〜 #1 回復魔法は必要ですか? 〜



 この街に特徴と言えるモノは特に存在しない。
 驚く程田舎というわけでもなく、人の賑わいが絶えない程都会というわけでもない。ようするに普通。兎に角普通。それこそがこの街のステータスである。
 だから、この高校にもそのステータスは何ら変わることなく当て嵌まる。
 偏差値も平均程度。クラブ活動もメジャーなモノはあらかた存在するが、全国クラスで通用する程強いクラブは何一つとしてない。
 しかし、ただ一つだけ。
 たった一つだけ、この高校には目立つ物がある。
 ちょっと洒落た大きめの一軒家。
 それこそ喫茶店でも開けば人気の出そうな、そんな建築物。
 だが、この建物にはあいにくとそんな雰囲気は微塵も感じられない。
 時刻は美しい橙に彩られる時刻であるというのに、その建物は全ての窓を遮光カーテンで覆い、その光を全て遮っている。
 当然、その中は薄暗い。
 加えて独特の香り。
 埃臭い、だが決して不快ではなく、ある者にとっては好ましいと感じられる臭いだ。
 その臭いの元は溢れんばかりの本。
 人がようやく一人歩ける程度の間隔で陳列された本棚は勿論、全ての壁にもそれは置かれ僅かな隙間もなく書籍が建物を埋め尽くしていた。本棚に入る事の出来なかった本はこの建物のデッドスペースを限りなく利用した場所へと収納されており、それにさえ溢れてしまった本達は棚の上、床の隅に綺麗に積まれている。
 この建物に収納されている書籍の数を性格に知る者は誰一人としていない。
 だが、その蔵書量は間違いなく活字中毒者を満足させるだけの量ではあった。
 これこそ、このありふれた学校における唯一の特徴にしてステータス。
 図書室と呼ぶにはあまりにも大きすぎる規模から、学校関係者はこの建物を図書室ではなく図書館と呼ぶ。
「香苗さん、今日はもう終わりだよねー」
 時計の針は後十分もすれば五時半に届く。図書館は五時半で閉館となり、その後簡単な事務を三十分程行うのがいつものお仕事である。
 図書館は毎日図書館委員が交代で一人ずつ受付としての仕事を行い、その他の事務、書籍の管理については全てたった一人の司書官によって行われている。
「確かにもう今日の分の仕事は残されていませんが、だからといって携帯ゲーム機で遊んで良いわけではありませんよ」
 それが彼女である。
 パンツルックのスーツを隙無く着こなしたスレンダーな体躯に、腰まで届く黒髪をシンプルに纏めたポニーテールは彼女の物静かな雰囲気にとてもよく似合っている。
 弦月香苗(つるつき かなえ)、彼女がこの図書館の管理人だ。
 そして、彼女の目の前で全く悪びれる事もなくおもむろに携帯ゲーム機を取り出し、ボタンをポチポチやりだしたのは図書館委員の一人である日向茜(ひむかい あかね)。日向という名に違うことなく明るい性格であるのは彼女の長所だが、思慮に欠けるところが玉に傷。
 香苗が作業中のPCのコンソールから全く目を反らさずに注意しても、茜の手は細かな動きを止めることはない。
「…………ふぅ」
 だが、香苗がそれを追求する事はない。
 そして、それを分かっているからこそ茜も携帯ゲーム機をポチポチやっている。そういう空気を読む事に関して彼女の洞察力はとても秀でている。そういう所をもっと他でも生かしてくれればと彼女の友人は皆思うのだが、「人間煩悩に関してはやる気がでるよね!」というのが茜自身の弁。
