The Witch of Mist



 すれ違う者達はこぞって会釈をして通り過ぎていく。等間隔で浮かぶ照明用の光球は勿論魔術によるもので、明るすぎず、暗すぎずの適度な明るさを二十四時間保っている。これらの照明は全てが独立した魔術式で組まれていて、その術式はそうたいして難しい物ではない。
 現にこの廊下を照らす照明はそのほとんどが修行中の魔術師達によって作られた物だ。
 だからその構成論理は一つ一つが微妙に違うし、中には他者とまったく共通点を持っていない論理構造で作られている照明もある。もっとも、こうやって並んでいる照明には全てまた別の論理を用いて光量、光色を同一に調整するような魔術が施されているので端から見れば全く分からないのだが。
 それにしてもいつ来ても面白味のない場所だと彼は思った。
 まるで自分のようだと思わないでもない。
 彼には特にこれといって特徴と呼べるモノが無かった。それでも無理矢理に上げろと言うのなら、特徴が無い事こそが特徴だと言うしかない。上背も平均より少し上程度で、肉付きもやや細めといった程度。全てが完璧に平均という訳でもないだけに、彼の印象には余計に霧がかかってしまう。
 しかし、それはそれで面白いと彼は思う。
 まさに名は体を表すという諺は正しいということだからだ。
 霧羽 総弥(きりはね そうや)。
 それが彼を特定する個体名である。
 しかし、彼を彼と呼ぶ事は出来ても彼自身を人と呼ぶとなるといくらかはばかるものがあるだろう。
 それは彼が“魔術師”と呼ばれる存在であるからだ。
 魔術師、それは人という存在と一線を置かなければならない別の存在と呼んで偽り無い。
 世界の論理を自らの論理に置き換えて構築し、その世界を意図して操作する。
 それは時としてライターでも代用が効いてしまうような慎ましい炎だったりもすれば、どう考えても超常現象としか呼びようのない様な奇跡だったりする。
 どれを美徳とし、何に重点を置くのか。それさえも個々の論理によっては異なり、違う奇跡を生み出す。
 それこそが魔術であり、それを駆使出来る者が魔術師と呼ばれる。
 霧羽もそんな魔術師の一人である。
 彼の手には厳重に封印を掛けられた一冊の書物があった。
 “ノストラダムスの予見書”である。
 つい先日彼がとある場所より強奪まがいの手段で取り戻してきた物だ。
 場所が場所だっただけに大した手間ではないと判断したため、そこにはとある少女を連れて行ったのだが、それは彼女にとって良い刺激になったと霧羽は判断していた。
 彼女の名は星海 未時(ほしうみ みとき)という。
 彼女の性質はまさに天性の魔術師そのものだったと言えた。世間に流されない独特の感性と論理思考。そして一目見た時に感じさせられた圧倒的な潜在能力には正直脱帽の思いすら抱いた程だ。その才能は数千分の一などでは語れない、万、いや億だと言われても恐らく名のある魔術師達は皆納得するだろう。
 惜しむらくは会うタイミングが遅かったという事か。いや、彼女の精神が早熟過ぎたと言うべきかもしれない。
 未時の精神の熟し方は既に練達の魔術師に近いモノがあった。
 すなわち独自の世界観の確立。
 魔術師が魔術を行使する為に最も必要なモノはその魔術師の中で絶対的に成立する魔術論理である。
