鏡合わせの貴女と――



 私達はおそろしい程似ていない。
 髪が長かったり、短かったり。
 背が高かったり、低かったり。
 可憐さと勇敢さ。
 甘いモノは二人共好きだけど、辛いモノも好きと嫌いに分かれているし、周囲に人を集めたり、遠ざけたり……
 見た目と挙動はこんなに似ていないのに、私達はこんなに似ている。
 「どこが?」なんて尋ねられても、正しく説明することは出来ない。
 それは姿形が似ているとか、性格が近いとかそういう理屈じゃない。
 それはきっと他人には理解できない次元の問題。私と彼女の間でだけ理解できる根拠の元に成立しているモノ。
 きっと魂が、心の在り方が似ているんだと思う。
 だから、私達が惹かれあうのは当然の摂理。
 私達はこの世界にたった二人。
 たった二人きりの同じ魂を持った存在なんだもの。
 鏡を見ればいつだって貴女の姿が映る。
 だって、貴女は私で、私は貴女。
 まるで合わせ鏡を見ているように、私達は真逆の動きをしているくせに、同じ行動方針を懐いている。
 そして、私達はたった二人きりの世界でやっと出会って、背中を寄り添って立っている。
 お互いの体温はいつもと何も変わらないけれど、そのいつもの温もりがとても心地良い。
 それはこの季節になってより一層感じるようになった。
 貴女の体温をいつも感じていたい。
 貴女の顔をいつも見つめていたい。
 貴女の声をずっと聴いていたい。
 気付いたらいつも貴女のことばかり考えてしまう。
 そうしたら自然と気付いてしまった。
 あぁ、きっとこれは恋なんだ――
 気付いてしまえば、本当になんでもないことで、自分でもあっさりと納得出来てしまった。
 それくらい、私の中で貴女が占める割合は大きい。
 どんなに楽しい時間だって、貴女と過ごす時間には勝らないし、輝かない。あれほど自分が恋い焦がれる時間を、私達は他に知らない。
 だから、やっぱり私は貴女に恋をしてるんだろう。
 容姿は全くの逆なのに、あんなにも魂の形が酷似している貴女に。
 それはまるで正反対の自分を見つめているみたい。同じ動きをしているのに、得られる結果は全くの逆。それが私にはとても羨ましいけれど、それは貴女も同じなんだって私達は知っている。
 私達はその事実に気付いてる。
 それでもお互いを求めることを止められない。
 それは届くようで届かない鏡の世界の向こう側。零に限りなく近い距離なのに、実は何よりも遠い距離。
 そんな向こう側に、私達の思い人は住んでいる。
 愛しくて、愛しくてたまらない。
 そう。私達は合わせ鏡の自分に恋をしているのだ――

 季節の移り変わりなんていつもあっという間の出来事だ。つい先日、寒くなってきた、なんて考えていたはずなのに、気付けばすっかりとそれを当たり前の事として自覚し、ちゃんと適応しているのだから人間とは恐ろしい生き物だ。
 かと言って、自分たちは動物達のように毛皮を冬用に生え替わらせたりはしない。というよりも、そもそも自分達には毛皮など生えていない。せいぜいが、その代わりに防寒具を各自で用意するくらいである。
 当然、防寒具はコートだったり、マフラーだったり、人それぞれどこまで使うかの選択は自由だが、それは一人の人としてのアイデンティティを表す貴重な要素となる。
 特に女子高生といえばお年頃である。それ相応に気を遣うのは明白で、それはここ、聖光女学院でもやはり変わらない。
 今時珍しい本物のお嬢様学校であるが、冬における服装に関しては他の季節に比べて遙かに監視が緩くなる。何でも過去に生徒会が、服装の自由を緩和しようと交渉したとか何とか。その結果として、生徒達のセンスを養う為の道徳的意味を込めて、冬という季節限定で防寒具に関してのみ、生徒達には選択の自由が与えられている。勿論、派手すぎるモノは毎日校門に仁王立ちしている生徒指導教諭に見咎められて強制連行されるが、皆それなりに上手い事やっている。
 一応学院指定のコートもあるので、不安があるようならそれを着れば良い。もっとも、それを使う生徒の大概は、いつも自分が使用しているコートをクリーニングに出しているからというのがこの学院での裏事情である。
 彼女もその裏事情をごく希に抱える生徒の一人である。
 見る者に思わず感嘆の溜め息すら吐かせるような美貌。体のパーツ全てが精巧なガラス細工のような繊細な美しさを伴っている。
 そんな彼女が持つのは何にも染まらぬ汚れなき白。
 肌の色は勿論、その流れるような長い髪ですらも白。
 瞳の色は流石に日本人特有の黒であるが、その眼と相対した者が懐くイメージはやはり白。そこには全てを見透かせるような何かを感じずにはいられない。
 この世に存在するどんな白だって彼女と比較すれば色あせて見えてしまう。
 真なる純白。
 それ以外に彼女を形容できる言葉は存在しない。
 自らの全てにその汚れ無き清楚を纏わせたまま、彼女はその手を緩やかに動かした。
 そっと、一枚のカードが裏向きに置かれ、細く、綺麗な指から放される。
 多少の躊躇いを置いて、彼女は意を決したようにその一枚を捲った。
 華美すぎない美しい彩りが現れ、同時に彼女の表情にも明るい色が踊った。
 その一枚は勇ましい戦車の正位置。その意味合いは“前進、勝利”。
その脇に置かれた一枚とは別に、彼女は改めて既に捲られた三枚のタロットカードに目を向ける。大三角の秘宝法と呼ばれるその手法は、メインの運勢を三角形に配置したカードで決め、そのキーを脇に置かれた一枚で占うというまだ初心者である彼女にとって推移しやすい占い法である。
 まだ勉強している最中である自分が占うのもどうかと思ったのだが、今日はそれなりに大事な日であるので、そういうのはやっぱり自分で占いたいというのが彼女の心情。その占いの結果の最後の一枚が良い締めくくりだった。それに笑顔になれるということは、つまりメインの運勢もやはり良いモノだったからである。
 塔の逆位置、隠者の正位置、愚者の正位置。
 それぞれの表す意味は、順に“必要とされる破壊”、“探索、思慮深さ”、“冒険、無知”である。そしてキーの戦車の正位置。
 彼女はその結果を好意的な意味として受け止めた。
 “必要とされる破壊”は既に成っていた。“探索、思慮深さ”、“冒険、無知”は今日のこの後のスケジュールを考慮すると好ましい意味合いだ。そして、戦車の正位置、“前進、勝利”。すなわち、探索し、冒険した結果、今日の目的は滞りなく納得のいく結果を得ることが出来ると、純白の彼女は読んだのである。
 思わず綻ぶ口元が今の彼女の心情を言うまでもなく語っている。それは見る者が見れば分かる、彼女が人前では決して見せることのない真実の笑みである。
「お待たせ、海空」
 彼女だけしか居なかった一人きりの空間に声が響いた。呼ばれて、彼女の顔にはほんの数秒前とは比べモノにならない程の穏やかで、かつ至福の笑みが浮かぶ。
「早かったですね、未時」
「えぇ、補習だし簡単だったのよね。これからずっと補習でやりきろうかしら」
「それは困ります。一緒にいられる時間が減ってしまいますから」
「あぁ、それは確かに困るわね」
 肩に届くか届かないかというバランスで整えられた髪が一歩一歩の歩みごとに揺れる。室内の蛍光灯に晒されて、ほんの少しだけ茶色がかる髪は白い彼女とは対照的だった。一つ一つの動作にもどこか洗練された機敏さが感じられる。意志の強さを感じさせる瞳は今は穏やかな安らぎと開放感を浮かべている。
 彼女は星海 未時。既にテスト休みに入っているにもかかわらず、蒼井 海空がわざわざ学院に来ている唯一無二の理由そのものである。
「またタロット?」
 未時がよれよれで色んな所がほつれてボロボロになったコートを脱ぎながら尋ねてくる。
「はい。この後の事を占ってたんですよ」
「そう」
 コートを海空の傍らに置いて、彼女も大きな丸テーブルに昇って腰を下ろす。
「勿論、良い結果だったのでしょう?」
「何でそう思うんですか?」
「だって私達の事だもの。悪い結果なんて起こり得るはずがないでしょう?」
 欠片ほども疑うことなく、未時は海空に微笑んだ。
 その魅力的な表情に海空も偽りのない笑みで返す。
「そうですね」
 お互いがお互いを慈しむ掛け替えのない瞬間がそこにあった。
「それにしてもようやく終わったのね。本当に長かったわ」
 そう言って未時はあろう事か、大きなテーブルに腰掛けるだけでなく、寝っ転がった。
 本来ならそんな事は聖光女学院の生徒としてはあるまじき行為である。それどころかどこの場所であっても、図書室という場所でそんな事をしていては注意されるのが当然であると言える。
 しかし、この場において、そんな彼女を注意する者は誰もいなかった。
 否、そこにはその誰かすら存在しない。
 いるのは未時と海空の二人だけ。
 今はもう使われていない旧校舎の二階。その隅っこに忘れ去られたようにひっそりと存在する図書室。
 彼女達はそこにいた。
 そこは二人だけの秘密の場所。
 二人はここで初めて出会い、言葉を交わした。
 そんな、とても大切な場所。
「自業自得だと私は思うのですけれど」
 そんな場所で少しの皮肉を込めて、海空が微笑みながらその言葉を口にした。
「だってしょうがないじゃない。まさか、私もテスト期間ずっと動けなくなるとは思わなかったんだもの」
 そう未時が補習を受ける事になった原因はそれだった。
 テスト前日にとある事情で出かけたのだが、そのツケがテスト全教科補習という散々たるモノだったのだ。
 本来なら補習を受けることが出来るのは二教科までなのだが、未時の場合は病欠という(本当は病気ではなく、指一本すら動かすことの出来ないほどのひどい筋肉痛である)特別な理由で今回は全教科補習という寛大な措置が取られたのである。
「良いじゃないですか。その分久しぶりに真面目に勉強したのでは?」
「それもしょうがないじゃない。他に出来ることなんて何もなかったんだもの。海空が暇つぶしに漫画でも持ってきてくれれば良かったのよ」
「代わりにケーキを持って行ったじゃないですか」
「私が学校に置きっ放しにしていた教科書のおまけにね」
「でも、私が持って行かなかったら困ったんじゃないですか?」
「それはそれ、これはこれ、よ」
 体を日向に転がる猫のように丸め、未時はちまちまと愚痴を零す。
「本当に凄く大変だったんだから。ご飯だって自分で食べられないし、お風呂にだって一人じゃ入れないのよ?