 香苗の打鍵音が無くなり、モニターの明かりが消える。本日分の仕事が全て終わったため、使用していたパソコンの電源を落としたのだ。閉館まで残り数分という時間を彼女はいつも館内の最終見回りに使う。
 香苗の時間感覚は正確で、カツカツと規則的な足音を響かせながら彼女の視線は館内を的確にチェックしていく。視線は一度も時計に向けていないのに、彼女はいつも閉館一分前に茜のいる受付カウンターに戻ってくる。そして、受付に置かれている『Closed』の札は五時半きっかりに図書館の入り口に掛けられるのだ。
 これにて図書館は閉館となり茜の仕事は終了、香苗については一段落となる。
 この後、香苗は翌日に行うべき作業を簡単にメモに纏めて、先程行った巡回で特に乱れていた本棚の整理を十五分掛けて行い、全ての作業が終わった後、残りの十五分を香苗は一人、ゆっくりと紅茶を飲んでから帰路に着く。
 帰宅前のティータイムは香苗にとって至福の一時であり、本来なら図書館委員が退館した後に一人で堪能しているのだが、
「は〜、やっぱり香苗さんの入れる紅茶は美味しいねぇ」
 何故か、いつも茜だけはこの時間まで残り席を共にしている。
 時間にタイトな香苗の性格が仇となった。謀らずしも香苗とは逆に時間にルーズな茜はたまたま香苗の入れた紅茶を飲んでしまったのだ。
 勿論、無断で。
 それに味を占めた茜は、結果として五時半を過ぎた後もこうして香苗の入れる紅茶を目当てに居残っている。しかも、図々しくマイカップまで持ち込んで。
「茜さん、少しは遠慮というものを覚えるべきでは?」
「でも、日本人はもっと図々しくあるべきだって、こないだ何かのテレビで見ましたよ。んで私もそう思ったんですよ。特に美味しい紅茶の前では!」
 確かに日本人はもう少し厚顔であるべきだとは思うが、それは決して今ではないだろう。少なくともこの場面は日本人特有の奥ゆかしさを発揮するべきだ。
「まぁ、貴女に遠慮という言葉を説いても無意味なのはもう分かっていますけどね」
「流石は香苗さん。御理解があって助かります」
 満面の笑みの茜に小さく溜息を付きながら、香苗は一日の疲れを癒してくれる紅茶に静かに口を付ける。
 茶葉はオレンジペコーのセカンドフラッシュ。
 ストレート、ミルク、レモンとどの飲み方にも合うオレンジペコーを今日はレモンティーで。沸騰させたお湯を一気にポットに注ぎ、きっかり一分蒸らすというまさにお手本のような入れ方をしたペコーの香りは仕事での疲れを優しく癒してくれる。
「とりあえずお茶を飲む時くらいはゲーム機の電源は落としたらどうですか?」
「大丈夫です。このゲームリアルタイムシステムじゃないんで、ゲームオーバーにはならないんですよ!」
「そういう意味では無いんですが」
「他に何か問題あります?」
「大ありです」
 主にモラル的な意味で。
 だが、そんなモラルを気にするようならそもそも茜は委員の仕事が終わった後、わざわざ香苗のティータイムを邪魔したりはしないだろう。
「細かい事は気にしちゃいけないよ!」
「それは貴女が口にしてはいけない言葉ですけどね」
 言って聞くようなら香苗だって何度でも同じ言葉を口にするが、この日向茜という生徒には無駄でしかないのだからしょうがない。この図書館の居心地の良さを理解しているという点については称賛に値するが、出来ればその手に握られるのは携帯ゲーム機ではなく一冊の本であった欲しかった。
「それにしても茜さんはゲームが好きですね」
「大好きです!
