〜 The only wish 〜



 あいにくその日の天気は歓迎出来るようなものとは程遠かった。
 バケツ一杯の水をそこら中でひっくり返しているんじゃないかと思ってしまうような大雨である。
 いつもは人通りが多い日暮れ過ぎだが、今日はそのせいか例年に比べて人の歩みは若干少ない。代わりに規則的な足音がピチャピチャと鳴り、黒とビニールの透明色がほぼ隙間なく道を埋めている。
 その道の脇。
 白と黒と形容してもいいだろう傘の流れの中に浮いている青が一つ。ジッとしているようでいて時々リズミカルにゆらりゆらりと揺れ、更に極希にそれはくるりと回って表面に張り付いていた水滴をいたずらに撒き散らす。
 一目見て子供かと思ってしまいそうな傘の差し方であるが、それを持っていた人物は女性なら誰もが息を呑んでしまいそうな美貌を携えていた。どのパーツを特徴として挙げてもうっとりとしてしまいそうなくらい整った顔立ちに、後ろで軽く纏められた短いポニーテールは大雨の湿気を気に止める必要もないくらいサラサラの髪質であることが遠目から見ても分かる程だ。
 身につけている物もその美を十分に引き立てていた。
 長身でスラリとした長い足に少し着崩したタイトなスーツはとても良く似合っていて、胸元にタイは付けていないが、それがまた魅力的な色気を出していた。
「すいません。遅くなってしまいました」
 通り過ぎる人々の目を一心に浴び続けて数分、待ち人は現れた。
 待ち人の姿も又、その美貌の持ち主に相応しい容姿だった。
 薄暗い闇の中をほんのりと明るく照らすような白いドレスにコート姿である。所々にあしらわれたレースがドレスにより一層の華やかさと美しさを与えていて、彼女にとても良く似合っていた。
 何よりもその色が彼女の為の色だと見た者はきっと思わずにいられない。
 彼女が持っていたのは圧倒的な白のイメージだった。
 服が白ければ肌もそれに負けず劣らず白かった。そして、何よりも特徴的なのは腰の辺りまで伸ばされた緩やかなウェーブを描く髪である。
 その髪も当然と言わんばかりに白かった。
 それは年を経て見られるようなくすんだ白ではない。言うならばシルクのような白だ。光が当たればきっと銀のような光沢を放つであろう美しい純白である。
 故に彼女が懐くのは汚れなき真白。
 誰にも侵す事を許されない神聖な存在。
 彼女はそんな美しさを持っていた。
「別に構わないわよ。
 それにまだ待ち合わせまで十分もあるじゃない。これを遅くなったとは言わないと思うわよ?
 とりあえず、立ちっぱなしもなんだし歩きましょうか」
 そう答えて彼女の傘を持ったのは青い傘を手にしていた存在だった。
 男性では有り得ない澄んだ声である。
 つまり、この雨の中で周囲の視線を浴びる事を避けられない二つの存在は共に女性なのである。
 片や純白に彩られた汚れなきレディ。片や両性を虜にしてやまない美貌を持った麗人といった組み合わせ。
 その光景は切り取ってみれば姫とそれに仕える騎士という美しい構図に他ならない。
 また、二人には共に通う学院でそう呼ばれる事実が確かにあった。
 スーツを着た麗人――星海 未時(ほしうみ みとき)は、確かに彼女が通う聖光女学院で同姓達から騎士と囁かれているし、隣を歩く純白の彼女――蒼井 海空(あおい みそら)は姫として周囲から敬われていた。
 共にある種の特別として扱われていた二人は今まで出会わなかったのが不思議なくらい出会わず、互いの名前を知るだけだった。そんな二人が出会ったのはまだ三ヶ月にも満たない、初秋の頃。
 しかし、今では誰よりも互いを必要としている存在だ。
 一分、一秒でも離れたくない。二人の心はそれくらいに近い距離にある。
 冬休みが正式に始まってから二週間程。
 今日は聖夜。クリスマスである。
 大雨とはいえ、それに負けないくらい街並みは赤と白、そしてほんの少しの緑で彩られ、無数の人々で盛り上がっていた。本来なら人通りが少なくなるはずの雨でも歩くのがちょっと鬱屈としてしまうのは今日がその日であるからで、これでも例年に比べるとやはり人は少ないと言えるのだから困ったものだ。
「思ってたより人が多くてびっくりしました。やっぱりクリスマスなんですね」
「そうね。やっぱりクリスマスなのよね。
 邪魔よね。この人の数は……」
 心底嫌そうな声を出したのは白い傘を翳す未時である。
 二人は寄り添うように腕を組んで人混みをスイスイと進んでいく。
「でも、今日みたいな日に貸し切りだなんて良いんですか?
 聞いた話だと凄い有名なホテルでしたよね」
「まぁ、約束は約束だし、これくらいはして貰わないとね。
 私も彼も損はしてないんだし、問題ないでしょ」
 二人が向かう先はこの辺りを少しでも知る者なら誰でも知っているくらいに有名なホテルである。これから向かうその場所を二人は悠然と貸し切り、ディナーを楽しもうというのが今日のデートのお題目である。
 本来ならクリスマスという今日にそんな事が出来るはずもないのだが、その下準備を行ったのは白い傘の下を歩く二人のどちらでもない。
 つまりは第三者。未時の言う“彼”である。
 彼、と呼んではいるが彼というのはボーイフレンドとか彼氏とかいう意味では断じてない。彼はこの世の理から外れた存在として、この世界にどうしようもない疎外感を感じている未時と密接に接触しているだけだ。
 それは一重に星海 未時という存在がこの世の理とはずれた存在であるからに他ならない。
 その存在をこの世界の言葉で彼女はこう表現している。
 “魔術師”、と。
 本来なら彼女は既に向こう側に行ってしまっているはずなのだが、今の彼女にはそれを拒み、躊躇うだけの十分な理由があった。
 それが彼女の隣にいる蒼井 海空である。
 彼女の存在は未時の中で特別に過ぎたモノだ。
 既に切り離されていると思っていたこの世界と未時の存在を繋いでしまう程に。
 それは海空もまた未時と同様にこの世界にいる事へ違和感を懐いているという事を表していた。
 しかし、二人の出会いはこの世界に楔を打ち込んだ。
 最初は触れるのにも戸惑うような距離が、今では触れずにはいられない程の距離になっていた。触れれば触れる程愛おしくなる。
 今まで狭かったこの世界が一気に広がった。
 暗闇に佇むしかなかった世界に灯りが翳されたのだ。
 昨日よりも今日。今日よりも明日。
 その輝きは今もまだ増し続けている。
 だから、まだ彼女はこの世界にいたいと思っている。
