The road of Witch



 歩幅とは個性だ。
 歩く時、走る時、スキップする時は勿論、その時の心情によって変わったりする。
 それは本人に全く自覚なく、他人と違うモノだ。
 合わせようとしても合わせられない。
 誰もが合わせることが出来ない。
 そんな事もある。
 そして、その歩幅の一歩一歩の差は短くとも、気づいた時、その距離がとてつもない程の差へと変化していることもある、かもしれない。
 特に、彼女の場合は――
 まぁ、もっとも。
 彼女の場合、その一歩が他の人に対して明らかに大きすぎるのだが、それはそれで彼女らしいと言えるだろう。
 それは見ていて本当に面白くて仕方がない。
 本当に。

 学期末のテストを後数日に控えたそんな日の夕刻、いつもの場所に彼女はいた。
 ゆらゆらと湯気を立ち上らせるホットチョコレートが心の底から美味しく感じられる季節。
 そんな季節に、彼女はわざわざ寒空が臨めるテラスに陣取っていた。当然の事だが、周囲に他の客はいない。つい数ヶ月前までは取り合いだったあの光景が嘘のようだ。
 ホットチョコレートを少しばかり口に運ぶ。しっかりとした甘さが口内を満たして、体の芯から暖まっていくのを感じる。
 かじかむ手で仕方なしに教科書に目を通しては気怠げに欠伸を一つ。
 どうしようもなく情けないはずの仕草も、彼女がやると何故か美しさを見いだせた。出し惜しみない憂いが、彼女の魅力を洗練しているように感じられる。
 しかし、そんな彼女も流石に苛立っていた。空いた手でまだ湯気を立てるクレープに突き立てたフォークがその何よりの象徴だった。レディにあるまじき乱暴なテーブルマナーである。
 かれこれ三十分程彼女はそこにいたので、機嫌が損なわれるのももっともな話ではある。ちなみにホットチョコレートは今口にしているので四杯目だし、焼きたてクレープのイチジクソースはこれで五皿目だったりする。
 そして、その五皿目からクレープが綺麗になくなった時、彼女はその目を鋭くしかめて、不機嫌そうに言葉を発した。
「遅いわ」
 隠すこともない感情の吐露。
 それは他の誰でもない彼へと向けられたもの。
「すいません。ちょっと色々ありまして」
 いつの間にか彼女の向かいの席に彼はいた。特徴の無い事が特徴としか言えないような顔に、いつにも増して下手な愛想笑いが浮かんでいる。他人にはそれは爽やかな笑顔にしか見えないだろうが、彼女――星海 未時(ほしうみ みとき)には、それが偽りのモノだとはっきりと確信出来た。
 つまり未時の眼前に平然と座る彼は全く悪いとは思っていないという事だ。本当に腹立たしい。
 ついでに言うと彼のその明らかな服装が未時はいまいちというか、きっぱりと嫌いだった。いくら何でもと言いたくなる。それとも他のもみんなそうなのだろうか。いくら冬になってその格好に多少の違和感は感じなくなったとはいえ、自分と会うときくらいはもう少し気を遣えと思う。
 その明らかに自分の存在が何かを主張するようなローブ姿に。
「貴男、最近遅刻癖が付いてきてるんじゃない?最近、呼び出される度に私は待たされているんだけど」
「そういう日もありますよ」
「別に良いけど、今日も貴男の奢りね」
「いつも会計は僕持ちだと思うんですが」
「それが男の甲斐性ってやつでしょう?」
「貴女に女の甲斐性があるかどうかという点について、僕は疑問を抱かざる得ないんですが」
「別に抱くのは構わないけど、とりあえず奢りなさい」
 ああ言えばこう言う。そんなやりとりの押収の末に未時はこれでもかと言うくらいの唯我独尊ッぷりを発揮する。
 それは相手が人と呼ぶにはいささか首を捻りたくなる存在であったとしても変わらない。
 そう、例えそれが“魔術師”であったとしても――
 彼、霧羽 総弥(きりはね そうや)は魔術師だ。
 それも未時の視点から見ても分かるほどに、かなり上位の。その圧倒的な強さを彼女はとうに知っている。
 しかし、その強さが未時自身の望むモノと同位のモノではないことも、また。
 そんな二人の関係は“とりあえず”という言葉を添えて表すなら師弟であると呼べるだろう。ただ、その飾りが付かないのであれば、未時と霧羽の関係はいまいちはっきりしないモノに変貌を遂げる。それはあまりにも曖昧すぎて、当の本人達でさえ、どう言ったら良いか迷うほどに曖昧なモノだ。
 強いて言うなら“同じ存在”。これしか当てはまる言葉はない。本当に、それ以上でも、それ以下でもない。
 教えを説く事も、望む事もない。彼女達が会ってやる事と言えば、明らかにどうでも良い会話八割にいくつかの魔術に関する小話、それだけである。
 ただし、ここ最近はその割合に変化が訪れていた。
 霧羽が未時を伴うようになったのである。
 当然、行く先には必ずそれが絡んでくる。
 ――魔術。
 彼の思惑を未時に読み取る事は出来ないが、彼女はそこでいくつかの魔術の形を知り、自らの思いとの差異を感じ取っていた。
 まだ、形になるには程遠いけれど、結果として、それは確実に未時を魔術師としてのステージに近づけているような気がする。
「それで、今日は何なのよ」
 ぶっきらぼうに未時は訪ねた。
 そして、そう言いながら、霧羽の方に今まで自分がオーダーを繰り返して束になりかけている伝票を押しやる。
 霧羽はそれを苦笑しながらも素直に受け取り、未時の問い掛けにも同じように応じる。
「先日、また新しい仕事が入りまして」
 言いながら、霧羽はウェイトレスを呼び寄せてホットコーヒーを注文し、ウェイトレスが下がると同時に、話を再開する。
「次の日曜日なんですが、御一緒しませんか?」
「私来週から期末テストなんだけど?」
 言いながら、自分が今も目を落としていた教科書をこれ見よがしにちらつかせる。
「一応、私も学生なのよ」
 別に勉強するのが好きだとか、良い成績を取りたい訳ではない。単に悪い成績を取ってしまうと、生徒指導に呼び出されてお説教を喰らったり、貴重な冬休みが補修等というくだらないモノに占拠されてしまうのが嫌なだけだ。
 だから未時は、いつもテスト前に必要最低限の勉強だけをする。赤点をギリギリ回避するだけではまだ足りないので、平均より少し上程度の点数が取れる程度に勉強する。
 が、霧羽は未時の言葉に引き下がったりはしない。
 彼女の返答が見えていたかのような応対で、未時の懐に踏み込んでいく。
「しかし、貴女は自宅では全くと言って良いほど勉強なんてしませんよね。せいぜいが、寝る前に少し教科書を流し読みする程度何じゃないですか?」
「――む」
「違いますか?」
 明確な言葉が返ってこないのに付け込んで、畳み掛ける。
 すると容疑者はあっさりとその実を認めた。
「確かにそうだけど、何で貴男がそんな事知ってるのよ。まさか自分が霧になれるのを良い事に夜な夜な私の部屋に忍び込んでるんじゃないでしょうね?」
「まさか。そんな恐れ多い事できませんよ。こう見えて僕は臆病者なんです」
「どうだか」
 それこそまさにダウトだ。
 目の前の魔術師は必要とあればそれくらいの事はあっさりとやってくれるだろう。もっとも、その時はそれなりの対価を払って貰うが。
「まぁ、良いわ。どうせそろそろ来るだろうとは思ってたから。ついて行ってあげる」
「助かります」
「勿論、タダでとは言わせないわ」
 今度は未時が先手を打った。
 爽やかだが、しかし、明らかに女性らしからぬ笑みを浮かべて一言。
「ごちそうさま」
 押しつけた伝票はもう小さなバインダーには挟まりきらないくらい分厚かった。

 そして、日曜日早朝。
 時刻はまだ日が昇る時刻にも達していない。それどころか空はまだ白んですらいなかった。
「来るんじゃなかったわ」
 どことなくデジャブを覚えずにはいられない言葉を吐き捨てながら、未時は一足早く冬の訪れを明確に感じさせる森の中を歩いていた。