 私の人生の七割はゲームで出来ています!」
 それはそれで将来が心配になる言葉である。
「一応聞いておきますが、残りの三割は何で構成されているのですか?」
「美味しい御飯と快適な睡眠が一割ずつ、そして香苗さんとのティータイムと甘い物が五分ずつを占めております!」
 自分との時間を人生に含んでくれるのは嬉しいが、やはりそこに勉学という二文字は存在しないらしい。
「ホント、ゲームって大変なんですよねー。毎週新作出ちゃうんで、買いに走る身にもなって欲しいですよ」
「そこに買わないという選択肢は?」
「勿論、ありません」
「……そうですか」
 少しでも期待した自分が馬鹿だった。
「特に今月は一週間に一本のノルマじゃ間に合わないから大変なんですよ。後三日で今やってるのをクリアして次のに移らないと」
 マイカップから香苗の入れたオレンジペコーを美味しそうに啜りながら茜。
「とりあえず今やってるイベントをクリア出来れば、回復魔法を使えるキャラが仲間になるんでグッとペースを上げられるはずなんですよね」
 はず、と言われてもゲームの類を全く触らない香苗は反応に困る。
「でも、回復魔法って良いですよね。あったら色々役に立ちますし」
「そうですか?」
「ほら、なんでしたっけ。マリーなんちゃらさんみたいな感じで格好良いじゃないですか」
「マリー……アントワネットですか?」
「オウ、イエス!」
 彼女はフランスの王太子妃であり、「パンがなければお菓子を食べれば良いじゃない」という発言をしたとして有名になった人物である。史実ではそれが彼女自身の発言ではないと判明しているのだが、今大事なの事はそれではない。問題は彼女が一体誰の事を指しているのかということだ。
 しかしながら、
「今、私に分かっているのは貴女が限りなく間違った認識をしている事だけです」
「あれ、違いましたっけ?
 あの戦場にいた白衣の天使な人。薬のパッケージにもイメージキャラクターとして使われてたはずですよね?」
「……それはナイチンゲールではないですか?」
「あ、何かそんな感じだったかもですね!」
 茜と話していると香苗は必ず頭痛に襲われる。
 まさかマリー・アントワネットとナイチンゲールを間違えるなんて。それに薬のパッケージに使われているというのはおそらくメン○レー○ムの事だろうが、あの少女はナイチンゲールをモチーフにしているのではなく、CMで起用された少女がモデルである。
 パッケージのモチーフになっている少女の話はあまり知られていない事だが、マリー・アントワネットとナイチンゲールを間違うのだけは二度としないで欲しい。今後、確実に恥を掻くのは茜である。
「それで……」
 こめかみを抑えながら香苗は頭痛の種から話を逸らす。
「何故、回復魔法が役に立つと思うんですか?」
 こちらの話もついぞ頭が痛くなりそうだったが、淡い期待を抱いて話題を変える。
「いやー、特に対した理由はないんですけどね。何か格好良いじゃないですか」
 そして、それは本当に淡い期待だった。それも数秒にも満たない一瞬どころか、刹那の夢物語でしかなかったらしい。
「理由が単調すぎませんか」
「んー、そうですかね。でも、そんな大それた理由がある訳じゃないですよ。ただ、怪我とか病気とかパパーッて治せたら便利かなって」
 確かにそうだろう。
 怪我にしろ病気にしろ魔法のように一瞬で治せてしまえれば便利ではあるだろう。
「しかし、それは本当に良い事なのでしょうか?」
「どういうことです?」
「怪我や病気がどうやって治るのか茜さんは知っていますか?」
「気合い!」
「違います」
「気の持ちよう!」
「……すいませんが、両者の違いを教えて貰えますか?」
「きっと気合いのが強いです!」