 自分が本来いるべき世界と元いたこの世界の狭間で、星海 未時はまだ今という時を続けていたいと望んでいる。
 だからこその今日だった。
 その為の代償は安いモノだ。魔術師として彼女が払ったモノに対して、得たモノは魔術師としてとそうでない存在としての二つである。数的に見ても得だが、彼女の中での対価の比率に照らし合わせてみても、その利潤は大きい。
 その後者が今日のメイン。ホテルでのディナーである。
 最高級ホテルのディナーを好きな時に好きなだけ、彼女と。
 それが未時が彼から得た対価。
 それをクリスマスという今日の日に彼女は行使したのだ。
「着いたわね」
 そう言って未時が見上げた建物を釣られて海空も見上げた。
「本当にここで良いんです、……か?」
 思わずそんな声が漏れてしまう海空である。
 しかし、それも仕方のない事だろう。むしろ平然と「間違いないわ」と言える未時の方がどうかしている。まだ高校生の女の子が、たった二人だけで五十階建ての高級ホテルのディナーを楽しもうなんて、普通なら実現出来るはずのない出来事なのだから。
「大丈夫でしょ。
 まぁ、これで無理だったら、とりあえず速攻でアレをぶん殴りに行くだけよ」
「そういうものなんですか……」
 それはそれで本筋とは問題の焦点がズレてしまっているような気がするが、未時と彼の関係を海空は知る由がないので仕方がない。
「そういうものなのよ」
 だって彼女はそう言って朗らかに海空に笑って見せたのだから。

 最高級のホテルと言うだけあって、待遇は褒めて然るべきものだった。女子高生二人が最上階のスイートルームを貸し切って、最高級のディナーを好きなだけ食べようというのだからいくらか奇異な視線を向けられる覚悟をしていた海空だったが、彼女が感じている限りではそんな事はまったくなく、実に気持ちの良い対応だった。流石にロビーで名前を出した時に慌ててオーナーが飛び出してきた時には驚いたが、未時に言わせれば「まぁ、アレなら何でもありな気がするから良いんじゃないかしら」なんて言って終わってしまうのだから肝の据わったものだ。
 彼女は既にこの状況に溶け込んでいるようで、立ち振る舞いの一つ一つに気品が備わっている。さりげなく海空の半歩前をエスコートするその姿は学院の女生徒達が見たら卒倒ものだろうというくらい様になっていて、海空自身もいつも以上に彼女にドキドキさせられる。
 二メートル先を先導するベルボーイに従って大理石で作られたエレベーターに乗り込んだ。ここから最上階まで一気に昇っていくのだ。
 腹部を下に押し付けられるような感覚が走り、後からすぐにこそばゆい浮遊感がやってくる。
 そんな感覚に慣れた頃にはすでに視線は彩られた世界を見下ろしていた。
「綺麗……」
 思わず言葉が漏れる。
 眼下には海空が良く知る街並みが広がっていた。
 未時と何度も足を運んだデパートが見える。いつも二人でクレープを食べながら歩いた中央通りが闇の中を走っている。少し遠くに未時と出会ってから通うのが楽しくなった学院のアーチが浮かび上がっている。
 いつも見上げていた何気ない街並みの全てが、小さな小さなオブジェになって輝いていた。普段の夜ならそれはきっとどれがどれだか見分けられなかったに違いない。これは今日がクリスマスだからだ。
 街中に飾られたイルミネーションがこの闇の中から街並みを浮かび上がらせているのである。浮かれ立った人々が騒がしく行き交う街並みはあまり好きではなかったが、こんな素敵な街並みなら大歓迎だった。
「気に入って貰えたかしら?」
 そんな未時の問い掛けに、海空は最高の笑顔で応えた。
「もちろんです」
「それは良かったわ」
 その笑顔に釣られて、未時もまた笑顔を見せる。
 そんな笑顔に海空は又してもドキリとする。いつもよりも大きなその気持ちに恥ずかしくも嬉しくなる。
 いつもより彼女の仕草に敏感に反応してしまうのは、きっと彼女が今日は麗人のような格好をしているからろう。
 だってそれも無理はない。
 彼女は海空の為だけに素敵な格好をして、海空の為だけに笑ってくれるのだから。

 少しは喜んでくれるだろうとは思っていたが、最初から彼女がこんなに喜んでくれるというのは嬉しい誤算の一つだった。ちなみにもう一つはエレベータの操作をしているベルボーイが自分達を見ないように配慮しているという事だ。
 多少こちらを気にしてはいるようだが、何とか堪えて階数が表示されている電光板の数字が増えていくのを生真面目に見つめている。なかなか仕事熱心で大変よろしい。
 おかげで未時は海空の笑顔を独り占め。
 彼女の笑顔に釣られて自分も笑ってしまう。
 今日を選んで良かったと思う。
 人が多いのは気に入らないが、海空の笑顔でそれの元も取れて、お釣りが出る程だ。スイートの階は丸ごと貸し切ってあるし、これ以降人混みに揉まれる事もない。
 今日はこれからずっと楽しい事ばかりが続くのだ。
 美味しい物をたくさん食べて、一緒にお風呂に入り、一緒の布団で睡魔が訪れるまでおしゃべりをする。そして、互いの温もりを感じあいながら眠るのである。
「お待たせしました。最上階スイートルームでございます。
 本日は星海様の貸し切りとなっておりますので、心ゆくまでおくつろぎ下さい」
「ありがとう」
「お食事の方はどうされますか?
 準備の方は既に出来ておりますが」
「そうね。それじゃあ十分後に前菜から運んで貰えるかしら?」
「かしこまりました」
 そう言ってベルボーイは恭しく一礼してエレベーターのドアを閉め、階下へと下がっていく。
 エレベータを出てすぐの所にあった理解に苦しむセンスの傘立てに二本の傘を放り込む。既に部屋には暖房が適度な温度で行き渡っていたので、二人はさっさとコートを脱いでハンガーに掛ける。
 二人のコートはそれぞれ片側だけが濡れていた。
 未時のコートは右側が、海空のコートは左側が雨でぐっしゃりと濡れている。互いが少しでも相手が濡れないように気を使った結果がこれらしい。
 未時はそれを見てフッと笑いながら、帰りはどちらも濡れないようにもっと身を寄り添う必要があるわねぇなんて考える。
「やっぱりスイートだと広いですね」
「まぁ、スイートだしね」
 当たり前の言葉に頷いて返し、「でも、」と未時は続ける。
「貸し切りって言っても元から一部屋しかないとなると何だか貸し切りって言葉の価値が薄れて見えるわね」
「でも、本来はいくつかのパーティーを同時に開く事が多いみたいですから、貸し切りという言葉は間違ってないと思いますよ」
「それはそうなんだけどね。何かあれじゃない?
