Force of the Witch



 魔術師の存在というものは基本的に秘匿とされている。
 しかし、それは裏を返せばそうでない所では知る者も存在するという事である。
 それは例えば各国政府の上層部であったり、古くからその国に存在するある種のカルト団体であったり。
 また、気付けばどの国にも等しく、深く根を張っている黒い存在であったり……

 何故、彼はこういつもいつもタイミングの悪い時、悪い時に自分を呼び出すのだろうか?
 最近ではこれが彼女――星海 未時(ほしうみ みとき)の脳内会議での主な議題の一つになりつつあった。
 いつものように放課後を旧校舎の図書室で蒼伊 海空(あおい みそら)と二人で過ごしていたところを急に呼び出されたのだ。こんなことなら携帯など持たなければ良かったとすら思う。
 海空と過ごす放課後は今の未時には何よりも尊い時間になっていた。
 特に何か特別な事がある訳ではない。
 しかし、未時にとっては彼女と過ごす時間全てが特別だ。
 理由などなく、ただ愛おしい。
 蒼伊 海空と過ごす時間というのは未時にとってそんな心地良い時間である。
 それは今日も変わらなかった。未時は陽の当たるテーブルの上で微睡み、その傍らで海空が静かに読書するといういつもの光景。
 が、微睡む中で携帯が鳴った。
 霧羽 総弥(きりばね そうや)。
 彼は未時のボーイフレンドでも友達でもない。ただ未時と同じ存在なだけである。
 すなわち、魔術師。
 彼は未時よりも遥かに長い時間を魔術師として過ごしている。未時との関係は師弟に近いと言えるだろう。
 しかし、あくまでも近いのであって、二人の関係は師弟のそれではない。
 霧羽は時として思い出したかのようにポツリと何かを漏らす事はあるが、何かを積極的に教える事はない。また、逆も同じで未時もたまに何かを尋ねる事はあっても、教えを請う事はない。
 しっかりとした言葉を当てはめるなら、それはきっとただの顔見知りの同業者と言った方がしっくりと来るだろう。少なくとも魔術師、星海 未時にとって二人の関係はそんな曖昧なものなのである。
 そして未時はいつものカフェテリアにいた。
 霧羽と会う場所が常にここだからだ。特に決めた訳でもないが、他にどこか待ち合わせをするような場所も思いつかない。また、そうする理由もない。
 席もいつもと同じ場所、外に設けられたオープンテラスの一角。そこだけが何故かいつも空いている。
 未時がそうするように仕向けた覚えはないため、恐らくは霧羽が何か小細工をしているのだろう。あのうさんくさい微笑をいつも浮かべる男なら十分に考えられることだ。
 いつもは霧羽が先に来ているのだが、今日は未時の方が早かったようだ。
 ウエイトレスがメニュー表を持って、注文を聴く姿勢で待っている。
 この際なので甘味成分を補給してしまおうと思う。
 適当にザッと数種のデザートを注文する。飲み物も一緒に注文している。今日の飲み物はダージリンのレモンティーだ。
 本来ならストレートが一番適した飲み方らしいのだが、未時はそういうのを気にしない。飲みたい時に、飲みたい飲み方で楽しめば良いと思う。今日の気分がたまたまレモンティーを飲みたい気分だったので、そうしただけのことだ。茶葉の種類もいつも適当である。
 頼んだメニューが来るまで手持ち無沙汰になる。海空とメールアドレスでも交換出来れば良いのにと思うが、残念な事に彼女は携帯電話を持っていなかった。いつか一緒に見に行こうと約束はしたが、いつかは決めていなかった。とりあえず早い内に機会を見つけて見に行こうと未時は忘れないように心にメモ書きをする。
 数分ほどしてウエイトレスが大量のデザートを盆に載せ抱えるようにして持ってきた。「一人で食べるのかしら?」という明らかに不思議がる視線を向けられたが気にしない。
 そういえばいつもは霧羽の魔術のせいでこういった奇異な視線を向けられる事はなかったのだと思うと、彼の魔術に多少の有り難みを感じないでもない。
 しかし、結局未時はそれほど気にしている訳でもないので別にどうでも良いことだった。今、一番重要なのはこのまま食べ終わっても一向に霧羽が来ないという事態になった場合、ここの会計を自分で払わなければいけないということである。