 頭痛が酷くなってきた気がする。こめかみを揉む力も自然と強くなる。折角のオレンジペコーの香りもこの頭痛の前には霞んでしまっているのか、何だか最初に飲んだ一口よりも味が薄く感じてしまう。
「良いですか、茜さん。そもそも怪我は薬を塗るから治るのではなく、病気にしても薬を飲むから治るのではありません」
 話題をまともな内容に変えるのは諦める。きっとどれだけ香苗が尽力しても、その努力は報われないからだ。
「そうなんですか?」
「そうなんです」
 なので、話題を変えるのではなく、その方向を変える事にする。
 意識を切り替えるとこれまで霞んでいたように思えたオレンジペコーの香りがまたしっかりと鼻孔を擽るようになってくる。
 それを一口含んで唇を湿らせると、香苗の口は滑らかに言葉を紡ぎ出す。
「例えば、貴女がこれで指を切ってしまったとします」
 口火を切った香苗の手には一本のカッターナイフ。
「そうすればどうなりますか?」
「痛いです」
「他には?」
「血が出ます」
 明らかに無駄なやり取りを経て、少しずつ本題へ近づけていく。
「では、その血液の成分はご存じですか?」
「はっはー、私が知るわけ無いじゃないですか!」
「そこは威張らないで欲しいんですけどね」
 一応、中学校で習う知識だったと香苗は記憶しているのだが、それを問いつめる事はそれこそ時間の無駄にしかならないので追求はしない。代わりに少し医学的に説明することでその鬱憤を昇華させる事にする。
「血液の成分は主に二つに分けられます。細胞から形成されている成分と液体で形成されている成分です。液体成分は九割以上が水分で形成されており、残りを血漿蛋白質という物質、糖、脂肪等が占めています。
 が、今フォーカスするべきはそちらではないので、覚えなくても結構です。大事なのは細胞成分の方です。こちらについては茜さんだって少なからず形成物質をご存じのはずですよ?」
「記憶に御座いません」
 即答する茜に、香苗は「そんなはずはありません」と、彼女の記憶を掘り起こす。
「血球成分とヒントを出せば心当たりも出てくると思うのですが。分かりづらければ血球という言葉だけに焦点を当てて考えてみて下さい。血の球と書いて血球です」
「あー、それなら分かるかも。赤血球とか白血球とかですか?」
「正解です。今、茜さんが上げた二種の血球に血小板、この三種が血液の細胞成分を形成しています。ちなみに成分比は赤血球が九六パーセント、残り四パーセントの内三パーセントを白血球、一パーセントが血小板になります」
「血小板っていうのも聞いた事ある気がします」
「気ではなく、習っているはずですよ。それにここからが本題です。赤血球、白血球、血小板が今回のテーマにおいて重要な位置付けになるのですから。
 まず、赤血球についですが、ヘモグロビンという物質に聞き覚えはありますね?」
「名前だけなら!」
 茜は胸を張って香苗の問い掛けを肯定するが、それもやはり胸を張って言えるような事ではない。本来記憶していて当然の事柄である。
「赤血球はそのヘモグロビンというタンパク質に酸素を取り込み、全身を巡り酸素を運搬します。また、二酸化炭素の運搬も赤血球の仕事ですね。ここまでは良いですね?」
「ちょっと頭が痛くなってきましたけど、何とか……」
「貴女には頭痛を覚えるくらいで丁度良いでしょう。たまにはゲーム以外の事にも頭を使って下さい」
 眉を険しくする茜を見ると少し頭痛が治まってくるのを感じながら、香苗はまた少しオレンジペコーを飲む。段々と本来の味と香りを楽しめているのを自覚しながら、彼女はペースを取り戻そうと更に知識の扉を開けていく。
「さて、ここから少しずつ話を本題へ戻していきます。
 茜さん、白血球と血小板の役割について説明出来ますか?」
「出来るわけ無いじゃないですか」
「だと思いました」
「酷いよ!
