Mist Town



 立ちこめる霧の中を彼女は黙々と歩いていた。
 それはある意味で彼女の完全の孤立を表しているとも言える。そしてその表現は現在彼女が置かれている状況と照らし合わせてみると、非常に的確な表現であるとともにまた事実であった。
 その空間には彼女しか存在していなかった。
 そしてその空間は彼女がいつも行き来している街そのものだった。
 しかしその空間は彼女のいつもいた世界とは違ったモノ。
 人の気配はおろか、一切の受動的な音すらもその世界には存在してはいない。発せられるのは自らの衣擦れの音に歩を進めるたびに起こる靴と地面の微妙な摩擦音のみである。
 ここで鼻歌の一つでも歌ってみれば意外にその空気は明るいものに変わるのかもしれないが、あいにくと彼女にそういう趣味はなかった。だからといって彼女は明らかに混乱していたりといった精神的に不安定な感情を抱いている訳でもない。ただ最初に“この空間”の中に踏み入ってしまったときに、「またか……」といった嘆息を漏らした程度である。
 つまりそういった“普通でない”とされる状況に飲み込まれてしまうことは、彼女にとってそれなりに頻繁に起こりうる事象であるということだ。
 だから彼女の頭の中では既にこの状況をいかにして打開するかという思考が無数に展開されていた。このゴールの見えない散歩もそういった状況を進展させるための手段の一つにすぎない。彼女自身が意味はないと悟ったとき、彼女はその歩みをピタリと止めるだろう。
 歩を進めながら彼女は腕時計を一別する。それはこちらに踏み込んでから二度目の行為である。
 15:15:15。
 特に知られたブランドのものではないそれは、時を刻むというその機能を止めてしまったままだった。
「時間的感覚は無意味、ね」
 どちらかというと少し乾いた唇をほぐす意味に重点を置いてその結果を口にする。そのためその言葉には緊張感の欠片も感じられない。ただその事実を事実として受け入れただけ。
 改めて現在の状況を再認識。歩みはまだ止めていない。
 その間もこの世界に満ちる霧は変わることなくそこにある。これも勿論比喩などではない。
 この霧は最初からずっと彼女との距離を一定に保っているということだ。
 彼女に見通せるのはせいぜいが目先十メートル程度。そこまでは薄い、霧と呼ぶのも怪しい霧が漂っている。
 だが、その先の霧は濃霧と呼ぶには余りにも深すぎるのである。まるでその境目までが彼女のテリトリーであるということを明確に表しているかのようであった。
 ピタリと足を止める。
 同時に自信を取り巻く霧もその動作を停止させる。直立ではない腕を腹部の辺りで組んでのリラックスした姿勢。
 視界のテリトリーの隅に見える曲がり角。丁度そこが角であると認識できるギリギリの境界位置。そこを注視する。そして歩を進めず、頭だけを微妙に前後させて。
 テリトリーは動かなかった。微動だにしない。
 これは明らかにおかしいことだった。
 なぜなら自分の瞳が映す構図に微動な変化すら起こさなかったからだ。彼女が頭を突き出してみても引いてみてもその曲がり角の壁に埋め尽くされた四方系のタイルは大きさを少しも変えないのだから。
 これより得られる結論。
 それは彼女の今の立ち位置を基準点として、彼女に映像情報が送られているということだ。
 そしてそれより彼女はこの神隠しめいた状況が人為的に引き起こされたものの可能性が高いと推測する。
 別に彼女はそんな普通でない存在が自分しかいないとは思っていない。
 それはちょっとした俗に呼ばれる霊能力者と呼ばれるものに近いのだろう。雑誌やテレビなどの特集でもやっているようなモノと同様に、これも世間一般から見ればその類と似たようなモノかもしれない。
 でも彼女はその呼び名が余り好きではなかった。
 だから彼女は自分のことをこう捉えるようにしている。
 “魔術師”、と。
 そうした理由は特にない。強いて挙げるならそっちの方が自分の性にあっているからとしか言えない。