 道などと呼べる羨むべき標(しるべ)など、もうとっくに見なくなっている。伸び放題の木の枝や逞しい雑草等は執拗に未時の衣服に引っかかり、コートの至る所が解れに解れていた。
 コートを新調する前で良かった。
 そう思わずにはいられない。
 これがもし彼女の選んでくれたばかりのコートだったら、明日から彼女に会わせる顔がない。
 そう思うと、ある意味では良かったのかもしれない。とか少しはポジティブに考えなければやってられない。
 つまりは、それほどにきつい道程なのである。
 まだ冬本番ではないとはいえ、それでも初冬の山中は十分すぎるほどに寒い。
 そして、この歩き辛さから来る無意味な疲労感。
 何で自分がこんなところにいるのかと愚痴の一つも零したくなるものだ。
「貴男は良いわね。楽そうで」
「一応、これでも魔術師ですから」
「今だけは貴男の論理を心底理解したくなるわね」
 罵声を浴びせるのは先行する魔術師、霧羽総弥の背中。未時よりも断然歩きにくそうな格好のくせに彼のローブには糸の解れ一つすら見あたらない。
 そして何よりもこの悪環境の中でさえ、いつもの胡散臭い微笑でいるのだから、未時の苛立ちもより一層である。
 霧羽がこの悪環境の中を苦にもせずに進んでいけるのは、彼の魔術論理が彼だけのモノであるが故だ。
 掴もうとしても決して掴めず、しかし、確かにそこに存在する。
 ちょうどこの時刻、この季節、この場所では頻繁に見られる。振り払いたくても振り払えない鬱屈とした存在。
 霧。
 それが霧羽総弥という魔術師の魔術論理の神髄。
 彼はその論理を使って自身の魔術を構成している。今もそれは簡単に分かる。目を向ければ、今もまた霧羽の腹部を二股の枝が通り抜けたところだった。
 つまり、彼は自信の体を身に纏うローブも含めて半霧状と化して歩いているのである。
 半霧と言っても実際は全身を霧と化し、それを自らの存在と同じ形に留めているだけで、目の前の魔術師は事実ホログラムの様に姿が見えているだけなのと変わらない。そしておそらく、霧状の彼は自身の体重などきっと無視してしまえるのだろう。彼の歩みはそれくらいに早い。
 ずんずんと未時と差を開けては、離れすぎない場所でしっかりと止まり彼女を振り返ってくる。
 未時にはそれが余計癪に触る。
「今、この瞬間程、貴男に殺意を覚えた事はないわ」
 だから、ようやく追い付いた時に出てくる言葉はやはり殺伐としている。
「それは是非とも、覚えるだけに止めておいて欲しいですね」
 しかし、そこはのれんに腕押し。霧羽も嫌みの応酬には強かった。
 ある意味で、それはお互いに分かっているからこそのやり取りだと言えるのかもしれないが。
「貴男の振る舞い次第だと思うけど」
「これでもそれなりに紳士だとは思うんですけどね」
「なら、今すぐに全世界の紳士の皆さんに謝っておきなさい」
 そんなふざけているのかどうかと疑いたくなるような戯れ言が交わされてしばらく。
 霧羽の言葉と同時に視界が広がる。
 昇り始めた朝日の鮮やかさを軒並み吸収するような濃霧の向こう側に、その影は浮かび上がっていた。
 一歩、一歩、足を進める度にそれは徐々に輪郭をはっきりとさせ、未時にその存在を少しずつ主張する。
 ようやく、それがどういったモノなのかが理解出来た時、彼女は思わず傍らに立つ魔術師に尋ねてしまった。
「本当にこれに人が住んでるの?」
 きっと誰が見ても最初はそう訪ねずにはいられない。
 それくらい彼女の前に姿を晒した洋館は薄気味が悪かった。これならまだ辺境の地で始めた新手のお化け屋敷と言った方が格好が付くんじゃないだろうか。
 それくらい出来すぎた洋館がそこにそびえ立っていた。
「こんなに立派な屋敷を見たのは初めてだわ」
「ではそれは実際に彼らに言ってあげて貰えますか?」
 そう霧羽が示した先。濃霧のカーテンの向こう側に見える人影は三つ。
 その人影がカーテンをくぐって未時の前に姿を晒して、ようやく彼女は本当にこの洋館に人が住んでいるのだと信じる事が出来たのだった。

「奏良義 久留米(そうらぎ くるめ)だ」
 未時の予想に反して、意外なほどに現代的で居心地のよいソファに皆が腰を下ろして、奏良義氏は軽く会釈をして自己紹介をしてくれた。
「こっちは妻の乃紀枝(のきえ)と娘の――」
「紀留(きる)だよッ!
 ねぇねぇ、おねぇちゃんどこから来たの?紀留と遊ぼうよ!」
「紀留。悪いね。
 何せこの屋敷に客人が訪れるのは久しぶりなんだ」
 家族の紹介後に紀留のはしゃぎっぷりを窘める。
 しかし、未時はそんな紀留のはしゃぎように好感を抱いていた。
「気になさらないでください。子供はそれくらい元気な方が良いと思いますよ。
 紀留ちゃん後で私と遊びましょうね」
「本当!?」
「えぇ」
「ママ、おねぇちゃん遊んでくれるって!」
「どうもすいません」
「いえ」
 申し訳なさそうに会釈をする乃紀枝婦人に軽く会釈して未時も返す。正直に子供は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
 子供は無邪気だ。それ故に余計な算段抜きで接してくれる。
 だから未時は子供が好きである。姿形がではなく、その心の在り方が。とても美しいと思える。自分の存在の異様さが身に染みているから、余計に。
 星海 未時は人という存在が認識する世界の中で、自分が異様な存在であるということを認識している。
 それは彼女に魔術師としての特質が備わっているからで、それ故に彼女は隣で奏良義氏と談笑を交わす魔術師に出会ったのだ。
 しかし、彼女はまだその世界に完全に足を踏み入れられないでいる。どっちつかずなまま、まだその世界の狭間を漂っている。
 魔術の世界に未時を繋いだのは霧羽 総弥。
 対して彼女を未だどうにか人としての世界に繋いでくれているのは、一目見た者に強烈な真白な印象を与える彼女。
 彼女の存在は今の未時の中で何よりも大きい。彼女は未時がいずれ魔術師になる事を知っても、それをありのまま受け入れてくれた。彼女という白い画用紙に魔術という未時の異質は綺麗に描かれたのだ。
 それは星海 未時という存在を人という繋がりの世界に結びつける何よりも強い楔だ。
 本来なら鬱陶しいはずのその緊縛が今の未時には何よりも愛おしい。
 だから、彼女はこうやって本来自分が馴染むべき世界へと少しずつ染まっていく。それはまたきっと今日も変わらないだろう。まだ、今は。
 霧羽はまだ奏良義夫妻と談笑している。その様から簡単に推測出来る事だが、三人の仲はかなり古いようだ。魔術師足ろうとする彼の気配がいつもよりわずかだが、緩んでいるように感じる。
 だが、そうなると当然残る者は話の輪の中にはいないわけで、そういった事にすっかり慣れきってしまっている未時はともかく、ただでさえ人と話す機会の少ないだろう少女には窮屈以外の何物でもなかった。
 小さな少女はいつの間にか未時の隣にやってきては、まだ着っぱなしだったコートの袖を掴んでジッとこちらを見上げていた。
 戸惑いながらのその挙動は未時に小さな笑みをもたらして、ほんのちょっとした気紛れを起こさせた。
「それにしても広いお家ね」
「うん」
「こう広いとどこに何があるのか分からないわね。誰か案内してくれると嬉しいのだけれど」
 それはとてもさり気なく、自然に漏らした呟きである。話に夢中になっていた三人の会話が思わず中断してしまう程に、その言葉は小さな少女にとっては自然な物だった。
「じゃあね!じゃあね!
 紀留がおねぇちゃんを案内してあげる!」
「あら、それは助かるわ。それならお願いしようかしら?」
「うん!」
 満面の笑みが少女に浮かぶ。それを視線をずらすと自然と奏良義婦人と視線が重なり、どちらともなく苦笑しながら会釈。そんな無言のやりとりは勿論少女に気付かれないように。
「ママッ!」
「それじゃあお客様のご案内は紀留にお願いしようかしら」
「うんっ!