 一度一人で入ろうとして、溺れたときは本気で死ぬかと思ったわ」
「生きてて良かったですね」
 コロコロと笑いながら海空は言う。
「ちょっとやそっとじゃ死なないことが分かったとか言ってたのに、溺れ死んだとか聞かされたら、それこそ私は泣く前にまず笑わずにはいられないですよ」
「もう、意地悪ねぇ」
「未時のおかげで逞しくなったんですよ」
「それにしては感謝の表し方が歪んでいると思わない?」
「素直じゃないのも貴女のがうつってしまったんです」
「ひどい言われようね」
「良いじゃないですか。おかげで私はとても楽しいですよ?」
「ごもっとも」
 それを言われてしまっては反撃の矛等あるはずもない。未時は両手を大げさに上げて降参の意図を海空に伝える外なかった。
「それじゃあ、さっさと日常にサヨナラしましょうか」
「そうですね」
「とりあえず当面の鬱憤を晴らすかのような遊び歩きツアーを提案するわ」
「異議なし、です」
 そして、ようやく、彼女達の冬休みは始まった。
 既に使われなくなって久しい図書室の暖房を切り、いそいそとコートを着込む。
 そんな未時の姿を見て、「やっぱり」と海空は口にする。
「何が?」
「未時は気にならないんですか?」
「あぁ、これ?」
 未時はこれ見よがしに色んな箇所が解れてしまっているコートの裾を翻す。
「他に何があるんですか」
「気にならない訳じゃないけど……まぁ、面倒くさいとは思ってるわ」
「今朝の出来事がこれから毎日続くのとどっちが良いですか?」
 その言葉に未時はうんざりせずにはいられない。
 彼女は今朝、テスト休みという名の先駆けの冬休みにもかかわらず、いつもと同じようにアーチ状の校門の向こう側で仁王立ちしていた生徒指導の教員に早速捕獲されていたのだ。
 理由は言うまでもなく、世間一般ではボロボロと言い表しても良いようなコート。流石にテスト休み期間なら大丈夫だろうと油断したのが不味かった。
 未時は瞬く間に視線を絡まされて、三つ数えるよりも早く捕獲され、生徒指導室へと強制連行された。そして、良い訳は何とか通ったものの、結局彼女は追試が始まる五分前までをテスト前の付け焼き刃の作成ではなく、耳にタコが出来るほどのお説教を聞かされる羽目になったのだ。前日までの寝たきり勉強法が無ければ、まさに涙ものの時間を彼女は過ごしたのである。
「嫌な事思い出させないでよ」
「じゃあ、決まりですね」
「まぁ、早い方が良いわよね」
 そうやって二人のとりあえずの目的は決まる。
 開けたわけではないが、念のために窓の鍵を確認し、図書室の電気を消す。鍵は既に壊れてしまっているので掛ける必要はなく、代わりに百円均一で買った南京錠をこれまた百円均一で買ったアクセサリ用のチェーンを、左右一対のドアノブに巻き付けた上から引っかけて、防犯と呼ぶには心ともなすぎる施錠をする。
 実際に何らかの犯行目的でここを訪れた人物には全く効果の望めないこの施錠も、一般生徒やこの前をたまに通る教員達にとっては図書室を立派な開かずの間に仕立て上げる飾りになってしまうのだから不思議なものだ。
 唯一の懸念材料は実際に犯行目的で誰かが図書室を訪れてしまった場合だが、その心配はしなくても良いと未時達は思っている。理由は単純にこんな場所を訪れるくらいなら、さっさと新校舎に向かった方が明らかに利口だからだ。そのほうが余程犯罪らしいことをすることが出来る。
 だから、ここの施錠は見た目だけで十分で、おかげで二人が持つ鍵は小さな頼りない鈍色の鍵一つだけ。小さな秘密の共有はお財布の小銭入れにすっぽり入ってしまうような大きさで、それが何だか余計に二人だけなんだという感覚を強調しているように感じられた。
 誰とも遭うことなく、二人は旧校舎を出て、背の高い花壇を腰を屈めるようにして抜ける。抜けた先に広がるグランドの向こうでは、陸上部の生徒達が北風に負けることなく日々の部活動をこなしていた。
 陸上部である彼女達にとってそれが当たり前であるように、未時と海空にとってもそういった風景を眺めたり、二人だけでこっそり忍ぶように花壇の陰を抜けるのは当たり前になっていた。
 まだ二人がようやく出会ってから二ヶ月程しか経っていないけれど、その密度は他の誰にも負けていない。
 未時は誰よりも海空を理解し、海空は誰よりも未時を理解している。
 お互いがきっと信じて疑わない。
 二人は偶然出会ったのではなく、必然として出会ったのだと。

 繁華街は季節の変化やイベント事に敏感である。
 何故、そうなのか等とは語る必要はないだろう。何故ならそうでなければ、生き残れないからだ。繁華街という場所はそうあるべき場所であり、そうあることで初めてニーズが生まれるのである。
 それは、聖光女学院からもっとも近場に位置する場所も変わらない。クリスマスまでまだ三週間近くあるというのに、繁華街はもう明日にでもクリスマスだと錯覚してしまってもおかしくないくらいそれの風景に染まっていた。
 真っ赤なサンタの衣装を着込んだアルバイターがクリスマスケーキの申し込みチラシを渡してくるのを手だけでやんわりと断り、二人は冬色に飾られた街を歩いていた。既にテスト休みシーズンに入っているので、いつもなら違和感のなく溶け込めるはずの制服が少し浮いて感じる。
「一度戻ってから来た方が良かったかもしれないわね」
「そうですか?」
「だって海空は好きじゃないでしょう?ちらちらと他人から視線を向けられるのは」
 自分はもうそんな事には慣れてしまっているが、彼女はそうではないだろうと思う。何せ彼女は今まで他人の中に埋もれることでその視線にフィルタを掛けてきたのだから。
「そうですね。確かに余り好きじゃないです」
「だったら――」
「でも、」
 未時が次の語句に繋げるよりも先に、海空が言葉を紡ぐ。
「私はそんな事よりも、未時と一緒に居られる時間が減ってしまう事の方が悲しいです。だから、そんな事はどうでも良いんです。私は未時と一緒に居られれば、その……」
 そこまで言って海空は沈黙する。顔を下に向けて隠していても、頬だけじゃなくて、耳まで真っ赤にしているのが彼女の白い肌でははっきりと視認できてしまう。
 だが、恥ずかしいのは未時も同じだった。海空が俯いているからばれていないだけで、彼女も海空と同じように耳まで真っ赤になっていた。繋いだ手までが熱くなっているのが分かるほどに。同時に、とても嬉しくもあった。彼女も自分と同じ気持ちなのだと思うと、少しだけ冷静になる事が出来た。
 そして、今まで周囲の視線を気にしていたのが自分の方なのだということを理解する。それこそが、今この瞬間に一番どうでも良い事だったのに。
「…………」
「…………」
 何だか気まずい。
 何か話したいのに、何を話せばいいのか分からない。話すことはいくらでもあったし、これまで話題に尽きた事なんて一度もない。
 しかし、何かを口にするのは躊躇ってしまう。
 でも、それは気まずくはあっても、決して居心地の悪いわけではなかった。
 未時の半歩後ろを海空が手を引かれるようにして歩いていた。
 前と後ろでお互いの顔は見えないけれど、二人は繋がっている。繋いでいる手でお互いがお互いを感じている。相手の体温が冬という季節の中でいつもよりずっと暖かく感じられる。
 ただ、手を繋いでいるだけだけれど、その時確かに二人は幸せだった。顔を真っ赤にしてはいたけれど、そこには確かに笑みが浮かんでいる。