 ちょっとがっかりって感じ?」
「それだとスイートルームが今より狭くなっちゃいますけど?」
「それはそうだけど。それはそれでまた別の話よ」
 スイートルームのある最上階は確かに貸し切りだった。
 しかし、最上階のスイートルームはその階が丸ごと一つの部屋なのだ。エレベーターから出ればそこは既に部屋の中なのである。
 だから確かに貸し切りではあるが、それはそれで微妙な心境だった。何故なら一般的なイメージからして元々部屋とは貸し切って然るべきものなのだから。
 まぁ、海空の話通りここのスイートルームは確かに複数のパーティーを同時に開く事が多いようなので、この階を全て貸し切るというのはホテル側から見れば明らかに希有な客として分類出来るのだろうが。
「未時、凄いですよ。来て下さい!」
 微妙な心の葛藤に少しイライラしている未時に珍しく興奮の熱を持った海空の声が届く。
 その珍しさに惹かれ、未時は海空の声のする方に移動する。どうやら彼女は隣の部屋にいるらしい。
「どうしたの海空?」
 顔を覗かせたその部屋で海空は頬を興奮で紅く染めて待っていた。普通の人ならどうって事のない赤らみかもしれないが、肌の白さが目立つ彼女にその頬紅は鮮やかに映える。
 彼女はパノラマスクリーンのような大きな窓ガラスに張り付くようにしてはしゃいでいた。
「凄いですよ、未時。さっきのエレベーターからの景色も綺麗でしたけど、こっちの方がもっと凄いですっ!」
「どれどれ」
 はしゃぐ海空とは対照的に未時はゆっくりと彼女に歩み寄って、窓ガラスからその向こうに広がる景色を眺めた。
 そこには先程一緒に見た景色よりももっと大きくて、素敵な景色が広がっていた。
 闇の裾野がミニチュア景色の水平線と鬩ぎ合っている。その境目は視線の更に向こうまで続き、どちらからとも言わずにスッと溶け合っていた。
 ミニチュアに点る光は色も種類もバラバラで、明滅している物、ずっと輝いている物、闇を切り裂くように一直線に動き回っている物等それこそ様々だった。
「凄いです。凄いです」
 子供のようにはしゃぐ海空に未時は思わず笑ってしまう。
「手を伸ばしたら握り潰せてしまいそうですよね」
 海空がガラスに向かって手を伸ばして握り混む。
「そんな事をしたら折角の景色が壊れてしまうわよ?
 それじゃあまるで破壊神じゃないの」
「毎日私に綺麗な景色を見せてくれるのなら壊さないでおいてあげても良いですよ?」
「みんな必死になってイルミネーションを続けるわね」
 全く我が儘な支配者もいたものだと未時は苦笑せずにはいられない。
 二人はそんな馬鹿馬鹿くて小さな世界征服の話をしながら数分を過ごしていた。その話題だけでもずっと話していられるような盛り上がり様である。
 しかし、話に夢中になりつつも未時の耳は敏感に自分達が鳴らす以外の音を捕らえた。
 彼女の耳に届いたのは鈴に似た電子音。間違いない。エレベーターがこの階に到着した音だ。
 扉の向こう側、つまり傘立てのあった部屋側からノックが聞こえた。
「お客様」
 低くて良く通るバリトンの声質。
「開いてるわ。入って頂戴」
 未時の許可を得てから更に一拍の間をおいて「失礼致します」と断って中に入ってきたのは先程のベルボーイではなく、清潔感漂う調理服を格好良くと着こなしたコックだった。纏う貫禄と慣れた動作からそれなり地位の高い人物だろう事が見て取れる。
「星海様、本日は当ホテルをご利用頂き真にありがとうございます。
 私、当ホテルのコック長を務めさせて頂いております志杖(しづえ)と申します」
 志杖と名乗ったコック長が深々と一礼する。
「本日のお料理の説明の方は私がさせて頂きます。宜しくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願いします」
「宜しく」
 海空と未時はそれぞれ個性を全開にして対応する。
「前菜の方をお持ちしましたが、どちらでお召し上がりになられますか?」
 最上階の全部屋をスイートルームとして管理しているだけに、部屋数は両手の指では数え切れない程ある。それこそくつろげる部屋から落ち着いて食事をするためだけの部屋まで。先程さっと部屋の見取り図を見た限りではベッドルームが三カ所にバスルームが四カ所はあったはずだ。
 しかし、それだけの部屋数があるにもかかわらず、二人は迷うことなく同時にその場所を指定した。
「「勿論、ここで」」
 二人ともまだまだ世界の支配者になった先程の話題を終わらせる気は毛頭ないのだから。

 前菜は生牡蠣をポン酢で和えたものだった。紅葉おろしとネギが良いアクセントになっていて、和風ながらもコース料理に相応しい一品だ。大きさも一般に出回っているものよりも一回りも二回りも大きく、まろやかで濃厚な味わいに舌鼓を打った。
 次のメニューはサッと茹で上げたオマール海老やホタテ等の海産物をふんだんに使ったサラダだ。先に挙げたもの意外にもアワビやウニ、イクラなど、サラダとして使うには贅沢過ぎる魚介類がこれ見よがしに使われている。口当たりの良いサッパリとしたドレッシングには梅が隠し味として使われているらしく、ほんのりと口に広がる酸味が食欲増進に一役買っていた。
 これに続くのはジャガイモを使って作られるスープ、ビシソワーズ。料理長の志杖の話によると山羊のミルクから作った生クリームを使用しているようで、クセが強そうなイメージだったが、思ったような臭みはなく、表面に散りばめられたパセリの香りがほのかに香って、とても喉ごしの柔らかな味に仕上がっていて美味しかった。
 メインは魚と肉料理からそれぞれ一品ずつ。
 魚のメインディッシュは金目鯛のパイ包みだった。パイを破ると途端に零れだしてきたクリームソースは豊潤な香りを漂わせ、既に結構な量を食べていたにもかかわらず、それだけでお腹が空いてきそうなくらい良い匂いだった。
 もちろん、見た目の期待を裏切らない素晴らしい味わいで、肉よりも魚派の海空はお代わりまでしてしまった程だ。
 次ぐ肉のメインディッシュは今までとは対照的にシンプルなサイコロステーキだった。
 しかし、シンプルだからこそ肉の質と料理人の腕が如実に分かる一品でもあった。
 霜降りのヒレ肉をミディアムレアの焼き加減で特性のソースに浸けて食べるのだが、これが噛む必要がないくらいに柔らかくて美味だった。肉が歯に触れるだけで肉汁が溢れだし、まるで魚の身をほぐすように食べてしまえるのだ。
 これは未時が大いに気に入った。数種の味付けを志杖に要求し、その全てをライスと一緒にペロリと平らげてしまった。
