしい、あの良く見知った感触を。
 きっと僕は『彼女』を知っている。
 きっととても大切な人だ。
 だからこそ強く思う。守りたいと。
「もう、絶対に君を死なせたりしないッ!」
「ツバメ様ッ!」
 掴み損ねた手を今の僕はしっかりと掴んだ。
「何で!?」
「知らないよッ!」
 生死の境を体感する会話としてこれは成立するのかどうか?そんなことも知らない。
「しょうがないだろ?気付いたら跳んでたんだッ!」
 ただ何かがおかしくて、この手を掴めたことが嬉しかった。
「とりあえず今は生き残ることだけを考えよう!何が何でも生き残ってやるさ」
 既に頭の中にそのビジョンは描かれていた。あとは彼女次第だ。
 オミリアは嘆いていた。見守ることしかできないと。
 僕は今それが嘘だと感じている。
 あんたは見守るだけじゃない。ちゃんと守ろうとしてるじゃないか。この国の宝を。
 お姫様からサッと髪留めを外す、これが全ての鍵を握っているようなものだ。
「良いか、良く聞いてくれ。僕たちが助かるかどうかは君の魔法に掛かってるんだ」
「え?」
「君のやることは単純明快。全部の魔力を使い果たしても構わない。この髪留めに爆破系の魔法をかけることだ。これは賭だ。どうする、お姫様?あがくか、このまま死ぬか」
 大丈夫、君ならきっと出来る。
 僕は君を信じている。
「やります」
「OK。頼んだよ」
 タイミングを瞬時に合わせて髪留めを放る。時がコマ送りで流れていくような感覚。
 そして彼女は紡いだ。力ある言葉を。
「ビッグバンレイド!」
 空間の収縮、そして爆発。
 同時にお姫様爆炎から庇うように抱きしめる。
 迫り来る爆風に骨を軋ませながら僕等は飛んだ。目標は只一点。
 オミリア湖。
 それはニフラ城の庭園にあり、神様である彼女が流した涙でできたと言われる湖で、その深さはかなりのものだとヘリオルに聞いた。だったら――
 壮大に上がる水飛沫。
 そして数秒間の静寂。
「ブハッ!ケホッ、ケホッ!」
「カハッ!コフッ!コフッ!」
 とりあえず湖がすり鉢状で助かった。
 もし、完全な窪み型の物なら陸に上がれなかったに違いない。それくらい全身が軋むほどに痛い。爆風からお姫様を庇ったために僕はその衝撃を背中にもろに受けていた。水が染みて痛いからきっと火傷までしてるだろう。彼女は大丈夫だろうか。
「とりあえず生きてて何よりだけど、怪我とかはしてない?」
「はい、多分、大丈夫です。所々体は痛みますけど、外傷は無いですし打ち身だと思います」
「そっか」
 彼女の無事を聞いてホッとする。これなら僕の苦労も報われるというものだ。
 でも、僕はまだ彼女に言うことがある。
 凄く大事なことだ。
 本当は今言うような事じゃないんだろうけど、でも僕は今この瞬間に彼女に伝えたいと思い、感じた。
「あのさ」
「はい?」
 湖の浅瀬に二人座り込んだまま僕は彼女に話しをした。
 よくよく考えると彼女と二人きりで話す機会というのは始めたな気もする。
 無名王女である彼女の傍にはいつもレスティアさんやカミネがいる。彼女たちに聞かれるのは少し、いやかなり恥ずかしい。
 服が濡れてしまうとか今の僕にはもうどうでも良くて、ただ、今彼女とだけいられるこの空間を大事にしたかったのかもしれない。
「僕は君じゃない君のことをきっと知っていると思う」
 だから僕は今ここで彼女に話そうと思う。
「君を最初に見たとき僕の中に感じられた懐かしい感覚がその証拠だと思う。きっと、彼女は僕のとても大切な人で、かけがえのない人だったはずなんだ」
「どうして『はず』何ですか?」
「それは――」
 とても残酷なことなのかもしれない。
「僕が彼女のことを何も覚えていないから。一緒に過ごした日々も、名前も。ただ姿だけがうっすらと浮き上がってくるんだ」
 お姫様は僕の言葉をただ静かに聞いてくれる。
 他に響くのはお互いの髪から滑り落ちていく水のしずくが湖に戻る音。
 水面を揺らすしずくは優しく広がっては消え、広がっては消え、僕等はその中心にいる。
 ただ、いるだけ。このまま時が止まってしまえばいいのに。そう思うほどに彼女は綺麗で神秘的で、ただ僕だけを見つめてくれる。
「思い出さない方が良いのかもしれない。その方が僕はきっと幸せでいられると思う。でも、僕は探そうと思うんだ」
「何故ですか?」
「それが僕がここに来た理由だと思うから」
 スーリアに、この変名国家に来て、『彼女』に似た君に出会ったこと。それがきっかけで僕は少し思い出したから。
 大切な人がいたということを――
「だから僕に手伝わせて欲しい」
 お姫様の手にゆっくりと触れる。
「君の真名を探すことを――」
 両の手を重ね、水の中で握った。
「そして守らせて欲しい」
 それはただ僕の驕りなのかもしれない。
 それでも僕は彼女に誓った。今の自分の全てを伝えた。
「君の心を。君という名の世界を――」
 今度こそ僕は君を守りたい。その手を掴んでいたい。
 掴み損ねたくはない。
「それが僕の失った世界を取り戻すための近道だと思うんだ」
 これはちょっとした照れ隠し。あと彼女の傍にいるための理由。
 フラッと地面が揺れるのを感じた。
「キャッ!」
 控えめな水飛沫が立ち上がり、涙のように降り注ぐ。
 それはきっと喜びの涙。
「もう、まだ私の答え聞いて無いじゃないですか」
 肩口で寝顔を見せる青年に無名王女は優しく告げた。
「よろしくお願いしますね」
 そっと静かに、彼を起こさないように囁く。優しく彼を抱きしめて。
 あと少しだけ――
 二人の体温はゆっくりと水面に溶けていく。



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