 要するに未時はここの支払いをハナから自分で払う気がないのだ。
 だから未時は霧羽が来ないと困るのであった。
 未時が頼んだメニューのほとんどを食べ終わるかどうかの頃になってようやく、その空間に変化が訪れた。
 それは誰も気付く事が出来ないような変化である。見た目には何も変わらず、異臭が漂いだした訳でもない。
 しかし、そこは今までの世界とは何かが違っていた。
 それは魔術師にしか感じ取れないような変化。
 指先に走るチリチリとした感覚。肌で感じていた空気が這い回るような感覚をわずかに含み、緊張感を感じさせる。
「遅かったのね」
「少し調べ物をしていたもので」
「遅れたんだから奢りなさいよ」
「いつもちゃんとご馳走してるじゃないですか」
「今日は遠慮しないわ」
「遠慮してたんですか?」
「どうだったかしら?」
 未時はとりあえず気付けば向かいの席に座っていた霧羽に奢らせる事を約束させ、メニューを手に取り、追加注文の選別に入った。まだ食べた事のないメニューから数種を選択する。勿論、全てがスイーツ。
 ウエイトレスを呼び付け追加注文を言いつける。
 彼女が最初の注文も取りに来たウエイトレスであったために、未時はまたしても怪訝な視線を浴びる事になったがやはり気にしなかった。用件を言い終えると未時はウエイトレスが距離を取るよりも早く、話を切り出した。
「で、今日の用件は何?」
 既に周囲からの視線は全く感じられない。
 霧羽の魔術によって二人の存在は認識されているが、そこにはいないものとして扱われるという非常に曖昧な存在に改算されているからである。それは音声も同様で、会話の内容を他人に聞かれる事もない。
「また変な魔術の話だったら面倒くさいから帰るわよ。勿論、食べ終わってから」
 未時の自己中心的な発言を霧羽はいつもの軽い笑みで受け流す。
「それからその表情何とかならないの?胡散臭いのよね」
「僕の場合、これが普通なんですよ」
「どうだか」
 人が見ればそのほとんどが好感を抱くであろうこの魔術師のいつもの表情が、未時はあまり気に食わなかった。むしろ嫌いであると面と向かって言える。
 それは星海 未時という人物が魔術師であるからこそ感じる嫌悪感のようなものなのだろうと彼女自身は解釈していた。もっともこれがただの人間であっても、自分は恐らく似たような感情を抱くだろうが。
「とりあえず、僕の事は置いておきましょう。それよりも明日はお暇ですか?」
「とっても忙しいわ」
「それは良かった」
 気付けば霧羽は未時の背後にいた。
「暇なんですね」
 霧羽はその手にシンプルなデザインの手帳を持っていた。カバーの隅には小さくロゴが入っている。
 聖光女学院。
 言うまでもなく未時の物である。
「……次やったら殺すわ」
「気を付けましょう」
 二度とやらないと口にしないからにはまたやるに違いない。未時はそう思いながら霧羽から自分の手帳を奪い取る。元を正せば自分が忙しいと嘘を付いた所に非があるのだが、そんなことは既に棚の上どころか雲の上である。
「それで?明日は何をするって言うの?」
 行かざるを得ないだろうという事は分かっているのだが、どっちにしろ面倒臭い事に変わりないので、未時は全面に気怠さを出して尋ねた。勿論、これで明日の予定が再び空く訳でもないことも理解している。
 が、それでもやらない事には未時の気持ちは少しも収まらないので仕方がない。むしろこんな事で明日の予定がキャンセルになるくらいならいくらでもやりたいくらいだ。毎回やられる方はたまったものではないだろうが、やっぱりそんなことは気にしない。
「少し遠出するので御一緒して頂きたいのですよ」
「何処に?」
「とても大きなお屋敷です。美味しいお菓子も食べられると思いますよ?」
「それは良いけど、何しに行くのよ?」
 お菓子と聞いて少し機嫌が良くなるのはいつもの事だ。
「あるモノを返して頂こうと思いまして」
 霧羽はいつの間にかまた向かいの席に座って、いつもの笑顔でコーヒーを口にしながらそう言った。
 未時にはその顔がいつもと違う笑顔として映って見えた気がした。

 そこは確かに大きな屋敷だった。
 代表的な日本家屋と言っても良いだろう。
