愛しい貴女に届く距離



 早朝の吐息が白かった。
 もうそんな季節なのかと考えると、まだ大したことのないはずの寒さが少し身に染みる。そろそろコートやマフラーの準備をしておいた方が良いかもしれない。
 世間では温暖化がどうのとか言ってはいても、結局それらが不要になることはない。まだ冬と暦上は言えないにしても、この調子だとマフラーはすぐに必要になりそうな気がする。
 マフラーはまだ去年の暮れに買ったばかりのがあるからそれを使えばいいだろう。ふわふわのボンボンが寄り添うように二つ付いた白いマフラーだ。端っこに小さな黒い星が流れ星のような線を引いている所に惹かれて購入した物だ。
 マフラーは明日にでもそれをブラッシングしておくとして、コートの方はどうしようかと思う。
 コートはもう二年ほど同じ物を使っているのでそろそろ新しいのを買いたい所だ。背丈も当時に比べて少し伸びたので、次はサイズを一つ上げた方が良いかもしれない。学院指定のコートという物が存在しない分、そういうところにも少しはこだわっておきたい。何だかんだで結局自分も性別的には女性であるのだから。
 しかし、自分はどうにも趣味というかセンスが際どいようなので、選ぶのはきっと彼女になるのだろうと思う。数日前も彼女は自分に似合いそうな服を数着選んでくれた。きっとコートもそうしてくれるだろう。
 疑うことなくそう思えた。
 いや、確信とでも言った方が良いかもしれない。
 彼女がいれば全てが良い意味でどうでもよくなった。今まで鬱陶しかった日常に少し触れてみようと思えるようになった。
 それは思いもしなかった事だ。
 まだ、この世界はどうでも良いモノではあるけれど、彼女と一緒ならそれさえも変わるような気がする。
 どんな風に変わるかは分からない。
 でも、きっと彼女はそれさえも楽しんで、自分に笑顔を見せてくれるのだろう。
 自分がそうであるように。
 きっと。
 そう思うとこれからやってくる寂しい季節でさえ、笑顔で迎えられそうな気がする。
 いや、きっとそうなるだろう。
 彼女と一緒なら――

〜〜〜〜〜 At morning 〜〜〜〜〜

 ――くちゅんっ!
 真横で可愛らしい音が鳴った。
 数秒してから音主がこちらをむぅっとした眼で睨んでいる。どうやらくしゃみをした彼女を見て笑っていたのがダメだったらしい。
「そろそろ寒くなってきたわね」
 誤魔化すつもりはなかったのだが、彼女はそう口にした。
 だが、それが隣を歩く彼女には余計に気に入らなかった様子で、ほんの少しだった頬の膨らみを一回り大きくして抗議する。
「笑いましたね?」
「ゴメン、ゴメン」
「心が籠もってません」
「ごめんなさい。許してください、お願いします」
「嫌です。許しません」
「あらまぁ、冷たい事で」
「今の私の心は北極より激しい吹雪が吹き荒れているのです」
 むすりとした顔で彼女は言った。
「あぁ、なんて事かしら、我が姫の御心は氷のように冷たくなってしまわれたようだ」
「そうです。私の御心は悪い魔女の仕業で氷のように冷たい闇に囚われてしまったのです」
 並んで歩きながらの会話は気付いた時には弾んでいく。声のトーンはそのままに内容だけは大きくなっていた。気持ちだけは舞台俳優と言い張っても良いくらいだ。
 もっとも、その舞台の客席には誰も座っていないし、役者も彼女達二人だけなのだが。
 舞台にいるのは軽やかに肩のラインより少し長い髪を揺らす王子と、真白な髪をなびかせるお姫様のたった二人だけ。
 しかし、それを決して不満だとは思わない。
 何故なら終わりは必ずハッピーエンドだからだ。
「では、そんな我が姫君の心にこれを――」
 そう言って彼女――星海 未時(ほしうみ みとき)は自らが首に巻いていたマフラーをふわりと隣の少女の首に巻き付けた。