 おねぇちゃんこっちだよっ!」
「えぇ、じゃあ私は屋敷を案内して貰ってくるわ。貴男には必要ないでしょうし、構わないでしょう?」
「そうですね、そうして下さい。どのみち貴女にも一人で動けるようになっておいて貰わないと困るでしょうから」
「おねぇちゃん早く、早く!」
「それにしても驚いたわ」
「何の事ですか?」
「まさか貴男が他人に気を遣うとは思わなかったもの」
 急かす少女の声に微笑みながら、そう言って未時は霧羽に背を向ける。背後で苦笑する霧羽の顔を想像して、彼女の笑みはほんの少しだけ深くなったのだった。

「将来が楽しみだね、総弥」
「そうですか?」
「私も魔術を囓った人間だからね。それくらいは。だからこそ、彼女が私のような魔術師としてどうしようもない道を選んでしまわない事を祈るよ」
 レディ二人がいなくなって、奏良義は懐からシガーケースを取り出し、中の一本を口に銜える。そこに絶妙のタイミングで乃紀枝がハサミを差し出して先を切り落とし、すかさず口元にマッチを刷り、火を灯す。
「もっとも、私は全く後悔していないけどね。
 その結果がこれだ」
 そう言った元魔術師は隣で微笑む妻の肩を抱く。言うまでもなく、その中には紀留も含まれているのだろう。
「強いて言うなら、今日みたいな事態が起こった時に君に頼らなければいけない事だけは不便でしょうがないよ」
「旧友に会える良い機会じゃないですか」
「同窓会の参加費用にしてはいささか高すぎると思う訳さ」
 葉巻を携えた手で、オーバーにリアクションを取る。そういった芝居がかったところは昔から変わらない。元から魔術師になるよりもコメディアンにでもなった方が良かったのではないだろうかと思わずにはいられない。人をなんだか惹き付けてしまうような空気を持つ彼は、そういう意味でも魔術師には向いていなかった。
「まぁ、折角彼女が機会を作ってくれた訳ですし、そろそろ本題の話もしないといけませんね。じゃないと僕が後でどんな目に遭うか」
「君に傷を付けられる存在なんてそうないじゃないか。彼女もまだその域にはいないだろう?」
「とんでもない。勘違いも甚だしいですよ、奏良義。
 彼女はああ見えて非常に逞しいんです」
「そうは見えませんでしたけど」
 霧羽の言葉に驚いたのは乃紀枝だ。彼女が逞しいのがそんなに以外だっただろうか。確かに彼女は見た目から想像するよりも遙かに逞しいが、霧羽の示唆するものはそれではない。きっと二人とも勘違いしているのだろう。そう思って霧羽はすぐに二人の間違いを暗に指摘する。
「ああ見えて、彼女は大食いのチャンピオンも顔負けになるくらいに食べるんですよ。先日も僕は彼女に手痛い出費を喰らったところなんですよ。貴男達も気を付けないと、僕達が帰る頃には一緒に買い出しに出かける羽目になりますよ?」
「――――」
 奏良義夫妻は揃って狐につままれてもそうはならないだろうというくらいに酷い抜けた顔をする。
 そして、一拍を置いて、奏良義は堰を切ったように笑い出した。
「ハッ――。
 それは大変だ。十分に気を付けないといけないね、乃紀枝」
「そうですね、久留米さん。
 私もつい先日出たばかりなのに、また買い物に行くのは億劫だわ。喜ぶのはきっと紀留だけよ」
 そう言って乃紀枝はコロコロと笑う。
 釣られて自分も口元だけを歪ませて、霧羽は言う。
「では、そうならない為にもさっさと話だけでも終わらせてしまいましょうか。時間は多くあればあるほど良いですから」
 そしてようやく本来するはずだった今日の手順を話し合う。それは外から見る風景とは裏腹に実に刹那的なモノだった。

「それにしても本当に広い家ね。私も自分の家以外でこんなに広い家を見たのは久しぶりよ」
「おねぇちゃんのお家も広いの?」
「えぇ、貴女の家に負けず劣らずの広さだと思うわよ?
 ただ、使うのは私と住み込みのハウスキーパーの二人だけだから、貴女が自分の家の広さを実感している以上に広く感じるとは思うけど」
「はうすきぃぱぁ?」
「あぁ、お手伝いさんのことよ。ごめんなさいね、ちょっと難しかったわね」
 そんなたわいないやり取りを交わす二人――未時と紀留はフカフカのベッドに腰を下ろしている。落ち着いた雰囲気のリビングから抜け出す事推定三十分程、大まかな屋敷の間取りを把握した未時は休憩も兼ねて紀留の部屋でくつろいでいた。勿論、たかが三十分程の歩みで疲れる未時ではない。その配慮はとなりで足をプラプラさせながら、自分の話を強請る少女の為だ。更にまだ話が終わっていないかもしれない霧羽達への気配りでもある。
 おそらく既に今日の肝となるべき事の話は終えているだろうが、万が一ということもある。それに自分が今日ここにいる事の意味の多くは、きっとこの少女の為に費やされて然るべきだろう。出来るだけこの少女には、何も知らないまま人としての世界で生きて欲しい。その為に自分に出来る事があるのなら、未時は喜んでピエロになろうと思う。魔術師は基本的に自己中心的な生き物らしいが、今日の自分みたいな者が一人くらいいても良いだろう。
 先程から尽きることなく言葉を溢れさせる紀留の頭を撫でる。サラサラと心地よく指の間を擦り抜けていく少女の髪の隙間から覗く細められた紀留の瞳は曇りのない美しい色を携えていた。そう、美しいエメラルドグリーンとブラウンの。
 左右で色の異なる瞳だった。
「貴女、瞳の色が違うのね」
 柔らかな頬を両手で挟んで覗き込む。小さな顔には良い意味で不釣り合いな瞳は、やはり美しいエメラルドグリーン。
 だが、星海 未時にはその中で蠢くモノが見える。
 それは騒いでいる。強大な何かを秘めたままに、ぐるぐるぐるぐると渦巻いて、少女の中にエメラルドグリーンの丸い宝石を形作っていた。眼球という名の宝石を。
「綺麗な色でしょう?」
 紀留が無邪気な笑顔で自慢する。
「ママもいつも綺麗ねってほめてくれるんだよ。紀留も気に入ってるの。このとっても不思議な緑色。鏡でずっと見てるとね、たまにちょっと違う色が混ざったりするの!」
 その少女曰く不思議な色を見せつけるかのように、彼女は自分の顔をより一層未時に近づける。
 その無邪気さが今はまだ可愛らしい。
「そうね、綺麗な色だわ。学校に行けばクラスの人気者になれるでしょうね」
 でしょうね、というのは環境からして紀留が学校に通ってはいないことが推測できるから。そしてそれは事実として正しい。少女の部屋に置くには些か重装備な本棚には、これまたやはり相応しくない分厚い参考書がいくつも詰め込まれている。
「勉強はお母さんが教えてくれるのかしら?」
「ううん、パパだよ。紀留のパパはねすごくかしこいんだよ。今のお家に引っ越して来る前は外国の大きな学校で先生してたんだよ!」
「そう、凄いのね」
「うん」
 答えながらも未時の心中に浮かぶのはやはりという感情。居場所を奪い合っている本達の背表紙に書かれた流暢な文字を、彼女は読み取ることが出来た。よって――
 コンコンと軽やかに部屋の扉が叩かれた。
 一拍のタイミングで紀留が可愛らしく反応を返す。ガチャリと優しい音と共に顔を出したのは乃紀枝婦人。笑顔一杯に駆け寄る娘を抱き抱えながら、彼女は又しても未時に小さく会釈。
 未時も又、それに小さく会釈で答えて微笑みあう。
 それは十分な時が経過したことの報告でもある。どのような内容であれ、あの場での話は全て終わったということだ。もっとも、そこに彼の魔術師が希に見る積極さで関わっている感じから、そこには高確率で黒いアレが付きまとうことにはなるだろう。
 しかし、それについては今のところまだ不安はない。
 それは関わっている人という存在が彼にとって吝かではない可能性がかなり高いからで、黒いアレに付きまとわれるのは何も人だけではないからだ。
 アレは生あるモノ全ての天敵である。
 例え、それが何であろうとソレは喰らうときには徹底的に喰らい尽くしてから去っていく。その様のなんと潔い事か。多少の遠慮くらい覚えても良いとは思うが、ソレがそんな事をすることは永遠にないだろう。そんな事が起きるとすれば、それこそこの世界の全てが無に消えた時しか起こりえない。
 つまり、死とはそういう存在なのである。

 食卓に並べられた大皿は、どれもが一般家庭ではお目にかかれないような手の凝った一品揃いだった。
 その余りの豪華絢爛具合に未時も思わず息を、いやよだれを飲みこんだ。
「総弥さんからよく食べると聞いたので、少しばかり頑張ってみたんです。お口に合えば良いんですけど」
「いえ、お構いなく」