 二トントラックすら楽々と通れそうなくらい巨大で、年季の入った門が二人を出迎えた。取り囲むような垣根は黒々と光っていて、威厳というモノを感じさせる作りだった。
 ただし、それは何も知らない人が見ればの話である。
 門は鈍い鉄の光沢を放っているが、実は手榴弾程度の爆撃なら容易に耐えるような特殊合金だし、垣根を形成している板だって、合成素材で作られていて、銃弾を弾く強度だ。今の御時世に日本でそこまでして防犯を強化する必要があるのかと聞かれれば、そんなことはないだろうと未時は即答する。
 しかし、それはあくまでも俗世に住む人が相手ならの話だ。
 未時は門と垣根の話を霧羽から聞いて、何となく納得する。その家からはまだ入っていないのにも関わらず、張りつめるようなピリピリとした空気が感じられるからである。
 やはり来なければ良かったと思う。
 溜め息混じりに霧羽に視線を向けると彼はちょうど門にあるインターホンを押したところだった。
「こんにちわ。私、霧羽 総弥という魔術師ですが」
 いきなりカミングアウトしていた。
 確かにこれくらい大きな屋敷の人間なら魔術師の存在を知っていても良いかもしれないが、それをインターホンで告げてしまっても良いモノだろうか?こういう屋敷だからこそ客の対応をする為の人間がいると思うのだが。
 簡易な会話を終えて、待つ事数分。
 未時の心配をよそに門はあっさりと内側に開いた。
 そして未時はやっぱりと思う。
 出迎えには屈強な男が数名。
 その誰もが黒スーツで、中の一人は頬に斬り傷をこさえていた。
 どこからどう見てもヤクザである。
 屋敷の中を歩いていくと、いくつもの黒スーツとすれ違う。その誰もが未時と霧羽に怪訝で、威嚇するような視線と殺気を後ろから向ける為に立ち止まり、遠ざかっていった。
「聞いてないんだけど」
「言ってませんから」
「あんたとりあえず、歯食いしばりなさい」
 凄まじい笑顔を見せながら、拳を強く握りしめる。
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ。きっと美味しいお菓子は食べれますから」
「……それも嘘なら覚悟しときなさいよ」
 結局、未時にとっての一番大事な問題はそこなのだった。
 先導して歩いているヤの字の人たちが呆れかえっていたのは言うまでもない。

「ケーキおかわりッ!」
 未時は上機嫌だった。
 それというのも出されたケーキが知る人ぞ知る名店の美味しい物だったからである。
 ただ、不満な点を挙げるのなら、それは飲み物がコーヒーしか出てこないことだった。一杯に対して角砂糖を四個とミルクをたっぷり入れるがそれでもいつも飲むミルクティーやレモンティーには敵わないと思う。未時はコーヒー特有の苦みが余り好きではないのだ。
「おまたせしました」
 強面のおっさんがケーキを持ってくる。こめかみの辺りがヒクヒクしているような気がしないでもない。
 今の未時にとって彼等はカフェテリアのウエイトレスと変わらなかった。ちなみにケーキはこれで六個目であるが、食べるスピードは衰えるどころか加速しているような気がする。ついでに、本人はまだまだ食べる気でいたりする。
「それで魔術師様がこの騎龍会に本日はどのような御用件でしょうか?」
 騎龍会というのがこのヤクザ達の組の名前らしい。
 そういえばどうしてヤクザとかいうのは虎とか龍とかそういう名前が好きなのだろうかと、未時はケーキをぱくつきながら考える。実際にそういった名前が多いのかどうかは知らないが、良く聞く名前というかイメージで浮かぶヤクザの名前にはそういうのが多い気がする。ついでに悪趣味というのがお約束だ。
「騎龍会としては魔術師様に訪れられるような事柄は何一つとして、身に覚えがない訳ですが?」
 恐らくは彼がこの騎龍会の組長なのだろう。他のヤクザよりも身につけている装飾品が無駄に高価だし、叩き付けてくる圧力も多少上だ。
 もっとも、やはり未時にはそんなことどうでも良い訳で、そういうのは霧羽がやれば良いと思っている。彼女がここに来た目的も既にケーキにすり替わっている。
「次、ちょうだ〜い」
 組長の言葉を無視しておかわりを言い付ける。
 組長のスキンヘッドにもついに血管が浮き出てきたような気がする。勿論、未時はそれで遠慮などしない。