 もう少し私を信じてくれても良いと思うよ!」
「そういう言葉は質問にちゃんと答えられてから口にするべきです」
「うう、私だって面と向かって馬鹿って言われたら傷つくんだよ……」
「それで、白血球と血小板の働きについてですが、」
「そこは慰めるところだと思うんですけど!」
「慰めて茜さんの頭が奇跡的に良くなるのであればいくらでもしますが、どうしますか?」
「ごめんなさい」
 本能的に茜の額はテーブルにくっついていた。
 茜が白旗を上げた所で、香苗は再び論理を繰る。
「この白血球と血小板こそが、私達の体を怪我や、病気から守っているんですよ。まず、白血球ですが、これには体内に入り込んだ異物を排除する役割があります」
「異物ですか?」
「イメージしずらければ病原菌と考えて下さい。風邪なんかはその典型例ですね。
 白血球はこれらの病原菌、異物を駆逐し、体内を常に正常に保とうとする働きがあります。風邪を引いた時に発熱するのも白血球が体内にそう働きかけているからなんですよ」
「具体的にはどうなるんですか?」
「細菌の活動を抑える効果があります。細菌の活動が活発になるのは平常時の人の体温の時ですので、体温を上げる事で細菌の増殖を抑えようとしているのです」
「流石は香苗さん良く知ってますねぇ」
「一部の情報については中学生でも知っている内容です。茜さんも覚えていて当然の事なのですから、せめて各細胞の名前と主な働きくらいはちゃんと思い出して帰って下さい」
「ぜ、善処します」
 香苗の有無を言わさぬ迫力に茜は気付いたら首を縦に振らされていた。
「それで最後に血小板ですが、これが怪我を治す役割に近い働きをしています」
「近いってなんですか?」
「正しい血小板の機能というのが傷ついた血管を修復するという作用だからです。実際に怪我をしたときのことを考えて貰えば分かりますが、血管を修復しただけでは元通りというわけにはいきませんよね」
「皮膚の部分とかが裂けたままってことですか」
「はい。裂けた皮膚を再生するのはまた別の細胞の役目になります。皮膚は新陳代謝細胞という物で出来ていて、その細胞は数日で死滅し新しい物に変わっていきます。日焼けすると皮が剥けて、下から新しく白い皮膚が出てきますよね?あれと似たような物だと思って下さい」
「それなら何となく分かる気もします。蛇とかの脱皮みたいな感じで良いんですよね」
「ええ、そんな感じです」
 ようやく香苗から肯定の言葉を貰えた茜も「ちょっと頭が良くなってきた気がする!」と下がり気味だったテンションが元に戻ってくる。心なしかゲーム機のボタンを押す指先もテンポが良くなったように感じる。
「では、ここで回復魔法という物が本当に必要かどうかという事について、今説明した怪我の治り方や病気の治り方を背景において論理的に考えていきましょう」
「あんまり難しくしないで下さいね」
「それは茜さんの解答次第ですね」
「え、私なんですか……」
「はい。仮に茜さんが回復魔法なる物を使えるとして、それはどういう理論で傷、あるいは病気を治療するのですか?」
「それはこう手をかざしてですね。パァーッと神々しい感じの光を出してやるわけですよ」
 ゲームを一時中断して両手を前にかざし、うねうねと動かしてみせる茜。
「つまり何も考えていないということですね?」
 そして、香苗はその思慮の浅さを一言の下に斬って捨てる。
「そんなばっさり言わなくても……」
「違うんですか?」
「……違いません」
 茜の懇願も香苗の前には暴風の中に晒された蝋燭の灯火に等しい。
「まぁ、茜さんが何も考えてないのは分かっていた事なので先に進みますが、」
「お願いします。世界とは言わないので、ほんの少しだけで良いですから香苗さんは私に優しくなってください……」
「……それでまず念頭に置いておいて頂きたいのは自己治癒力です」
「もう贅沢は言いませんから、せめてツッコんで下さい……」
「自己治癒力です」
「…………」
「大事な事なので二回言いました」
「卑怯だ!知的美人でボケられるとか卑怯だよ!