 白いボンボンが優しく揺れて、ワンポイントの小さな黒い流れ星の刺繍の前で揺れる。
「季節の変わり目は風邪、ひきやすいから」
 そう言って未時はやんわりと笑う。
「今日の所はマフラーに免じて許してあげましょう」
「姫君に感謝しなくてはいけないわね」
「そうして下さい。感謝の気持ちはいつでも、いくらでも受け取りますよ?」
「現金なお姫様だこと」
「そうですか?」
「違うの?」
「そうかもしれません」
 そう言って彼女――蒼井 海空(あおい みそら)も笑う。同時に、マフラーの前にあってなお目を引く白い髪が揺れる。
 純白というイメージに相応しい白い肌とその髪は、数多の人目を惹き付けて止まない。まさに完璧たり得るお姫様の空想を形にしたような存在が彼女だった。彼女の心を手に入れられるなら、世の男共はそれこそ全てを投げ売ってでも彼女に生涯の愛を誓うだろう。
 少なくとも未時が男ならそうしただろう。
 しかし、彼女がそれを望まない事を未時は知っている。
 だから未時は自分が女性であることを感謝している。
「未時――?」
 怪訝そうな顔を見せる海空。そんな彼女だって愛おしい。
「ちょっと走らないと間に合わないかもしれないわね」
 そう言って未時は海空の手を取り、駆け出した。
 翻るスカートの裾も今はまだ気にしなくて良い。見咎められるのは校門が見えてきてからだから、それまでは校則なんてないのと同じである。
「きゃっ、ちょっと待って下さい」
 言いつつ、海空もそれに釣られて走り出す。
 どんよりとした空模様にお構いなく、二人の顔には笑顔が咲いている。
 未時は自分が女性であることに感謝している。
 だって、ほら――
 こうやっていつでも彼女の手を握ることが出来るのだから。

 聖光女学院にもいつの間にか季節を感じさせるシーズンがやってきた。制服が約一ヶ月の移行期間を経て、夏服から冬服に完全に移行したのである。
 淡いブルーを基調とした涼しげなセーラーから、雪のように真っ白な落ち着いた制服へ。要所要所についた可憐なレースが目立ちすぎない、清楚なスタイルへと変化する。
 それは冬が深まれば深まるほどにしっくりと来て、周辺住民からは冬の代名詞としてよく知られている。
 見る者だけでなく着る者にも可愛らしくて評判の良いこの制服だが、逆にそれだからこその苦労というのが存在した。
 まず何よりも、真っ白という色は汚れが目立ちすぎる。そのため昼食時の注意は勿論、下校時の寄り道は本当にハイリスクだ。ちょっとした汚れでもすぐに人目に付いてしまう。
 それが友人や家族ならまだしも、毎朝直立不動で校門に仁王立ちしている指導教員にでも見つかったら大事である。
 いや、はっきり言って大事どころの騒ぎではない。
 授業に出ることがその時点で不可能になり、生徒指導室へ直行。正座をさせられてネチネチとしたお説教を針のむしろの上で三十分ほど聞かされ、足のしびれが取れないままに家庭科室へ強制転送。そこから制服の汚れが完全に落ちるまでをそこで過ごす羽目になるのだ。それでいて内申点にも影響するというのだから、生徒側としてはたまったものではない。
 おかげでこの季節の聖光女学院の生徒達は皆こぞって身だしなみに余念がない。通学時にはいつも校門が見える前に一度誰かと身だしなみをチェックするのがデフォルトになってしまうくらいだ。
 しかし、その中にはやはり例外というものが存在する。
 星海未時と蒼井海空はその最たる一端だった。
 白い制服に身を包んだ少女達がこぞって足を止めるその場所をものともせずに突っ切っていく。
 共になびいた後ろ髪がそこで留まっていた生徒達の視線を見事に集め、その後に漏れる感嘆の吐息に、未時は呆れた溜め息を漏らすしかなかった。
「毎日、毎日、よく飽きないものよね」
「全くです」
