Nonsense of the Witch



 ゲームとはどういうものであれいつか必ず終わりへと至るものだ。
 その終演として挙げられるのは主に二つ。
 クリアするか、プレイする側が止めてしまうかの二通りだろう。
 クリアするというのは例えばRPGでならば、文字通り全ての敵を倒し、何もする事がなくなってしまった状態を指す。最近ではそうでないものの方が増えているらしいが、そういう点を指摘してしまうと論点がずれてしまうので割愛したい。
 話しを戻そう。
 問題は、プレイする側がそのゲームを止めてしまった場合である。
 その先にはまだイベントが残っていたり、更なる強い敵等が待ち受けているのがゲームとしては定石であるし、造る側としても先を造っておきながら先に進めないような物を造ったりもしないだろう。
 それがゲームという筐体を使った人の娯楽としてなら……
 では、そのゲームのハードが人だとするとどうなのだろうか。
 どこが最終地点として決められ、クリア条件とはなんなのだろうか。
 すぐに思いつくのは言うまでもなく“死”であろう。端から見れば死んでしまった者はそれ以降のゲームという名の人生を続ける事が出来ない。
 だが、死んでしまってもその者の物語が終わってしまうとは限らないという事をここでは敢えて示そう。ある者はこの世界に何かを残し、それを使ってまだゲームを続けてしまうかもしれない。また、ある者は魂だけの存在となっても更にゲームを続ける事を望むかもしれないのだという事を。
 人ならばまず後者の考えを真っ先に否定してしまうのだろう。
 そう、人ならば。
 しかし、残念な事に彼等は人という存在からは既にかけ離れてしまっているし、その中には“死”という存在を忘れてしまって久しい者も存在する。
 そんな中の一人として、彼はゲームの状態でいうなら一体どういった状況にいるのだろうか。
 強いて言うなら、終わろうと思えばいつでも終われるエンドレスなエクストラステージの真っ直中とでも表現すれば良いのかもしれない。
 だが、彼は自分からそのステージを降りようとは決して思わない。そこには惰性と呼んでも良い、むしろそうとしか呼びようのない理由しか存在しないが、それでも彼は決して自分がそうであることを止めようとは思わないだろう。
 そこに理由は存在しない。
 何故ならそれこそが彼が彼であることの証明だからだ。
 他の何者でもない魔術師としての自分。
 それを偽る事はもう今の彼には不可能なのだし、そうしたいとも思わない。
 それに比べて彼女はどうだろう。
 既に出会って数ヶ月。しかし、未だに彼女は自らの存在をぼかし続け、どちらでもあり続けようとしている。
 そんな彼女が彼の目には非常に面白く映っていた。
 今まで幾人もの存在を世界の狭間に導き観察してきた彼にとって、彼女は誰よりも破天荒で、誰よりも繊細な行動を取っている。規格外と言って良い。
 今までは見極める前に潰れるか、早々に片方に見切りを付けるかのどれかであったのに、彼女はそのどちら側にも至らない。
 未だに全てに未練を残し、全てに手を伸ばそうとしている。
 それはある意味で最も魔術師らしい行動であると言えるだろう。
 全てを偽ることなく、あるがままの自分を維持し続ける。
 それこそが魔術師として唯一のあるべき姿なのだから。
 しかし、真に矛盾以外の何物でもないが、それでは何も変わらない。難しい話しではあるが、彼女の本質を変えないままに状況だけを変えなければならない。
 すなわち、彼女には今の本質を保ったまま、こちら側に更に一歩大きく踏み込んで貰う必要があるのだ。
 その為に、彼は水面に一つの布石を落とそうと思う。
 投じるのではなく、落とす。
 そこにはいつもの彼らしい理由が多分に混在している。
 ただの暇潰し。
 それは人がやるゲームと同じ感覚で、いつものように遊ぶ彼の気紛れ。
 違うのはそこにリプレイやセーブといった類の機能が存在しない事。
 常にエクストラステージで行われるデスゲーム。
 彼が望むのはそういった――いや、それ以上の……

「ゲームをしましょうか」
「は――?」
 そこには相手の了解を伺うといった気遣いとか呼ばれたりする配慮が一切含まれていなかった。
 ただ、自分がそうしたいからそうする。そして、それに彼女が付き合うのは当然。理由などなく、既に決定事項だから意見も何も聞く必要がない。
 彼の一言にはただその全てだけが凝縮されていた。
 同時に、それはいかにも彼らしい言葉だと言えた。
 自分が望むままに、望むモノを。
 自らがそうである事を純粋に望み続ける。
 故にその存在を魔術師と呼ぶ。
 霧羽 総弥(きりはね そうや)とはその最たる存在である。
 いつもの特徴がなさ過ぎる事が特徴としか呼べないような印象味の欠けた顔に、この御時世を全く無視した、中世神話から抜き出してきたかのようなこれもまたいつものローブ姿は自分がそうである事を微塵も隠そうともしていない。
 そんな彼が常人でも、そうでない者にも理解しがたい事をいうのはいつもの事である。
 が、それを知っていても彼女は異を唱えずにはいられない。
 それは誰でもという訳ではなく、彼女だからこそと知る者は理解出来るだろう。
 何故なら彼女――星海 未時(ほしうみ みとき)もまたそうあるべき者だからだ。
「何で私が貴男の遊びに付き合わないといけない訳?」
「僕が暇だからですよ」
 間髪入れずに霧羽はそう答える。
 実に素直な回答ではあるが、だからこそ苛立ちを覚えるという事もある。
 特に未時と霧羽は人としての相性がすこぶる悪かった。
 言ってしまえば話が噛み合わないのである。
 理由は単純にして明快。単にどちらも相手に合わせようという気がさらさらないからだ。
 それは社会的に言える協調性に欠けるの一言では表現出来ず、唯我独尊の域にまで達していると言えるだろう。
 もっとも、それは世間一般において誰かに自慢できるような立派なモノでは決してないのであるが、その世間一般という世界において既に彼女達は一線を引いてしまっているので問題はない。
 というのが本人達の心情である。
「そうですね、付き合ってくれる御礼にここは僕が持ちましょう」
「そんなのいつもの事じゃない」
 今度は未時が秒と待たずに答える。
 それが事実であるが故に、霧羽は苦笑せざる得ない。