 デザートは洋梨を添えたクリームブリュレ。控えめだが、それでいてしっかりとした甘さの美味しいデザートをほんのり甘いキャラメルマキアートと一緒に堪能する。
 この日の料理の種類は大まかそんなものだった。
 それを海空は標準よりも少し少なめに、未時は標準を大きく上回る量を口にした。未時に至っては一通りの料理が出尽くした後、更に自分のペースでサラダやサイコロステーキを食べていた。
 しかし、やはり未時も海空も女の子。デザートに関しては別腹である。
 ブリュレを堪能した後も志杖にお勧めデザートのメニューを上げさせて、ケーキやクッキー、クレープにティラミス等、それぞれが思うままに注文して堪能した。
 注文したモノは二人ともバラバラだが、食べた種類の数は二人とも一緒である。それは全てのデザートを半分ずつ分けてはお互いが食べさせあっていたからだ。
 味わった飲み物も多種多彩だった。最初はキャラメルマキアートだったが、後にはミルクティーやホットチョコレート、チャイ、最後の締めには薫り高いジャスミン茶まで。デザートに合わせて毎回それぞれ違う種類のお茶が運ばれてくるのだから、厨房はさぞかし二人のおかげで忙しかった事だろう。
 もっとも、当の本人達はそんな事さらさら気にもかけてはいないし、それに値する見返りも既に支払われているはずなので何も問題はない。
「食べたわね……」
 満腹、満腹と未時が数あるベッドの中でも特にフカフカのベッドに向かって倒れ込む。ポフリと空気が弾ける音がして膨らみ、その後布団がゆっくりと萎む。
「知ってますか、未時。食べてからすぐに寝ると牛になるんですよ?」
「それなら私はもう牛になってるはずだわ。だって、私いつもこんなだもの」
 言って未時がベッドの上をコロコロと転がる。
「海空も一緒に牛になりましょう。気持ち良いわよ?」
「あんまり嬉しくない誘いですよ、それ」
 クスクス笑いながらも海空は未時が差し出した手を握り、誘惑に飲み込まれた。
 ポフンと空気が弾ける音がもう一つ。
「癖になりそうです」
「でしょう?」
「でも、これで牛になったら未時のせいです」
「その時は私も一緒に牛になってるわよ」
「私だけなったらどうするんですか」
 良いながら海空が未時のお腹を恨めしそうに眺める。
 というのも先程あれだけ食べたというのに彼女のお腹がぺったんこだったからである。海空自身は息をする度に少し腹部が動いてしまうというのに未時には端から見る限りそんな様子は見られない。同じ女の子として羨ましいにも程がある。
「そうねぇ、その時は……」
 プニっと未時の手が唐突に海空の腹部に伸びていた。
「きゃっ!」
「私が責任を持って食べちゃうわ」
 こそばゆさに悲鳴を上げた海空を未時は笑う。
「もぅっ」
 しかし、海空も未時が笑った隙に反撃する。仕返しに両手で未時の脇腹をまさぐっていく。
「ちょ、あ、そこはダメっ!弱いんだってばっ。
 あは、あはははははッ!」
「ダメです。今日という今日は許しません。世の女の子を代表して、今日こそ未時のお腹にお仕置きです」
 布団の上を這うようにして逃げようとする未時を海空は容赦なく追撃する。腰に組み付き、必要に彼女の脇腹を擽り回す。
 世の女性を代表して、ようやく今日、海空は未時の食べてる量と比較して明らかにくびれた腰回りに探りを入れる。
 プニッとその柔らかな肌を摘む。
 常人の数倍の量のご飯と人が食べるにはあまりにも過酷すぎる量のデザートを納めておきながら、彼女の腰回りには驚く程余分な肉がない。それでいて痩せすぎというわけでもなく、むしろ健康的なまさに女性として理想的としか言えないようなスタイルだった。
「なんであれだけ食べているにもかかわらず、この細さ……七不思議の一つに相応しいです」
 いつ自分の事が七不思議にまで昇格したのか断固として問いただしたい未時だったが、残念ながらそんな事をする程の余裕はなかった。
 プニッ。
 そうやってまたその肌を摘まれては、身を捩るしかない。
 色々な箇所を海空が摘む度に、当の摘まれた未時本人からは「あうっ」だの、「うひゃぅ」等と言った悲鳴が漏れている。おそらく世界広しといえど、未時にこんな事を出来るのはきっと彼女だけだろう。少なくとも聖光女学院に通う生徒達は皆が皆こぞってそう思うに違いない。
 しかし、
 ボフッ!
 神秘の謎に迫ろうとする海空の顔に何かが突撃してきた。一瞬の間を経てそれが備え付けの大きなマクラであることに気が付く。
 そして、その間に獲物はスルリと彼女の魔の手から逃げ出し、今度は彼女に向かって相対していた。その両手にそれぞれ一発ずつの弾丸を抱えて。
「……私を本気にさせたわね、海空」
 ゼェゼェと肩で息をしながらの未時。
 両の手にはダブルベッド用の大きなサイズのマクラが抱えられている。彼女は海空の拷問に耐えながらベッドの上を這いずり、計三つ存在していたマクラの内一つを彼女の顔面に投げ付け、海空が気を取られている隙に脱出。残りの二個を手に彼女と距離を取ったのである。
 状況は今、未時に有利だった。
 弾丸は彼女の方が一つ多く所持している。対して海空は自分が彼女の顔面に投げ込んだ一発のみ。それに未時は既に臨戦態勢だが、海空はまだベッドの上に座り込んでいる状態である。
 しかし、未時は解せなかった。
 状況は確かに有利だが、その状況を理解していてなお悠然と未時と視線を交わせる海空の余裕が。
「……今日の私は一味違いますよ、未時」
「試してみる?」
「良いでしょう。その勝負受けました」
 正に空気は一触即発。先程の穏やかなディナータイムが嘘かとさえ思えてくる。
 沈黙と緊張が数秒間続いて、どちらともなく二人が全く同時に口を開いた。
「開戦よ」
「開戦です」
 動いたのは未時が先だった。状況が有利な内に一気に攻め込もうと考えたのである。
 一足でベッドに跳び乗り、更にもう一跳び。上から右手のマクラを叩き付けようとする。
 が、その瞬間に未時は確かに見た。
 自分の行動が既に見透かされていた事を知る彼女の笑みを。
 そしてその瞬間、未時の視界を柔らかな白が覆った。
「っ――!」
 それが海空の座っていたベッドに敷かれていた布団だと気付くのに要したのは一瞬。
 しかし、その一瞬がいかに重要であるかを彼女は既に知っている。
 一瞬を少しでも儚くする為に未時は自身に出来る最速でその目隠しを振り払い、ベッドの上から跳躍。既に彼女のいなくなったベッドから跳び降り、周囲に気配を配る。