 とりあえず霧羽は後でぶん殴っておかねばなるまい。それが例え決して当たらぬ拳であろうとも、人には時として無駄だと分かっていても振るわねばならない拳がある。
 それはともかくとして、口では遠慮しつつも未時は満干全席を彷彿とさせるメニューに一秒でも早く箸を伸ばしたい勢いだった。早朝から出発し、散々山中を歩き回されたのでお腹の減り具合は感極まっていた。腹の虫は既に目の前の料理達をどんとこいと両手を広げて待ち構えている。
 紀留に手を引かれるままに手頃な席に腰を下ろしては、すぐにでも御馳走に手を伸ばしたい衝動をグッと堪える。少しでも気を紛らわせるため、可愛らしく隣にちょこんと座り足をブラブラとさせる少女の襟元に用意されたナプキンを挟み込む。
「わぁ、テレビでやってたのと同じ」
「服が汚れるといけないでしょう?」
 言いながら自分の首元にも同じようにして、「お揃いね」と口にして微笑みかけた。子供を諭すには自分も同じ行動を取るのが一番良い。そうすることで何でも真似したがる子供特有の心情をくすぐれるし、何よりも相手に安心感を与えることが出来るからだ。
 紀留もその子供独特の行動方針に漏れず、最初は少し嫌そうにしていたナプキンを今は嬉しそうに撫でつけている。
 子供とは単純にして純粋である。
 それ故に難しくもあるのだが、それはきっと人が年を重ねていく事でその純粋さを捨て去らなければならない局面に何度も出会っていくからだろう。
 人は綺麗なまま生きていくことは出来ない。
 それはきっとここにいる少女以外の全ての存在が理解している事だ。
「それでは頂くとしましょうか」
 多分な空席と一人の魔術師を残して豪華すぎる食事会は幕を開けた。
「彼はどうしたのですか?」
 欠けた空席を埋めるはずの一人の魔術師の所存を訪ねる。すると既にコレステロールの化身であるお肉様を小皿に山のように積む(その様はまるで子供のようだ)奏良義氏が口をもぐもぐと動かしながら答えてくれた。このとき出来れば口の中が空になってから話してくれれば嬉しかったのは言うまでもない。
「総弥は準備があるのでこの席には来れないんだ。まぁ、それも金額の内に含まれてるんだし、抜かりなくやってもらわないと私としても困る」
「そうですか」
 別に理由があって来ないのなら別に構わない。むしろいない方が個人的には都合が良い。どう良いかなんて言うまでもなく、あの魔術師がいないだけで御馳走の味が倍以上に跳ね上がる。ハーブと一緒に蒸された七面鳥の非の打ち所のない味付けに感動しつつ、未時はしっかりと全ての料理に手を伸ばし、紀留が「おねぇちゃんすご〜い」と驚くほどに食べ続けた。もちろん全ての皿の料理は綺麗に無くなっていた。
「そうそう、そういえば総弥から言付けを預かってるんだった」
 食後のデザートと紅茶を待つわずかな時間。食事にの余韻に舌鼓を打っていた時、奏良義氏は忘れてたとその言葉を口にした。
「あれが言付けですか」
 はっきり言って珍しい。それだけにあまり良い予感がしない。
 そしてその感覚はきっと悲しくも当たる。的中率はきっとほぼ百パーセント。需要があるのなら、すぐにでもこの感覚を使って占い師に転職する。
「珍しいですか?」
 それはもう、言うまでもなく。今から告げられる言葉をを信じるくらいなら、空から雨の代わりに「槍が降る」という狂言を信じた方がまだマシだとすら思いたいくらいに。
「とりあえず聞くだけは聞きます。それなりに重要なんでしょうから」
 しかし、狂言以上の戯れ言だからこそ未時には聞く理由がある。
 何故なら彼は人ではなく、傲慢なる魔術師なのだから。その存在は既に人という存在を逸してしまっている。戯れ言、狂言こそが彼らという存在の常用語だ。
 そして、その戯れ言はやはりそれに相応しいモノだった。
「では、彼からの言付けだけど、何でも『美味しいモノも食べた事でしょうし、今日は自分の身とそれプラスアルファくらいは自分でどうにかしてください』だそうだよ」
 そら見たことか。やはり魔術師の口にする言葉は狂言以上のモノではあっても、それ以下の何物でもない。
 だが、何よりも、そんな霧羽の狂言の意図をはっきりと理解している自分が大嫌いだ。
 隣にちょこんと座る少女についつい目を向ける。デザートのフルーツタルトを美味しそうに頬張って口周りを汚している様は、やはりまだ彼女が子供なんだということを未時にダイレクトに伝えてくる。
 あぁ、最悪だ。
 彼はさっさと芽を出せとでも言いたいんだろう。
 あまりそういった挑発に乗るのは好きじゃないのに。
 しかし、今回だけは特別だ。
 小さくため息をついて、すっかり冷めてしまった紅茶を口にする。ほんのりと香る花の匂いと個人的には好ましくないほのかな渋みのダージリンのストレート。これだけ冷めてしまってはもう砂糖なんて入れることは出来ない。
 過ぎてしまった事はしょうがない。それを無かったことには出来ない。中には紅茶のように失ったモノを取り返せるモノも存在するが、世の中そんなモノばかりでは無いことを彼女はとうの昔に知っている。
 もう一度ため息を吐く。
 今度は誰もが分かるほどしっかりと、落ち着いて吐露する。
「しょうがないですね」
 言葉を漏らしてケーキに夢中な紀留の頭をくしゃくしゃと撫でる。少女は始め戸惑いつつも、すぐに破顔してそれに応えてくれる。
 本当にしょうがない。
 思わず笑みが漏れてしまう程に、自分の心がその事実を受け入れてしまっている。
「よろしくお願いします」
 奏良義夫妻が頭を深く下げている。
 それは紛れもない親の姿に他ならない。
「善処します」
 胸を張って口に出来ない言葉を呑んで、彼女は穏やかに選んだ戯れ言を口にした。今の自分が口にして良い言葉などせいぜいがこの程度のモノなのだ。
 しかし、それは確かな思いを持ってして少女の母と父に届いたらしい。
 一人の魔術師の欠けた食卓で、これからの出来事を何とも思わない会話が始まった。
 どんな時でも釣り合ったままの不公平な天秤を星海 未時は嘲笑わなければならない。
 その手始めとして、彼を持ってして“規格外”と言わしめた彼女はようやくフルーツタルトにフォークを入れた。

 その業物は初めて手にしたにもかかわらず、もうずっと使い続けてきたと思えるほどに手に吸い付くような感触だった。
「やはりその子は君と相性が良いみたいだね」
 今はもうそうでなくなってしまった奏良義氏は嬉しそうに言う。
「その子と相性の良い人が全然見つからなくてね、ずっとお蔵入りになってしまうのかと思ってたんだけど、いや君みたいに将来有望な存在に使って貰えるとは。その子も今まで待ち続けた甲斐があるというものだ」
 嬉しそうに話す奏良義氏の左手には漆黒に塗れた一振りの刀。その銘を“新月”。打たれた当時、稀代の錬金術師と謳われた魔術師、奏良義久留米によって生み出された一品である。
 対して未時の左手にまるで寄り添うように握られる刃は、美しい細身の長剣。その美しさは華美な装飾の彩りによるモノではない。純粋な刀身自身が放つ神々しいまでのフォルムが見た者に美の一文字を感じさせずにはいられないのである。その真名は“麒麟”。気高き神獣の名を掲げるその一振りは、まさにその名を懐くに相応しく、雄々しくも美しい。
 しかし、その気高さ故についに生まれて今日この日まで使い手は現れなかったと、元魔術師は喜々として語る。
 時刻は既に夕刻に差し掛かろうとしている。未だ欠けた魔術師は戻らず、二人の魔術師寄りな人という存在が、自分たちの世界にあってはならない凶器を携えて緊張を張り巡らせている。
 守るべきは後方の二人の姫と自分の身。タイムリミットは告げられておらず、殲滅対象の一切が不明瞭。
 見れば分かると奏良義氏は口にしたが、幾ら何でもこれからおそらく過酷な時間稼ぎを強いられるだろう未時にとっては、少しでも情報を集めておきたいところだったが、結局今の際になるまでに得られたソースはそんなものくらいだった。
 そして時は何もしなくても進み、ついに“それら”は訪れた。
 一体どこから現れたのか、眼前数メートルの場所にゲームの中でしか見られないようなえげつない姿をしたオーガがいた。ボロボロの布を体にまとわりつかせ、荒い鼻息で、きっと岩を削っただけであろう歪な形をした棒を握っている。
 視線が交差した。
 途端――、オーガはそれが当たり前だと言わんばかりに未時に接近。距離を詰めた途端に驚くべきスピードでその石の棒を振り下ろした。
 早い。未時が見た目から推測した以上のスピード。