 どうしても人目を惹いてしまう二人はいつもの奇異な視線を浴びながらクリスマスファッションで飾られたショーケースの角を曲がる。
 そこで未時は足を止めた。
 だから海空も一緒にそこに立ち止まる。
 声を掛けようと思っても、恥ずかしさと気まずさでそこでどう声を掛ければ良いのかが分からない。
「――しょう」
 あれやこれやと悩んでいる内に未時の方から声が漏れた。
「え――?」
 それは近くにいた海空でも聞き取れないくらいに小さくて、思わず聞き返してしまう。
 きっかけとしてはそれで十分だった。
「あぁ、もう調子狂うのよね!」
 未時がワシャワシャと髪を乱雑にかき乱しながら人目も気にせずに叫んだ。
 周囲から浴びていた奇異な視線が、たちまちに不審なものへと早変わりし、ついさっきまでとは百八十度違った恥ずかしさを覚える。勿論、こっちの恥ずかしさは居心地が非常に悪い。
「こういうのってなんか私達らしくないと思わない?」
「え?」
「もう、止めましょう。あんな変な空気は。背中がむず痒くて仕方ないのよ!」
 そう言って今度は大衆の面前であることを気にも留めず、未時がボロボロのコートの中に手を突っ込み、おそらくはそのまま手を制服の裏側にまで手を伸ばして背中を掻いている。ここに生徒指導の教員がいたらまさに卒倒しかねない行動だ。
「本来の私達に戻りましょう。こいうのはらしくないわ。私達はもっと自由にいて良かったはずでしょう、海空?」
「あ」
 思い出す。
 自分たちの世界が今いる世界とは完全に切り離されてしまっていることを。
 だから、彼女達はこの世界でいつもとてつもない疎外感を感じ、それを補うためにそれぞれが手段を選んだ。
 星海 未時は自分に手を伸ばす全てを拒絶して。
 蒼井 海空は自分に手を伸ばす全てを受け入れて。
 二人が取り得た手段は真逆である。
 しかし、そのベクトルの結論は共に同じ方向を向いている。
 未時は拒絶することで自分の世界を守り抜き、海空は受け入れ、他者を自分の世界の色に染め上げた。
 手段は違えど、その目的は同じだ。
 自分の存在をこの世界に留めておくため。
 そうしなければ生きていけないから、そうする。それは生物が生きていくために環境に適応していくための進化に等しいモノがある。
 ただ、違うのはそれが変化ではなく、停滞である事。それも周りを変えていく類の。
 自分が変わるのではなく、相手を変えるのである。
 自分達がそうあるべき姿を頑なに譲らない。何よりも自分達が自分達であることを望み、そうある為に行動している。
 そこに他者への配慮はいらない。
 何故なら他の存在が彼女達の世界を理解することは決してないのだから。
「そうですね。私達、何か可笑しかったですね」
「そうよ。別にこっちに私達が囚われるモノなんて何もないんだから」
「はい」
「じゃあ行きましょうか、海空?」
 そう言って未時は再び手を差し出した。
「何処へ?」
「何処へでも――」
 手を取ってくれた海空の手を優しく掴み返して、未時は優しく微笑んだ。
「私達なら何処へだって行けるわ。そうでしょう?」
「そうですね」
 ――今はまだその世界は狭くても。
「とりあえずは何処へ?」
「そうねぇ、……」
 逡巡する。後に周りを見渡し、はい、決定。
「とりあえず走りましょう」
 返事を待たずに駆けだした。後ろから可愛い悲鳴が聞こえるが、そんなのは笑ってごまかしておく。目指すは人混みの中の一角、野次馬共の群がる壁のもっとも薄い場所。
「はいはい、道開けないと蹴り飛ばすわよーッ!」
 ステップはリズミカルに。いつでも障害物を破壊出来るようにタイミングを計りながら。口元には明らかに不自然な満面の笑みを浮かべる。それはつまり全部引っくるめて、前に出てきたら本当に蹴り飛ばす事を示すボディラングエッジである。
 それを敏感に察知したのか、単なる未時の勢いに負けただけなのか、人垣が真っ二つに割ける。
 そこからまたこちらを覗き込もうと野次馬が沸いてくるが、未時達がそこを突き破る方が僅かに早かった。その弾みに未時が首に巻いていたマフラーが置いてけぼりを食らってひらひらと舞う。
「あ、」
「良いわ。行きましょう。走っていたら邪魔なだけだわ」
 冷たい風を切って、二人は振り向かないで走り去る。向かう宛はなく、ただ気の向くまま、向かうまま。白くなった吐息をハッハッと足跡のように残しながら、二人は冬の繁華街を駆けていく。
 風のように。
 何よりも、誰よりも自由に彼女達は自らの世界を駆け回っている。
 そんな彼女達の世界に凛とした華が二輪。
 そこに笑顔が咲かない理由はなかった。

「はい。ミネラルウォーターで良かったのよね?」
「ありがとう、ございます」
 首筋にピタリと付けられたペットボトルが気持ち良い。本来ならホットコーヒーと即答するのだが、今だけは体が冷たいミネラルウォーターを切として望んでいた。
「大丈夫?」
「少し、疲れました、ね」
 喉をコクコクと鳴らしながら、何とかそれだけを答える海空。
「私には少しには見えないんだけど?少しは運動した方が良いわよ?」
 対する未時は流石と言うべきか、汗の一筋も流すことなくホットココアを飲んでいる。
「意地悪、です」
「それはきっと海空が可愛いからよ。ついつい苛めたくなってしまうの」
「仕返しはみっともないですよ、未時」
「良いのよ。だって私子供だもの」
 そう言ってクスリと微笑む未時は実に大人びている。ように見えた。
 少なくとも今こうして嗜めているはずの海空が、何だか自分の方が子供みたいだと感じてしまうくらいには。
「何だかずるいです」
「何でよ?」
 笑いながら未時は尋ねる。彼女の手の中にはまだ幾らかは温もりを保ったままのホットココアが居座っている。
 一息吐いて、今度は手の中にあるミネラルウォーターのせいで肌寒くなってきたので、それを未時に押し付ける。代わりに彼女の手の中からホットココアを引ったくって、元から自分のものであるかのようにぐびぐびと飲み干した。すると今度は口の中がこれでもかと言わんばかりにココアの甘さに占拠されたので、押し付けたばかりのペットボトルを未時の腕から取り返して、一口だけ飲む。
 コクリと喉を鳴らして、ようやく落ち着く海空。
 すると今度は未時がその言葉を口にした。
「海空だって十分にずるいじゃない」
「どこがですか」
「全部よ、全部」
「じゃあ、未時のずるい所も全部です」
「良いわ。じゃあ私達はずるい者同士な訳ね」
「そうですね」
 気付けば互いに笑い合っていた。どちらとも言わずに腕を絡めるようにして密着して、吐き出される白い吐息が届きそうな距離で会話する。
 全てが最高の一瞬で、心の底から楽しまずにはいられない。
 未時がいつの間にか飲み干したペットボトルをゴミ箱に入れた。ココアの缶も空いているけれど、近くに空き缶を入れるゴミ箱はない。
 二人してキョロキョロと探してみて、離れたところ(だいたい海空の目算で三十メートルくらい)にようやく見つける。が、行きたい方向は真逆。捨てに行くには少し遠い。というかぶっちゃけ面倒くさい。と、二人はアイコンタクトで会話した。
「オッケー。私に任せなさいっと」
 一秒にも満たないコンタクトで二人の意思疎通は完了する。
 一応念のため、周囲の目がこちらに光っていないのを確認。ピッチャー第一球振りかぶって、、、
「ほっ!」
 投げました!