 神様は香苗さんに二物を与えすぎだよ!」
 いるかどうか分からない神様へ抗議する茜を無視し、香苗は我が道を淡々と突き進む。
「その自己治癒力ですが、当然ながらこれが高ければ高い程怪我、病気の治癒は早いです」
「まぁ、そうですよね……」
 少し遠い目をしながら同意する茜。
「では、回復魔法とはまさにこの自己治癒能力を意図的に超活性化していると考えられるのではないでしょうか?」
「あー、言われてみればそうかも。ていうかそれなら辻褄も合いますよね」
「はい。魔法なるものの未知なる力によって細胞に働きかけ、活性化を促すのが考える限りでは一番らしい方法でしょう。他の候補として負傷個所の時間軸を巻き戻すといった手段も考えられますが、手段としては前者の方が魔法じみているのではないかと」
「それにゲームだと時間操作系統の魔法って結構レアなパターンが多いしね」
「また時間操作に関しては病気を治す場合に記憶まで巻き戻す等の問題が発生する可能性もあります。そして、それを回避する手段まで考慮するとなると結論に到る前に茜さんの頭が沸騰してしまうでしょう」
「今サラリと私を馬鹿にしたよね!」
「しかし、限りなく事実に近い推測です」
「反論出来ないだけに余計にグサッとくるよ!
 あまりのダメージに私の心への回復魔法を要求するよ!」
「残念ながら私は一般人ですので、他を当たって下さい」
「真面目に返されても困るよ!」
 どれだけ茜が嘆いても、香苗は自分のペースでカップに口を付け、空になると彼女は静かにポットから二杯目を注ぐ。
 それに合わせて茜も殆ど量の減っていない紅茶を一気に飲み干しては「美味い!もう一杯!」と、半ばやけくそ気味に香苗に二杯目をねだる。
 香苗としては美味しいと言って貰えるのは嬉しいのだが、もう少し味わって飲んで欲しい所である。それを彼女は小さな溜息一つにまとめて吐き出すと、茜のカップに静かに紅茶を注いでやる。
「お砂糖は?」
「たっぷり三個で!」
 陽光を弾いてキラキラと輝くガラス細工のポットから香苗はリクエスト通りに角砂糖を三個、茜のカップに落とす。普通に飲むなら一個で十分に甘みを感じられるが、今の茜にはそれくらいの糖分が必要なのだろう。糖分は頭の回転を速くするのに必要な栄養分なのだし、これで彼女の頭の回転が少しでも早くなるなら安いものだ。
 若干砂糖の溶けきらないまま、カップを茜に差し出してやると茜はそれを一口含んで大きく溜息を付きながら、幸せそうな笑みで糖分を補給していく。
 それを香苗は微笑ましく眺めながら、茜が落ち着くのを静かに待ってから話を再開する。
「それでは、回復魔法の原理が細胞の超活性化によって行われるという事を仮定して、もう少し考えていきましょう」
「出来れば遠慮したいんですけどね……」
「それは構いませんが、その場合は茜さんが今まで飲んできた紅茶の代金を請求しようと思います」
「さぁ、今すぐ考えましょう!」
 恐ろしい一言を平然と言い放つ香苗に茜が抗う術はなく、沸騰しそうな頭をどうにか働かせるしかない。
「ここで着目したいのは細胞の超活性化によってそれを行使された側に問題が発生しないのかということです」
「問題、ですか……?」
「副作用と考えて貰っても良いですね」
「いきなり言われてもすぐには出てきませんね」
「副作用といえば最近だとタミフルが例としては分かりやすいのではないでしょうか」
「あぁ、それなら私でも知ってますよ。一時期ニュースで良くやってましたよね」
「えぇ、今でもインフルエンザが流行る時期になると話題になったりもしていますね。このタミフルという薬品にはインフルエンザウイルスが体の中で増殖し、体内に拡散するのを防ぐという効能があります」