 しかし、だからといって避けられない程ではなかった。
 絶妙のタイミングで未時の身体が動く。刹那のタイミングで鼻先を掠めていく荒々しい凶器。凶器が床に届くよりも早く、彼女は跳び、剣を振るった。
 岩の棍棒が床を割ると同時に一閃。
 オーガの巨体が傾いだ。ずるりと上半身だけがずれ、豪快な音を立てて床に落ちる。
「流石、総弥が目を付けるだけの事はある」
「御託は後で聞きます。来ますよ」
 淡々と言葉を口にする奏良義氏を一蹴。未時は自身にも気合いを入れ直し、殲滅対象が不明瞭だった訳を知る。
 気付いたときには無数の怪物達がこの屋敷に侵入していた。
 先程のオーガだけではない。変わり果てた獣の姿に、外国の冒険耽でしかお目に掛かれないような不可思議な物体等以下略。これでは“どれか”と対策を練るだけ無駄だ。それこそ時間の浪費にしかならないだろう。
 数秒の時間すら惜しい。その間にも続々と異形の物体達は屋敷の至る所からまさに沸いて出てくるのである。
 唯一の救いは庇護対象の紀留と乃紀枝婦人がいる部屋には既に防護結界が張られている事、よってその中に突然魔物達が現れる事はない。
 つまり、二人のいる部屋への唯一の出入り口のある、未時と奏良義氏が構えるこの屋敷のロビーを死守すれば中の二人に危険はない。
 時間無制限、明らかに分の悪いバトルロワイヤルの始まりである。
 先行して突出して来たのは、口がエイリアンばりに三段仕掛けになった狼の異形。駆けだして三歩目には既にスピードが最高速に達している。唾液を滴らせた凶悪な牙が矢の様な鋭さで未時に襲い掛かった。
「はッ――!」
 最小の動きで彼女はこれを回避。身体を翻して受け流す。翻ったコートの裾と異形の触れた音が微かに耳に届くと同時、身体の回転の勢いを乗せた魔剣、麒麟でその場所を切り上げる。
 限界ぎりぎりまで身体を捻って放った一撃は横からの圧力を受けながらも狼の異形を真っ二つに切り分ける。ぐしゃりと背後で壁に激突する肉塊の音を聞き流して、未時の意識は既に次に向いている。
 頭上から振り下ろされた殺意の全く隠されていない純粋な一撃。
 それは動物が獲物を狩るときの一撃に他ならない。
 ただし、明らかに威力はこちらの方に分があったが。
「私は鮭じゃないわッ!」
 口走りながら未時はバックステップ。熊の異形が振り下ろした豪腕をやはり紙一重のタイミングでかわす。次いで今度は前へ。死角である振り下ろされた右腕の側面に一歩で踏み込み、剣を一薙ぎ。右腕を断つ。
 果たして痛みを感じたのか、化け物が怒気を含んだ雄叫びを挙げて、左腕を旋回。風を切るような唸りを響かせて未時を狙う。
 が、未時の対応はそれを見透かしたかのように迅速にして、的確。瞬時に麒麟を左手で放さずに持っていた鞘に刀身半ばまで納め、そのまま前方に構える。腰を低く落として、熊の怪物に身体を切迫。その間僅か半秒にも満たない。
 瞬時に訪れる重みと速度で何倍にも膨れあがった一撃。
 未時はそれを刀身を半分まで納めた麒麟で迎え撃った。
 ゴッ、という肉の裂ける音と同時に遙か後方に弾け飛んだ熊の左腕。それはグシャリと別の異形の頭を潰して一つの残骸として混じり合う。
 その音に続いて、未時が剛毛に覆われた熊の腹を叩いて身体を弾く。ダメージを狙ってのものではない。必要だったのは僅かに空いたその距離と自分の体をほんの少しずらすための勢い。
 その空間を未時は蹴った。
 剛毛に覆われた硬すぎる獣の腹を未時は蹴る。その歩数僅かに二歩。
 その二歩で未時の身体は熊の異形を見下ろせる高みに踊った。
 上段から麒麟を抜き放ち、勢いそのままに振り下ろす。頭上に灯るシャンデリアの眩さを弾きながら、麒麟の一撃が雄叫びを断つ。
 一刀両断。
 言葉に違わぬ見事な一撃。滑らかな断面を見せて熊の異形の体躯は、左右対称に分かれて、墜ちた。
「ふっ――」
 笑みが零れた。
 流れるように舞うコートの裾。元来持って生まれた美しい容姿に、雄々しいまでに輝く麒麟の刀身が一層の煌びやかな輝きを与えていた。
 まるで全てを嘲笑するように、自分こそが今この瞬間を最高に輝いているのだと見せびらかすように、彼女――星海 未時はその存在感を余すことなく見せつける。
 その動作の一つ一つがその場に続々と集う異形全てに警笛を鳴らす。
 質の違い。次元の違い。住む世界の違い。
 圧倒的な全てを感じ取って、“それら”は危機感に雄叫びを挙げた。
 その絵に奏良義 久留米は感嘆する。
 そして、彼は初めて自分が既にその世界に完全に戻ることが出来ない事を悔いた。もう、二度と魔術論理を組めなくなってしまった自分を殴り飛ばしたくなる。
 それほどの逸材。
 まだ論理を手に入れていないとは思えないほど魔術師たる存在に、奏良義 久留米は頼もしさを感じずにはいられない。
 なるほど、彼が肩入れしたくなる訳だ。
 黒光りする新月で、また一体の異形を屠りながら納得する。
 どちらからとも言わないまま、二人は背を合わせた。何となく笑みすら零れる程、まだ精神的にも余裕がある。
「あまり飛ばしすぎてバテないでくださいよ?」
「ご心配なく。それまでにはアレがどうにかするでしょう」
 彼を“アレ”呼ばわりする辺りもとても面白い。
「どうにかならなかったら?」
「そんなの決まってます」
 未時が怪しく笑う。
「その時になってから考えます」
 それだけ言って二人はまだ滑らかなロビーの床を蹴った。バトルロワイヤルの終わりはまだ遙か先である。

 コロシアムの熱狂は激しさを増していた。既にロビーだった場所は何年も放置され、朽ち果てた一角の様に崩れ、血にまみれていた。
 おそらく二時間は経過したであろう死闘の中で、奏良義はまた一つの異形を肉塊へと変えた。休む間もなく襲い来る次の異形の一撃を大きく間を取って避け、二秒ほどの刹那にようやく息を吐き出す。その数まだ片手で数えることが出来る程度。
 いくら何でも既に魔術師では無くなってしまった奏良義にこの長丁場は厳しかった。元々が戦闘よりも練金と、生み出すことに時を費やした彼にはそもそも戦闘自体が不向きである。
 しかし、それでもまさか自分が彼女に後れを取ることになるとは思っていなかった。
 驚きを隠さずにはいられない奏良義の目の前では、未だに息を乱すことなく踊り続ける彼女の姿がある。
 未時は刻々と自分の中を巡るそれを着実に感じ取っていた。
 荒々しくとても力強い何か。
 うねるようにそれは体の中を駆け回り、絶えず彼女に力を与え続けていた。最初はただアドレナリンの過剰分泌による異常なまでのハイテンションかと思ったが、次第にそれとは明らかに違う質のモノだと彼女は理解していた。
 そして、それは数時間前に見たばかりの少女の瞳の蠢きと異様なまでにイメージが重なった。
 今、彼女の中には魔力が絶えず流れ込んでいた。
 今までにない感覚に、未時の中で何かのキーがカチャリとはまる。五感ではない更なる感性がこの時、彼女の中で確かな形となって目を覚ました。
 明確な魔力の流れを感じる。今まで常に何となくで行ってきたその制御が今完璧に自分の指揮下で思うがままに行われていた。自分の肉体のリミッターを外し、溢れんばかりの魔力をエネルギーへと変換した。振るう麒麟の輝きは止まることを知らずに増すばかり。ロビーの全てが自らの視界に収まっているかのように明確な情報として脳内に届いていた。
 止まることを知らない星海 未時の激しさは暴走するどころか、ますますその精度を上げていく。それは肉体的な意味だけに止まらず、彼女の思考と視野を一気に拡大させた。
 山中、深い森の中だったからだと思っていた濃密な空気の理由。屈託のない笑顔で笑う少女の美しい緑の蠢き。そして絶えず溢れ続ける異形な魔物の群れ。
 その全ての理由がこの瞬間、未時の中で瓦解した。
 秒の間に三度麒麟を閃かせた。瞬時に自分を包囲する魔物を残骸へと変えて、跳躍。完全に包囲される前に異形の輪から脱出し、そのまま疲労の感じられる奏良義氏の援護に向かう。
 彼と斬り結ぶ剣士かぶれの死者を辻斬りよろしく背後から斬り付けて処理して、そのまま彼の脇を抜けて背後にあった壁を蹴る。反動を利用してそのまま奏良義氏の反対側の側面に躍り出て向かい来る異形を瞬殺。やや彼の前に出て、庇うように麒麟を構える。
「大丈夫ですか?」
「何とか」
 そういう奏良義氏の息は荒い。かなり消耗しているのは言うまでもなく、致命的とまではいかないが動きを阻害するには十分なダメージが彼の衣服を所々紅く染めている。
「何か時間を稼げるモノは?」