 未時の手を放れた空き缶はくるくると回転して綺麗な弧を描く。そして、そのまま一直線にゴミ箱を目指す。
 カコンと小気味良い音が鳴る。
 あらぬ方向から飛んできたど真ん中のストライク球に、ゴミ箱の丁度真横を歩いていたおそらくは大学生だろう学生がギョッとその場を飛び退いた。慌てて視線を振り回し、そのカーソルがこちらに向いた。
 その間僅か二秒程。
 その僅かな間に、未時は思い切り振り抜いたフォームを正す。どころかしっかり海空の腕に自分の腕を絡めて既に歩き出していた。
 半身を密着させるようにして、耳元で囁く。
「ほら、ダメよ。あっち見ちゃ。目線が合ってもなにあの変な人みたいに振る舞わないと」
「それは良いんでしょうか?」
「別にデッドボールになった訳じゃないし、良いんじゃない?」
「そういう問題じゃない気がするんですけど……」
 ゴミ箱の人が気になって仕方がない海空を未時がぐいぐいと引っ張っていく。ちらちらと視線を向けてしまう海空の足が、一歩、また一歩と目先の方向とは真逆に進んでいく。
「良いのよ。ほら、気にしたら負けよ?」
「何に負けるんですか?」
「私達が負けたくない、“何か”によっ!」
 「何かってなんですか?」とは聞かない。何となくだが、それは海空にも分かっているから。
 そして、何よりも今はそれどころではなかった。未時にぐいぐいと腕を引っ張られているが、背後が気になって仕方がない。ちらちらとやっぱり振り返っては未だにゴミ箱でキョロキョロと周囲を見回す通行人を見てしまう。
 しかし、それにもやがて終わりが来る。
 いや、単に彼の姿が曲がり角を曲がったが為に見えなくなってしまったからだが。
 でも、それはそれで良いかな、と思っている自分がいた。
 そんな海空を見て、「ほらね?」と笑う未時に「そうですね」と受け応えし、海空はやっぱり自分は彼女と同じ世界にいるんだなぁと実感する。
 だって彼女はこんなに自分の事を分かってくれている。
 今まで、誰にも分かって貰えなかった自分の世界を。
 こんなにも正しく、こんなにも明確に。
 それは幸せ以外の何物でもなく、不幸であるはずがない。
 引っ張られていた腕を隣を行く彼女にこれでもかと絡ませて、今度は自分から走り出す。
「ちょ、何?どうしたの?」
「何となくです!」
 一瞬だけ体勢を崩して、驚きを見せた未時の顔に少しだけ満足する。いつもすました顔をしている(ここ最近は特に)彼女がこういった不意を突かれた時に見せる表情が海空は好きだった。勿論、彼女の見せてくれる一面はどれもが思わず抱き締めてしまうほどに可愛く見えて本当に抱き締める(端から見れば抱き付くだが)海空だが、彼女の不意に見せる表情はそのランキングの中でもかなりの上位に位置付けされる一品だ。
 それを見られた今、蒼井 海空のテンションは普段の彼女からすれば不自然な程に上がっていた。そう、普段は走り出すなど絶対にしない彼女が走り出しているのだから。
「また、後でぐったりするわよ?」
 ぴったりくっついて走りにくい体勢だが、未時は既にそれに慣れてしまったのか、呆れたように笑いながら話しかけてくる。
「それも良いじゃないですか。今日は私に付き合って貰いますからね」
 走りにくさに一人だけ四苦八苦しながらも、海空は未時の腕を解放しようとしない。
 まだ今日という日はたっぷり残されているけれど、きっとそれでも足りないのが分かっているから。
 少しでも、一秒でも長く――
 片時も離れたくない。
 それは二人が懐くいつもの感情。
 それがいつもよりちょっと強く表れているのは、きっと数日の間触れあう時間が少なかったから。
 なんて、自分に言い訳してみて、二人は繁華街の一角を走り抜けていった。

 二度目の水分補給タイムを経て、二人の少女はようやく今日の一番最初にくるはずの場所に到着した。
 あまり目立たない繁華街の外れに位置するこの店は、この繁華街を隅から隅まで歩かなければ知ることが出来ない隠れた名店の一つである。看板こそ古びているが、それがまた隠れた名店としての証に見えないこともない。
 少しくたびれた看板には軽やかな文字が躍っている。
 “Andante”
 楽譜記号では“歩くような速さで”の意味を持つその名に相応しく、その店にはいつもどこかゆったりとして空気が穏やかなワルツによって醸し出されていた。主張しすぎない音量がその秘訣なんじゃないだろうかと未時と海空はこっそり考えていたりもする。
 もっとも、当たり前の事だが、その店が名店だと呼べるのは決してそれだけが理由ではない。
 ゆっくりとドアを引くとほんの少しの軋みと共にドアベルがチリリンとお出迎え。次いでワゥンと鳴いて出迎えてくれる可愛らしい番犬が一匹。毛並みが綺麗にブラッシングされたコリー犬で名前はミシェラ。メス。いつでもシッポを振って、愛くるしく出迎えてくれるその姿に彼女との触れ合いを楽しみにして店を訪れるファンもいるとか、いないとか。
「こんにちわ、ミシェラ。今日も寒いわね」
「こんにちわ、ミシェラ。今日も綺麗な毛並みですね」
 かく言うこの二人もそんなファンの一角である。
 ワゥンと声を返したミシェラに、未時は微笑みを返して頭を一撫でし、海空は彼女にハグをして抱き抱える。首筋に押し当てられたミシェラの鼻にくすぐったそうに身を捩らせながら、二人はお店の奥に入っていく。
「あら、いらっしゃい。お二人さん」
 遅れて奥から一人の女性が顔を出す。
 年の頃は二十代後半に差し掛かったかどうかといったところだろうか。軽い声の調子と、それに予め見繕っていたかのようなさばさばした感じは、二人にとって既に馴染みの存在である。
「相変わらず寒いけど、貴女達にはあんまり関係なさそうよねぇ。愛故にってやつ?羨ましいかぎりだわね、ホント」
「こんにちわ、メリッサ」
「お久しぶりです、メリッサさん」
 「そういえば久しぶりだっけ?」なんて口にする、メリッサは名前が名前であるが見た目から明らかな日本人である。髪は茶色く染めているものの、元々は黒であるし、瞳の色もやはり黒い。本名でないのは明らかであるが、未時も海空も特に対して気にしてはいない。一度だけ興味本位に何故メリッサなのかと尋ねたが、それに対する回答は「いや、なんかカッコイイじゃない?」といった非常にざっくりとしたもので、それが何となく二人には納得できてしまう。
 つまり彼女はそんな感じの、どちらかといえば姉御肌の女性である。
 服装は常に動きやすそうなジーンズスタイルで、口にはいつも火の灯されていない煙草を銜えている。
 今日もその例に漏れず、メリッサはダメージジーンズにTシャツ、革ジャン。そしていつもの銜え煙草で未時達を迎えていた。ちなみに履いているのは靴ではなく、そこら辺の雑貨屋で買えそうな突っかけ履きであり、カランコロン鳴らしながらこちらにやってくる。
「今日は何をって、まぁ、聞くほどでもないか。ちょっと待っててよ。すぐに新作取ってくるから」
「はい」
「ミシェラ、私はちょっと裏に行ってくるから店番しててちょうだいな」
「ワゥッ!」
 元気の良いミシェラの返事に、メリッサは後ろ手を振りながら今来た場所を戻って店の奥に引っ込んでいく。カランコロンと突っかけ履きを鳴らしながら去っていく姿は初めて見る者にはきっとちゃんちゃんこでも引っ張ってくるのではないだろうかと思わせてしまう。
 しかし、彼女はこの店を先代からしっかりと引き継いだ立派な“Andante”の二代目店長である。先代に認められたその目の付け所はやはり確かである。メリッサは見た目に寄らず、意外な経歴の持ち主であり、この店を継ぐ前はヨーロッパ各地を転々としていたとか。メリッサという呼称もその時のものらしい。
 そして、そのおかげか“Andante”には彼女がヨーロッパで見知った隠れた名店仲間の良い商品が季節毎に入荷される。
 そう、例えばコートとか。
 数分ミシェラと過ごしている間にメリッサは十着ほどのコートを抱えて戻ってきた。店内の中央にポツリと置かれた古びた丸テーブルにそれをどさりと置いて、一息吐く。