「いない……」
 だが、その視界の中のどこにも海空の姿は見つけられなかった。
 自身で思うのもどうかと思ったが、その一瞬で起こった出来事はまさに魔術のようだった。それ以外に未時はあの一瞬で自分の姿をかき消す事が出来るという奇妙な事象を起こす事が出来る術を知らない。
 しかし、彼女は失念していた。
 灯台下暗しという言葉の意味を。
 遠くへ、遠くへ。
 意識を徐々に今居る場所からこのスイート全体へと広げて行く途中にソレは起こる。
 突如として未時の腰に何かが喰らい着いた。
 あまりにも唐突に、そしてあまりにも不意を突かれた一撃に未時は拘束に抗えずそのまま前に倒れ込んだ。彼女に出来たせめてもの抵抗は今持っているマクラをクッションにして受ける衝撃を緩和する事くらいだった。
 ボフンと音を立てて未時は床に突っ伏した。
 そして自分がすっかりと罠にはまってしまった事実に気付く。
 後ろから足を絡めるように組み付いてきたのは他の誰でもない海空だった。考えてみれば魔術でも何でもない話だ。トリックと呼ぶ事すらおこがましい。
 仕掛けは至って単純。
 未時が跳び上がった瞬間を見計らい、海空は自身が下に敷いていた布団を巻き上げ未時の視界を塞ぐ。そしてそれを未時が振り払っている短時間に海空自身はベッドから転がり落ちて未時の視界から消え、そのままベッドの下に潜り込んでいたのだ。
「ふりぃずっ、ですっ」
 喜色満面としか言い表せないような声が頭上から降り注いだ。
 常に成績が上位に固定されている彼女から出た言葉だとはいささか信じ難い程にカタコトな英語だった。少なくとも未時が英語の授業を受け持つ教員ならば間違いなく赤点を与える。
 とりあえずそれくらいにはひどいイントネーションでの発音であった。
 しかし、そこに込められた意志は言うまでもなく未時をそれに従わせた。
 大人しく両手を上げて抵抗の意志がないことを示す。全面降伏である。
「では、楽しい拷問の時間です」
 その“楽しい”が未時の感じる事が出来ないモノである事はすぐに察せた。
 そこから先の事を未時は覚えていない。
 否、意図的に忘れたのである。
 言える事はもう自分が一生分は笑っただろうという実感だけだった。腹筋が引き避けるかと思うような地獄を、彼女はこの後数十分に渡って味わったのだ。

「お腹がもの凄く痛いんだけど……」
 それは悲痛の末にようやく出た一言だった。
「真実の究明にはいつでも犠牲が必要なんです」
 しかし、訴えた先にそれを受け止めてくれる者は存在しなかった。
 いたのは何か大事を成し遂げたという達成感を纏う海空だけ。
 もう何も言うまい。
 未時は気分を変える事にした。
「汗も掻いたし、とりあえずお風呂にでも入らない?」
「良いですね。どのお風呂にしましょうか?」
「お好きなように」
 腹筋は痛いし、選ぶのも面倒だしで、未時はまだ海空の占領下にあるものだとして彼女に選択を丸投げする。というより未時はバスルームの選択にこだわらないし、海空の好きなもので良いと思っている。
「じゃあ丁度良いですし、全部見て回ってからにしませんか?」
 その質問に対する答えも決まっていた。
 前情報からバスルームの数が四つである事は既に知れている。
 しかし、まだそのどれもを実際に見ていなかった。それどころか二人ともまだ全ての部屋を見て回ってすらいない。
 目的はどのお風呂に入るかであるが、ついでなので全部の部屋を一度見ておく事にする。
 未時も海空も共にそれなりに良い家の御令嬢であるが、ホテルに泊まる際に必ずスイートでなければ嫌だというこだわりはない。それどころか泊まれれば良いという感覚さえ二人は共に持ち合わせていたりするので、実はこれが初めてのスイートルームだったりする。
 その上で無駄としか言いようのない部屋の広さには些か理解を示し難いものがあった。まったく金持ちの考える事は良く分からないモノだ。
 そんな事を頭の隅っこで考えながら、未時は海空の後を付いていく。
 一方の海空も部屋の方はどうでも良いようで適当に眺めてさっさと次の部屋に移動していくが、バスルームだけは例外だった。窓から見える景色や、備え付けのシャンプー、小物等をつぶさにチェックしては一喜一憂している。
 その様子に未時は呆れながらも笑みを零す。
「そんなに細かく見なくても良いと思うんだけど?」
「そんなことありません。こういう所はとっても重要なポイントです」
「そうかしら?」
「そうなんです」
 「そんなもんかしらね?」何て口にしながら、未時は黙々と調査を進める海空を眺めては笑う。
 全てのバスルームを調べ終え、二人がいざ入浴と洒落込めたのはそれから有に一時間は経過しただろう頃だった。
 二人が選んだ。というよりも海空がじっくりと選別したバスルームは時間をかけただけあって設備、過ごしやすさ共に十分に満足のいくモノだった。
 特に未時が気に入ったのは全身を横にして使えるジャグジー機能だ。全身を優しく刺激する泡が彼女の疲労をドドドと音を立てながらほぐしていく。特に彼女の場合、先程の笑い疲れのせいで腹筋に走る引き裂けるような痛みを少しでも和らげる為に必死である。
 海空の方はバラの花びらを浮かせたミルク風呂で半身浴していた。気分良さげに「お肌スベスベ〜♪」と鼻歌なんぞ歌いながら、窓の外に未だ広がるミニチュアの景色を眺めている。
 露出している上半身に手で湯をすくってかける海空を未時はボーっとジャグジーを全身で堪能しながら眺めている。
 そして、唐突に思いついた。
 思い立ったら即実行。勢いよくジャグジーを抜け出して、海空が浸かるミルク風呂に躊躇無く入る。家のお風呂だと狭く感じるだろうが、流石はスイート。二人どころかまだ後二、三人は一緒に入れる余裕がある。
「あ、未時、もうジャグジーは良いんですか?」
 何て尋ねてくる海空の言葉を軽く受け流し、未時は余裕のあるミルク風呂の中を進み、彼女の隣に浸かり、眺めた。
 ジッと凝視する。
「な、何ですか……?」
「いや、前から思ってはいたんだけど、さ……」
 怪訝に思ったのかザブザブとミルク風呂の中を後退する海空に対し、未時はそれに合わせるように距離を詰め、更に視線を一点に集中していく。
 すなわち、露出した海空の胸である。
「海空って着痩せするタイプよね……」
「え、……ひゃぅっ!」
 返事を待たずに未時の手は既に伸びていた。同時にお風呂の中であるにもかかわらず、彼女は既に海空の背後に回り込んでいる。