 大概の事にはおおらかな反応を見せる海空も、こういった周囲の自分に対する反応にはかなり辛口になる。二人とも何が楽しくて毎日そう自分達に惚けているのかが理解出来ないのだ。
 一度や二度ならまだ我慢しよう。その容姿や振る舞いが人目を惹いてしまうのはもうどうしようもないことだし、当の本人達も諦めている。
 しかし、そういつも同じ反応を返されてはやきもきとしてくる。
 特にただでさえこの世界に疎外感を感じる未時にとって、その奇異たる視線はその疎外感を益々強めていく。まるで自分がこの世界のモノではないような、そんな感覚。
 どうしようもない虚脱感。
「未時――」
 ハッとする。
 手放しかけていた思考が急速に戻ってくる。無意識に色あせていた世界にまた色が点り始めた。
「ゴメン、何?」
「――そこ、少し汚れてますよ」
 いつの間に出したのか制服と同じ白いハンカチで、海空はそっと未時の肩口を拭ってくれた。自分は彼女といるようになってから校門で怒られなくなったなぁと思う。
 それと同時に、自分にはそんな事を考える余裕があったのかと内心で驚いた。
「ありがとう、海空」
「どういたしまして」
 そう言って海空は柔らかく笑う。
 その儚さが共存する笑顔に釣られて未時も笑う。
 自分が笑えたのだと言うことを改めて知る。自分がまだ人であるという存在に受け入れられていて、まだこっちの世界にいても良いのだと思えてしまう。
 そして、何より――
「ダメですよ?あんまり変な事考えちゃ」
 小さな声で「メッ」と、子供をしかるように言う。
 敵わない。
 きっと彼女には知られてしまっているんだろう。
 自分の中に潜む黒い闇も、この何とも言えない疎外感も。
 だから自分は彼女に色んな姿を見せることが出来て、それを現実として心地よく受け入れられるのだろう。
 それは何て――
「未時ってば」
「あ、うん。何?」
「もう、大丈夫ですか?また先生に睨まれてますよ」
「あぁ――」
 どうやらまた違うところに意識が飛んでいたらしい。最近は減ってきた癖なのだけれどまだ変なところで出てしまうようだ。気を付けなければいけない。
「まぁ、大丈夫なんじゃないかしら?」
 未時は気楽にその鋭い視線をかいくぐる。
 それというのもやはり彼女が、海空が自分の事を見てくれているからだ。
 だから、きっと大丈夫。
 何の疑いもなく未時は堂々と校門のアーチを潜った。

〜〜〜〜〜 At noon 〜〜〜〜〜

 昼食の時間が待ち遠しいのは男も女も、共学も男子校も女子校も変わらない。部活の早朝練習でお腹が空いた者を筆頭とした食堂組は良い席を取ろうと小走りで食堂へ向かうし、購買部でパンを買う物は我先にとまた走っていく。弁当を持ってきている生徒も教室で食べるか、中庭等の外で食べるかに分かれて、各々がそれぞれ散っていく。
 そして、それは彼女達もまた変わらない。
「海空」
「はい、ちょっと待って下さい。すぐ行きますから」
「うん」
 教室の後ろ側の戸口にもたれ掛かって、未時は目を閉じる。こうしておけばすれ違う人の気配も、それから向けられるいつもの鬱陶しい視線も幾ばくかマシになる。
 休み時間にこんな事をすれば囲まれて身動きが取れなくなるが、昼食時は皆そういうわけにもいかないのでこんな事が出来るのだ。以前はそれでも群がってくる生徒が数人いたのだが、それは未時が一喝することで散らして以来寄ってこなくなった。
「お待たせしました。ごめんなさい。ちょっと片付けるのに時間がかかってしまったので」
「別に構わないわ。気にしてないから。
 それより行きましょう。時間がなくなっちゃう」
「はい」
 二人は連れだって人の気配が少ない方へとこそこそと歩いていく。その姿が余計に周囲の目を惹くのだが、そんな事は二人とも気にしていない。