「いえいえ、そんなことはないでしょう?」
 ゆっくりと時間を掛けてコーヒーを飲み終わった霧羽がようやく口を開いた。ちなみに彼はコーヒーをブラックで飲んでいた。未時には言わせれば信じられない飲み方である。
「僕達の調査に間違いはないはずです。何故なら僕達魔術師は完璧主義者の集まりだからです」
 魔術師とは自らの論理にプライドを持つ存在であるが故に、ほとんどが完璧主義者である。そしてその域はマッドサイエンティストの領域だ。
 それは何をするにしてもそうであろうとするということだ。例えそれが俗世の事に関する調査だろうと、何だろうと。
「魔術師というのはどうにも変わった存在の集まりなものでしてね。少しでも間違いがあることを嫌うんですよ。だからわざわざこんな所まで来るような事態の間違いを起こす訳がない」
「我々が嘘を付いているとでも?」
「残念ながら」
「おかわり〜」
 シリアスな話の側面で、未時は八個目のケーキを呼び込んだ。カップに残った甘ったるいコーヒーを一気に飲み干し、「ウェッ」と苦みで顔を渋めて「もう一杯」と催促する。
「…………」
「…………」
 お互いを探るような沈黙が場を支配する。取り囲むように周囲に控えるヤクザ達も息を呑んでいる。緊張が伝播しているのだ。
「食べますか?」
「もちろん」
 が、それはあっさりと緊張感のない言葉で破られた。
 身構えていた組長が明らかにイラッとするのを感じる。既に話のリードは霧羽が握っていると言えるだろう。
 未時は霧羽から譲渡されたケーキを瞬く間に胃に収めると、次なる標的を瞬時に狙う。
「ねぇ、おじさん」
「あぁ?」
「そのケーキ食べないなら貰って良い?」
 そう言いながら既にケーキは未時の手の中にあった。凄みを利かせた返事は見事なまでに空回りしている。こうなってはもう「好きにしろ」としか彼には言いようがない。
「好きにし――」
「ありがとう」
 完全に言い終わる前にケーキにはフォークが突き刺さっていた。組長のスキンヘッドが少し赤身を帯びていた。控えるヤクザ達の緊張が一気に高まる。
「“ノストラダムスの予見書”――」
 張りつめた風船に霧羽が更なる空気を吹き込んだ。
「ご存じですよね?ここにあるんですから?」
 ノストラダムスと言えば誰もが良く知る予言者である。新世紀が間近となった時世では、彼の予言により恐怖の大王がやってくるなんて噂は誰もが一度は聞いた話だろう。
 そんな彼はルネサンス期を生きたフランスの医師であり、占星術師であり、詩人であるとされている。
 表向きは。
 しかし、彼もまた歴史に名を馳せた魔術師である。
 ノストラダムスことミシェル・ド・ノートルダムは予見に優れた魔術師であった。彼は予見の魔術を使う事でその時代に暗躍し、名声を手に入れたのだ。
 その彼が生涯を掛けて作成した書物が、“ノストラダムスの予見書”である。
 この書物には少なくとも向こう十世紀分の事柄が明記されていると言われている。これの一部を四行詩として暗号化し、発行されたものが“ミシェル・ノストラダムス師の予言集”と世間一般で知られる書物である。
 これが誰か一人の手中に収まってしまうことの恐ろしさは言うまでもないだろう。そのためこの予見書はギルドと呼ばれる魔術師の組合が、いくつも提携して管理を行っていたのだが、それが今回盗み出されたのである。
 そして調査の結果として行き着いた先がここ、騎龍会である。
 この調査には魔術師の世界では異例の十人単位の術師が調査だけで動いている。間違っていることなどあり得ない。それこそ魔術師の威厳を保つ為の調査なのだから。
「あくまでもないと言い張るのなら、しょうがないので強制捜索という形をとらせて頂きますがどうしましょう?」
 カチャリ。
 いつもの笑顔で淡々とそう言った霧羽の鼻先に、冷たく、黒い鉄の塊があった。
 向けられた鉄塊の先に穿つ口は震える事もなく霧羽を捉えている。
「……あんたには悪いがここで眠って貰わないといけないようだな」
 組長が静かに告げる。
「困りましたね。こんなつもりではなかったんですが」
「いくらあんたが魔術師でもこの距離から額撃ち抜かれれば流石に死ぬだろう?」
「そうですね、撃ち抜ければ」