「貴女がいつも強引にそうさせるんじゃないですか」
「貴男がいつも私を強引に巻き込んでいるからでしょう?」
 タダでは引き下がらない。どちらも自分が欲しいモノを常に望み、手にしようとする姿勢は彼女達の間では既に当然の事である。
「……何をお望みですか」
 この状態に陥ってしまうと未時の論理は圧倒的に強かった。
 そちらの条件は呑もう。しかし、それ以上に自分が望むモノを代償として提供させるという交渉について、彼女は絶対に譲らない。
 故にいつも霧羽が先に折れる事になる。
 そこには霧羽自信が出した要求が通るのであれば、それ以上は求めないという彼の考えと、彼女の要求するモノが彼の中での対価の基準として大した意味を持っていないからという理由がある。
 そして、それは未時の視点からしても同じ事が言える訳で、結局彼女達は自らの基準に大して対等なモノを支払っていないという見方が出来るのである。
 自らの基準で全てを量る。
 それは誰がどう見ても自分勝手な考え方であるが、だからこそ魔術師同士の話し合いは行き着く場所に必ず落ち着く。
「最高級のホテルで最高級のディナーを好きなだけ。勿論、二人分」
「了解しました」
 ほら、やはり互いが望んだモノはちぐはぐだ。
 霧羽は内心でのみ苦笑した。

 翌日、未時の目の前には少し懐かしい景色が広がっていた。
 いつもの街並み。
 そこを無限の霧が覆っていた。
 忘れるはずもない。それは彼女が彼と初めて遭遇した時と同じである。
 常に一定先までしか見通せず、景色が霞む事も、揺らぐ事もない。そして、それでいて一歩引いても進んでも、その距離の絶対値が変わる事は決してない。
 それが今、目の前にゆらりと佇む彼の手によるものだという事は既に分かりきった事だった。
「いやぁ、良かったです。約束通り来てくれて」
「約束した覚えなんてこれっぽっちもないけどね。というよりも貴男、時間とか全然決めずにさっさと帰ったじゃないの」
「その割には貴女も準備がなかなかよろしいようで」
 ピリピリと愚痴を零す未時に霧羽が示唆したのは彼女の服装の事だ。既に冬真っ直中であるにもかかわらず、彼女の服装は少し暖を取るには心許ないモノなのだ。
 動きやすさを重視したブーツカットジーンズに少し薄手の黒のワンピースが同じく黒のジャケットの中から覗いている。その上にコートを羽織っているとしても、冬にしては多い肌の露出は見た者に寒さを伝えてしまうだろう。
 その格好を未時は「しょうがないじゃない」の一言で切って捨てる。
「何となく嫌な予感がしたのよ。だから今日はお気に入りのコートも我慢しているのよ」
 そう言う彼女の外套は彼女が通う学院指定のソレである。
「あの娘と遊ぶ時は絶対にこないだ買ったのを着ていこうと決めたばっかりだったのに、一体どうしてくれるのよ」
「それは悪い事をしました」
「口だけの謝罪はいらないわ」
 苛々を募らせながら未時は携帯を開く。
 しかし、残念な事にアンテナは一本も立っていない。ものの見事に圏外である。これでは少し遅れると連絡を入れる事すら出来ない。
「最悪」
 一言で表現してしまえばそういうことだ。むしろそれ以上に表現する言葉が思い浮かばない。どこまで行ってもその類の言葉のオンパレードでしかない。
「大丈夫ですよ。早ければ十分程で片が付きます」
 霧羽が指をパチリと鳴らした。
 同時に未時の目の前に霞が一瞬だけ走り、見知ったフォルムを残して霧散する。
 ソレは地面をコトリと鳴らし、未時の手に倒れ込んだ。
 未時の手の中に二度目とは思えないほどしっくりと馴染む感触がある。決して派手ではないが、芸術品を彷彿とさせるような美しい装飾を施された一振りの長剣。
 それは知る人ぞ知る錬金術師、奏良義久留米(そうらぎ くるめ)氏によって生み出され芸術。その名は麒麟。
「長ければどれくらいかかるのよ」
 そこに現れた久方ぶりの戦友を確かに握りながら、彼女はコートをコンクリートの塀に投げ掛けていた。意図は既に理解した。早くルールを説明しろというジェスチャーである。
「長ければ掛かる時は永久になるでしょうね」
「なるほど」
 つまり、最悪死もあり得るという事。
「それで?」
 しかし、未時にとって重要な事はそうではない。彼女にとって重要なのはいかにして早く霧羽との戯れ事を終わらせるかである。その時間は一分でも一秒でも、早ければ早い程良い。
「簡単なゲームですよ。ルールも単純です。どんな手段を使って頂いても構いません。ただ、十分間生き残ってくだされば結構です」
「十分なんてどうやって計るのよ。ここでは時間の計測は不可能でしょう?」
 本当はただそう感じさせているだけなのだが、どちらにしても彼女は自身がこの空間に存在する限り時間を計る術がない事を経験から知っている。
「その点に付いては問題ありません。ちゃんと準備してありますので」
 良いながら霧羽が懐から取り出したのは安っぽいストップウォッチ。未時の携帯電話よりも明らかな安物であるにもかかわらず、腹立たしい事にそれは確かに時を刻んでいる。
「十分が経過すればアラームが鳴るようにもう設定してあります」
「そう、じゃあ私からも一つ聞きたいんだけど」
「どうぞ」
「このゲームもっと早く終わらないの?」
 直訳すると、十分も付き合っていられないから早く終わる裏技を教えろということである。
「出来ない事はありませんが……今の貴女には不可能です」
「言うわね」
「十分を切るためには僕を殺さないといけませんから」
 あっさりと言う。
「そんな事は今の星海 未時という存在には不可能です。可能性はオマケしても一パーセントにも、コンマ一パーセントにも届きません」
 それでいて自信たっぷりであるのだから、余計にいけ好かない。頭の中で対価をもっと踏んだくってやろうと未時は一瞬で算段を企てる。
「そう。じゃあもう一個聞くわ」
「どうぞ」
「貴男の脳内妄想だと私はどれくらいの確率で死ぬ訳?」
 しかし、尋ねる事はそれとは別。今すぐ交渉を始める事がベストとは限らないし、それよりも確認しておきたい事だってある。
「百パーセント、と言いたいところですが、今回は半分半分という事にしておきましょう。僕は今回自分の力の十分の一も使いませんから。ついでに言うと、今僕は自分が立っているこの場所から動く気もありません。
 回答としてはこんなところでしょうか?