 ただ、面白いからやっているだけだ。
 その手に持った小さな巾着袋が時折ふらふらと揺れていて、なぜかそれが余計に二人を滑稽に見せていた。

 昼食はいつも二人きりで食べる。
 中庭でも、裏庭でもグラウンドの隅っこでもない。誰も視界の中には存在しない、二人だけしか存在しない空間の中で。
 それは聖光女学院の校舎から少し離れた場所にある。
 歩いて五分少々といったところだろうか。中庭の高さが腰辺りまである花壇を抜け、裏庭に通じるアーチの脇道へ入っていくとそれはある。
 今にしては珍しい木造建築の校舎。
 しかし、それは一目にして既に役目を終えた存在である事を理解できた。
 遠目からにも分かるほど色のくすんだ木目の壁。一部割れてしまったにもかかわらず新たなガラスが入れられることなく、代わりにベニヤ板で打ち付けられた窓。校舎の壁際に設けられ、かつては栄えていたであろう今は荒れてしまった花壇。
 そして、何より――
 明らかにいなければならない生徒や教員の気配が、その校舎からはまったくしなかった。
 聖光女学院の関係者達から俗に旧校舎と呼ばれている建物である。
 旧校舎と呼ばれ、その見た目からも分かるように今、この校舎は既に使われていない。部として認められていないサークルが時折ミーティングに仕方なく使う事はあるが、それくらいである。
 一応、取り壊す予定ではあるのだが、まだ校舎内にはいくつかの整理しきれていない図書物や、各学科の資料等が大量に残されているらしい。そのうち取り壊されるだろうが、未時と海空が在学中に取り壊される事はないだろう。
 ここが二人だけの場所だった。
 その旧校舎の二階の隅。ほこりを被って色のくすんだプレートが二人を出迎えてくれる。既に半分以上がスカスカになってしまった本棚がいくつも並ぶ図書室が目的地である。
 囲めば一ダースは人が座れるだろう大きな机は、ただ一つを除いて全てほこりを被っている。そのたった一つが特等席だ。
 その場所は年中常通して陽溜まりとなる場所で、窓の外にそびえ立つ大樹のおかげで外からうっかり影が漏れる事もない。今の時期、大樹の葉はもうほとんど落ちてしまっているが、それでも頼りないなんて事は全然なかった。
「ちょっと暖房入れた方が良いかしら」
「そうですね」
 未時は木造校舎には似合わない、それなりに最近見かけるような暖房のスイッチを入れる。
 旧校舎という名にもかかわらず、ここにはまだ電気が通っていた。それどころかしっかりと水道も使えたりする。
 本来なら既に電気も水道も止めているはずなのだが、時折、使用許可を求めてくる生徒がいたり、作業申請を申し出る教員がいるため、止めたくても止められないのである。
 ほんの数分で室温が程良い暖かさになってくる。
「本当にいつも思うけど、この設備は無駄よね」
「自分で使ってるのに何を言うんですか」
 未時の皮肉に海空がコロコロと笑う。
 そうして、いつも二人だけのランチタイムは始まる。
 女の子ならではの小さなお弁当箱に入った色とりどりのおかずは、どれだけゆっくり食べたとしてもそう時間のかかるものではない。
 しかし、一向に時間が経ってもお弁当箱が空にならないのは――未時のお弁当箱は小さくもないし、既に空であるが――単に食べる事よりもおしゃべりに花が咲いてしまっているからである。
 話している内容は本当にどうでも良い事だ。昨日は何があったとか、今朝どうだったとか、そんな事。
 しかも未時と海空は授業中にもメールのやりとりを頻繁に行っているので、実際はそのメールの延長で、よく話が続くものだなぁと本人達でも思ってしまうほどだ。
 だけど不思議と飽きたり、話題が尽きたりする事はなかった。
 それどころか後から後から話したい事が湯水のように沸き上がってくる。
 楽しくて仕方がない。