「ウイルスを倒すわけじゃないんですね」
「そうです。あくまでも増殖を防ぐのが効能になります。これは他の風邪薬にも言えることですが、実際に風邪を治す薬は現状では存在しません。現状で存在する薬は白血球が体内に入り込んだ病原菌を排除するといった程度の手助けをする働きしかありません」
「身近な病気なのに完全に治す事の出来る薬はないんですか」
「今でも様々な施設で研究されているのが現状ですね。完成すればそれこそノーベル賞ものでしょう」
「そんな凄い事なんですか?」
「簡単な事のように思えるかもしれませんが、意外と研究されるべき項目というのは多い物なんですよ」
 感嘆の声を漏らすしかない茜に小さく笑みを零しながら香苗。
「それでそのタミフルですが、この薬がニュースで頻繁に話題にされたのはそれこそ、この薬がもたらす副作用が問題になったからです。ニュースで聞いたとのことでしたが、茜さんはその内容を覚えていますか?」
「流石に覚えてないですねぇ。元々そのニュースもたまたま耳にした程度だったと思いますし」
「有名なのはこの薬を服用した未成年者が、マンションから飛び降りたというニュースですね」
「あ、そうですね。確か私が見たのも多分それです。
 でも、それってタミフルのせいなんですか?」
「タミフルには服用することで幻覚を引き起こす副作用があるのですよ」
「それで飛び降りたってことですか?」
「その通りです。このタミフルは十代の未成年者に対して幻覚を始めとした様々な副作用を引き起こす可能性があるので、通常では処方しないというのが通例なのですが、法律で定められているものではない事と、保護者等が処方された薬を子供に飲ませてしまうという事も相まって問題となっていますね」
「じゃあ風邪をひいた場合も出来ればタミフルは使わない方が良いってことですか。気を付けないと……」
「抗インフルエンザ剤としては効果の高い薬ですので、一概にそう決めつけるのも良くないのですが、気を付けるに越した事はありません。意識しているだけでもまた変わってくるでしょう。大事ななのはそういった身近な場所で使われている薬にも副作用があるという事ですから忘れないで下さい」
「はーい」
 タミフルの話は自分でもテレビで聞いた事のある話題だったので、大して頭を悩ませる事もなくついて行く事が出来た。
 勿論、甘い紅茶のおかげもある。
 だが、問題はここからだ。
「それでは本題に戻って、回復魔法にもそういった副作用が発生しないかということを改めて考えていきましょう。とりあえず茜さんは仮に必ず問題が発生するとしたらどういった可能性があると思いますか?」
 とりあえず今飲んでいる紅茶に副作用があるとするならば、それはきっと後日になってからお風呂上がりに乗る体重計の数値とか鏡を見た時の自分のお腹とかに現れてくるのだろう。
 すぐに思いついたのはそんな口にすれば香苗に苦笑いされそうな事ばかりで、回復魔法による副作用など一つも思い浮かんだりはしない。
「大丈夫です」
 そんな茜の考えを見越したかのように、香苗はさらりと言葉を口にする。
「誰も茜さんの口から私が欲しい言葉が出てくるなんてきっと思っていませんから」
「イジメだよ!
 これは歴としたイジメだよね!
 教育委員会に訴えたら全然勝てるレベルだよ!」
「それで全然構いませんので、早くボケて下さい。話が進みません」
「そこは構って下さい。教師生命の危機ですよ!」
「いえ、私は教師ではなくただの図書館司書ですので、教育委員会に訴えられても意味はないかと。もし、仮にあったとしても私の普段の勤務態度と茜さんの学生生活を比較してもらえば、私が負ける事はまずありません」
「事実だけに反論出来ない!