 他に何か質問はありますか?」
「ないわ。でも最後に一つだけ良い事教えてあげる」
「何でしょう?」
 飄々と尋ねる霧羽に未時は不敵に笑いながら断定する。
「貴男、今すぐ病院に行った方が良いわ」
 同時、霧羽はストップウォッチの時を解放させ、未時は時を加速させる。
 体の隅々に走る力の燐片を繋ぎ合わせ、そこに更なる力を、魔力を走らせる。無意味に笑い出してしまいそうな高揚感を押さえ込んで、未時の体が常人に不可視な速度で地を駆け出した。
 一閃。
 光を弾くよりも先に斬撃が一筋。
 斬線は寸分違わずに霧羽の首をなぞっていた。
 それは後十センチ先に届けば、確かに未時の振った麒麟は霧羽の首を落としていただろう。
 その距離に未時は舌打ちする。
 未時の一閃を防いだのは一筋の糸状の霧。
 たった、後十センチ程。されど十センチ。
 その距離は遠い。それが彼の意図した距離だと知っているだけに余計に。
 しかし、それをどうこう言っている余裕はない。
 知覚するよりも先に、理解するよりも早く、未時の体が魔力の乱れに反応する。
 剣を押す反動も利用して距離を取る。一歩二歩、三歩目で大きく跳び去る。
 その後を探るように、縫うように付き従うのは地面より伸びた霧の鍼。淡々と機械的に未時を追跡する鍼は、霧であるが故に柔軟であり、そのくせ不自然な程に硬質的である。
 不意に鋭角に曲がり未時に鋭く迫ったかと思えば目の前で霧散したり、剣で散らそうとすればそれに合わせたかのように硬化して麒麟を弾く。
 一方、後退しながらも未時の足取りは軽やかだった。滑るような無駄のない動作で煉瓦舗装された路地を蹴る。
 そしてまた、彼女も不自然に移動する。地面を蹴り、そのまま同じような軽やかなステップで街灯を垂直に登る。
 タンタンとリズミカルに。ものの数歩でその頂上に止まった。
「ふぅ」
 軽く息を吐く。
 流石に手強い。
 思いながらも未時の口元は弛んでいた。
 やばい。こんなにも歯応えのあるハプニングは久しぶりだ。
 楽しすぎる。
 いつも未時が彼女と得ている快楽とはまた別次元の悦楽がそこにあった。
 これが歴戦を軽くあしらい続けてきた魔術師の力の燐片。予想してはいたが、まさかここまでのモノとは思っていなかった。
 恐らく彼はまだその論理の数パーセントすら使用していないだろう。
 しかし、それでも未時には分かる。
 やはり霧羽 総弥は強い。本物だ。
 彼の魔力の波長に触れるとゾクゾクする。
 思うのだ。
 自分はどこまでいけるだろうかと。
 今は、まだ論理がなくても。今は、まだ自分の居場所を明確に決められなくても。今は、まだ、その場所に届かなくても。
 いつか、必ず――
 だから今は自分を試す。
 今の自分がどこまで行けるのか。
 行けるところまで行ってやるさ――
 心に余裕が生まれる。
 笑いに深みが増す。
 星海 未時という存在がまた、強くなる。
「もう、お疲れですか?」
「まさか」
 こんなに楽しくて仕方ないのに。そんな事はあり得ない。
「そうですか」
 そう言って彼も又不敵に笑う。
「なら、良かったです。無駄にならずに済んでね」
 笑った霧羽の右袖が、揺れる。
 直後、大気が震えた。空間が霞み、大きく歪んだ。
 その空間が喰われたのだ。
 未時が留まっていた街灯がひしゃげて砕け散る。彼女がいた場所が中心に飲み込まれる。
 全てが一瞬の出来事。
 しかし、その一瞬は誰の目にも見届けられる事はない。
 その時、既に彼女はそこになく、彼の目も既にそこを視ていない。
 視線が交錯する。
 交わされるのは殺意と、高揚。
 刃が踊る。
 銀の光と霧の筒が音を立てて弾き合う。
 霧の刃が不規則な動作で再度舞う。
 が、未時はその刃を相手にしない。気配を察知し、十分に引きつけてから跳ぶ。
 そこを衝撃が襲った。
 大地が陥没し、霧の筒が一緒に飲み込まれる。
 いる。
 そう思うより先に未時の身体は反応している。躊躇せずに振り下ろした麒麟が弾かれて、未時はようやくそこから距離を取る。
 バリバリと景気良い音を立てながら石を咀嚼する何かがそこにいた。
 それはよくよく注視して、ようやく輪郭が見える程度の存在。
 その大柄なシルエットを未時は昔見た絵本で知っている。
 竜だ。紛れもなくそこにそれがいる。
 視界全てに魔力の流れを意識する。今までよりずっと早く、ずっと濃密に自分の魔力を編み込んでレンズを形成する。
 するとその姿はすぐに明るみになった。
 獰猛な牙を携えた霧の竜は既にこちらを見据えている。
「私でも食べようって事かしら?」
「人肉は男性より、女性というのは魔物達の弁ですけどね」
「どっちが下位生物か教えてあげるわ」
 言葉と同時に未時の姿が掻き消える。携える麒麟から溢れる魔力の輝きが一層に眩しくなる。
 竜が吠える。その霧で出来た巨体を疾駆させ、未時に対して爪を薙ぐ。
 それを未時は迎え撃つ。
 正面から斬撃が交差した。
 ゴウッ――
 生まれた衝撃波が大地を割り、空間を伝播する。周囲を壁のように囲んでいた霧が揺れ、乱れが生じた。
「ほぅ……」
 その歪みに霧羽は感嘆する。
 彼の予想では未時が生き残る可能性は半々といったところだが、その過程においてこの空間への影響は皆無だと思っていたのだ。
 だから、この一つの過程において霧羽は驚嘆する。彼女が自分の予想の上にいたことを内心嬉しく思わずにいられない。
 そして、その現実を彼女は霧羽の放った魔術をあっさりと撃ち破る事で立証する。
 衝突した衝撃に逆らわず、跳ぶ。衝撃波が生んだ風に乗り、軽やかに身体を舞わせる。バク転で手を地面に叩き付けて更に距離を生んで着地。
 その瞬間には、未時はもうモーションに入っていた。
 斬る。
 その意志を篭める。
 麒麟に伝える。
 魔力を通じて。
 後は只、力の限りソレを振り抜くだけで良い。
「ハッ――!!」
 気合いと共に放たれた閃きが、先程を遙かに凌駕する力強さで鳴く。
 霧の竜は咆吼も悲鳴も上げる事を許されずにそれに正面から喰われていた。
 荒々しくも美しく、その一撃は一瞬で霧羽のミストドラゴンを葬り去り、大気を轟かせた。ビリビリとした振動が霧の障壁を容赦なく襲い、霞の向こう側に一瞬だけ影を浮かび上がらせてしまった。
「素晴らしい」
 呟き、唸る。
 この一手をこう簡単に撃ち破るとは思わなかった。彼女の価値を早急に修正して、次の手を考える。
 思考は一瞬。彼女が息を大きく吐き出すのと同時に終わる。
 既に自分の元に戻しておいた右腕の感触を懐かしむように確かめ、その右手で指をパチンと鳴らした。
 その音に敏感に反応した未時が霧羽を振り返ると同時に、霧の障壁がざわめいた。
 未時に無数の殺気が叩き付けられる。
 それらが突き刺さるより先に未時は既にその場を離れていた。
 霧羽との距離は遠くない。今の彼女なら一足一等の距離である。
 無数の殺気が自分に絡みつくよりも先に、未時は全力で麒麟を彼に向かって叩き付けた。
「チッ――」
「残念」
 が、それを今度は霧の壁があっさりと阻んだ。
 そして、それらは生まれた。
 ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ――!!