「試してみるか?」
 気付けば周囲にいたヤクザ達も皆霧羽に銃口を向けていた。未時にもオマケのように一つ。未時に銃口を向けているヤクザの片手にはしっかりとケーキの乗った小皿が一つ。顔は怖いが案外良い人なのかもしれない。
 しかもご丁寧に未時にケーキを手渡してくれる。やはり良い人なのだと未時の中で決定する。
 マイペースに未時はケーキを食べる。これで実に十個のケーキが彼女の腹の中に消えていったことになる。
「もう宜しいですか?」
 霧羽が問いかける。相手は騎龍会の組長ではない。未時である。
「まだ食べ足りないんだけど――」
 未時はチラリと自分のこめかみに向けられているハンドガンを視界に入れて、溜め息を漏らす。
「もう持て成しては貰えないみたいだから好きにして良いわ」
「分かりました。と、言う事なので試してみたいのならどうぞ」
「後悔するなよ」
「貴男達がですか?」
「ッ――!!」
 霧羽の言葉に組長の顔が引きつった。
「まずはその減らず口を聞けねぇようにしてやるよッ!!」
 叫びと共にハンドガンが音を立てて爆ぜた。
「う、がッ……」
 弾丸はヤクザの一人の腹部を赤く染めていた。
 その位置は霧羽が座っていた場所の真後ろ。
「どうです?私の身体は撃ち抜けそうですか?」
 スキンヘッドの後ろで霧羽が呟いた。
 その場でハンドガンを持っていた人間全ての視線が霧羽に集中する。
「人質から目と銃口を離しちゃいけないと思うんだけど?」
 好機に未時が腰掛けたソファーから瞬時に動く。自分に銃口を向けていたヤクザの背後に一瞬で回り込み、その鉄塊を奪い取り後頭部に押しつける。
「動けば彼を撃つわ」
 未時の声が冷たく響く。
 が、それは組長の笑いがあっさりと否定する。
「はッ!お嬢ちゃんそんなに銃口がぶれてちゃ当たるものも当たらねぇよッ!」
 未時の構えるハンドガンはわずかにぶれていた。撃ち殺す事に躊躇いがあるのは火を見るよりも明らかだった。
「女は放っておいて良いッ!魔術師の野郎からブッ殺せッ!!」
 それが狂乱の引き金となった。
 ある者はナイフを、ある者は距離を取って銃口を霧羽に定める。
 未時に背後を取られた男だけは彼女に向き直り、その手からハンドガンを奪い取り拘束しようと襲いかかった。
「チッ――!!」
 向かい合った男は見た目に反して鍛えているようだ。その動きは思ったよりも俊敏で、一拍の内に未時との距離を詰めていた。手加減する気は毛頭ないらしく、脇を締めた鋭い右フックを躊躇なく未時の顔面に向かって放ってきた。それは常人にはかわす事が敵わない絶妙なタイミングだ。
 しかし、未時は残念ながら常人の部類には属さない身体能力の持ち主だ。
 紙一重を見極めてギリギリで上体だけを後ろに下げる。右フックは見事に前髪だけを掠めて通り過ぎていく。
 避けられると思っていなかったのか、男の体勢がわずかに崩れる。
 未時はそのスキを見逃さない。瞬時に切迫し、奪ったハンドガンのグリップで男の顎を掌底の要領で手加減なく撃ち抜いた。
 鈍い音を立てて男の脳髄が揺れる。目が虚ろに代わり、足下がおぼつかない。
 未時はふらつく男のベルトを掴み、倒れないように支える。親切心からではない。彼を弾避けとして使うためだ。
 そして未時は躊躇せずにハンドガンのトリガーを引いた。
 ズガンと豪快な音を立てて、男の右腕を射抜く。これで彼の意識が戻ったとしても先程のような機敏な動きを見せる事はないだろう。彼の利き腕が右である事は今までの彼の動作から分かっている。
 男は一度うめき声を上げたが、それだけで抵抗は出来なかった。しないのではなく、出来ないのである。まだ意識が激しく混濁しているからだ。
 これで当分の身の安全は何とかなるだろう。後は彼にどうにかさせれば良い。
 未時の視線の先には一人の魔術師がいる。
 霧羽 総弥。
 彼の魔術を見知る良い機会だ。
 しかし、結末は味気なく、見極める時間など与えられなかった。
 未時が霧羽に視線を向けたとほぼ同時、銃声がけたたましく鳴り響いた。
 銃弾は違うことなく全てが霧羽を貫き、彼を床に叩き付けた。この家にはそぐわない高級そうな絨毯の上に赤いシミがゆっくりと広がっていく。
「ぐッ……」
 ズガン、ズガンッ!