 その方がこれからやろうとしている事に対して都合が良いというのも勿論のことだが、それ以上に単に海空から自分の表情を見えないようにしたいからである。その既に押さえきれない悪意に満ちた満面の笑みを。
「うわ、柔らかっ。これは貴女良いモノ持ってるわねぇ」
 逃がすまいと容赦なく揉みしだく。台詞共々完璧にセクハラである。
「これはEか、いや、下手すればそれ以上っ」
 セクハラは止まる事を知らず、ますますエスカレートしていく。未時の興が乗ってきたのか「良いではないか、良いではないか」とかまで口にしだす始末。その悪ノリ具合は既に完璧に酔っぱらった質の悪いおっさんを軽く凌駕している。
 未時の両手は海空を羽交い締めにした状態で彼女の胸を揉み続ける訳で、その度に海空の口から漏れる甘い吐息。これに関して未時は当たり前のように無視を決め込んでいる。
 海空の方も胸だけならまだ我慢出来るが、抗議の声を浴びせようとする度に未時の手がテンポ良く伸びては脇腹を擽っていくので抵抗のしようがなかった。
 絞り出された声も、
「もう、勘弁し、て、ください」
 と、途切れ途切れに言葉をようやく紡いだのが、未時はそれを無情にも、いや、憎悪すら感じられる声色で叩きつぶした。
「海空、昔の言葉にね下克上っていう言葉があるの」
 そして、その言葉を吐いた未時の顔を海空は見た。
 いつかの自分に重なるような満面の笑み。容赦という言葉を脳内の辞書から削除したような残虐非道極まりない絶対零度の微笑み。
 今、海空の脳裏に一つの言葉が過ぎった。
 因果応報。
 同時、今度は海空が白旗を上げて全面降伏。それに情状酌量の余地が幾らかはまだ残されていると信じて。
 しかし、まぁ、もちろんそこにそんなモノは存在していなかった訳で。
 未時がつい先刻胸中に懐いたばかりの思いを、今度は海空が十分すぎる程に堪能した。

「はぁ、良いお湯だったわね」
「そうですね……」
 適度に暖められた部屋にて。湯上がり後の未時と海空のそれぞれの言葉である。
 未時は大層気分良く、どこか肌に艶やかさすら伺えるような晴れ晴れとした表情である。
 一方の海空は未時とは対極。あれだけ時間を掛けてバスルームを気分良く選んだにもかかわらず、その表情は疲労困憊。体がというよりも、むしろ心が今にも風化して塵となって飛んでいってしまいそうな顔色である。
「それにしても良い触り心地だったわねぇ」
 未時の言葉にビクリと反応してしまう海空。どころか堪えきれずに体が先刻の体験での恐怖をリフレインして震え出す始末。
 もうあんな体験はするのもされるのも二度と御免である。
 特にされる方は断固として拒絶したい。
 だが、
「ねぇ、海空――」
 背後からしなだれかかるように未時が抱き付いてくる。
「まだ、怒ってる?」
 そして、耳元で甘えるようにそう囁くのだ。
 先程袖を通したばかりのひんやりとした肌触りのシルクのパジャマが急に熱を持った気がした。
「ねぇって、ばぁ」
 普段の彼女からは想像出来ないような未時の声は驚く程に甘い。
 腰に手を回してこちらを覗き込んでくる未時から、海空は必死になって顔を逸らす。今の自分の顔を彼女に見られでもしたら、それこそ海空は恥ずかしくて卒倒しかねない。穴があったら入りたい気持ちとはこういう時のことを言うのだろう。
「ねぇ、ねぇ〜」
 こっちの心中も知らず、未時は相変わらずの猫撫で声で甘えてくる。
 その何と愛しい事か。自分がどれだけ大切にされているかを感じずにはいられない。
 しかし、その気持ちをそのまま素直に出す事が出来ない自分がいる。
 顔を真っ赤にしたままで、ちょっとまだ怒ったフリをして、それでようやく海空は未時に言葉を伝える事が出来た。
「もぅ、怒ってません」
 まるで子供のようだった。
 いつものように笑って「もう怒ってませんよ」と言えればどれほど楽か。
 だが、思う事と実際にやるのとは別だ。自分が在りたいと思う姿でいる事は実際にやろうとしてみると思いの外難しい。
 だからいつもそうあろうとして、それを全く隠さない未時が海空は大好きだし、尊敬している。
 そして、そんな彼女に根底の部分で海空はいつもいつも甘えてしまうのである。
「本当に?」
 そう言う未時に海空はませた少女の様な口調で応える事しか出来ない。
「じゃあ、私の髪を梳いて下さい。
 そしたら、許してあげます」
「喜んで」
 そんな嘘偽りないそのままの意味を持ったその承諾の言葉が、海空をまた嬉しくさせるのだ。

 水を吸って少し重くなった彼女の髪に未時はゆっくりと櫛を通していく。
 彼女の髪は白い。
 不思議な色だとは幾度も思ったが、それに対して詮索や疑念、ましてや不快感など一度も懐いた事はない。
 彼女の白くて長い髪を見て、いつも未時が懐くのは今まで他の誰と一緒にいても感じる事など出来なかった静かさと穏やかさ。
 気付いた時にはその色は未時にとって心休まる存在の象徴になっていた。
 暖房が効いた部屋の中でソレは少し冷たく、そしていつもより柔らかい。
 息遣いすら躊躇うその中で、ただひたすらに櫛が髪を通る音だけがゆっくりと響く。何度も何度も、櫛は彼女の白い髪を梳いては抜け、梳いては抜ける。
 幾度となく続けて徐々に髪に抵抗が生まれてきた。相変わらず櫛は一度も引っ掛かることなく髪を通るのだが、その軌跡に微妙な、本当に微妙な重さが加わるのだ。それは例えるなら掌の上に綿毛が乗っているのと大差ない程の重さである。
 常人では絶対に分かり得ないだろう感覚。おそらくは未時でも普通なら気にも止めないような微細な。
 しかし、そんな感覚でも彼女と一緒なら、いや一緒だからこそ感じ取れる。
 たとえほんの少しの差でも、その差でさえ勿体なく感じる程に未時の心は彼女の存在を渇望していた。
 いつでも、どんな時でも。
 その全てを最高の時間に。
 星海 未時はいつもそう思って彼女との時を過ごしている。
 彼女と一緒にいるだけで嬉しい。彼女に触れるだけで幸せになれる。彼女の声を聞くだけでこの世界がまた少し好きになる。彼女がいるから、蒼井 海空がいるからこそ、星海 未時はまだこの世界にいたいと思う。
「さぁ、こんな感じでどうかしら?」
 十分に髪が乾くまで髪を梳いて、未時はようやく声を発した。後ろから見た海空の髪はもうすっかりいつもの緩やかで綺麗なウェーブを描いている。
「はい、ありがとうございます」
 手で具合を確かめながら海空がこちらを向いた。少し恥ずかしそうにしながらもその顔には十分な満足が伺える。どうやら機嫌はすっかり治してくれたらしい。