「まぁ、私の見立てだとこんな感じかなぁ。後は適当に選んでちょうだい」
「ありがとうございます」
 ミシェラをようやく解放して、海空は頭を下げる。
「これも仕事だからねぇ。それにどうせ売るならやっぱ私としても良いマネキンに着せたい訳よ。貴女達はその格好の的なのよね、私としては」
「いつも思うんですが、それで良くお店が続きますね」
「まぁね。私には何と言ってもこれがあるからね」
 そう言ってメリッサは得意げにジャケットの袖を捲り上げ、腕っ節を叩いてみせる。
「だからお代もいつも通りなのかしら?」
「勿論、時価よ。時価」
 この店の最大の特徴はその値段の適当さにある。客が選んだ服を実際に着て、それを見た店長が感覚で値段を決めてしまう。
 だからこの店の商品には全てに一貫して値段のタグが付いていない。つまりは時価。いや、ある意味では時価よりも遙かに質が悪い値段の付け方かもしれない。それは先代から続くこの店の奇妙な伝統である。
 これは確かに奇妙な伝統であるが、そこには店長のこだわりと客に対する真摯な商品選びが伺える事を、この店の常連客達は知っている。
 その結果は現状が示していた。
 こんなふざけたシステムの店が成り立っている。それが何よりの結果であり、この“Andante”が隠れざる名店の由縁である。
 勿論、未時と海空の二人はその常連客の数勘定に入っている。
 しかしながら、その付き合いはまだ非常に浅い。二人がこの店を初めて訪れたのはまだほんの一ヶ月半程前の事でしかない。
 二人が初めて“Andante”を訪れたその日が、丁度メリッサの店長就任初日の出来事だったのだ。それもその日初めてのお客さんでもあった。
 ただでさえ目立ち、整った二人の容姿と空気をメリッサは間髪入れずに気に入り、また、未時と海空もこの店の扱う商品の確かな品質と店の空気が気に入り、以降共に親しくしている。
 今日も二人の様子を見ただけですぐに店の奥に仕入れたばかりのコートを取りに行くといった観察眼は、流石だなと未時達を感心させるほどだ。
 まぁ、この地区で名門と呼ばれるお嬢様学校に通う生徒が、ボロボロのコートを着て店を訪れれば流石にその辺にある店の店員でも気付くのかもしれないが。
「それにしても一体何をどうしたら年頃の女の子のコートがそんなにボロボロになるわけ?私はそれが気になってしょうがないんだけど」
 カランコロンと音を鳴らしながら、メリッサが笑いながら尋ねる。
「まだ日も昇らない時間から人の手の全く入っていないような山中を四、五時間ほど歩けばすぐよ。すぐ」
 未時は事実を悠然と海空の着せ替え人形になりながらあっけらかんと答える。
「何それ。修行僧の真似でも始めたの貴女?」
 コートの置かれた丸テーブルにあるポットを使ってインスタントコーヒーを入れながらメリッサは笑い声を一層大きくする。
 しかし、答えたことが真実であるので、未時にはどうしようもない。とりあえず、「私にも色々あるのよ」とだけ答えて話をはぐらかしておくことにする。いくら彼女と気が合うと言っても流石に自分の奥底までを教えてしまうわけにはいかない。
 それにその事を知るのは今自分のすぐ傍で、あれこれと悩みながら自分のコートを選んでくれている彼女だけで良いのだ。
 彼女には知っていて欲しいと思っているし、それ以外の“誰か”に知られることを未時は望まない。他の誰でもない蒼井 海空という存在にだけ自分の全てを知っていてもらえれば、それで。
「ほら、未時何してるんですか。ちゃんと自分で手を通して下さい」
「あぁ、ごめん」
 いつの間にかまたぼーっとしていたようだ。最近、彼女の事を考えている時、未時の意識はここにあらずな事が多い。しかも海空から言えばいつも微笑んでぼーっとしているのだから一緒にいて恥ずかしいと言う。
 きっと彼女は気付いていないのだろうと未時は思う。もしや、自分がぼーっとしている時、他ならない一緒にいる彼女の事で思考領域が全て埋まっているとは思うまい。
 そして、その瞬間未時がどれほど満ち足りているかを。
 それとも、単に自分の前では見せないだけで、彼女もそうなのかもしれない。自分と彼女はあまりにも似ているから。似すぎてしまっているから。
 ただ、未時が先にその姿を見せてしまったせいで、彼女はしっかりしようとしているだけなのかもしれない。
 そうだと良いなと思う。
 そうなら自分はとても幸せだと感じられるから――
「ちょっと、未時」
「あ。え、何?」
「何じゃないです。だからさっきから言ってるじゃないですか。ちゃんと自分でコートの袖くらい通して下さい。それとも何ですか?それも私にやって欲しいとでも?」
 きっと何度も自分を呼んでいたのだろう。海空は結構真剣に怒っていた。さて、どうしたものか。ちらりと目をやればメリッサは店の内部を見渡せる場所に置かれた安楽椅子に深く腰を下ろしてコーヒーをすすったままで、助けてくれる様子は微塵もない。それどころか口元に笑みを浮かべ、こちらの様子を楽しんでいる節すらある。愛犬ミシェラも同様で、彼女の足下で耳をペタリと垂れ下げて聞かず、見ざるを貫いているようだが、時々垂れた耳がピクリと動いている。まったく、ペットは飼い主に似るというのはまさにこの事か。
 どちらにしろ援軍を期待することは許されない。かといって海空に下手な嘘は逆効果である。
 だって彼女は私で、私は彼女だから。
 私達はお互いが、お互いを誰よりも一番理解できていると知っているから。
 だから、未時は素直に諦めて正直に答えることにする。戦術は奇策だけが有効ではないということだ。
「そうねぇ。強いて言うなら一から十まで全部やってもらえるなら私はとっても嬉しいわ。出来るなら家に持って帰って、ずっと傍に置いておきたいくらい」
 相手の頬に手を添えて、彼女の耳にしか届かないようにそっと、優しく囁いた。おまけにちょっと艶っぽく声を作って。
「あ、あぅ――」
 海空の声が綺麗に裏返った。作戦成功。効果は抜群。後はこのまま勢いに任せて話を明後日の方向に逸らしてしまえば良いだけだ。
 が、未時は失念していた。
 自分が彼女の事を良く理解しているように、その逆もまたありきなのだという事を。
「じゃ、じゃあ……」
 思い出した時にはもう遅かった。既に敵は目前に迫っていた。海空に袖を通して貰った栗色のコートの裾が彼女によって捕まれていた。
 それはとても抗いがたい魅力を携えていて、未時は逃げ場を失った。無防備にただ、そこに立つだけである。
「ちゃんと私の事守ってくださいね?」
 彼女はしおらしく、ただそれだけを添えた。一瞬だけ視線を交わらせた後、フイと逸らす。しかし、その手だけはしっかりとコートの裾を掴んでいて――
 これは、色々とまずい。カウンターを綺麗に貰ってしまった。
 状況的にはクロスカウンターに近かった。
 どちらも放った一撃は身を削っての諸刃の刃。その分強力ではあるが、逆に防御は完全にフリー。どこからでも綺麗に急所が狙えてしまう。
 で、結果としてどちらも綺麗に急所にクリーンヒット。
 これでは動くに動けない。さて、どうしたものか。
「…………」
「…………」
 沈黙が痛すぎる。ついでに言うと端からこちらをにんまりと眺めてる視線にこの上なく腹が立つ。
「…………」
「…………」
 そろそろ何とかしないとこの後が続かない。考えろ。考えなさい。星海 未時。
「ま、この辺で勘弁しておいてあげましょうか」
 二杯目のコーヒーを入れながらメリッサがようやく口を開いた。その顔はとても満足そうで、なんとなく肌が艶やかに見えないこともない。かもしれない。
「それにしても良いわねぇ。若い子は。お姉さん久しぶりにときめいちゃったわ」
 腰をくねらせて酔いしれる。
 やはりさっきのは幻覚ではなく、現実のようだ。間違いなく肌がつやつやしている。
「それで?結局どれにするかは決めた?二人とも予定的にここであんまりゆっくりする予定じゃないんじゃない?」
「そういえばそうでした。まだ今日は他にも色々と行きたい所が」