 そんな気持ちが未時の胸中に浮き上がっていた。
 今まで誰と話してもこんな気持ちになる事なんてなかったのに。
 「何故だろう」と考えた事もあった。
 しかし、それが無駄でどうでも良い事だという事を知った。
 理屈なんていらない。ただ、いたいから一緒にいて、笑いたいから笑う。
 理由なんてそれで十分なのだと、未時はつい最近になって知ったばかりだ。
 だから未時は気にしない。
 今は二人でいるこの時間を大切にしたい。
 海空のお弁当が茜色の巾着に包まれても、昼休みはまだ半分を過ぎたくらいだった。ほぼいつも通りの時間にランチタイムを終了させた二人は、揃って手を合わせ「ごちそうさまでした」とやはり揃って言う。
 そして、いつも通りのランチタイムの次はここ最近のお昼休みがやってくる。
 海空がお弁当箱の入っていた巾着から小さな箱を取り出した。
 箱の大きさは本当に小さなもので、そう、言うならトランプの入ったケースを少し縦長にして一回りか二回り大きくしたくらい。
 しかし、ケースの質はその辺で買えるような安っぽい質やデザインではなく、プラスチックのような材質にミステリアスな絵柄が描かれている。見た者に素直に綺麗だと感じさせるデザインだった。
 そして、それをどうしても気に入ってしまった人物は、やはりそれを購入する。
 海空がまさしくその典型的な例だった。
 ご機嫌に鼻歌を歌いながらそのケースを丁寧に開けて、中から同寸大のカードの束を取りだした。一枚として同じ絵柄の描かれていないカードは、未時の良く知るトランプよりも少し分厚く感じ、ケース同様に神秘的なイメージを彼女に与えた。
 それは一組のタロットカードだった。
 この間のデートの折にふと立ち寄った店で海空のお眼鏡に敵った物だ。
 「どうせ使えないでしょう?」と未時が諭すように言うと、「良いんです。これから勉強しますから」と言って、結局タロットカードの使い方(入門編)なる本と一緒に購入したのだ。
 一応、今のところ毎日ちゃんと勉強しているらしい。
 それは毎日新しい事を覚えてきた海空が、自慢げで嬉しそうに未時に話すので間違いない。余りにも熱心に海空が話すので、聞いているだけの未時もかなりの内容を覚えてしまっていた。
 例えば、タロットカードの発祥は実ははっきりとしていなくて、いくつかの説があるという事。広がったのは一四世紀のヨーロッパが中心で、日本に伝わったのは昭和四〇年頃だという事。タロットカードのデッキは大アルカナと呼ばれる二二枚と小アルカナと呼ばれる五六枚の計七八枚のカード――トランプよりも多いのだ――で構成されているという事等。
 多分タロットカードについてちゃんと調べなければきっと知る事もなかったであろう知識が今の未時には植え付けられていた。
 本当ならそんな話を聞く事は鬱陶しいに違いないのだが、当の語り手が海空であり、彼女がことのほか嬉しそうに話す顔を見ていると未時自身も嬉しくなってくるので、今となっては未時にとっても嬉しい時間の一部だった。
「で、今日は何の講義になるんでしょうか、蒼井教授?」
 未時がいつものように白い教授に問いかける。
「今日はですね――」
 すると教授役の海空はノリノリだが、所々詰まって本を取り出しては確認しながら未時にその付け焼き刃的な知識を話してくれるのだった。
「今日は、大アルカナのカードの意味を勉強します。
 そもそも二二枚の大アルカナは、人間の内部にある元型、人間の本質、深層心理を象徴した意味を持っているんです」
 そう言って海空は大アルカナのカードを一枚ずつ腰を下ろしている大きな机に並べていく。
 そのカードの多くは絵を見るだけで名前を言えるほど知られたものだ。タロットカードとして一般的に認識されているのが、主にこの大アルカナのカードであることを未時は既に海空に教えられて知っている。