 ふと、視線が交わって数秒。
 何となくどちらともなくタイミングを逸してしまったようで、何を話そうかと考えても浮かばない。話したい事はいくらでもあるというのに、その言葉が上手く纏まらないのである。
 話す時にはひたすらに話し続ける事が出来るが、一度タイミングを逃してしまうとなかなか元には戻れないところがあるのがこの二人の常である。
 何かきっかけを掴まなければと未時は周囲から何か話のネタになりそうなモノを探す。それこそ無駄に自分の力をフルに活用して。
 見るのではなく、視る。
 世界を世界として捉えるのではなく、全てを引っくるめて一つの流れとして把握する。
 その厚さ五センチ、銃弾にも耐えうる合成ガラスの向こう側の状況を。
「そ、そういえば雨は上がったみたいね」
 不自然この上ないフリではあったが未時はその分厚いガラスの向こう側に目を向けた。海空もそれに釣られてそちらを向く。
「そうなんですか?」
 ガラスにはまだ雨粒が残っており、外の様子を性格に把握することが出来ない。二人が待ち合わせた時のような雨脚ならまだ分かったかもしれないが、このホテルに到着した後、このスイートルームに向かう途中のエレベーターから眺めた景色の中では雨粒はほとんど気にならないような天候にはなっていた。
 お風呂の中でそろそろ止むだろうなんて話はしたが、それが既に成されているとは海空は気付いていなかった。
 しかし、それが普通なのである。
 未時のような常人ではない存在の者だからこそ、その感覚に気付く事が出来るのだ。
「私、耳も良い方なのよね」
 それを未時はそんな事を言って誤魔化す。海空は既に未時が人であるかどうかの狭間に居着いている事を知っているが、それでも未時は彼女の前であまりソレを前に出したくないと思っている。
 海空と二人で居る時は彼女と同じ世界に立ち、同じ目線で世界を眺めていたいからだ。
 だから未時は極力それを彼女に悟られないようにしている。知ればきっと海空は自分を気遣ってくれるし、理解もしてくれる。それは自分が逆の立場でもきっとそうしようとするだろうし、事実出来るだろう。
 でも、だからこそ未時はそれを嫌だなぁと感じる。
 海空を大事にしたいからこそ彼女はそれを拒むのだ。
「どうせなら外に出てみましょうか。きっと星が綺麗に見えるわよ?」
「そういえば今日は流星群が見れるらしいって朝ニュースで見たんですよ」
「そうなの?」
「はい、でも今日のこの天気じゃ見れないだろうって言われて諦めてたんですけど」
「それならすぐにでも行かないといけないわね」
 言うや否や二人はこの部屋には不要なんじゃないかと思っていた温かそうなガウンに袖を通してテラスに出る扉へと急ぐ。外に出る前に備え付けのポットを使って温かい飲み物を入れる事も忘れない。
 スイートだけあって備え付けの飲み物の種類も豊富だった。インスタントとはいえ、美味しいと有名どころのティーパックやコーヒーが揃えてある。未時はその中からミルクとコーヒーの比率が本来の作り方と真逆のカフェオレ(砂糖もたっぷりと入っている)を作り、海空は少しだけ砂糖を入れた濃いめのアップルティーをチョイスする。
 カップを片手に未時と海空はゆっくりとテラスに出る。
 最上階なので上下左右、三六〇度全部柵で囲まれているが、それは仕方がないことだ。しかし、どうせなら柵ではなくて外が見通せるような薄いガラスで覆っておいて欲しかった。真冬の風が容赦なく二人を襲うのだ。予め予想してはいたが、予想していた以上に寒い。
「寒いですね」
「寒いわね」
 今すぐにでも部屋の中に退避したくなるのを堪え、二人は空を見上げる。
 雨はすっかり上がっていた。たまに額や髪に落ちてくる雨粒は頭上の柵から滴るものだ。
 二人の少女を捕らえる大きな鳥籠の向こう側から大きな空がこちらを覗いていた。
 まだ雨雲は残っている。
 が、その雲を押しのけるようにしてゆっくりと馴染みある空が顔を覗かせてくる。
「もうちょっと部屋の中にいてもよかったかもしれないわね」
 言いながらカフェオレをすする未時に海空は首を振る。
「そんなことないですよ、未時。ほら」
 海空が示すままにその指の先を見る。
 そこに時折走る一筋の光。
 流れ星だ。
 そこだけ雲をぽっかり切り取ったような歪な四角形の空の中を数秒に一回という感覚で流れ星が走り抜けていた。
 その数秒は流れ星を待つという時間としてはとても短いものであることには違いないが、未時にはその時間がとてももどかしい。数秒待てば確実にそれがやってくると分かっているだけに余計に。
 しかし、その微妙な間が海空にはまた良いらしい。両手でまだ湯気を立てるカップを大事そうに抱えながら、目をキラキラと輝かせながらその光景にウットリとしている。
「そんなに珍しいもの?」
 カフェオレを啜りながら未時は尋ねる。自分から星が綺麗だからと誘ったにもかかわらず、その態度からして既に部屋の中に引っ込みたいという気持ちがありありと分かる。
 そんな未時に海空は笑って応える。
「そうですね。私には珍しいものですよ。
 未時は興味ありませんか?」
「そうねぇ。
 もっと派手に、それこそバビュンと数えるのが面倒になるくらい飛び交ってれば面白いかなぁとか思うんじゃないかしら」
「それはそれでせわしない気もしますけど」
「きっと私にはそれくらいで丁度良いのよ」
「それは……確かにあるかもしれませんね」
 海空は少し思案して頷いた。
「未時といると毎日が刺激的すぎますから」
「辛いのは嫌?
 私は大好きよ?」
 未時は彼女といて得られる刺激が好きだった。でなければもうこんな世界などとうに捨ててしまっている。
 何故なら、今、未時がいる世界は彼女の持つ視覚のピントとあっていないのだから。
 そういう意味ではきっと何かは変わったのだろうと思う。
 特筆して挙げられる程何かが変わったという訳ではないけれど、海空と出会えた事は未時にとってとても大きな刺激だった。
 未時が今まで味わっていた世界というメニューの味を刺激的にしてしまうスパイスを彼女は持っていたのだから。
 そのスパイスは甘くて、辛くて、他では味わえないくらい変な味だけれど、いつも最終的には口の中で自分の好みの味に纏まってくれる素晴らしい調味料だ。その深い味わいに未時は心を奪われてしまっていた。
 だから、未時はまだこの世界にいたいと思ってしまう。
 白くて、清らかで、透明で、何よりも甘い蒼井 海空という存在が隣にいてくれる間は。
「私も未時がくれる辛さは好きですよ?