 霧の世界にソレ等が産声を上げた。
 霧羽が再度呼び出したミストドラゴン。
 その数、十――
「思っていたより遙かに楽しませて頂いたので、そのちょっとしたサービスです」
「貴男、やっぱり日本語の勉強やり直した方が良いわ。これが終わったらウチの学園のお局先生を紹介してあげましょうか?」
「貴女が生きていれば考えましょう」
「絶対に受けさせてあげるわ」
 非常識な礼儀に皮肉を返し、皮肉には皮肉が返り、その皮肉を現実に化けさせようと決意が返る。
 未時は既に霧羽に背を向けていた。
 もう、彼に気を割いている余裕はない。静かに、冷静に、十体のミストドラゴンと相対する。
 一対一を十連戦するのと量は同じだが、その質がまるっきり違う。
 前者なら確実に圧倒し続ける自信があるが、この状況はかなり厳しいだろう。
 霧羽の身体の部位で亡くなっているのは先程と同じ右腕のみ。おそらく右腕を霧に変え、それを媒体にし、障壁の霧を取り込み、竜を形成したのだろう。魔力の流れを視るとその際に障壁はしっかり先程よりも強固なモノになっている。
 これならばもう先程のように現実が影として透ける事もないだろう。
 しかし、それだけに今度は向こうも滅茶苦茶な行動を取る可能性がある。単体毎の力量は先程の半分程度のようだが、今度はその分数がいる。ある程度の自我があるとはいえ、統括的な命令系統は霧羽が持っていると見て間違いない。
 それこそ生死を賭けた戦いをしなければならないだろう。
 だが――、
 その状況においても未時の顔から笑みが消える事はなかった。それどころかその顔にはより一層の深い笑みが張り付いている。
 この絶望的な状況を心の底から楽しんでいる自分がいる。
 絶望的ではあっても、それが絶対的な絶望ではないと分かっている自分がいる。
「上等ッ!」
 変わらない挑発的な笑みを続いてドラゴンの群れに向ける。
 そこへ、霧の竜の群衆が殺到した。
 一匹目の“ソレ”は真上からやってきた。自らが大地に激突する可能性を欠片も考慮に入れず、ソレは獰猛な口を大きくかっ開いて凄まじいスピードで落下してきた。
 おそらくコンマ数秒程もない余裕の中で未時は周囲の気配を全て把握。その間を利用して周囲を少しでも一カ所に引き寄せる。
 ゴウンッ!!
 空気が切り裂かれ、地面を舗装したアスファルトが飲み込まれる音が響き渡る。
 その直前に、未時は逆手で麒麟を掴んで大きくバックステップ。麒麟の刃は未時の胸部と腕に挟まれて背後に抜けている。
 その先には勿論、魔術師、霧羽 総弥の存在。
 未時の手にほんの僅かな感触が伝わる。砕かれたアスファルトの欠片が、音もなく背後で弾かれる気配。
 その気配の元を未時は迷うことなくバックステップのまま駆け上る。
 相変わらず麒麟を通して彼女の手には確かな手応えがある。
 その間僅か一秒弱。
 僅かではあるが、それは彼女にとって十分すぎる時間。
 その気配の元――霧羽が麒麟の刃と突風で飛ばされたアスファルトの欠片を防ぐために出現させた霧の障壁を、未時は一息で駆け上る。
 その一蹴りで未時はドラゴンの群れから脱出する。
 抜け出た彼女の真横から狙いすましたかのように一体の竜が滑空する。
 かまげた大口は迷うことなく未時を喰らわんと狙いを定めている。
 ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
 咆吼よりも先に未時の爪先が地に届いた。
 それだけで彼女には十分だった。
 予想通り。
 力強く未時の身体が跳ねた。
 常人離れした跳躍に捻りを加え、地面と平行になった身体の勢いを彼女はそのまま麒麟に乗せて叩き付ける。
 まさに斬るのではなく叩き付けると言った表現がしっくりくる一撃。
 その一撃が未時の身体を弾く。ジンとした確かな手応えは、彼女の目論見が成功している事の何よりの証明に違いない。
 既にボロボロになってしまった道をガリガリと滑りながら今度はしっかりと両足が地に届く。瞬時にバランスを整えて周囲の情報を再取得。
 リロードした情報を取得の半時で解析する。
 得られた幾筋もの候補から本能と直感に全ての信頼を預けて一つを選び抜き、即実行。ミストドラゴン達の視線が彼女を捉えるよりも先に彼女の姿はある一点に向かって疾駆している。
 目指すは一点。今し方、未時が一撃を見舞った一体のみ。
 全身の隅から隅まで全てを完璧にコントロールして一足でその場所に至る。同時に未時の身体は次の動作へと繋がり、終着へ届く。
 斬るッ――!
 清流の様に淀みない洗練された動作で、しかし、それでいて激流の様な力強さで、未時は下段から上空へと麒麟を振り抜いた。
 ゴウッ――!
 霧に覆われた空に向かって風が唸りを上げた。
 会心の手応えはミストドラゴンを確かに霧へと返し、霧散させる。
「次ッ!」
 温いと言わんばかりに未時は吼える。
 そこには荒々しさよりも遙かに凛とした力強さがあった。蠢く風さえもヴェールに変えて、彼女は更なる強さを迎え入れる。
 殺到する殺意さえ今の彼女には心地良かった。
 そんなモノで自分が行きたい場所に行けるのなら、そんなモノ幾らでも浴び、それ以上の数を蹴散らしてみせる――!