 “火を起こす”、という単純な作業の手段は幾通りもあり、更にそれをどこから“火を起こす”という動作の完了として認めるのか。それはまさに人それぞれである。人によってはライターを灯すだけの人もいれば、それを使って焚き火を行い始めて完了という者もいるだろう。魔術師における独自の魔術論理もこれと同じ事で、つまりその人にとってある行動を起こす為に踏む手順を特定のモノに限定し、それこそがその人の中で絶対的な動作として確立することが魔術論理の確立になるのである。
 しかし、魔術論理の構築は確かに魔術師が魔術を行使する為に最も必要なモノではあるが、魔術を行使する上で最も重要視しなければいけない要因ではない。正しく言うのなら、魔術論理とは魔術を行使する為に最低限必要なモノでしかないのである。
 強者と称される魔術師達は皆、更にその上の論理を構築している。
 つまりはそれが“独自の世界観の確立”なのである。
 魔術師が独自の世界観を確立するという事はその魔術論理を大きく補強することに繋がる。どれだけその論理を補強出来るかで、その魔術師の行使する力の強さが決まると言っても過言ではない程である。
 言うまでもなく今まで全てと言っても良いほど魔術師達はまず自らの論理を構築する。
 そしてその論理を何度も見つめ直し、より強固に確立していく内に自然と自らがどういう世界観を築いているのかを悟るのである。これは本来誰もが気付いていないながらも自然と内包しているモノだ。
 しかし、内包しているからこそそれには気付きにくい。
 その上で更にその世界観を確立させなければいけないというのは非常に難しい。
 イメージではいけないのだ。誰に何と言われようとも、その論理が揺るがないまでに強固な世界観を築かなければいけないのである。
 ここまで言えばそれがどれだけ困難であるかが分かるはずだ。ただ自らの中でだけ組み上げれば良い魔術論理と、それを補強し周囲を全て巻き込める程の世界観の確立。どちらが難しいか等一目瞭然である。
 だが、どうやら彼女はその真逆を行っているらしい。
 彼女は霧羽が出会った時、既にその世界観を獲得していたのだ。
 霧羽がその事に気が付いたのは未時が彼の魔術に干渉することが出来た時だった。ただの人払いの魔術であるが、それでもされど魔術。まだ魔術の世界に足を踏み入れたばかりの彼女が干渉出来るとは考え難い。
 しかし、彼女はやってのけた。
 さも、それが当たり前だと言わんばかりにあっさりと。
 霧羽はそれを見た時感嘆を覚え、先が楽しみだと感じた。こんなにも他人の先を見てみたいと思ったのは何年ぶりだろうかと感じた自分自身に驚いた程だ。
 だから彼は星海 未時という存在に目を掛けたくなるなるのだろうと思う。その方法はかなり強引な物であることは重々承知しているが、彼女がそれくらいで潰れたりはしないだろう事も彼は知っていた。
 まだ多少引きずっている感はあるが、彼女はきっとそれを乗り越えるだろう。
 なぜなら――
 つぅっと指の先を予見書を舐めるように走らせる。
「どうも」
 書物を持った手を軽く掲げて彼は中にいるであろう人物に声を掛けた。
 少し色あせた金髪をオールバックにした見た目には中年だと思われる男がそこにいた。威厳のある物腰はそれだけで彼が熟練の魔術師であることを感じさせる。言葉を吐かずとも感じられる威圧感とそれを補強する真っ黒なローブはまさに典型的な魔術師のイメージだろう。
 彼はジェイル・バリアンテ。ここ十年の年月の間、“ノストラダムスの予見書”の管理を任されたギルド――緩慢なる揺り籠(ラックスクレイドル)のギルドマスターである。緩慢という名ではあるがジェイル・バリアンテの通り名はそれとは対であったりする。