 呻く事すら許さないと言わんばかりに組長が霧羽に銃弾を撃ち込む。
 何度も、何度も、何度も、何度も――
 霧羽が動かなくなっても惨劇は止まらない。銃弾がなくなっても部下から拳銃を奪い取り、これでもかというくらいに撃ち込む。
「はッ、ハハッ――!!」
 ようやく気が済んだのか、スキンヘッドは乾いた笑い声を上げる。
「大したことねぇなぁッ!魔術師というのもよぉ!あれだけ偉そうな事口走ってたにも関わらず、このザマだ!」
 霧羽の死体を踏みつけながら、彼はそのぎらついた目をこちらへと向けた。
「で、嬢ちゃんはどうする?こいつの敵討ちでもするかい?」
「冗談」
 未時はあっさりと両手を上げて降参した。盾にした男はソファーに座らせ、ハンドガンは組長に放って渡す。
「私は勝てない勝負をするほど馬鹿じゃないわ」
「じゃあこの落とし前はどう付けるってんだ?体ででも払ってくれるのか?」
 舐め回すような視線が未時の体を這い回る。
 こういう時ほど自分の顔とスタイルの良さが邪魔だと思った事はない。今すぐにでもハンドガンを奪い返して、額を撃ち抜いてやりたくなるのを堪える。
「好きにすれば?」
 強調するように胸を張り、ソファーの背に体を預けるように腰掛けて足を組む。こんな事をするハメになるのならジーンズじゃなくてスカートにするべきだったかと後悔する。
 と、同時にとりあえず後で彼を殴ってやろうと心に誓った。
 そして告げる。
「この後も貴男達が生きていたらの話だけど――」
 それが終わりへの幕開けであることを――
 部屋中に薄い霧が立ちこめていた。
 その場にいた全員の視線が未時に釣られて一点に集中する。
 すなわち霧羽 総弥の死体だと思われていた存在に。
 霧の発生源はそれだった。霧羽の体だったモノが風化していくような映像で霧へと形を変えていく。
 それは徐々に深く視界を染めていき、距離感を喰らい尽くした。
 そして霧はそれだけでは物足りず、未時以外の精神を貪り始める。
 あちらこちらで銃声と悲鳴がデュエットを始める。彼等は何を見ているのだろう。
 悪夢、絶望、幻覚。
 どれでも構わない。
 ただ事実なのは、彼等が遭遇したモノが恐怖しか与えないという事だろう。
 未時は深くソファーに腰掛ける。隣で苦悶する男をソファーから蹴落として、占領する。気絶している分彼はまだ幸せなのかもしれない。
 時の感覚が麻痺している。
 それくらい何もする事もなく待って、ようやく霧が晴れた。
 まるで何事もなかったかのように。一瞬で。
 だが、それをすぐに認識出来たのは未時だけだったようだ。
 阿鼻叫喚とはまさにこの事だろう。未時以外に誰一人として正気の人間は存在しなかった。
 ある者は叫び、また、ある者は霧が晴れた今でも仲間を見方として認識出来ずに銃口を向け合っている。ひどい者では既に耐えられなかったのか自害しただろう者もいる。
 しかし悪夢はまだ終わらない。
 プチッ。
 何かが弾ける音がした。
 ポツンッ。
 何かの滴る音がした。
 それは小さく、赤いシミになっていた。
 プチリ。
 また、何かが弾けた。
 プチリ。
 また、弾ける。
 プチリ。プチリ。プチリ。プチリ。プチッ。プチッ。プチッ。プチッ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチ。プチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチプチ――
 その場にいた未時以外の全ての人間から赤い針が飛び出していた。
 それは彼等の血で作られた針。
 彼等の血が針となって体外に自ら出てきていた。
 針は飛び出ると同時にすぐに液体と化し、絨毯にシミを広げていく。
 それは誰しもが目を疑う光景だった。
 しかし、当事者達はすぐに気が付く。
 そして――
「ぁ、あぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
 絶叫。
 目尻に涙を浮かべて狂い叫ぶ。
 助けを求めて彷徨う人間スプリンクラーは全てが皆助かる術を持たない。止まる事は許されない。その血が全て吐き出されるまで。
 ブシュッ!バシュッ!