 三体の霧が吼えた。
 同時に放たれた容赦のないブレスが視界を覆う。隠された視界の外、八方から向けられる殺気は既に自分が取り囲まれてしまっている事を示唆している。
 きっと飛び出した所を喰らおうという魂胆なのだろう。
 そして、その見え見えのネズミ取りに未時は敢えて引っ掛かる。
 ブレスの余波で霧が視界を埋め尽くしていた。
 それによって使い物にならなくなった眼を閉じて視る。
 魔力の流れが、欠片が、存在が。
 全てが今の彼女には視えている。
 視界が真っ暗闇に塗り潰されていても、視て、感じて。今の彼女の世界には確かに道を照らす灯りが点っている。
 キラキラと輝いて、明確な世界の本質を伝えてくれる魔力の意志がある。
 故に、今の未時にとって目はあって必要のない物と同じである。
 濃密な霧の壁を潜り抜けた先には予想通りのトラップが牙を剥いて待ち構えていた。きっとソレ等には霧の中も見通せていたのだろう、上空から勢いを付けての体当たり。
 それを未時は軽く跳び、竜の背中を軽く蹴って余裕でいなす。
 その背後から、未時の抜け出た霧の壁を目眩ましにして別の一体が爪を振るう。
 が、それも未時には届かない。
 コソコソと近づいてくるのが見えているのだ。それを避ける事など容易す過ぎる。避けるついでに麒麟を一振りし、未時の胴回り程の太さがあるだろう腕を斬り跳ばしながら、彼女の視線は既に次に向いている。
 今しがた回避したのとはまた別の一体が滑空してくる。その更に別方向から微妙にタイミングをずらしてもう一体。
 そして、その上空から更に別のミストドラゴン数体が遠吠えを上げながら魔力を蓄えていた。
 時間差の攻撃で態勢を崩してからのブレス狙いね――
 魔力の流れまで視えている彼女にはその一連の動きが寸分狂わずに予言出来た。周囲を高速で迂回している数体はさしずめ保険といったところだろう。どうやらこの玩具はただ遊ばれるだけの道具ではないらしい。
 とりあえず、格闘ゲームのコンピューター対戦よりは骨がありそうだ。
 ゲームの激しさは対して問題ではない。
 今の未時にとって大事なのはいかに確かな手応えを返してくれるかという事、その一点に尽きた。
「私をエサにする費用は高く付くわよ?」
 そう言って未時はまた地を蹴り、空を跳ぶ。
 最初に突っ込んできたミストドラゴンの突撃を、先程と同様にその背を踏み台にして更に跳ぶ。続く突撃も同様の手段で回避。
 温すぎると感じた矢先にやはり来た。
 ブレスよりも先に飛び出してくる迂回していたウチの一匹。
 確かに上手い不意打ちではあるが、それも未時にとっては範疇の中。連続で振り下ろされる爪、襲い来る牙、薙ぎ払われる尾を彼女は避け、麒麟で受けて全て防ぐ。
 その中、計六合の殺撃の丁度三つ目で上空から未時に向けて再度ブレスが放たれていた。
 先程の物よりも遙かに魔力を編み込んでの強力な一薙ぎ。
 それは全てを押し流し、喰い荒らす霧の大津波。
 余波で道を埋め尽くす煉瓦を剥ぎ跳ばしながら、それはただ一人を飲み込むために覆い被さる。
「くっ――」
 未時が声を漏らすと同時に、それは破壊音を霧の空間に反響させて彼女の姿を飲み込んだ。
 ゴウッ――!!
「少しやりすぎましたかね」
 程なくして、興冷めしたかのような霧羽の呟き。
 幾らお気に入りの玩具といえど、彼にとっては一度でも壊れてしまっては意味がない。全ては一回限りのお楽しみなのだ。
「もう少し遊べるかもと思ったのですが、やはり必要以上に希望を懐くのは良くないようですね」
「そうでもないわ」
 ガラリと彼の背後で音が鳴る。
「むしろこれでも少し物足りないくらいよ」
 続いて霧散する巨大な気配。
「防波堤にするのにアレ程適したモノもないと思わない?」
「確かにそうですね。迂闊でした。
 いや、貴女の方が辛うじて一枚上手だったという事でしょうね」
 振り向いた彼の先で彼女の視線は変わらず不敵に佇んでいた。
「残り時間は?」
 油断なく未時は彼に尋ねる。
 全身ボロボロの格好ではあるが、それが今後の動きに支障を来すかと尋ねられれば彼女はきっと否と答えるだろう。今の彼女の中にはそれ以上に燃え立つ殺気と、それさえも自由に泳がせてなお余裕あるおおらかさが共存していた。
 熟練の存在から見れば誰しもがまだ彼女が心身共に余裕ある状態であることを確信するだろう。
「二分弱程度ですね」
 フラリと彼の手の中で安物のストップウォッチが揺れた。
「思ったより少ないのね。全部斬れるかどうかが心配だわ」
「僕としては貴女が生きていられるかどうかの方が気掛かりですが」
 霧羽の皮肉を未時は笑い飛ばして、なお煽った。
「愚問だわ。
 貴男こそちょっと私を軽く見過ぎなんじゃないの?
 私はそんなに安くないのよ」
 その言葉に彼の内心でとある衝動が沸き踊る。
 今にも溢れてしまいそうなソレをどうにか冷静を装って隠し通して、彼は言う。
「代金はちゃんと払いますよ?
 勿論、貴女がちゃんと生きていれば、ですが――」
 霞を纏った魔術師の背後で八体の竜が舞う。
 それ以上の語らいは必要ない。
 交わるのは力と、魔力と。
 今はそれ以上、何もいらない。
 そんなものは邪魔なだけだ――
 少女の体が、爆ぜた。
 ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウゥッ!