「あったの?」
「あったんです。たくさんです。山盛りです」
「そ、そう」
 メリッサのおかげで話の流れが綺麗にすり替わってくれた。おかげで海空のテンションに変なスイッチが入ってしまったが、それは何とななるだろう。多分。
「じゃあ早く決めないといけないんじゃない?」
「そうね」
 促されて改めて試着した十一着のコートを一瞥する。
 意識を集中させて強く意識する。
 そこにある物をモノとして捉えるイメージ。
 単なる個としてではなく、一つの流れを内に懐く世界の一つとして捉える感覚。
 見るのではなく感じ、感じるままに視る。
 その世界を視て、未時は十一着の中から三着を選び出す。自分が視た世界の中で綺麗だと感じることが出来たモノ。それが計三つ。
「この中のどれかね」
「うん、うん。やっぱり貴女、良い眼持ってるわねぇ。スタッフとして欲しいわぁ」
「バイトは雇わないとか言ってたと思うんだけど?」
「貴女は別よ、別。何にでも例外は付きものでしょう?貴女程の眼を持ってる人なんてそうそう転がってるもんじゃないんだから」
「はぁ……」
 それはそうだろう。自分と同じような人間がそこら辺にいくらでもいればそれはそれで困るだろうと思う。
 その理由を自分で十二分に理解しているだけに、未時はとりあえず相づちを打つことくらいしか出来ない。隣では海空も苦い顔をして笑っている。
「でも、未時。この中のどれにするんですか?」
「そうねぇ。どうしましょうか」
 候補を三着まで減らしたのは良いが、特にどれが良いという基準はない。かといって三着とも買う気はない。
「海空が選んでくれない?」
「私がですか?」
「えぇ」
 こういう時は他人に任せてしまうのが一番楽だ。誰かに任せるのは好きではないが、海空は別だ。彼女になら自分の全てを任せても良い。
「海空の選んでくれたモノを着たいわ。貴女が私に着て欲しいと思うモノを選んでくれないかしら?」
 選ぶ理由があるとするなら、きっと彼女が自分に着て欲しいと思うモノだ。コートなんて何でも良いと思うが、海空が自分に着て欲しいと言うのならそれは十分に自分がそれを選ぶ理由になる。
「私が選んで良いんですか?」
「勿論。海空が嫌じゃなければ」
「全然嫌じゃないです。頑張って選びますね!」
 意気込んで海空は三着のコートを手にうんうんと唸りだす。姿見の前に行って何度もコートを映してみたり、試着室のカーテンレールに引っ掛けて見比べたりしている。きっと自分に着せるイメージを浮かべているんだろう。
 そんな彼女の姿は学園内で見ることの出来ない貴重な光景の一つだ。
 そして、自分の為にその姿を見せてくれる彼女が未時はとても愛おしい。
「飲む?」
「どうも」
 差し出されたコーヒーを素直に受け取る。
「苦いわ……」
「そりゃ、そうよ私ブラック派だもの」
 けらけらとメリッサは笑う。
「砂糖とかミルクとかは――」
「勿論、ないわ。ちなみに返品は受け付けてないわ。ちゃんと全部飲み干してちょうだい」
「頼んだ覚えもないのだけれど」
「惚気てる内に頼んじゃったんじゃないの?」
 今すぐに苦すぎるコーヒーを捨ててしまいたい所だが、惚気てしまっていたのは事実なので反論したくても出来ない。それにメリッサがコーヒーを御馳走するのは彼女が気に入った客にだけなので、その行為は嬉しいとも思う。
 例え、彼女が未時が甘党であることを知っていたとしても。
 前はそんなものも自分はきっと受け付けていなかった。
 それが好意でも悪意でも、未時は全てを受け入れてこなかったから。そうすることで自分の世界を維持し続けてきたのだ。
 それを今、素直に受け入れて自分で納得できているのはきっと彼女のおかげだろう。
 白くて、白くて、とても柔らかい。そんな彼女の。
「あら、また惚気〜?」
「えぇ」
 今度は受け入れる。
 それに今度はメリッサが狐に摘まれたような顔をする。
 それに少し気分を良くして、また手にしていたカップに口を付けてしまう。
「……苦」
 メリッサに一矢報いたところで、さて、この苦い飲み物をどうしようか。これを全部飲むのはかなり厳しい。
 だから、未時は本当に困っているのだが、視線の先で三着のコートと真剣に睨めっこをしている彼女を見ると彼女の顔はどうしようもなく微笑まずにはいられない。
 どうにか未時がコーヒーをカップの半分ほど退治したころ、海空がようやく一着のコートを小走りに抱えてやってきた。
「これにしましょう」
「あら、結局それになったのね」
 何度も試着させられたので、「あぁ、それね」的な受け答えしか返すことは出来ない。
 それでも海空はとても嬉しそうにそのようやく決まった一着を未時に勧めた。
「何かいまいち新鮮味を感じないのはなんでかしらね」
 そう言いながらも勧められるままにコートに袖を通した。バサリと裾を翻して、ポーズなんか取ってみたり。
「どう?」
 そう言って翻したコートは確かに良く未時に似合っていた。
 海空が選んだコートは丈の長い、俗に言うトレンチコートである。しかし、そのデザインは一般に良く知られているモノとは少し違っていた。
 通常のモノよりもかなりタイトに作られているのである。
 普通コートというのは全体的に着る人の体型にたいしてかなりゆったりと作られているものだ。
 しかし、海空の選んだコートにはそのゆとりがほとんどと言って良いほどない。つまり体のラインを露骨に表す作りになっているのである。
 それは着る者をかなり限定する。
 もう選ぶとかのレベルではない。そのコートを着ることが出来る存在が逆に選ばれてしまう。要するに並々ならぬ素材の良さが求められるのだ。
 それは単純な問題であるが、そのコートを着るという視点からするとかなりハードルの高い問題である。
 その問題を未時は苦もなくクリアしていた。
 着られるのではなく、着こなす。
 その言葉がピッタリと当てはまっていた。
 コートのタイトさが良いアクセントとなって彼女という存在を引き立てている。体のラインがいつも以上に滑らかに美しく見える。
 そして、何よりもそのコートの色が彼女に違和感がない。
 まるでその色が始めから星海 未時という存在の為に作られたかと思ってしまうくらいに彼女のイメージと合致する。
 それは鮮やかに輝く深い夜空の色。
 見上げるだけで吸い込まれてしまいそうな神秘的なあの空の色。
 それを着こなす彼女はまさにそんな夜空に浮かび輝く紛う事なき一等星。
「とっても似合ってますよ」
 お世辞抜きで海空は率直な感想を述べる。それはとてもシンプルだったが、だからこそ海空がいかにその姿に見惚れたかがしっかりと相手に伝わっていた。
「ありがとう、海空。やっぱり貴女に選んで貰って良かったわ」
「お役に立てて何よりです」
 達成感と満足感。二人の中にはそれぞれがしっかりと心を満たしている。
「うん、良いわねぇ。ホント今すぐ貴女達の目をくり抜いて研究してみたいくらいだわ」
 そしてそこに野次馬宜しく加わるメリッサ。それこそ馬に蹴られる事すら厭わない。
「遠慮しておくわ。それよりもこれ幾らかしら?」
 メリッサがたまにとんでもないことを言い出すのに既に慣れてしまった未時は、彼女の冗談をヒラリと交わして勘定を要請する。
「あら、良いの。それで?」
「海空が選んでくれたものだもの。私が拒否する理由はないわ」
「今度は大事にしてくださいね?」
「努力はするわ」
 とりあえずアレに付き合わされる時にはこのコートを着ないことを心に強く刻んでおく。
「あぁ、はいはい。良いわね若いお二人は。お姉さん馬に蹴られちゃう。
 だから、蹴られる前にお代だけ戴いとくわ」
 そう言っていつの間にか電卓を手にしたメリッサの示した額は、良いのかそれでと疑わずにはいられないほどリーズナブルだった。
「良いの?」
 思わず尋ねずにはいられない。
 未時には分かっている。いや未時だからこそたったあれだけの選別で分かるのだが、未時が残した三着のコートはどれもが一級品と呼ぶに相応しい品物である。