 彷徨う彼等の動きがきっかけとなり不可に耐えられなかった部位が弾けた。グチャリと音を立てて、誰かの腕が肉塊と化す。
 グチャッ。グチュ。
 その音は立て続けに響いていく。何度も弾けては、落ちる音。
 悪夢の連鎖はまだ止まらない。
 飛び散る血液はいつしか雨のように部屋を占め、敷かれた絨毯を染め上げる。
 染まる絨毯は血の赤に変わるが、それでもまだ飽きたらず徐々に黒みを帯びていく。その色は深淵の底に通じるような深い闇を連想させる。
 たっぷり時間を掛けて、彼等は絶望という名の悪夢を朽ち果てるまで味あわされる。空気の匂いが生臭い鉄さびの様な匂いに置き換えられた時、ようやくその悪夢は終わりを告げる。
 後には嘘のような静寂だけが残っていた。
 その場で未時だけがその静寂を感じていた。
 いや、もう一人いた。
 魔術師、霧羽 総弥。
 汚れ一つ付いていない衣服を纏い彼は肉塊達の中心に立っていた。
 いつも通りの薄い笑みで、黒いローブを纏っている。
「生きてたの」
「どうにか」
 余裕のある受け答え。
 いかに彼が凄腕の魔術師であるかが感じられた。いつも通りであるにも関わらず、彼からはいつもとは違う凄みが感じられる。
「別に殺さなくても良かったんじゃない?」
「何故ですか?」
「貴男ならそれくらい簡単にやってのけるでしょう?」
 未時の中には確信があった。霧羽 総弥という魔術師はそれくらいの力を容易に持っている。それだけは間違いない。
「魔術の存在というのは基本的に秘匿されなければいけません」
 霧羽は言う。
「それはその力が余りにも強大であるからです」
 それは既に霧羽自信が目の前で証明して見せた。彼は結果として傷一つどころか、衣服を汚すことすらなく騎龍会の人間全てを殺して見せたのだ。わざわざ、今いる部屋にこの屋敷中の全ての人間を集めるような芝居まで演じて。
「力は慣れない人間の心を壊してしまいます。人が力を使うのではなく、力が人を使役してしまうのです」
「彼等はダメだと?」
「恐らくは」
 それだけ言って、霧羽は仕上げに掛かろうとする。
「行きましょう。予見書を回収しないと」
「…………」
 未時はただ黙ってそれに従う。その面影はどこか影を帯びていた。

 返り血を見事に浴びてしまったがために、服はとてもではないが着られた物ではなかった。たまたま見つけた衣装室で自分でも着られそうな物を拝借する。明らかに趣味でない服が多かったが、何とか我慢出来る物を見つける事が出来た。
 屋敷に上がる時に靴は脱いだはずなのに、霧羽は何故かあの部屋を出る時には履いていた。いつの間にとは思ったが、愚痴を言う気力は起こらなかった。とりあえず玄関に戻って自分もスニーカーに足を入れる。
 保管場所を聞かなかったので、探すのに手間取るかと思ったが目的のそれは組長のだろうと思われる部屋ですぐに見つける事が出来た。
 古めいた装丁の一冊の書物。
 “ノストラダムスの予見書”である。
 こんな古びた本一冊のためについさっき十数人の人間が死んだのだ。
「どうやら本物のようですね」
「模書を作成している可能性は?」
「ありません」
 キッパリと言い切った。
「一応そういう事が出来ないようにロックを掛ける魔術を施してありますから。見たところそのロックも破られた形跡もないので大丈夫でしょう」
「貴男が気付いてないだけって可能性はない訳?」
「これでも見る目にはそれなりに自信がありますので」
 そう言う彼の笑みはいつものような薄いものだ。
 未時にはそれがやはり胡散臭く感じる。その感情は先程からずっと強く、深くなっている。
 既に屋敷に人の気配はなかった。
 あるのは二人の魔術師の存在のみである。
