プロローグ〜 The page of one day 〜



「おねぇちゃん、おねぇちゃん」
 可愛らしい声が少女の背中に飛びついた。
 声を投げたのもやはりまた少女である。
 淡いベビーピンクのドレスを着込んだこちらの少女は彼女よりも更に幼く、せいぜいが三歳程度といったところだろう。
 対する彼女はその更に二つ上程度の五歳前後。切れ長の眉に、肩口で切り揃えた藍色のショートヘアー。少しきつめの目線が気になると言えば気になるが、それを差し引いても可愛らしい顔つきをしていて、将来はきっと美人になることが容易に考えられた。
 声を投げかけた少女がよたよたと彼女に歩み寄っていた。その足取りはまだ微妙に危なっかしく、見ている者にどこかはらはらとした感覚を与えるかもしれない。
 しかしその表情には無邪気の一言に尽きるかのような満面の笑みが浮かべられており、危なっかしさを感じる以上に心を穏やかなものにしてくれる。
 とてとてと足を弾ませるたびに既に背中中程まで伸びた艶やかな黒髪が合わせて揺れる。目一杯に伸ばされた両手は立ち止まって振り向いた少女へとゆっくりと近づいていく。
 あと少し。
 そう応援したくなるようなゆっくりとした駆け足。
 あとほんの数メートル。
 が、突如として少女が駆け足のさなかでドレスの裾を踏んづけた。どうやら少し寸法が大きかったようだ。少女にそれを遮る術はなく、無常にも伸ばされた手はフカフカの絨毯の敷かれた床へ、ドサッとなかなかに豪快な音を立てて転んでしまう。
「あ――」
 思わず声が漏れたのは少女を待っていた少女だ。数秒待っても起きあがる様子のない少女の様子にパタパタと駆け寄っていく。きっと少女達に礼儀作法を教えている侍女が見たら顔をしかめるに違いないだろうが、そんな事は綺麗さっぱり頭から消されていた。
「ダイ、ジョウブ?」
 微妙に言葉がぎこちない。
 だがそう言葉を発した彼女からは十分に少女を気遣う心が見て取れた。
「だい、じょうぶ?」
 もしかしたら伝わらなかったかもしれないと、もう一度尋ねた。
 今度は先ほどよりも少し流暢に言えた様な気がする。
「…………」
 反応がない。
 もしかしたら打ち所が悪かったのだろうか?
 助けを求めて慌てて周囲を見渡しても誰もそこにはいなかった。いつもなら彼女の世話と護衛のために誰か最低でも一人は傍にいるのだが、誰もやってこないのを見るときっと世話係の目を盗んできたのだろう。最近少女が益々おてんばになってきたと微笑みながらメイド達が話すのを、つい先日彼女は耳にしていた。おそらく今回もそうに違いない。
 どうしよう?
 少女の頭の中が一気に混乱する。
 もし怪我でもしていたらどうしよう?
 そんなに打ち所が悪かったのだろうか?
 きょろきょろと再度周りを見渡してみてもやはり誰も助けには来てくれない。そこには彼女しかいなかった。
 どうしたら良いのか分からず困っていると唐突に彼女のスカートの裾を掴む手があった。
 慌てて顔を下に向けると、そこには変わらずに満面の笑顔を向けてくる少女。
「えへへ〜」
 彼女の心配をまったく気にしない無垢な笑顔だった。
 片手でスカートの裾を掴んだまま、少女はゆっくりと立ち上がった。
 彼女もそれに合わせて立ち上がる。少女がまた転んだりしないように今度はしっかりと目を向けながら。
「だいじょうぶ?」
 三度目の問いかけ。
 やはり言葉はどこかたどたどしいが、それでも真摯に少女のことを心配する気持ちが伝わってくる。
「うん!」
 今度はちゃんと声が返ってきた。しっかりとした可愛らしい声で。
 顔にはやはり満面の笑みが浮かんでいて、その笑顔はしっかりと彼女に向けられていた。
「おねぇちゃん、おねぇちゃん」
 ギュッと少女がしがみついてきた。腹部に顔を押し当ててキャッキャッと騒いでいる。
 彼女には少女が何故そんなに喜んでいるのか見当が付かなかった。
 しかし、何故だろう……
 胸の辺りが暖かい。
 心が安まるような、そんな不思議な……
 不意に腕が緩やかに引かれた。
 相手はもちろん少女である。
 一体どこに行こうというのか、行き先を告げる事もなく彼女の腕を引っ張っていく。
「あ、う――」
 動きそうにない彼女の腕を少女が少し強く引っ張った。
 痛みはない。少女の年齢程度の力なんてたかが知れている。
 だが――
 その力は妙に抗いがたい。
 そして、気付いたときには足が動いていた。
「えへへ〜」
 少女のその笑みの意味を彼女は“まだ”理解出来なかったけれど――
 今はそれでも良いのかもしれないと彼女は思った。
 いつのまにか彼女の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 それは他人から見れば笑顔と呼べるモノかどうかは微妙なモノだったかもしれない。
 けれども、それは彼女がそこにやって来てから初めて見せた笑みだった。


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