 地獄の業火(ヘルフレイム)。
 彼の逆鱗に触れた者はその灰すら残らないというのはこの世界では良く聞く実話の一つである。
「相変わらず早い仕事ですな。流石は――と言うところですか」
「行き着いた先が先でしたからね。楽なものですよ。貴方なら後始末も含めてもっと早く終わっていたでしょうね」
「いえいえ、ご謙遜を……」
 二人の話し方はその外見と比べて、本来正しく発するモノとは真逆だった。バリアンテがどこか緊張したような声色で、霧羽には余裕と軽さが感じられた。
「何はともあれこの度は助かりました。我がギルドを助けて頂いた御恩にはいつか報いさせて頂きますよ」
「そうですか、では早速お願いがあるのですが……」
 媚びるような言葉を聞いて、霧羽は即座に切り返す。彼はそこで余裕を持って「お気になさらず」などと言う程優しくない。返して貰えると言うのならすぐにでも返して貰う。
「何でしょうか?我々に出来る事であれば何なりと――」
「ご心配なく。貴方一人で、しかも今すぐに片が付きますので」
 遮るように霧羽は言葉を吐く。誰でも好きでもない事をするのは苦痛だし、好ましくもない相手と会話をするなど拷問も良いところだろう。
 もっとも、例えどんな拷問であろうと彼に苦痛を与える事など出来ないのだが。
「単刀直入に言うと、どういう理由で貴方の論理は腐り落ちたのかという事をお聞きしたいのですよ」
 魔術師の論理を侮辱するという事。これは魔術師相手に対して最大限の侮蔑に当たる。簡単に言ってしまうと「あんたの魔術は弱い」と面と向かって言っているのと同じ事になるからだ。
 それを霧羽はあっさりと言う。
 多くの偉業を成し遂げ、地獄の業火の異名すら携える彼に向かって。
 霧羽 総弥は“まだ年若き魔術師”に向かってそう言ったのである。
 バリアンテが片手を乗せていた机が一瞬にして溶けた。灰になる間も与えられずに燃え尽きたのである。
「冗談も休み休み言うべきだと思いますが?」
 燻る絨毯の音とは対照的に彼の感情には既に煉獄が巻き付いている。
「理解出来ませんでしたか?これでも優しく言ったつもりなんですが」
 しかし、熱さなど感じないと言いたそうに霧羽は涼しい顔で、既知となっている事実を述べる。いや、それは彼なりの嘲りの顔だったのかもしれない。
「では単刀直入に申し上げましょう。何故予見書を世に流したのか、と聞いているのです」
 霧羽はそう言って手の中にある偉大な魔術師の産物を掲げた。
 辿り着くのはごく自然なことだった。
 むしろ単純な道筋だからこそ除外していた。
 いくつもの名の知れたギルドが厳重に持ち回りで管理する事を誓い合った書物が盗み出された。犯人は勿論魔術師で、そんな事が出来る魔術師なんてそれこそ限られている。しかし、行き着いた先にいたのは既にそれを厄介払いしてしまった二流の魔術師とそれを汚れた金で買い取ったただの暴力団。例え彼等がどれほど結託していたとしても、厳重に管理された予見書を盗み出すなど不可能である。
 ただ、誰かが手引きしていれば別であるが――
 灯台下暗し。今回のケースはまさにそれだった。
 まさか、自分達に予見書の捜索を命じた偉大なるギルドマスターの一人が犯人だったなんてまだ修行中と言える彼等には想像も出来なかったに違いない。まぁ、だからこそ彼等は彼に選ばれたのであろうが。
「そういえば、貴方は人間嫌いを歌う派閥の右翼でしたね。どうせ動機もそんな所なんでしょう?」
 もう、確認することすら面倒臭い。呆れるのを通り越して笑いだって漏れてくる。