 というより未時がくれる味じゃないと満足できなくなってしまいました」
 チビチビとカップに口を付けながら海空は言葉を紡ぐ。
「責任とってくださいね?」
 そんな嬉しい言葉のオマケまで付けて。
「これは、明日から今まで以上に気合い入れていかないといけないわね」
 言われて未時はガウンの袖をまくる。
 しかし、外だし、夜だし、最上階だしで寒いのですぐに袖を引っ込めた。そして、それを海空に笑われる。
「刺激的?スパイシー?」
「今のはへんな味でしたね。プリンに醤油をかけたような味です。ウニだと思って食べさせられて騙された感じです」
「何よそれ?」
「あれ?昔やりませんでしたか?
 私が小学生くらいの頃にはそういうのが結構流行たりしたんですけど」
「少なくとも私の記憶にはないわね」
「未時ちゃんと学校行ってたんですか?」
 鋭い指摘だった。ついでに視線もかなり鋭かった。未時が紙だったら穴だって開いてしまうんじゃないかと思えるくらいに先がギラギラと輝く鋭さである。
 そしてその疑惑があながち外れていないだけに未時としては非常に居心地が悪い。
「ちゃ、ちゃんと行ってたわヨ?」
 そして、最後の方が明らかに裏返った。失態である。これでも嘘を付くという事にかけてはそれなりに自身があるのだが……
「やっぱり行ってなかったんですね」
「バレた?」
「バレバレです」
 とりあえず開き直ってみたらいくらか呆れられた。
「しょうがないので、これから真面目に通えるように願掛けしておきますね」
 そしてその願掛けは未時個人としてはあんまり嬉しくない。
「そんな事されたら私がこれから困るじゃない」
「今まで十分さぼってきたんですし良いじゃないですか」
「まだまだ足りないわよぅ」
「そこは満足してください。それに今日は願掛けするには最高の日ですから、未時のサボリ癖も今日で年貢の納め時です」
「お星様はこっちの話なんて聞きやしないわよ」
 あんなにすぐに見えない場所へ飛んでいくのだから、仮に耳が付いていたとしてもきっと聞く余裕なんてないだろう。あっても両手で防いでいるに違いない。
「やってみないと分かりませんよ?
 それにその願いが本当に心から願われたモノならその思いはちゃんと届くんですよ」
 しかし、海空はそう思ったりはしないらしい。
 それどころか願いが叶うとまで言い出した。
 未時には理解出来ない領域の言葉である。
 星が願いを叶えるなんて信じるくらいなら、それこそもっと着実な手段を模索するべきだろうと思う。
「非現実的よね」
「そうですね」
 そして、それを彼女もちゃんと理解しているらしい。
「だったら――」
「でも、叶うって思っていれば素敵じゃないですか?」
「…………」
 それは未時にとってとても斬新な言葉だった。
「確かに非現実的かもしれませんけど、でも信じる事で救われる事もあると私は思います。それにそれがもし叶ったりしたら、嬉しさが増える気がするじゃないですか?」
「確かにそうかもしれないけど、救われても結局叶わなかったらその後また絶望の底に突き落とされろっていうの?」
 質問に質問で返した。自分でも珍しく意固地になっているのが理解出来る程に。
 だって世界は未時にとってそんな風に優しく出来ていなかったから。
 だから未時はそんな世界をいらないと思った。思う事にした。そうしないと今まで生きて来れなかったから。そうしなければ自分はきっと潰れてしまっていたから。
 その結果、未時は全てを拒絶して生きてきた。少しでも強くなろうと思って、辿り着いた手段がそれしかなかったのだ。
「そんなの虚しいだけじゃない。認めなければ、人は先に進めないのよ」
「そうですね」
 絞り出すような思いは、また否定されなかった。彼女は、海空はまた、未時の言葉を受け入れる。
「きっと未時の言葉は正しいです。私もそう思いますから」
「…………」
 未時は言葉を繋げられなかった。言いたい事は一杯ある。冷めた心が世界に尖った言葉を穿とうと藻掻いている。
 でも、その矢を放つ事は出来なかった。動けない。体が重い。
 枷が嵌っている。
 世界に囚われている。
 未時はそれを解く鍵を持っていないのだ。
 持っているのは――
「でも、すぐに進む必要はないとも思うんですよ」
 彼女なんだろう。きっと。
「ゆっくりで良いと思うんです。
 ちょっとでも何かにすがる事で頑張ろうって思えるような力を付ける事が出来るなら、私はそれでも良いと思います」
 蒼井 海空は笑う。
 その姿に未時は見とれた。
 惹かれた理由はきっとこれなんだろう。
 自分とは違う強さを持っている、けれどもとても近い存在。
 その強さが未時は羨ましかったのかもしれない。
「じゃあ……」
 だから自分はその眩しさに手を伸ばしてみたのかもしれない。
「じゃあ、もし私がその縁にずっと一人でいるとしたら?」
 例えば、そう。今みたいに。
「そんなの決まってるじゃないですか」
 そして、その手をやっぱり彼女は取ってくれる。
 優しく、柔らかく。
「未時には私がいます」
 泣きそうになった。
 彼女の優しさが嬉しかったから。その心が温かだったから。
 それが嘘ではないことを理解出来たから。
「敵わないなぁ」
 すっかり空になったカップを持ったまま未時は後ろから海空に抱き付いた。ちょっと力を込めて痛いくらいに抱き締める。
「何ですか、急に?」
「いや、好きだなぁって」
「私も好きですよ。
 未時の事大好きです」
「うん」
 愛おしくてたまらない。ぎゅ〜っと、ぎゅ〜っと抱き締める。
「きっと叶うわ」
 そうしながらぼそりと耳元で呟く。
「海空の願いはきっと叶う。私が叶えてあげる」
「じゃあ、未時の願い事は私が叶えてあげますね」
「期待してるわ」
 そう言って笑いあう。
 空を見上げれば雲はいつの間にか消えていた。代わりにゆっくりと落ちてくる柔らかで、儚い白。
「雪ね」
「雪ですね」
 雪降る中で二人は空を見上げて、星を追う。
 幾筋も駆け抜けていく流れ星に祈りを想う。
 願いは届かないかもしれない。
 でも、もしかしたら届くかもしれない。
 確かにそれは素敵な事かもしれないと思えた。
 心から叶って欲しい願いを想う。
 彼女がその願いは届くのだと言ってくれたから。
 だから、未時は唯一無二の想いを願う。
 その想いはきっと叶うのだと、今、この瞬間は信じて。


                                      Prelude Zero Episode10 “星に願いを”Fine.


                                   to be continued last episode“Star in to the Blue”


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