「術符なら多少は」
「貸してください」
 半ば奪い取るように未時は奏良義氏からミミズがうねったような文字の書かれた札数枚を受け取り、組み込まれた魔術構成を見抜く。内一枚を残して全てを彼に押し返し、残した札にそっと口付けて放つ。
 放たれた札は迫る怪物と未時達の間でほどけるように散り去って、ほんの少しばかりの奇蹟を描く。
 現れたのは向こうが見通せない程濃い霧の壁。
 触れれば通り抜けられるはずの霧は、しかし、確かに今この瞬間、絶対不可侵の防壁を築いていた。
「霧という辺りが非常に気に入りませんが、これで多少の時間は稼げるでしょう。今の内に少しでも休んでください。出来れば止血もした方が良いでしょう」
 それだけ言って未時もようやく大きく息を吐いた。まるで蓄積された疲労を纏めて吐き出しているような感覚だった。それだけで体が軽くなっていく。借り受けた麒麟も久方ぶりに鞘に納まり、一息吐かせてやる。ずっと長剣を握りっぱなしだった右手の握力を確かめるように握っては開く。
 まだまだ大丈夫。
 あれだけの魔物を切り捨ててなお、未時には余力が感じられた。こうして休んでいる今でさえ、魔力の流れは絶えず未時に流れ込んでいる。
 まだ、あの刹那的な世界で躍れるのだと思うと笑みを零さずにはいられなかった。それは自分の居るべき世界が向こう側なのだという事実を未時に感じさせる。この事を彼女に言ったらどうなるだろうか。やっぱり……
「厳しそうですね?」
 逃げるように、未時はその考えを振り払った。その為の動作として苦しげな声を逐一鳴らす奏良義氏に話しかける。
「私ももう若くはないって事かな」
「実齢がどうかは知りませんが、人としても貴男の見た目はまだ十分若いですよ」
「ありがとう」
 嬉しそうなその笑顔すらもが痛々しい。
「気紛れにでもなるのなら、私の戯言でも聞きませんか」
 そう、それは戯言である。既に答えのほとんどが分かってしまっている問題など、そう呼ぶに値しないのだから。
「彼女達は何者なんでしょうね?」
 しかし、それは問い掛けだった。
 答えないのであれば、自分が答えを述べるがそれで良いのかという中強制的な力を持った問い掛け。未時はどちらが口にしても構わない。欲しいのは確かな模範解答である。
 そして、それに届くモノを彼女はもう持ってしまっている。後はそれを誰が語るのかというその一点のみが、今この時には重要視され、その点についてはおそらくどちらもが同じ思いを抱いていた。
 だから、彼は血色の悪くなった唇から、少しの躊躇いの後に言葉を漏らす。
 その彼がもたらした言葉は未時の見解を保管するのに十分な記憶のページだった。
「彼女は私が創ったんだ。私の魔術論理の全ての結晶をもってして」
「では、やはり……」
「あぁ。娘は、紀留は……魔術師だった人間とホムンクルスのハーフ」
 それは当時、錬金術師の名を欲しいがままに振るっていた彼にとっての究極だった。
 まだ、誰もが成功したことのない人工生命体の創造。神をも恐れぬ冒涜。その領域に奏良義氏は魔術師として手を伸ばしたのである。
「比検体の一つとして彼女は生まれた。ナンバーは103。当時の私から見て、彼女は明らかな失敗作だった。
 でも、それは弟子からの報告だけを聞いていたからだったんだ。
 たまたま、数ある比検体を眺めようと思った。当時は結構行き詰まっていたからね。失敗したモノを眺めて論理を整理してみようと考えたのさ。
 そこで私は彼女に出会ったんだ。俗に言う一目惚れってやつだよ」
 その時の衝撃を彼はまだ忘れていない。
 百を超えるカプセルの中の一つに彼女はいた。
 真新しい透明な、培養液に満たされたカプセルの中で彼女は眠っていた。その姿は今までのどの比検体よりも完全な姿だった。
 全ては一瞬。
 まだ、虚ろなままの彼女の瞳と視線が交錯した瞬間の事だった。
 奏良義久留米は彼女に恋をした。
「でも、彼女の姿は完璧でも、生きるための存在としては不完全だった。人としても、ホムンクルスとしても……
 創られた彼女には、生きるための機能が欠けていたんだ」
 人が生きるためには単純に生きるためのエネルギーが必要である。人はそのエネルギーを創るために、外部から食物を摂取して生きるために必要なエネルギーへと変換して存在している。
 では、ホムンクルスは――
「ホムンクルスに必要なのは単純に、魔力。人の血液が体内を巡り、生きるための栄養素を循環させるように、ホムンクルスは生きるために体に魔力を巡らせなければならない。それが私の築き上げた論理構成だったんだ」
 しかし、彼が生み出した彼女にはその魔力を生み出すための回路構成もその魔力を体に巡らせるための構成も欠けていた。言うまでもなく、彼女の生命の灯火はすぐに消えかかった。
 だから――
「彼女に私の魔術師としての全てを与えたんだ」
 魔力を生み出し、魔力を体に奔らせる。その機能の全てを彼は魔術的な儀式によって彼女に移植した。
「そして、それを行ったのが彼だったということですね?」
「その通り」
「馬鹿にされませんでしたか?」
「理解できないとは言われたね」
 愚痴なのか、独り言なのか分からない言葉をぼそぼそと話しながらも、魔術師霧羽 総弥は彼の頼みを聞き入れ、その儀式を行った。
 そして創られた人工生命体はようやく生きることを許されたのだ。
 未時が今この瞬間も感じている魔力の気配の一つは彼のモノであり、彼のモノではない。元は奏良義氏のものであったモノは、今現在は彼の妻である乃紀枝婦人のモノなのだ。
 では、もう一つは。
 その答えは既に出てしまっている。
 というよりもそれ以外に選択肢が残されていない。
「ということはこの魔力の流出は彼女によるものなんですね」
「そういう事になるね」
 その一言で証明は成された。
 全ては未時の導きだした答えと符号する。
 何故、奏良義氏と乃紀枝婦人の気配が酷似していたのか。何故、紀留の瞳が膨大な魔力を宿した核になってしまったのか。
「全ては紀留に影響が及ぶ可能性があるということを完全に失念していた私のミスだ。こうやって定期的に二人の処理しきれなくなった魔力に引き寄せられる魔獣達の処理を総弥に頼まないといけなくなってしまったんだからね。本当に良い出費だよ」
 そう言って苦笑いを浮かべる彼の姿は、まさしく我が身を呈して大切な存在を守ろうとする父親のモノに違いなかった。
「だから自分が命を賭けるのは当然だと?」
 未時の言葉に奏良義氏が一瞬驚いた顔をして、すぐに悲しそうな顔で笑った。
 その純粋な思いを未時は易々と見抜いていた。既に魔術師ではなくなってしまった人の考えを見抜くことは、今の彼女にとっては容易い事だった。人にして、人にあらず。今の未時はまさにそんな場所にいるのだから。
 魔術師としては決定的なモノが足りない。まだ完全な魔術師とは呼べない存在。
 故に、是か非かで選択すれば、彼女はまだ人という種族に分別される。
 そのせいか彼女には彼の心情がまだ何となく分かってしまう。
 違う。
 それはきっと違う。
 彼は、奏良義氏は自分が元魔術師だったからこそ、その決意を強く秘めている。昔、スポーツをやったことのある人間が、年を経てからその頃と同じ感覚で運動をするのと同じだ。それは無謀以外の何物でもない。
「勝手に死なれては困ります。それでは私が彼女に会わせる顔がありません」
 未時は知っている。
 彼が守ろうとしている存在がどれだけ彼を愛しているのかを。
 だから、未時は死を覚悟してしまっている彼を認めるわけにはいかない。
 霧の壁が薄くなっている。もうそう長くは保たないだろう。
 大きく息を吐き、呼吸を整える。溢れて行き場を求める彷徨う魔力の流れを再び迎え入れて、体を巡らせる。それだけで未時の意識は綺麗に敵を殲滅することにシフトする。
「足手まといはいりません。貴男には後方支援をお願いします」
「悪いね」
「術符は後どんなモノが残っているんですか?」
「そう、多くは――」
「見せてください」
 また薄くなる霧を背に、未時は彼の手から術符を受け取る。一枚、一枚に宿る魔力を機敏に感知して、それに宿る論理を看破。そして――
 ようやく立ち上がった奏良義氏に未時は魔力を篭めた自身の拳を容赦なく叩き込んだ。
「ッ――!」
 目を見開く奏良義氏。
 しかし、彼女に対抗できるだけの力は既に彼の手から離れてしまっている。
 ――新月。
 その黒塗りの刀は今、未時の叩き込まれた拳ではない方の手に綺麗に納まってしまっていた。
「私は言いましたよ?