 そして、海空の解説でそれらのカード一枚一枚に与えられた正位置と逆位置の意味を理解していく。海空の解説で知り、意外に思ったのは正位置と逆位置で表されるカードの意味が必ずしも真逆の意味になるわけではないという事だった。
 例えば『塔』のカード。正位置に与えられる意味は『崩壊、破滅、災難』だが、逆位置が意味するものは『衝撃、緊迫状態、危機』である。正位置の意味よりは軽くなってはいるが、それでも真逆の意味というわけではない。
 勿論、未時の思っていたように真逆の意味を表すようなカードも多いのだが、そういった真逆の意味を表さないカードというのは意外に多いようだ。
 海空がまた一枚カードを机の上に置く。
 そのカードは『世界』。
 これもそういったカードの一つだ。正位置の意味は『完成、達成、最高の幸せ』で、逆位置は『マンネリ、中途半端、未完成』を意味するというのは海空の言葉。タロットの中で一番良いカードと言われているらしい。
 その後も続々とカードは並べられていき、海空の解説は続く。『皇帝』、『戦車』、『力』に『死神』のカードetcetc
 そして最後の一枚『星』のカードの説明が終わったところで、惜しむべき鐘の音が鳴った。午後からの授業開始前に鳴る予鈴のチャイムだ。
「時間切れ、この講義の時間はこれにて終了ね」
「まだ、小アルカナが残ってるのですが……」
「じゃあ、さぼっちゃう?私は構わないけど?」
「うぅ、そういうわけにはいきません。残念ですけど、続きはまた放課後ですね」
「あら、それは残念」
「未時、もしかしてそれを期待してたりしませんよね?」
 眼を細めて咎めるような視線を向けてくる海空の問いを、未時は「どうかしら?」と言ってひょいとかわして今まで自分が寝転がっていた机を軽やかに飛び降りる。
「行きましょうか。遅れちゃうわ」
 その答えに海空は満足したように笑い、自分もいそいそとカードを片付ける。
「あぁ、待って下さい」
 既に扉の取っ手に手を掛けていた未時に駆け足で追い付き、その左腕に自分の腕を絡みつかせた。
「めんどくさいわねぇ」
 そういう未時をなだめるように海空は笑って、二人は午後からの授業に向かう。歩いていると間に合いそうになかったので、二人の足音は連れだって駆け足になっていった。

〜〜〜〜〜 At toword evening 〜〜〜〜〜

 授業終了後のホームルームというのは担任の教員によってかなり差が出てくる。特に聖光女学院はかなり伝統を重んじる校風であるが故に、長年この学院に勤める教師に当たってしまった場合、ある意味で拷問に近いとも言える時間拘束を強いられる事になる。
 幸いな事に未時のクラスの担任はまだ熟齢と呼ぶには早すぎる年齢の教員であり、生徒達の考えが分かるタイプの人間であったので、帰り際のホームルームは出来るだけ短くなるように計らってくれていた。その分朝のホームルームはかなりバタバタとするが、そこは早く帰れるのならと、生徒達も見事な一致団結を見せてカバーしていた。
 不幸なのは今ここにいない海空のクラスである。
 彼女のクラス担任は典型的な熟齢の教員だった。聖光女学院の卒業生であり、それこそこの学院の伝統、方針に心酔するくらいの人物だった。
 故に、海空のクラスのホームルームはうんざりするほどに長い。
 一度海空をクラスまで迎えに行ったが、そのホームルームのあまりの長さに疲れて止めてしまった程だ。海空も「こればっかりはしょうがないですね」と少し困った顔をして、どうにも呆れている感じだった。
 そして、今日はそのホームルームにどうやらロングが付いているらしい。いつも来る時間をもう十分以上過ぎているのに、彼女はまだこの二人だけの場所――旧校舎の図書室――にこないのだ。
「どうしようかしらねぇ」