 ゲームのように魔法が使えたりするわけではない。
 しかしそれでも彼女は世間一般という不明確な境界の中で見れば異質な存在である。
 その結果として彼女は自身を“魔術師”であることにしたのだ。
 そしてそれはやはりと言うべきか自分だけといったことではないようだ。
 空間の異を自覚したと同時に見られているという感覚が絡みついてくる。
 その感覚は観察といったそれに近いものの気がする。試されているのか。それとも――
 止めていた歩みを再開する。
 おそらく歩くことの意味は既にないだろう。しかし止まっていることもまた同じだろう。それならまだ歩いている方がまだ何かが変わる可能性があると彼女は判断した。
 頭の中に歩き慣れた街並みをイメージする。
 目的地はどこでも良い。それをゴールと呼ぶとするのならそんなものは存在しない。
 一定のリズムで音が刻まれる。制服の衣擦れの音すらもその一つ。自販機が目に止まる。普段なら絶対に買わないけれど、奮発してコインを入れる。押したボタンはよく冷えたオレンジジュース。
「貴女は誰?」
「その問いかけに意味はあるのかしら?」
 馴染んだ声でかけられた問いかけに即答で返す。全く凝った趣味をしているものだと彼女は感心した。
 わざわざ“自分と同じ声”で話しかけてくるのだから。
 そして同時に確信する。
「貴女は誰?」
「貴方こそ誰?」
 オレンジジュースのプルタブをパコンと鳴らし、質問をオウム返ししてやる。言葉と同時に顔をしかめたのは単にオレンジジュースの果汁が低かったからだ。やはり一〇〇%が好ましい。
「貴女は誰?」
「貴方こそ誰?」
「私は貴女」
「それは意味ある嘘なのかしら?」
 それに意味がないことを既に分かっていながら聞き返してやる。既にこの状況を少し楽しんでいるのかもしれないと思える自分がそこにいた。
「何故そう言えるの?」
「だって私はここにいる私でしかありえないもの。そしてそのことを貴方は自分で認めているじゃない。人は自分のことをめったに貴女とは呼ばないわ」
 霧が一瞬ざわめいた感覚。
 足取りはいつもの街を歩いている時のコースと同じ。今いるのはその中でも比較的良く利用する喫茶店。落ち着いた感じのインテリアが自分の好みに良くマッチしているのだ。
 そのテラスに設けられた席の一つに腰を落ち着かせる。
 この喫茶店は外からの持ち込みが出来る。そのため放課後の時間は良く同級生が利用していたりする。彼女がその時間帯に利用することはほとんどない。強いて言うなら今がその珍しい時。
「貴女は誰?」
「貴方こそ誰?」
 そしてまた同じやりとりを繰り返す。
 しかしそれは最初の一言だけだった。
「私は貴女と同じ」
「そう」
 それだけで十分だった。
 霧がゆっくりと晴れていく。
 相手は自分と“同じ”だと言った。それはつまり向こうもまた“魔術師”であるということ。
 それならその行為には意味があるのかもしれない。
 それが白か黒なのか、そんな考えよりも先にただ興味があった。面白そうだった。そうしたいという欲望が勝った。
 だから彼女はその想いを言葉にする。
「貴女は誰?」
 それは最後の問いかけになった。
「未時。私は星海 未時(ほしうみ みとき)」
 霧が、晴れる。
 ふと腕時計に目を向ける。
 15:15:16。
 それはその役割を再び手に入れていた。
 そして彼女――星海未時はテラスの向かいの席に座る“彼”に向かって問いかけた。
「貴男こそ誰?」
「僕は君と同じ」
 その言葉が一瞬の間を持って続く。
「君と同じ“魔術師”。名は霧羽 総弥(きりばね そうや)。初めまして星海未時。そしてようこそ――」
「「魔術の世界へ」」
 二人の声は静かに、重なった。


                                          Prelude Zero Episode0“Mist Town”fine.


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