 足手まといはいらないと」
 彼女が放った言葉は残酷だが、同時にとても優しいモノでもあった。
 未時は崩れ落ちそうになる奏良義氏を軽々と抱え上げ、彼がどうにかしてもたれ掛かっていた扉を開ける。
 本来なら開いてはいけないはずの扉はやはりすんなりと開いて、彼を結界の中に受け入れた。保護するべき最後の一人として――
 奏良義 久留米を受け入れて、再び結界の扉は閉まっていく。
 狭まっていく向こう側の景色には、何重にも重ねて描かれた魔法陣の中で蹲る乃紀枝婦人と彼女に抱き抱えられて眠る紀留の姿があった。
 額を苦しげに歪ませ、玉のような汗を浮かべる乃紀枝婦人と視線が交わった。
 交わす言葉はなく、ただ彼女は一瞬だけその痛みを隠して、心底悲しそうな顔で未時に深く頭を下げた。
 それに未時は微笑んで首を振り、応える。
 ピシリと霧が軋むのを目覚めた彼女の感覚が知らせる。鈍い音を響かせて閉じる結界に背を向けて、休息中だった神獣を目覚めさせる。
 右手に獣の王を戴く細身の長剣――麒麟。
 左手に奏良義氏が命を削って使用した黒刀――新月。
 どちらも彼女が完璧に使いこなすにはまだ惜しい業物だと言えるだろう。
 しかし、今はその距離を感じてはいけない。
 もっと近く。もっともっと近く。零よりも傍に――
 周囲の空気が圧迫され、ざわめき、吼える。
 定員三名の結界の扉が閉まるのと霧の壁が崩れ去ったのはまったくの同時だった。物理的な音と魔力の響きが綺麗にハミングを奏でる。
 その瞬間に、未時の躯は既に空を駆けている。
 異形達が雄叫びを上げるよりも先に一閃。一体の異形の雄叫びを悲痛の叫びに変えて未時は鮮やかに床に降り立つ。
 やはり――
 未時は左手で操る新月の本性に苛立ちを隠せない。
 彼女が放った斬撃は二つ。左右それぞれで扱う刃で一つずつだ。
 圧倒的な物量差を前にして、彼女に無駄玉を使う程の余裕はない。放った斬撃は共に必殺を狙ってのものだ。彼女の描いた軌跡は確実に二体の異形を屠ったはずだったのだ。
 新月が奏良義氏が操ったのと同様の斬れ味を誇っていれば……
 彼の手から奪い取った瞬間にその違和感は理解していた。
 何故、魔術師ではなくなってしまった彼が無数の怪物達を悠々と斬り捨てられたのか。
 最後の疑惑もこの瞬間に消え去った。
 新月は魔剣と呼ぶに何ら躊躇う必要のない刀なのだ。
 未時が溢れんばかりの魔力を流し込もうとしても受け入れない。
 しかし、それでいてなお未時の手の平に喰い込もうとするかのような密着感。
 間違いなかった。奏良義氏が振るい続けてきたこの新月は使用者の血を吸うことで、刀自身が魔力を生み出し、あの殺傷力を生み出している。なんと破滅的な武器だろう。おそらくはその論理構成上、血は流し込めば流し込むほど多くの魔力を生み出し、循環させるに違いない。
 本来ならばこれは魔術に対抗し得る術の一つとして、人間の為に彼が生み出した苦肉の策とも言える一振りだったはずだ。
 それがまさか創りだした本人が自らの命を削って振るう事になろうとは――
 冗談じゃない。
 未時は速攻で新月を戦力として見定めるのを辞める。今、自らの貴重な時を削ってまで目的を達せられる程、このサバイバルは優しくない。魔力で血は補えないのだ。魔術師によっては可能なのかもしれないが、未時はその術を知らない。
 彼女にはまだ魔術師としての論理が存在しないのだから。
 そして、彼女は勿論そんな事を論理に選んだりはしない。
 そもそも、魔術論理とは選ぶようなモノではない。
 まるで最初からそこにあったものであるかのように、ごく自然に、自分の世界をより鮮明に輝かせるような、そんなモノでなければならない。だからこそそれを見つけるのは難しい。
 こんな取るに足らない問題を解決するために選択する事を許されるようなモノではないのである。
 それに何よりも、
「化け物が斬れないから錆び付いているなんて、それこそ人の考えに他ならないもの」
 馬鹿とハサミは使いよう。そんな言葉を思い浮かべて、未時はその身体をまた疾駆させる。
 爪先が再び床に届く間に彼女の腕は振るわれ、麒麟が猛獣のような勇ましさで獣の異形を一瞬で切り刻む。
 未時が次に床を踏んだ瞬間に襲ってくる崩れ掛かった死体の異形の一撃。年代物の大剣が横薙ぎに未時を粉砕しようと迫る。
 不可避のタイミングで放たれたその一太刀を未時は流れに逆らわずに受け止める。右手ではなく左手。未だ黒光りすることを止めようとしない新月の刃で。
 躯を後ろに流し、腕の動きで更に大剣の動きを制御。伝わってくる重さは皆無。
 一撃を完全に無効化した時、既に彼女の身体は動いている。彼女が放った一撃は獣の牙よりも獰猛で、それ以上に荒々しい。
 神獣の一太刀が異形に二度目の死を与えて、その存在を砕く。
 その場の何物よりも華やかに剣を振るい、術符を操り、彼女は舞った。
 一秒。一分。一時間、二時間。
 彼女の加速は止まるところを見出さない。
 星海 未時という存在は唸りを上げてギアのトップを上げ続ける。
 何物も彼女を止めることは出来ず、朽ちる事のみを選択させられる。彼女以上に輝く事など不可能なのだと死を持って悟らされる。
 観客はいらない。
 だから、殲滅する。
 未時が目指すのは孤高のステージ。静寂こそが最大の喝采。彼女以外の存在を許さない。全てが彼女のためだけに存在する舞台と客席。
 そんな劇場を築くために、彼女はただひたすらに死を積み重ねていく。届くのかどうかさえ分からないような階段をずっと造り続けていく。
 ずっと。ずっと。
 その感覚が麻痺するまで――
 違和感は唐突に、実感となって訪れた。
 カクンと自然に膝が床を打ち付けた。
「――ッ!!」
 驚愕しつつ、袈裟斬りにするつもりだった異形の頭蓋を麒麟で貫く。
 疲労の蓄積かと考える暇はない。止まることはそのまま死へと直結する。飛んでくる打撃を腕の力だけで身体を跳ね飛ばして回避。転がりながらも麒麟を一閃。魔物一体を斬り殺し、それをブレーキにして停止。その時には既に目前にまで迫っていた斬撃を、新月を床に突き立てて身体で支えてどうにか止める。
 しかし、今度は衝撃が零ではない。動かない足ではどうにもならず、たまらず今度は弾け飛んだ。いかに強者とはいえ、所詮は女性の体。その身はやはり軽い。
 この時には既に全身の感覚が鈍っていた。腕どころか指先だって動かすのが辛い。おかげで満足に受け身も取れないまま床に叩き付けられ、一瞬呼吸を忘れる。
 その時の衝撃で麒麟は右手からすっぽ抜け、数メートル先に転がっていく。最悪だ。今の彼女にはその数メートルが果てしなく遠い。
 手を伸ばすよりも先にハイエナの如く群がる異形達。
「チッ――!」
 舌打ちと共にどうにか取り出すことに成功した術符を発動。
 異形の怪物達の爪が届くその寸前に、術符から生み出された龍炎が未時を中心として暴れ狂う。
 圧倒的な暴力の熱が周囲一体を問答無用で喰らい尽くす。
 噎せ返るような肉の焦げる悪臭の中心で未時はまだ、その手を先に延ばしていた。
 麒麟までの距離はまだ有に一メートルは存在した。
 それはこの瞬間、確実に致命的な距離だった。
 体が動かなかった。
 足どころの問題ではない。既に指先一本すら動かすことが出来ない。
 しかも動かす以前に、全身の感覚が見事に全て無くなっていた。今、自分に腕が付いているのか、足が付いているのか、それさえも自覚できなかった。
 感じられるのはうねるように漂う、行き場を失ってしまった魔力だけ。
 原因はそれだった。
 まだ、無駄に働いてしまっている唯一の感覚がそれを明確に知らせている。
 星海 未時というマシンにこの魔力というガソリンがマッチしなかったのだ。いかに良い燃料と高スペックのマシンを用意しても、その相性が悪くては真の力を発揮することは不可能だ。
 この無限に溢れてくる魔力は紀留の瞳から漏れだしたものだ。母親の乃紀枝婦人も同様の現象に苦しんでいるようだが、その影響力は紀留には遠く及ばない。
 推測するに、定期的に二人の魔力は飽和状態を迎え、溢れ出す魔力を散布することで解消しているのだろう。その副作用が今回の魔物の異常発生。次から次へとキリ無く現れる無限の異形達は、この魔力に吸い寄せられ、又は魔力によって生み出されたモノ達だ。
 解決策は二つ。
 一つを壊すか、壊し続けるか、だ。
 そして、当然ながら奏良義氏は後者を選んだ。大切な者を守るために戦い続けるという選択を。
 そのための切り札が、“アレ”か――
 まだ姿を見せない“アレ”が彼の切り札なのだ。以前一度だけその論理を目の当たりにした未時には、その選択に納得せざる得ない。
 確かに、“アレ”ならば可能だろう。圧倒的、かつ無制限に、確かに“カレ”ならば、まるで燃料の必要ない機械のように無限に処理し続けることが出来るだろう。
 だが、その時は未だ訪れていない。
 サバイバルゲームの終演を告げる狼煙はまだ昇らない。
 呻くことすら不可能な未時に魔物達が群がっていた。今なら痛みを感じることなく逝けるだろう。
 それは不幸中の幸いなのかもしれない。
 ただ、視界に写る扉の向こう側にいる彼等の事だけが気掛かりだった。彼等には生きていて欲しい。
 そうでなければ自分の努力が報われない。
 それは“人”としてあまりにも悲しいじゃないか――
「――なんて、貴女でも考えたりするんですか?」
 化け物達の呻き声の端っこで、嫌みったらしい声がする。
「お疲れ様でした。ここからは僕が引き継ぎましょうか」
 未時を喰らおうと牙を伸ばした獣の異形の口からドロリと涎が滴った。
 ボタリと音を響かせたその汚液は、もう、既に紅かった――
 ――ボタリ。
 何かの首がもげた。
 ――ゴギュル。
 何かの体が破裂した。
 ――グシャリ。
 何かの崩れ落ちる音がした。
 ボタリ。グシャリ。ゴギュル。ブシュッ。ボダッ。グチャッ。ベキョッ。ボタリ。ブシュッ――ゴシャッ、グチャ、ゴギュ、ベチャ、ボダ、ギュルブシュッボダッチャッベキョッボタリブシュッベチャグチャッバギッゴジャグチャッベギャボダリシュッボダッチャッベキョグチャッベギシュッボダッチャッベキョ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ザーーーーーーーーーッ!!!!