 いつも通り大きな机の上に大の字になって寝っ転がりながら未時はボソリと漏らす。
 こうやってこんなに長くここに一人でいるのは随分久しぶりな気がする。ついこの間まで、一人でいる事が当たり前だったのに、何で今はこんなに寂しく感じるのだろう。
 何だか寒かった。
 無駄にまだ電気が通じていて使える暖房で部屋はちゃんと暖かいのに、だけど何だか寒く感じられる。
 自然と体を丸めていた。自分で自分を抱くように体を猫の様に丸めて、目を瞑る。
 彼女がいない。
 ただ、それだけの事なのに、星海未時は無性に時の流れを遅く感じていた。
 気付いた時には寂しさを紛らわすように微睡んでいた。

 ゆっくりと髪に触れられる感触で未時の意識はゆっくりと覚醒する。眠っていたのかという自覚を起きるよりも更に鈍重なスピードで理解して、自分が頭の下に敷いている柔らかい感触にうなりながら頬を埋めた。
 温かい。
 ふかふかとした心地良い感触は未時を更に深いまどろみへと導いていく。
 しかし、それと同時に未時の髪を撫でる優しい手が、未時の意識を嘘みたいに覚醒させていく。
 ゆっくりと瞼を開けた。
「おはようございます、未時」
 他の誰でもない彼女がいた。
 全てが汚れない純白のイメージ。
 シルクの様に流れるさらさらの長い髪も、人形の様な繊細の作りの指先も、艶やかささえ感じさせる綺麗な肌も、全てが純白。まるでそれが当たり前であるかのように、彼女を形成する全てが清らかな白だった。
 そして、当たり前だが身につけている制服も白い。それがあまりにも似合いすぎていて、その色が彼女のためだけにあるのではないかという錯覚を覚えずにはいられない。
 でも、未時はそれが当たり前である事をしっている。だからいつものように寝ぼけ眼で微笑んで、彼女の名を呼んだ。
「おはよう、海空」
 緩慢な動作で手を伸ばし、その絹のような手触りの髪に触れる。
「いつからいたの?」
「一時間くらい前からです」
「起こしてくれれば良かったのに」
「気持ちよさそうに寝てましたから」
 まだ睡魔の潜む未時の声に、海空は淡く笑いながら答える。きっと今まで読んでいたであろうタロットカードの入門書を閉じながら、思い出したかのようにクスリと笑って、「膝枕するともっと気持ちよさそうにするんで、起こすに起こせなくって」と付け加え、海空はやはり堪えられなかったようで小さな声を漏らした。
「もう、そんなに笑わなくても良いじゃない」
 良いながら未時はようやく体を起こして、今まで寝ていた机の上であぐらをかいて、髪を撫でつける。どうやら寝癖は付いていないようだ。
「ごめんなさい」
 謝りながらも海空の笑いは止まらない。我慢しようとはしているようだが、やはり堪えきれないらしい。
「もうっ――」
 それが何だか恥ずかしくて、未時は仕方なく彼女に背を向けた。
 しかし、いつもなら頬の熱を隠してくれるはずの夕焼けが、この季節にはもう二人だけの図書室を照らしていなかった。
 外は既に薄暗く、いつもははっきり見えていた窓の側の大樹が夜にぼやけて見えていた。
「もう、こんなに暗いのね」
「冬が近いですから……」
 ついこの間まではまだ明るかった時間は既に夜に侵されている。これから夜の世界はもっと早く陽の当たる世界を押し狭めてくるのだ。
 そんな当たり前の事を実感すると、何だかまた何とも言えない寂しさが未時の胸に訪れた。
 そして、そんな未時の心中を見透かしたかのように、彼女はそっと未時の手に触れて、言う。
「帰りましょうか」
「……そうね」
 電灯を点ける事は出来るが、本来は使用してはいけない部屋であるのでそういう訳にもいかず、二人は暗くなっってしまえば帰らざる得ない。
 あぁ、そうか。だから私は寂しかったのか――
 未時はそれに気付いた。