 理由など別に聞きたくもない。大事なのは魔術師ジェイル・バリアンテが罪人であるか否かのただ一点のみ。
 そして彼はそれを認めた。
 言葉ではなく、紅蓮の業火をその身に侍らせることで。
「昇華せよッ」
 弾ける言葉に示されるまま、霧羽に一瞬にして炎が戯れる。香ばしい燻りが香るよりも早く、炎は絡みついて燃え上がる。
 その空間に。
「相変わらずせっかちですね。そして、だからこそ、貴方は常に一歩詰めが甘い」
 その部屋の反対側に彼はいた。
 片手に事の発端となった“ノストラダムスの予見書”を携えたまま。ローブに少しの焦げ目すら付ける事なく偉大なる魔術師がそこにいる。
 遥か最古の魔術師が一人にして、濃霧の道化師。
 偉大なる魔術論理とその功績に誰もが畏怖と敬意を払い、憧れと恐怖を感じずにはいられない。歴戦に上がるいくつもの大戦に参加していながらも、彼の体を穿つ術はなかったとすら言われている。
 死なずの霞――
 気付いた時にはそんな通り名が一人歩きしていた。誰が名付けた訳でもなく、勿論、霧羽 総弥自身が触れて回ったわけでもない。自然と呼称は広まり続けた。
 それはまさに彼が強者であるが故――
「散れッ!」
 先程よりも強い声がスペルとなって飛んだ。迷うことなく、数秒前より強力な炎が空間を穿つ。
 しかし、やはりそこには何も存在せず、炎はただ空気とその空間の周囲を弾くだけ。
「こんな所で物騒ですよ。折角の貴重な書物が塵になってしまいます」
 バリアンテが察した時、霧羽は既に彼の眼前にいた。自らの心配ではなく、この部屋で埃を被って久しい魔術書達の心配して。
「朽ち果て――」
「場所を変えましょうか」
 バリアンテのスペルよりも早く、霧羽の手が彼の胸に触れた。
 ただ、それだけであったのにも関わらず、バリアンテは本能でそれを危険と感じ取り、体中を駆け巡る魔力をその一点に結集。全力でその一点に防御魔術を展開した。
 直後、尋常ではない衝撃が彼の体を襲った。
 全身がミシリと軋んだ。その場で耐える事など許されず、口内に錆びた味を感じながらバリアンテは自身の部屋から弾き出された。勿論、ドアからという優しいものではなく、荒々しく窓をぶち破って。
 カハッと赤く染まった息を吐き出しながらも背中で炎を破裂させて大地を割り、どうにか地面に叩き付けられるのだけは回避する。衝撃を受けた部分に手を宛い感触を確かめる。予想するまでもなかったことだが、肋骨の二、三本は確実に折れている。痛みの感覚からすると内臓までいったかもしれない。
「ここはやはりと賛辞を送るべきなんでしょうかね?」
 どうにか立ち上がりながらも口から出たのは、挑発めいた言葉だけだった。そして彼は笑っていた。心が高揚しているのが分かる。
 思えばいつ以来だろうか。自分と同列かそれ以上の魔術師と自らの論理を競い合うのは――
 拳に炎をまとわりつかせ握り混む。自分の信じる論理が上か、目の前の偉大な魔術師が信じる論理が上か。今はそれだけを考える。
「どちらでも――」
 霧羽は冷たくあしらうように地に降り立った。
「どう言葉を紡ごうと貴方の火が今日以降燃えることはありませんので」
「勝利宣言ですか」
「ええ、まぁ」
 そう言って霧羽はローブの左袖を掲げて揺らす。
 そこには肘から先ほんの数秒前まであって、勿論今もあるはずの腕がなかった。
 それを見た瞬間にバリアンテはハッと背後を振り返った。
 グバリと広がる大口があった。
 霧竜魔術(ミストドラゴン)ッ!!