 豪雨かと錯覚させるような破滅の音が降り続けた。
 音は止まない。無限に溢れ続ける化け物達を、それ以上の圧倒的な力がそれ以上の無限の回数殺し続ける。
 床一面が濡れている。
 雨は降っていない。
 しかし、全ては紅く染まっている。
 降り続けているのは無限に現れ続ける化け物達の名残。その存在全てを、その魔術師は容赦なく殲滅し続ける。
 霧羽 総弥。
 霧の化身とも言える魔術師は悠々と惨劇を眺めながら、空間の中央――身動きの取れなくなってしまった未時の傍らに立っていた。
「遅くなりました。いやぁ、なかなかこれが見つからなかったもので」
 これ、というのは霧羽が片手に持つ人が使うには大きすぎるだろう傘。パラソルと形容した方が良いかもしれない。それくらいにその傘は一人で使うには大きすぎる。
「いえ、ないと貴女が困るかと思いまして」
 そう言って彼は未時が隠れるようにそのパラソルをかざした。
「だって貴女は嫌がるでしょう?自分が血まみれになるのなんて」
 未時を覆った傘はやはり黒塗りで、彼女を血の豪雨から隠す。
 確かに血の雨にまみれるのはご免だが、ないならないでこの場合はしょうがないだろう。それをこの魔術師はいけしゃあしゃあと未時の気持ちを理解したような口をきいている。この男にはもう少し状況を理解するという考えが必要だ。
 文句の一つどころかそれこそ無制限に文句を浴びせてやりたいところだが、今の未時にそれは不可能だった。
 既に指先を微かに動かすことすら不可能だった彼女の身体は、今となっては全感覚が消失し、声どころか呻き声を上げることさえ困難な状態だった。ほんの数分前まで誰よりも疾く舞い続けていた彼女の存在は、今死の淵に引っ掛かっている状態だ。
 元魔術師とホムンクルスのハーフの少女から止めどなく溢れ続けていた魔力という名の強力なエネルギーを、マッチングしない自分の体で消費し続けたそのツケが未時を絶えず浸食している。魔力の処理が完全に間に合っていなかった。絶えず流れ込んでくるエネルギーを自分の魔力へと変換するべき自らの中の絶対が欠けていた。
 魔術論理の欠如。
 それがここまで致命的になるとは思ってもいなかった。
 悔しいとは思う。
 もし、あの瞬間、自分に、星海 未時だけの絶対的な魔術論理があったなら、結果は変わったかもしれない。少なくとも自分はもっと疾く、軽やかに舞えたかもしれない。それが今ではなかったのが少し勿体ないと思う。
 しかし、焦ってはいけないのだということももう理解している。
 魔術師は常に我を失ってはいけない。誰かに揺るがされてはならない。どんな時でも誰よりも、何よりも自分の事を理解し、律しなければならない。
 だから――
 今はまだ耐えよう。
 今はまだ星海 未時という一人の人として、いつか未だ見ぬ魔術師として目覚める夢を見よう。
 雨が止んでいる。
 世界から自分が切り離されている。
 なんて静かな自分の世界。
 そこにはまだ何も描かれていないけれど、それが今はありがたい。
 全身の感覚が強制的に眠らされていき、ついには自分で意識を保つことも苦しかった。死の淵からその奥底を覗き込みながら、彼女はゆっくりと瞼を下ろす。
 次々と切られていく自分の意識という名のスイッチを遠くに感じながら、彼女は穏やかに微笑む。
 もう何も感じないはずの彼女の世界の端っこで、誰かが「お疲れ様でした」と口ずさんだのが聞こえた。

 空はどっぷりと黒かった。
 周囲の見通しは利かず、見渡すことが出来るのは満点の星空だけだ。
「泊まっていかなく良いのかい?今から帰っても、日付が変わってしまうと思うんだけど」
 気遣ったのは奏良義久留米。まだ顔色は良くないものの、その表情は晴れやかだ。穏やかな笑顔はとても彼らしく見える表情の一つだろう。
「僕はそうしたいんですけどね、彼女がそういうわけにもいかないみたいなんで」
「何か用事でも?」
「明日から学校のテストらしいので」
 他人の不幸を嬉しそうに語るのは魔術師、霧羽 総弥。いつも通りの魔術師であることを微塵も隠そうとしない漆黒のローブ姿。その姿の右袖が今は力無く垂れている。その理由を語る必要は二人の間にはない。
 その傍らで低空に漂う一人の少女。彼女は自身がまるで死体であるかのように眠っている。あまりにも深すぎるその眠りに彼女の口からは吐息すら漏れていない。
「それは悪いことをしたな。大丈夫なのかい?」
「どうなんでしょうね?まぁ、そこまでは僕の見るべき場所でもないので」
「相変わらず厳しいというか、無責任というか」
「放任主義なんですよ」
「知ってるよ」
 言いつつも穏やかに眠る彼女を苦笑でしか見送れないというのは、恩人に対してどうかと思わずにはいられない久留米である。
 霧羽が右腕を切り離して形成した霧のベッドに横たわる彼女の事を彼はきっと忘れないだろう。
 彼女ほど気高い魔術師を見たことがなかった。
 彼女ほど高潔な存在を彼は魔術師の中に見たことがなかった。
 だから、奏良義久留米は自分がもう魔術師ではないという事を非常に残念に思うし、それがとても口惜しい。自分がまだ魔術師のままでいたなら、きっと彼も同じ事をしただろうから。
 だが、それは口にしてはいけないことだ。
 その行為は自分の存在を賭して戦ってくれた彼女を侮辱することに他ならない。
 何よりも、自分は幸せなのだと彼は分かっている。こうやってまた自分の家族を守ることが出来ているのだから。
「楽しみだね、総弥」
「そうですか?」
 同じ問い掛けに、同じ答え。いつも素直でない友人の心の代わりに彼は語る。
「私は楽しみで仕方ないね。是非また会ってみたいよ。魔術師になった星海 未時という彼女にね」
「縁があればまた会えるんじゃないですか?この世界の論理はそんなものでしょう?」
「それもそうか」
 この世界の構成論理の多くは“繋がり”だ。その見えない糸が切られなければ、きっとどこかで又会う事が出来るだろう。
「じゃあ私はその繋がりが君によって切られないことを祈っているよ。娘もきっと彼女にはまた会いたいだろうからね」
「ご自由に」
 薄く笑いながら片腕の魔術師は応える。素っ気ないながらもその中に隠れる友人の感情を、奏良義は何となく感じ取れる。それはきっと向こうも同じだろう。
「ではそろそろ帰ることにしますよ。一応、日付が変わる前には送り届けておかないと、何を言われるか分かりませんので」
「私は今日中に送り届けても結果は同じだと思うけどね」
「僕もですよ」
 黒いローブを夜の中で翻らせて、霧羽は笑いを忍ばせながら応えた。その姿に付き従うように彼女を乗せた霧のベッドが追従する。
「それでは」
「あぁ、また――」
 言葉はたったそれだけ。
 二人の人影が互いに背を向けて自分の住むべき場所に戻っていく。
 今は遠く離れてしまった二つの世界がまた繋がることを、家族の待つ家へと戻っていった彼は確かに願っていた。
 彼女が守ってくれた家族と共に。


                                    Prelude Zero Episode7 “The road of Witch” Fine.


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