 であるにもかかわらず、メリッサが示した額はどう見ても仕入れ値を下回っているとしか思えないような金額だった。それこそ、そこら辺の大量生産を売りにしているブティックでセールしているコートの値段と大差ない。
「大丈夫よ。びっくりするのは分かるけど、これでも元は取ってあるから。私の腕っ節を舐めて貰っちゃ困るわ。
 それに毎度、毎度、良いモノ見せて貰ってるからね。これくらいが妥当な所よ」
「そんなものなんですか?」
 尋ねたのは海空。今まであれこれと見比べていたコートをしっかりとハンガーにかけ終えてようやくこっちの話に参加する。
「絞れる所からはしっかりと絞ってあるからね」
 そう、この店は確かに隠れた名店であるが、それはしっかりと視る目を持っている者に対しての話なのだ。彼女はいつも勧める商品の中に必ずいくつかのハズレを混ぜている。それを引いてしまった者は残念ながら、割に合わない料金を払う羽目になる。
 そこにこの店があくまでも隠れた名店である理由があったりもするのだが、それはそれで未時は良いんじゃないかと思っている。だって自分がハズレを引くことはあり得ないし。
 それにどっちにしろハズレの品でも他で買うのとほとんど遜色のない値段で買えるのだから。
「まぁ、遠慮はしないけどね。助かることに変わりないので」
「そうそう。人間素直が一番よ」
「では、お言葉に甘えて」
「はいはい」
 それでもあくまで低姿勢な海空にメリッサは苦笑する。
「今度は貴女にも似合う物を用意しておくわ」
「はい、是非」
 社交辞令ではなく、海空は答える。本当は自分も服を選びたいが、今日はそうするだけの時間がないだけなのだ。
「コートは勿論着て行くんでしょう?」
「そのつもりよ」
「じゃあ、そっちのお疲れな子は私が預かっておいても良いかしら?」
「私は助かるけど、どうするつもり?私は捨ててしまおうと思ってるくらいなんだけれど」
 それは普通の人なら当然の判断だろう。未時が今まで着ていたコートは本当にそれくらいボロボロなのだ。普通の人ならまずそれを着て外に出ようとすら思わないはずなのである。
「あら、勿体ない。直るわよ、これ?」
「直るんですか、それ!?」
 「海空、驚きすぎ」と突っ込みつつ、未時も内心ではかなり驚いていた。だって見た目からしてもう明らかにボロボロだし。
「本当に直るの、それ?」
「まぁ、ちょっと時間は掛かっちゃうけどね。私に掛かればこれくらいは楽勝よ」
「あの、ちょっとってどれくらいなんですか?」
 ちょっとの期待と、ちょっとの怖い物見たさで海空が尋ねた。確かに、そこは気になるところだ。
「そうねぇ、だいたい一週間もあれば十分なんじゃないかしら?」
「早いわね……」
「だってプロだもの!」
 胸を張るメリッサ。足下でミシェラも得意げにワンッ!と吠えている。
 それは未時にとってとてもまぶしい光景だった。
 自分がその世界という名の輪の中に存在できないと理解できているからこそ、未時にはその輝きが目立って見える。
 いつか立つその世界で、自分もそうやって胸を張って名乗ることが出来るのだろうか?
 まだ、こっちの世界に半身を残して、あまつさえまだそこに残りたいと思ってしまっている自分が。
 それはまだ分からない。
 だってまだそこに行く途中だから。
「で、どうする?」
 だから今はまだ、そこに行く過程を楽しもうと思う。
「お願いするわ」
「オッケー。んじゃ来週また取りに来てちょうだい。それまでにはどうにかしておくわ」
「えぇ」
 メリッサに手渡したコートがハンガーに掛けられ、手早くどう直すかの算段を立てられていく。その様子だとやはり本当に直す気らしい。
「それじゃあその時に今度は未時が私の服を見繕ってくださいね?」
 それを眺めていると、横から今度は海空が腕を絡めながら提案してくる。
「私が?」
「はい」
「止めておいた方が良いと思うけど」
 素材や質を選ぶのには自信はあるが、センスに関してはあまり自信はない。お洒落に興味がないわけではないが、年頃の少女達が読むような雑誌を彼女が読む事はないからだ。
 おかげで未時のセンスはいつでも時代のレールと並んで走ることがない。
「良いじゃないですか。今日は私が選んだんですし。
 それに今日の未時と一緒です。
 私も未時が選んでくれた服が着たいんですよ?」
 そう言われてしまうと先に選んで貰った手前、未時には断る術がない。思わず観念した事を溜め息で表してしまう。
「後で怒っても知らないんだから」
「楽しみにしてますね?」
 とりあえず今度こっそりファッション雑誌に手を伸ばしてみようと思う。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」
「そうですね」
 聞けば海空には行きたいところが他にもたくさんあると言う。未時には行きたいと思う宛が特にあるわけではないが、彼女が行きたいと思うのならそこにはやはり一緒に行きたい。
「じゃあ、メリッサ私達はそろそろ」
「お暇させていただきますね」
 告げると「あいよ」と答えるだけで、ボロボロのコートと向き合ったままのメリッサの代わりに、ミシェラがワゥンと吠えて駆け寄ってくる。これがこの店流の客の見送り方である。
「それじゃあミシェラまたね」
「さようならミシェラ」
 カランコロンとベルを鳴らしながらドアを押して、外に踏み出そうとした時、珍しく背中に声が掛かった。
「あ、忘れるところだった」
 勿論、声の主はメリッサである。
「どうしたんですか?」
 尋ねる海空にメリッサは意地の悪い声で楽しそうに答えた。
「ちゃんとコーヒーは残さず飲んで行きなさい」
 今にも爆笑したいのを堪えているメリッサの顔が浮かびそうなほど、その声は彼女の表情を知らせる何かを持っていた。
 うんざりした顔で小さく舌打ちをした未時に、海空は奥で堪える彼女の代わりに大爆笑したのだった。

 たったカップ半分のブラックコーヒーに半時という時間を割き、二人で繁華街に存在するお気に入りのショップを回り尽くした頃にはすっかり日が暮れていた。
 冬場は日が早く暮れてしまうのは当たり前の事なのだが、それをどうしても名残惜しく感じてしまうのは学生という性分を一応持ち合わせているからなのかもしれない。
 そんな時間に本日二枚目のクレープを海空の倍近いペースで食べ終えた未時はポツリと口にした。
「あぁ、そういえば私も行きたい所が出来たわ」
 と。
 勿論、それに付き合わない海空ではない。
 日が暮れてからもう結構な時間が経っており、繁華街に並ぶ店の中には閉店作業を始めている店もちらほらと出ていた。
「まだ大丈夫なんですか?」
「えぇ、早すぎてもダメなのよ」
 そう言って微笑んで見せた未時の顔が、海空にはどこか儚げに見えた。
 それでも彼女の歩みは止まらない。携帯のデジタル時計を時たまチラチラと見ては歩くペースを速めたり、遅くしたりする。何かのタイミングを見計らっているかのようなそんな歩幅の取り方だ。
 まるで気紛れなネコのように二人は奇妙なペースで繁華街を進んでいく。
 その内に海空は気付いた。
 自分はその道筋を知っている。
 海空はほんの少し前の記憶を辿っていく。
 その記憶の行き着く先は――

 未時と海空の二人がその場所に辿り着いたのは閉館三十分前という微妙な時間帯だった。ほとんどの客足は帰路を辿っており、館内に残っているのはまだ名残を惜しんでいるようなほんの数名の人々だけ。
「高校生二枚」
「もう閉館まで三十分を切っておりますが、」
「構わないわ」
 チケット売り場の女性を押し切ってチケットを買う。係員にチケットを渡してゲートを潜ると、そこから先には心が洗われるような緑の匂いが充満していた。
 そこは四階層の植物園。
 まだ冬が訪れる少し前に海空が未時と、そして、彼と共に訪れた場所。
 海空が未時の秘密を知った場所。
 見上げると空に吸い込まれてしまいそうな螺旋階段を二人は手を繋いで昇る。