 思うよりも早く、炎を使役。靴底に炎を集中させて一気に爆発させる。
 爆風は霧竜がバリアンテの体を喰らうよりも早く彼の体を十メートル程の距離に運ぶ。
「爆ぜよッ!」
 霧系の召還魔術に対しての直接攻撃は全くの無意味だ。それは雲を捕まえようとするのと同じである。
 しかし、だからといって対抗手段が無い訳ではない。その答えがこれである。
 竜が再び迫るよりも先に竜の眼前に炎弾が叩き付ける。巻き起こる土砂と、風。目を開けていられない程の爆風が土砂を運ぶのと同時に、霧竜に襲いかかった。
 爆風は霧竜を喰らわんばかりの勢いで迫り、そのまま竜を掻き飛ばした。ターゲットが霧の竜であるが故の対処法である。
「なかなかやりますね。今のでチェックかと思ったんですけど」
「私も一応はこれでもギルドマスターの端くれですので」
「そういえばそうでしたね。すっかり忘れてました」
 いつの間にか戻った左腕に予見書を持ち替えて霧羽はバリアンテを挑発する。
 本来ならば数十秒の詠唱を要する召竜系魔術だが、霧羽はそれを無詠唱で行使する事が出来る。それは一重に彼の魔術の特性に寄る。
 霧羽 総弥の魔術媒体は“霧”。
 彼は自らの魔術論理によって本来の霧以上にそれを柔軟に扱う事が出来る。霧による目眩ましに幻術などは勿論のことであるが、自らを霧化しての攻撃回避、移動などもお手の物である。彼が今までの大戦を乗り越えてきたのは一重にこれに依存するものが大きい。先日予見書を取り返す際の魔術もこれによって構築されている。
 すなわち霧化による銃弾回避と幻術を組み合わせ、更にそこから霧となった自らを媒体にして攻勢魔術を展開していたのである。霧も凝固してしまえば水である。そうなってしまえばいくらでも殲滅の術はあるというものだ。
 先の霧竜魔術もこれを応用したものの一つである。元々数十秒必要な召竜魔術を自らの体を媒体にした霧を更に媒体にして発動する事でスペル詠唱の必要をなくしたのである。
 勿論これは即席で出来るような容易な技術ではなく、単に自らの体を霧として扱えば良いという訳でもない。それを扱うに足る強い魔力とそれを補って余りある確固たる魔術論理が必要なのは言うまでもない。
「あまりにもつまらないもので」
 続けてそう言って霧羽はローブで隠れた腹部をちらつかせた。
 空洞となった腹部を。
「ッ!!」
 バリアンテが反射的に背後を振り返る。
 しかし、それが致命的だった。
 又しても不意打ちは背後からという常套手段は霧羽は用いなかった。裏の裏。つまりは正々堂々と正面からの攻撃。単純な霧を凝固させ水として用いた造形魔術。その形状は円錐。大地から生えるように真っ直ぐと綺麗な円錐がバリアンテの体を貫いていた。
「ガ、ハッ!!」
「今言ったばかりじゃないですか。つまらないって。同じ手を二度使ってあげる程僕は素直じゃないんですよ」
 「だからほら、僕はこんな事もしちゃうんですよ」そう言って指を鳴らす。
 パチリと響く音に合わせて円錐からいくつもの枝が生え、それは木へと成長する。成長のスピードは一瞬で、一数えるよりも早くバリアンテの体を貫くまで枝は伸びている。伸びた枝の先から滴る血は、散りゆく花弁にも落ち葉にも見える。
 だが、ジェイル・バリアンテも名うての魔術師。このまま朽ちていくほど彼の魔術論理もまた弱くはない。彼の心はまだ折れていない。
「昇華せよッ!」
 血が大地に染み行く寸前に消失する。
 炎がバリアンテを包み込む。轟々と激しく燃え、彼から流れ出る血を片っ端から蒸発させていく。
「なるほど。大したものです」
 霧羽が眺める中、バリアンテを包む炎は益々大きくなっていく。
 そしてそれに比例して、彼を貫いていた木は火で氷を炙るかのように小さくなっていく。全てを空へと返すのに要した時間はものの二秒程。その間に傷口を炎で焼き、出血を止める事も忘れない。恒久的な痛みは伴うが、血を流し続けるよりは遥かに良い。
 炎は円錐を全て焼き尽くした後も絶えることなく燃え続け、徐々に一点――彼の右手に収縮する。
 炎の造形魔術で形作られたのは二メートルにも届くだろうバスターソード。その形状は東洋で言う青龍刀に近いものがある。そういえば彼は人間嫌いのくせに、東洋好きで知られた魔術師の一人でもあったかと霧羽の脳裏にどうでも良い事がよぎる。
 そんな事すら考える余裕があるほど霧羽には余裕があった。