 それをミストドラゴンの群れが迎え撃つ。
 大気を震わす咆吼を、彼女は躊躇無く踏み越える。
 一足で未時の姿が掻き消えた。
 そして、次の刹那に彼女は既に間近な一体の前を自然落下している。
「フッ――」
 一息に麒麟を上段から振り下ろした。
 麒麟が今までにない斬れ味を見せ、一刀両断の元に一体の竜を空へと返す。
 しかし、フワリと広がった少女の髪が翻るその瞬間を、ソレ等は見逃さなかった。
 獰猛に、我先にとその点を目指して牙を剥く。
 が、その姿が空中でも掻き消える。
「ほぅ……」
 また、思わず感嘆の声が漏れる霧羽。
 端から見れば大して意味のなさそうな声かもしれないが、その意味の深さは他ならぬ彼自身が良く知っていた。
 理由は只一人の少女にある。
 未時の魔力が先日の際を遙かに上回っているのだ。
 あの時は周囲に無尽蔵とも言える魔力が溢れており、それを彼女は無意識に取り込んで自らの体に循環させていたのだが、今回のはそれよりも遙かに魔力の流れが穏やかだった。
 空回りしない、歯車のしっかりと噛み合った魔力の循環。
 全開ので扉が少し開きましたか。
 直感的に悟る。
 本人は至って無自覚であまり深く意識していないのだろうが、それは霧羽 総弥という確かな魔術師から見れば明らかな異常という名の付けられる成長だった。
 まだ魔術師の要とも言える論理すら定めていない不確定で未熟な部類に振り分けられる魔術師が、その強さだけなら既に一介の魔術師のレベルを超えているのだから。
 魔力の質、操作能力、絶対量、全ての基本的パラメータにおいて、彼女の才能が開花し始めている。
 少女の体躯が空を躍る。
 体が軽かった。
 羽が生えたかのように軽いのだ。
 それこそ先日感じた感覚の比にならない。駆け巡る魔力の激しさと緩やかさが全然違うのだ。静かだが、確かに感じる力強い脈動を全身に感じる。
 求める感覚が今、手中にある。
 何の躊躇いもなく、未時は再び空を蹴った。
 今の彼女にはそこが地か空かなどという事は些細な事だった。人が自転車に一度乗れるようになればその乗り方を体の感覚が忘れないのと同じように、彼女もその感覚を忘れてはいない。
 只、彼女はその感覚を一度で覚えてしまっただけだ。
 たった一度。
 しかし、されど一度。
 そのたった一回きりの重みを、この場にいる魔術師二人は誰よりも深く理解している。
 それが魔術師という存在の性なのだから。
「ふっ――」
 魔術師の唇が歪む。
 瞬間、零れ落ちる魔力の波動。
 ゆらり、ゆらりと、たゆたう霧のようにその魔力は瞬時に空間を包み込む。
 その時、麒麟が一度閃くのと同じ。
 対価はミストドラゴン一体の霧散。
 得たモノは真の魔術師の力の断片、その向こう側――
 突如として、空を駆け、麒麟を振るった未時の背筋を悪寒が駆け抜けた。本能が訴えるままに空を乱暴に蹴り飛ばす。
 その背後を風切り音が悲鳴を上げる。
 チリッとした痛みが背中を横切った。
 痛みを振り切って睨みを利かせたその先には魔術師が独り。
 その姿を未時は見て思う。
 それが本性か。
 その獰猛な、どうしようもない残虐性が、貴男の在り方か。
 霧羽 総弥――!
 しかし、その少女の顔に浮かぶのもまた、笑み。
 獰猛で、残忍で、それでいてどうしようもない何かを従えた笑み。
 それが確かに両者の顔に浮かんでいる。
 力の差は感じている。恐怖もある。気を抜けば今にもその魔力を視るだけで、体の震えが止まらなくなるかもしれない。
 だが、それ以上に、今の彼女にはその向こう側から覗く“何か”が、彼女の心を騒がしく掻き立てる。
 ミストドラゴンの数は変わらず六体。
 だが、その質は既に先程と同様ではない。
 動きから無駄が削除され、竜同士の意思疎通が確かに行われ、翼は風をより早く泳いでいる。手強さは十体の頃を軽く数倍上回るだろう。
 それは喜ばしい事だった。
 彼はそうする方が面白いと感じたという事なのだから。
 そして彼女も、また――
「行きますよ?」
 歓喜の視線が交錯した刹那に、一人の魔術師を除く計七つの存在は既に動き出していた。
 全身に隈無く走る魔力を迸らせ、未時は空を駆ける。力強く空を蹴る度に、空に振動が走り、軋む。それが彼女の魔力の強さ故の現象である事をこの場にいる二つの生きる存在は既に理解している。
 未時が空を三度踏みしめた時、ミストドラゴン達も一斉に行動を開始する。微妙な、本当にコンマ数秒単位のズレを図って高速で放たれたのはブレスの弾丸。一発の大きさだけでも未時の身体を押し潰すには十分すぎる大きさの物だ。
 本来なら、それを今の未時が避けるのは容易い。
 しかし、それを容易く行わせないのが、霧羽が図らせた微妙な発射タイミングのズレ。
 その微妙なズレが有るからこそ、未時はそのブレスの塊――計六発を自らの進む軌道をずらすだけで回避することが出来ない。
 一―二三――四発目までを絶妙のタイミングでかわすも、第五破をたまらず麒麟で切り裂く。
 途端、弾けた弾丸は激流を生み出し、未時の体を激しく煽る。
「くっ――」
 体を激しく揺さぶられながらも、背後から迫った最後の一発をどうにか避けきる。
 そして、そのスキを今のソレ等は見逃さない。
 未時が空を更に上へと跳ねたその側面から、鋭く風を切る竜尾がしなる鞭の様に彼女を強かに打ち据える。
「ッ――!」
 ミシリと軋んだ音を確かに自分で感じて、未時は堪らず弾き跳んだ。直撃は喰らったものの、麒麟で咄嗟に防いだので、ダメージと呼ぶ程の痛みはない。滑空しながらも瞬時に体勢を立て直し、地面に叩き付けられるどころかそれを逆手に勢いとして利用する。地面を荒削りしながらという乱暴な方法だがどうにかそのまま跳躍し、距離を取る。
 そして、そこに再度襲い掛かる別の竜尾での一撃。
 が、今度は未時もそれを読んでいる。
 迫り来る一閃を音だけで計り、再度空を蹴って背を逸らす。
 背面跳びの様な体勢で危険すぎるバーのすれすれを飛び越え、体を反転。勢いをそのままバネにして更にもう一蹴り。目指すは今竜尾を唸らせたミストドラゴンの背。
 その一点に向けて十分に魔力を蓄えた麒麟の切っ先を向けて突っ込んでいく。
 しかし、それは標的まで遠く、届かない。
 上空から間髪入れずに更にもう一体の竜が落下してきたからだ。