 どの階にも立ち寄らずまっすぐに目指すのは最上階。途中ですれ違う人々に会釈しながら、二人は螺旋階段の一段一段を上っていく。
 春の匂いが鼻をくすぐる。
 最上階にはあの時と同じように今日も又、春の世界を創っていた。そう錯覚させるような暖かな風が、確かに春の匂いを運んでくる。
 それは温もりの恋しいこの季節にはとても得難い、確かな暖かさである。
 でも、二人が訪れたい場所は、いや、星海 未時が訪れたい場所はここではない。
 その、更に奥。
 少し色あせた“STAFF Only”の札。それが立てられている順路を二人は迷わずに進んでいく。やがてその順路からも逸れて、ツタの絡まったアーチをいくつも潜って、ようやくその場所に辿り着いた。
 きっといつ来ても不思議に思うだろう空間の錯覚。ガラス張りの向こう側には今もいると思いこんでいたはずの植物園四階の風景が映っている。
 そして、正面には扉。
 赤褐色が飛び散ったそこだけが鉄。周囲もガラスではなくてコンクリートで、その向こう側を眺めることは出来ない。
 あの時は何でだろうと不思議に思ったが、今ではそれで良いのだと思うことが出来る。
 鍵はまだそこにあった。
 扉の手前にあるアーチの左柱上方。ツタの絡まったその中に、それはまだ埋まっていた。シンプルなデザインの小さな青い箱。その中に鍵がある。
 未時が取り出したのはあの時と同じ鍵。それをやはり同じように扉に刺して捻ると、扉はあの時と同じように鈍い音を立てて開いた。
 違うのは吹き込んできた風が段違いに冷たかった事。
 外との温度差に思わず体を震わせてしまう。
「行きましょうか」
 差し出された彼女の手を海空はギュッと握った。
 違うのはそこが変わってしまったから。
 空中庭園には確かに季節が訪れていた。
 だからあの時のような植物園の内部以上の緑の香りはしなかった。代わりに運ばれてくるのは体の芯から凍えてしまいそうな冬の匂い。今ではすっかりと色あせてしまった植物の名残りが二人を静かに出迎えた。
「すっかり枯れてしまったんですね」
 あの時の光景が正しいモノではないという事を理解していても、海空にはそれが残念に思えて仕方がない。
「まぁ、これが本来の、あるべき形なんでしょうけどね」
 答えた未時も同じ気持ちであることがその言葉だけで知れる。
「あれから良く来ていたんですか?」
「何でそう思うの?」
 扉の取っ手にツタが絡まっていなかったからだと海空は答えない。そんなものはどうにでも言い逃れが出来るからだ。
 だから海空は二人の間でしか伝わらない、しかし、何よりも信頼できる言葉で答える。
「未時の事ですから」
 それ以上に確かな答えを彼女は知らない。
「貴女の事だから、私には何となく分かるんです。未時が私のことを分かってくれるように。それが理由ではいけませんか?」
 一歩先を行く未時の背中が大きく息を吐く。
「……それはずるい答え方よね?」
 振り向いた未時は苦笑するしかない。
 そして、彼女はぽつりぽつりと語り出す。どこか遠い目をして、ここではない世界に目を向けながら。
「何となく、来たくなる瞬間があるのよ」
「それは私といない日の後ですよね?」
 返ってきた言葉に未時はただ純粋に驚いた。まさか、そこまで見通しているなんて。
 でも、それは当然の事なのかもしれない。
 だって自分が彼女の事を分かるように、彼女もまた自分の事を知っているのだから。
 本当は何も語らないでも許されるのかもしれない。
 でも、きっとそれは違うのだろうなと思う。
 自分の口から語らなければいけないこともきっとあるだろうから。
 だから、未時はその胸中をゆっくりと語る。
「色々あったわ。彼に色々な存在に触れさせられて、その度に自分の弱さに悲しくなった」
 海空の問いには答えない。代わりに語り続けることが、その答えとしては十分な意味を持っている。
「私は弱い。
 だけど、私はまだこうして生きている。
 みっともなく足掻き続けて、どちらにも居続けたいと我が儘を称えて、あの時よりももっと中途半端なまま生き続けている。
 焦ってはいけないと理解していても、それでもやっぱり焦っている自分が居るの。いつまでもここには居られない。早く向こう側に行ってしまわないといけない。何度も焦ってはいけないと理解しても、それは次第に薄れていってしまうの。
 それがどうしようもなくなった時、私は何故かここに来たくなってしまう。
 ここは私が唯一何かを成し遂げたと思うことが出来た場所だから」
「そうですか」
「ここに来れば、もう少し頑張れるんじゃないかって思うのよ。
 ここはとても大切な場所だから……」
 手が冷たくなっている。補い合う体温だけでは外気に対して剥き出しの手を暖め合うには足りない。繋いだ手を持ち上げて、未時の手を両手で包み込む。
 そこに白い吐息を当てて、ようやく手の感覚が返ってくる。ギュッと彼女の手を握り直して、海空は彼女がまだここにいることを嬉しく思う。
「じゃあ、未時は今日ここに来てまた頑張ろうって思えたんですよね?」
 だから大事なのはそこなのだ。
 海空は未時が好きだ。
 笑う彼女も、悲しむ彼女も、悩む彼女もどんな彼女も海空は好きだ。その先でいつも前を向いて自分の世界を進んでいこうとする星海 未時という存在が好きだ。
 それは彼女にとって強さの象徴である。
 今の自分ではなく、その次の自分を絶えず求める。それは求めるべき変化、すなわち成長である。
 自分が自分であるための停滞を彼女達は望んでいる。しかし、それは成長しないという事とイコールではない。
 彼女達は常に自分の行きたい場所を見ているのだ。
 だからこその停滞。
 だからこその渇望。
 彼女は自分の行きたい場所を知っている。そこが海空と未時の違い。
 未時は自分の行きたい場所に、自分の望むモノ全てを持って、彼女が望んだ状態で行こうとしている。
 だから、未時の存在は、海空にとってとてもまぶしい。
 そんな彼女が自分の事を大切に思ってくれている。自分と同じ感覚を共有している。
 そこに愛おしさ以外の何を見出せと言うのか。
 自分達は似ている。
 まるで鏡で照らし合わせたかと思ってしまうくらいに、どうしようもなく似てしまっている。
 それを残酷だと思うことはある。確かに。
 でも、悲しいと思ったことは一度もない。
 何故ならそのおかげで、こうやって今海空は彼女の傍に居ることが出来るのだから。
 そして海空が発した問い掛けに、彼女は望んだ答えを必ず返してくれる。
「そうね。また頑張るわ。次は前の自分がちっぽけに見えるくらいに、強くなってくるわ」
 そうやって彼女はまた強くなる。
 そんな彼女の傍に居ることで、自分もまた少し強くなれた気がする。それを彼女に尋ねたいけど、それはグッと我慢して彼女を見つめる。
 讃え合うような柔らかい視線を交わらせ、ウットリと微笑んで。
「好きよ海空」
「私もです。未時」
 そんな言葉が自然と交わされた。
 その意味を問う必要はなく、それ以上の言葉はいらない。
 未時が包まれていた手をほどき、海空の右手を取って恭しく膝を着く。
 その手の甲にそっと添えられる柔らかで心地良い感触。
 一瞬だけ触れたその箇所が溶けてしまいそうな程に熱い。
 共に頬を紅く染めて、穏やかな視線で見つめ合う。
 語らず、誓う。
 共に同じ時を歩き、共に同じ星空を見上げよう。
 その傍らに必ず貴女を――
 同じ世界を共有するたった一人きりの貴女と私に、永遠の愛を誓おう。
 その絆を今、心に刻む。
 立ち会う者は誰もいない。
 しかし、二人の誓いを望める場所に枯れず緑に囲まれた墓標が一つ。
 その傍らに一輪だけ、二人の誓いを見届けるように花が咲いていた。
 たった一輪のシナサクラソウが、咲いていた。


                                Prelude Zero Episode8 “鏡合わせの貴女と――” Fine.


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