 夜が早く来てしまうという事は、自分が彼女――海空といる時間が少なくなるという事だ。
 だから自分はどこか空しくて、悲しかったのか。
そんな事実を呆然と受け入れてしまって、未時の体は何だか重い。受け止めてしまった寂しさが足かせとなって自分の体を拘束しているように感じてならなかった。いつもなら彼女を溜め息混じりに待つ側だったのに、今は彼女が自分を待っている。
 こんな時でも彼女は綺麗だ。
 深まっていく闇を弾くように、白い彼女の存在は浮き立って見える。
 きっと彼女の存在だけは、どれだけ夜が黒くなっても見失わないような気がする。
 いや、見失わない自信があった。
 ――見失いたくない。
 彼女だけは――蒼井 海空という存在だけは見失わないように、未時は体に巻き付いた鎖を振り解く。
「帰りましょうか」
 その言葉を口にした時にはもう体は軽かった。
 軽やかに、飛ぶように未時はふわりと薄闇の中を降り立った。
 どちらから言うわけでもなく二人は自然と手をつなぎ、寄り添うように帰路につく。
 程良く温かかった図書室の外は思ったよりも暗く、予想していたよりも早く冬がやってくるのではないだろうかという肌寒さを伴っていた。
 二人の距離は自然と更に縮まり、腕が絡む程に近づいた。
「思ったより寒いわね」
「そうですね」
 そんなやりとりがもどかしい。
 まだ遠い。
 もっと近くで触れていたい。
 そんな思いを共有しているのが互いに分かる。
 二人の距離はそんな距離だ。
 どれだけ互いの事を愛おしく感じても、その距離は絶対に零になる事がない遠さ。
 確かにそれはもどかしいけれど、だからこそ互いを感じられる事を彼女達は知っている。
 愛おしいからこそ、その距離は絶対的な遠さを譲らない。
 それが彼女達の触れ合える距離。
 きっとそれくらいの、一つになれないくらいの遠さが丁度良い。
「そういえばお昼の話の続きはどうしましょうか?」
 未時は今頃になって大事な講義を思い出す。
「それなら大丈夫です。ちゃんともう頭の中に入ってますから。帰りながらでも十分に講義は出来るんですよ?」
「そう、それなら遠回りして帰りましょう」
「はい」
 理由とかそんなモノは後付で良い。大事なのは少しでも長く一緒にいられる事。どの道を通ろうとか、どこに寄り道しようとか、それさえも全部口実に過ぎないのだ。
 少しでも長く一緒にいれて、笑い合える。その事実が大事なのだ。
 その事実を口にしないまま、二人の影は暗闇の中にうっすらと浮かぶ門を潜る。
 丁度その時、学院の鐘が本日最後の音色を暗闇を割くように鳴り響かせた。
 その音に少しビクリと体を震わせた海空が可愛くて、未時はついつい声を漏らして笑ってしまう。さっき笑われたお返しだ。
 笑ってしまった事に怒る海空の手を少し強く握り、未時はそう思いながらちらりと夜になった空を見上げた。
 そこにはもう澄んだ綺麗な月が浮かんでいる。
 今年は雪が降れば良いのに。
 月を見上げた時にそんな事をふと思う。雪夜の中を歩く海空はきっと絵になるだろう。それを見るためだけに、雪の降るような寒さを我慢するのも良いかもしれない。
 そう思うとまた顔が綻んでしまう。
 そして、それを見た海空がまた自分が笑われているのだと勘違いしてはムスリと頬を膨らませる。
 そんな彼女に苦笑しながら、未時はまた空を見上げた。もう、夜がそこまで来ているのを全身で感じられる。
 益々深まっていく夜と消え行く鐘の音が、また少し白い季節を近づけた気がした。


                                 Prelude Zero Episode6“愛しい貴女に届く距離”Fine.


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