 振り下ろされた爪と未時の麒麟が打ち合う。連続して打ち合えばいくら動作から無駄が削がれ、シャープな動きを見せるようになったといっても切り崩す自信はある。
 だが、それは向こうが一対一の対決を良しとしてくれた場合の事。既にその気がない事を知っているこちらとしては、それを行う訳にはいかない。打ち合いながらも周囲に視線を配り、細心の注意を払いながらルートを選んでは巧みに移動する。
 包囲されないように移動しながら、未時は目の前の一体の隙を隈無く探し、また作り出そうと試みる。
 一筋縄でいかない事もまた理解しているが、それが今のこの状況では唯一の取りうる事の出来る最善の手段だ。今は耐える事しか出来なくても、それがずっと続くとは思っていないし、続かせる気もない。
 死を覚悟しているからこそ、生への渇望がある。
 覚悟以上の欲求。
 そのどこまでも貪欲な想いが、彼女を更なる高みに連れて行く。
 出来る出来ないの問題ではない。やるのだ。
 成功か失敗などという二択を選ぶ気は毛頭ない。
 必要なのは常にその場所へ行く為の意志と強さ。
 ただ、それだけ――
 今までずっと逃げるように取り続けていた進路をたった一歩で反転させる。その一歩は確実に自分の命を死へと近づける本来ならあり得ない一歩である。
 でも、だからこそ、その一歩には大きな意味がある。
 明らかにリスクの高い行為。故に、それは何者よりも論理と効率を追求する魔術師という存在にとって予測してはいても、選択肢から排除される一手。
 そしてそれは、一瞬よりも儚く、誰の目にすら止まらない。当人達以外に感じようのない隙を生む。
 ――好機。
 未時を容易に丸飲み出来る大口の中へ、彼女は光陰の矢の如く飛び込んでいく。
 本来なら致命的なはずのその行為が、僅かに生まれたコンマ数秒という時を得る事で反撃の一手へと生まれ変わる。
 ソレの内部で霧を蹴って、フワリとした感覚を一気に突き破る。背後で魔力が散り崩れる気配を感じながら、未時は今まで抑制していたギアを解き放つ。
 今の星海 未時という存在を解放する。
 そこに一体の竜が肉迫する。今し方蹴散らされた一体の仇討ちか、豪腕が未時の身体を呆気なく蹴散らした。文字通りに。
 そして、彼女の姿も霧散する。
 まるで幻を振り切ったかのように――
「ッ――!」
 瞬閃。
 一筋の煌めきが、ミストドラゴンを一刀両断した。
 残り、四体。
 その動きを未時は既に把握しており、そのどれよりも彼女の動きは鋭かった。
 ソレが対応するよりも早く、彼女は既に一体の頭上に跳んでいる。ほぼ直下に近い角度で空を蹴って一振り。
 その背後から先程の倍近い速度で竜尾がしなる。
 が、それを未時は返す刃で麒麟を振るって難なく切り崩す。
 そして、ただ一振り。
 ほぼ同時に二体のミストドラゴンが霧へと帰り、霧の幕が未時を包み込む。
 そこへ、飛び込んでいくのは超特大のブレスの弾丸が二発。
 ゴウッ――!!
 霧の幕を互いに喰らい合うように様にして衝突。爆音が轟き、霧が周囲に散布される。
 その黙々と渦巻き続ける霧の中から、彼女は飛び出す。ミストドラゴンの一体が爪を振り下ろすよりも先に懐へ。
「チッ――!」
 下段から斜めに斬り上げる。
 そして、その数が二から一へと変わる瞬間に三度放たれたブレスの弾丸。
 それに向かって、未時は振り向き様に麒麟を投擲。ブレスが彼女に着弾するのと、投擲した麒麟が弾丸を貫通して最後の竜に届いたのは同時だった。
 再度、轟く爆音。
 霧羽それをは眺めながら、自らの手に握りしめたストップウォッチを眼前に。その残り時間、ピッタリ五秒ジャスト。
 そして、おもむろに元に戻った左腕を真横にかざして、呟く。
「全く、やはり貴女は面白い」
 そこへ、少女の姿が颯爽と現れる。
「貴男もね――」
 たとえ一秒であろうと、その時間を彼女は無駄にしたりはしない。
 拳を握りしめて、笑う。
 その右手に大気が唸りを上げる程の魔力を注ぎ込んで、星海 未時はそれを眼前で同じように不敵に微笑む魔術師へと繰り出す。
 力と力が衝突した。
 瞬時、見た目にも分かる程に大気が震える。その一点を中心に魔力の波が空間を揺らした。圧倒的な存在感と魔力がただ一点にのみ集中し、ぶつかり合っていた。
「このッ――!!」
 ジリジリと荒れ果てた煉瓦道を踏み締めて、未時の拳が振動しながらもそれを無理矢理押さえ込むようにして点をホンの少しずつではあるが押し込んでいく。
 それを見て――
「フッ――」
 何度見ても信用するには至らないその笑みが彼の口元に浮かんで、拮抗していたように見えたその点が弾けた。
 その衝撃に未時の体がまるで風に飛ばされる綿毛の様にフワリと空を舞った。全身を悪寒のするような感覚に包まれながら、彼女は難なく体勢を整えて着地。
 そこへ同じような放物上の軌道を描いて落下してくる。
 勿論、それは着地に成功するはずもない。土と煉瓦の欠片が混じり合った中に吸い込まれ、ガチャリと音を立てて不時着する。
「お疲れ様でした」
 未時と同じように飛んできたのは既に本日の役目を終えてしまったストップウォッチ。
 時間は六桁のゼロのみを並べている。
「貴女の勝ちですね。おめでとうございます」
 気怠いこちらの気分とは対照的に、霧羽は平然とそう言って「また、派手にやりましたねぇ」なんて感想まで漏らしていたりする。
「疲れたわ」
 愚痴る訳でもなく未時も淡々と言葉を漏らした。ついついやりすぎてしまった感は否めない。この後の事も考えるともうちょっと力を抜いてやれば良かったかもしれない。
 しかし、こうなる事が事前に分かっていても、きっと自分は同じようにここで「疲れた」と漏らすような気がする。
 でも、それは仕方がない事なのだ。こればっかりはどうしようもないだろう。あんなに楽しい時間を手を抜いて過ごすなんて出来るはずがない。それこそ愚の骨頂だ。そんな存在、彼等からすれば魔術師とは絶対に呼べないだろう。
 何故なら、魔術師はどこまでも身勝手で、自分本位な存在なのだから。
 たとえこの後自分が自分本位の根本を覆すような行動を取らざる得ないとしても、目先の欲求が魅力的過ぎたのだから仕方がない。自分の損得勘定が後々に払うツケを軽いと判断してしまったのだ。
「そういえば――」
 もっとも、それでも只では転ばないのが彼女の良いところなのだが。
「何でしょう?」
「貴男ルールを破ったわよね?」
 ニヤニヤと笑いながら未時は霧羽を糾弾する。