 対するバリアンテは最早冷静という言葉からは程遠かった。まだ理性はどうにか保てているが、対峙する魔術師ほどの余裕は欠片も持ち合わせていない。常に戦略を思考し、魔力を全身に張り巡らせておかなければ意識が途切れてしまいそうだった。
 やはり圧倒的な力量差。
 あらかじめ予想してはいたが、まさかここまでとはバリアンテ自身思っていなかった。
 しかし、だからこそ付け込む場所というのもあるものだ。確実な事は霧羽がまだ全力ではないということだ。そこにまだバリアンテが付け込む隙がある。
 と、本人は思っていた。
 それこそが油断であり、隙であるとは気付いていなかった。
「し――」
 スペルを詠唱しようとしたその一文字目が彼の辞世の句となった。
「余計な事を考え過ぎなんですよ貴方は」
 呆れるように霧羽が告げる。
「もっとも、もう聞こえていないと思いますが」
 そう言った頃になってようやく彼の腹部に感覚が戻る。
 トリックは単純明快。霧羽の造形魔術が木を模したという事が撒かれた種であり、本来の目的はそこに無かっただけの事。彼の造形魔術がバリアンテの腹部を貫いた時点で決着は付いていたのだ。少しでも傷を付けられれば良い。そうする事によって彼の魔術によって操られた水分は相手の体内に入り込み、内側から相手を破壊する。
 人の成分は実に約六〇%が水で出来ている。半分以上が水分である人体に入り込むなど容易な事だ。
 その何よりの照明が今目の前で散った一人の魔術師の哀れな末路。
 せめてもの慈悲として首を中心にして十字に刻んだ。彼が献身的なクリスチャンかどうかは知らないが、何もしないより幾らかはマシかもしれない。
 ついでのサービスに火葬まで施してやる。滅多に使わない炎系統の魔術を行使するのも霧羽なりの配慮である。
 少し彼女に感化されたのかもしれないと霧羽 総弥は考える。
 今までの自分ならそんな事は絶対にしなかっただろうし、もっと短時間で戦闘を終わらせていた。欠片にも満たないとは言え、粒ほどの希望を与えてしまう事さえ今までの彼にはあり得ないことだった。
 そんな彼を知ったら彼女は何と思うだろうか。いつものように冷めた笑みを見せるのか、それとも――
 かぶりを振って、考えるのを止める。
 全ては憶測に過ぎないから。
 兎に角として、これで自分に依頼された件は全て片付けた事になる。すなわち、“ノストラダムスの予見書の奪還とその原因の究明に犯人の排除”。多少寄り道はしたが、それに見合うだけのモノは十分に得ているだろう。
 またしばらくは暇になるに違いない。霧羽が手を下さなければならないような事はそうそう起こったりはしない。“緩慢なる揺り籠(ラックスクレイドル)”にまだ所属している魔術師達の行き着く先も気にならなくもないが、それはどうにでもなるだろう。新たにマスターを選出するかもしれないし、ギルドも一つではない。そもそも、魔術師自体が孤独をほとんど苦としない者達ばかりである。放っておいても、何も起こらない可能性の方が高いだろう。
 それよりも気になるのは一人の魔術師である少女の事だった。
 星海 未時。
 彼女がこれからどういう道を築くのかが非常に楽しみだ。
 しばらくはその軌跡を傍観者として眺めてみるのも良いだろう。
 時が動くのもそう遠くないような気がする。
 霧羽はこういう予感をほとんど完璧と言って良いくらいに外さない。それが未来予知とか今手にする予見書のように確実なものとは程遠いが、それでも外れないのだから便利だと思う。
 さて、彼女は一体何を見せてくれるのだろうか。
 思いを馳せる魔術師の体が透き通っていく。ついさっきまで自分がそこで何をしていたかさえ忘れてしまったんじゃないかと思えるくらいに清々しい笑みを浮かべて。
 名残惜しむと言うよりは勿体ぶるようにゆっくりと、霧の魔術師はその姿を消していく。
 数十秒して彼の姿は完璧に世界の中に溶けて消えた。
 そこには誰の気配もなく、何かが焦げた匂いと鉄錆の匂いが混じり合った異臭が申し訳ばかりに漂っていた。立派だった中庭はまるで廃墟の様な光景へと変貌していた。


                                   Prelude Zero Episode5“The Witch of Mist”Fine.


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