「一応証拠隠滅のために焼いておきましょうか。夜中に発火すれば誰一人として生き残らなくても不思議ではありませんし」
 屋敷を出る頃には日は既に落ちていて、薄い闇が訪れていた。入る時は威厳を放っていた大きな門が、今では少し寂しく見える。
「人払いを仕掛けてきますので少し待っていて下さい」
 言うやいなや霧羽の姿がフッと消えた。
 闇と静寂が未時を優しく包んでいく。
 大きく一つ息を吐くと、体の中から緊張感が徐々に抜けていくのを感じた。
 未時の精神はすっかり摩耗してしまっていた。
 初めて命のやりとりを経験し、悪夢のような光景を見せられた。まだ、目を瞑ればその光景はリアルに甦る。あの時自分が冷静に対処出来ていたのが少し信じられないでいる。
 そして確かにあの時の霧羽の言葉は正しいのだろう。
 強い力は確かに人を使役してしまう。
 それに取り憑かれてしまうと人は同じ力をまた欲し、世界を見失う。そうなった先にはきっと今日以上の血が流れる事もあるのだろう。
 しかし、それでも未時にはまだ納得出来ない何かがある。
 霧羽の言う事は正しいが、それでも可能性に過ぎない。そこに未時が躊躇う重さがある。
 その可能性をあの段階で見限ってしまって良かったのか、どうか……
「お待たせしました」
 霧羽がいつの間にか門の向こう側にいた。
 未時にはその門が日常と非日常との境目に思えた。
 門の真下で足が止まる。闇色に浮かぶ門を見上げ、未時は今の自分のいる場所がここなのだと自覚する。
 まだ自分はこの中途半端な場所にいる。
 きっと自分はその内非日常の世界に身を投じるだろう。
 未時の中ではそうなる確信があった。
 それは彼女自信が自分の性格、感性があまりにも浮世離れしてしまっていることを理解しているからだ。
 今日ではないいつか、きっと彼女自身が選択しないといけない日は訪れるだろう。
 その時が訪れた時、自分が進みたい未来を選ぶために、未時は今ここで彼に言わなければならない。
「霧羽 総弥」
 そして自分に誓おう。
「私は強くなる。強い魔術師になる」
 いつかその日が訪れた時に後悔しないために。
「自分でちゃんと未来を掴み取れるような強い魔術師になるわ。貴男よりももっと強く、マリア様よりも気高い。そんな魔術師に私はなるわ」
 頬を涙が伝っていた。
 例え敵だったとしても人だった彼等を殺してしまうという結果に至る道筋を、見る事しか出来ない弱い自分が悔しくて、悲しかった。
 だから強くなろうと思う。
 そのために自分は魔術師になるのだ。
「……楽しみにしてます」
 霧羽は冷たくそれだけを口にして未時に背を向けた。
 遠ざかっていく彼の背中は自分との力の距離。
 今はまだ、遥か彼方。
 だけど――
 手を強く握りしめ、涙を拭う。頬をパチンと両手で叩き、もう二度と見る事はないだろう屋敷を振り返って目に焼き付ける。
 その景色は今まで彼女がいた世界。
 見上げた門の下が今の場所。
 正面に見えるのは広がる薄い闇。中に浮かぶのは一人の魔術師の姿。
 その景色はまだ踏み入れていない世界。非日常の広がり。
 初めから躊躇いはなかった。
 しかし、戸惑いがなかった訳ではない。
 でも、今は違う。
 先を照らす灯りがないのなら、自分で灯火を掲げれば良い。
 例えどれだけ暗くても、進む道を示す手段は作れるはずだ。
 星海 未時は夜の闇を背負って歩き出す。
 その上空には無数の星が瞬いていた。


                                    Prelude Zero Episode3“Force of the Witch”Fine.


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