「何の事でしょう?」
「惚けてもダメよ。貴男途中でちょっとムキになったでしょう。
 私にバレないとでも思ったの?」
 そこに相手が得られる選択肢は存在しない。全てはもう彼女の掌の上なのだ。
「……僕にどうしろと?」
 手を上に掲げて降参を示しながら、霧羽は要求を尋ねる。事実、未時が追求したとおり、予告していた上限の力を大きく超えて遊んでしまったのは事実なのだから、非は明らかに彼にあった。
「そうねぇ……」
 素直に頷いた霧羽の姿に十分満足しながら、未時はおそらく意図的に無事だった自分のコートに袖を通しながら、自分の利益を増加させる事にする。
「ディナーの話なんだけど、一日だけじゃ割に合わないわ。
 そうね…、貴男が自分で言い出したルールを自分から破ったんだから、五倍くらいにはして貰いましょうか」
「勿論、そこには――」
「貴男が居る訳ないじゃない。私とあの娘の二人で行くに決まってるでしょう?」
「そうでしょうね。言ってみただけです」
 返ってくる答えが分かっていて試しに聞いてみたのだが、尋ねる前に答えられるとは。まぁ、そんな予感もしてはいたが。
「まぁ、何にしろ、僕がルール違反をしたのは事実ですからね。了解しました。その要求、お呑みしましょう」
 毎日食べさせろとでも言われるかと思ったが、それが只五倍になっただけならまだ安い方だろう。彼女なら本当に言い出しかねないから、その辺は侮れない。魔術師の中でも彼女程良く食べる者はそう多くない。というよりもハッキリ言って少ないだろう。魔術師という存在は基本的に長命で、別にほとんど食べなくてもそれなりに生活できてしまったりするので、段々食に関する欲求が薄れていってしまうのだ。
 まぁ、中には彼女のようにだからこそと追求する者もいるにはいるが、それはやはり圧倒的に少数派だ。
 なので、最悪の要求すら覚悟の上だった霧羽だが、逆に彼女の提案には意外と控えめなのかとすら思えてしまったりもする。まぁ、思うだけで口には絶対に出さないのはいつもの事だ。
 が、それも彼女の事を見なければの話で、話が纏まったと分かると未時は既にこちらに背を向けてイソイソと歩き出していたりする。
「じゃ、私急ぐから、約束はちゃんと守りなさいよ。
 というより、私が電話したら必ず三コール以内に出て、夜には準備出来るようにしておきなさい」
 その上にこの滅茶苦茶な要求である。
 最高級ホテルでの最上級のディナーを好きな時に好きなだけ(五回分)という要求でも既に十分滅茶苦茶であるのに、その上にこれが乗るのか。せめて一日くらいの猶予を間に開けて欲しいものだが、きっと彼女は聞く耳を持たないだろう。
「まったく……」
 まだ、霧は世界を閉じこめたままだ。
 しかし、彼女はそれを知っていてなお、その中に進んでいく。
「普通はそんな簡単に干渉出来るモノじゃないんですけどね」
 そう言いながら、霧羽もまた彼女に対して背を向ける。
「さて、片付けますか」
 散々たる街並みを眺めて、そろそろ晩御飯の支度でもしようかと独り言を漏らす主婦のように彼は言う。
 親指で頬を拭う。
 そこにはベッタリと独特の朱が付着していた。
 それを見て、彼は心底面白そうに笑いを零す。
「やはり、と言わざる得ませんね。ホントに全く持って素晴らしい」
 味わうように指先を舐める。
 確かに広がる鉄錆のような独特の味。
 それは彼等が人という存在と同様に持つ、赤い液体の味に他ならない。
 そして、その味の何とも懐かしい事。
 味わうのなどいつぶりの事だろうか。思い出す事は出来ず、どれだけ記憶を掘り起こそうとそれを思い描く事は出来ない。
 それくらいに懐かしい、自らの血の匂いと、味。
 味わうようにもう一度指先を舐める。
 素晴らしい。
 彼女も、この味も。
「そう思うと安い買い物です」
 世界に霧が満ちていく。全てを飲み込むように濃く、深い霧が。
 誰も感じられない不自然さで、誰もが気にしない自然さで、霧はゆっくりゆっくりと世界を飲み込んでいく。
 それに反比例して、彼女は元いた世界へと戻っていく。
 今はまだ彼女がいる事が出来る世界に。
 その時が後どれ程残っているのか。それは彼女には、勿論霧羽にも分からない。
 しかし、その時がもうそう多くない事を彼女も彼ももう知っている。
 でも、だからこそ彼女は必死で足掻くのだろう。
 どちらの世界にも欲しいモノがあるから。
 それを手に入れる為に。
 それは魔術師の本質として、あるべき姿として何よりも純粋で正しい。
 そして、だからこそ彼女はきっと苦しむ事になるだろう。
 その純粋すぎる魂の形と存在の在り方故に――
 その先で彼女が得るモノは偉大なる論理か、それとも全てに向けられる絶え間ない絶望か。あるいは……
「本当に楽しみだ」
 その先に待つモノがどうあれ、それはきっと楽しいモノになるだろう。
 少なくとも霧羽 総弥という魔術師にとっては。
 彼女はいつでも彼の予想とは違うところを飛び、破天荒な娯楽を提供してくれる。その確率の高さだけは疑いようがない。
 だから、今はまだ我慢しよう。
 果実というのは熟れる直前が一番もぎ取ってしまいそうになるものだ。ここで我慢しなければ、完熟の果実は手に入らない。我慢して、我慢して、そうしてようやく頬張れる極上の甘露の深い甘みを想像する。
 その柔らかい果実に歯を突き立てるのを想像するだけで、舌舐めずりせずにはいられない。
 だから今は、まだ我慢する。
 その代わりに、この後彼女が過ごす慌ただしい時を眺める事で蜜としよう。
 とりあえず確実に分かる事として、彼がこの空間をゆっくりと修復し終える頃、彼女は彼女の手を取るのだろう。
 そして、そこで彼女はきっと彼女に頭が上がらない。
 何故なら、彼女の服装にはつい今し方の行動の足跡がくっきりと残ってしまっているから。
「それくらいは安いものでしょう?お互いに、ね」
 そう口ずさんで、彼は気分良く霧を躍らせる。その姿はオーケストラを自由自在に率いる指揮者さながら。
 そんな彼の頬を一度だけ走った紅は、もう、既に――


                                Prelude Zero Episode9 “Nonsense of the Witch” Fine.


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