 お願いだから私の心にメスを入れるのを止めて、本来の話題を切って下さい!」
 茜の心の底からの訴えに香苗は「しょうがないですね」と溜息を付きつつも口を開く。
「では私の考えを回答例として挙げる事にします。先に言っておきますが、これはあくまでも私の一考えに過ぎないという事を念頭に置いておいて下さい」
「了解」
 返事だけなら誰よりも立派なのは、勿論茜だ。
「私がまず最初に考えついたのは超活性化による細胞自身の機能低下の可能性です」
「すいません。意味が良く分かりません」
「簡単に言えば、細胞自身に無理をさせたせいで、その後病気になりやすくなったり、怪我をしても治りにくくなったりするのではないかということです」
「そんな事が有り得るんですか?」
 香苗の話を茜はいまいち信じられない。
「十分に有り得ますよ。茜さんはクローンという物をご存じですか?」
「それなら知ってます。ゲームでも良く出てきたりしますから。あれですよね、人工的に人を作るやつですよね」
「概ねは。現在では核を除去した卵子に体細胞を注入して個体を生成するホノルル法というクローン生成法がもっともポピュラーとされています。近年ではヒツジのクローンであるドリーの話が有名ですね」
「それなら私も聞いた事がありますけど、それとさっきの細胞自身の機能低下とどう関係があるんですか?」
「クローンというのは今現在の研究過程ではどうしても短命なものばかりしか誕生していません。そして、その原因はテロメアと呼ばれている染色体の構造が短い事に原因の一端があるのではないかと考えられています。
 これはクローンに使われた細胞がテロメアが短い老いた細胞を使用している為だと言われています」
「つまり元々弱ってる状態の細胞をコピーしてもすぐに死んじゃうってことですよね」
 茜の脳裏には弱った敵が分裂するが、元々弱っているために一撃で倒され経験値を量産するだけというゲーマーには美味しい絵柄が描かれている。
「そんなところです。クローンと細胞の超活性化が全く同列かと言われると難しいところですが、有力な可能性として考える分には問題ないでしょう。そもそも細胞の超活性化自体が夢物語のような原理ですしね」
「それを言ったらお終いですよ」
「しかし、細胞の超活性化によってそこから更に新しい細胞を産み出して超速に傷を再生させているとしたら、その方法はクローン技術に似通っていると考えるのが妥当でしょう。真っさらな状態から新しい物を作るよりも、既にある物を基準にしてコピーする方が余程楽ですし、手っ取り早い。一から新しい料理を作るよりも、レシピを見ながら作る方が楽でしょう?」
「いや、私料理とかやったことないんで、その辺はよく分かんないんですけどね」
 「まぁ、そうですね」くらいの解答は得られるだろうと予想していた香苗は、全く真逆の解答を提示してきた茜に驚愕の視線を向けざるを得ない。
「茜さん、貴女一応高校生なんですよね?」
「それはもうどこからどう見ても立派な女子高生です」
「にもかかわらず、料理をした事がない?」
「いやー、いつも食べるの専門なんで」
「…………」
「えっと、何か問題あります?」
 眉間を強く揉む香苗を見て、茜はあっけらかんと尋ねる。
 その様子に自分がかなり奇異な事を言っているという自覚はこれっぽっちも見られない。
「……いえ、全ては私の予想の甘さが招いた結果なので気にしないで下さい。世の中には予想出来ないような事がまだ無数にあるのだと改めて自覚させられただけです。私もまだまだ勉強が足りません」
「えっと、何かサラリとまた私バカにされてません?」
「全ては私の観察力が不足していただけの事です」
 まだ何か言いたそうな茜に有無を言わさぬ迫力で断言すると、これ以上余計な話題は振らないでおこうと香苗は改めて心に誓う。
「何にせよ、そうやって細胞の超活性化によって治療された細胞は短命である可能性が高いという事は分かって頂けたと思います。
 そして、超活性化によって負荷が掛かった細胞は以降の活動に支障を来す可能性が十分にあるでしょう。また、負荷が掛からないとしても、回復魔法に頼ってばかりでは体内の怪我や病気を治療するという機能はいずれ劣化する事は目に見えています」
「何でですか?」
「人間は進化する動物ですが、同時に退化する動物でもあります。人間は知恵という素晴らしいモノを持っていますが、それ故に怠ける、便利にするという事に対して非常に強い執着を持っています。それが今の私達の便利な生活を支えているのですが、逆に発展すればする程、人間が持っていた体機能が低下しているというのは分かりますよね?」
「ゲームばっかしてると眼が悪くなるみたいな?」
「そうですね。他にもゲームだけではなく、街中にあるネオンなんかも影響を与えていたりします。今でもネオンのないアフリカのサバンナで暮らしているような人達は六.〇相当の視力を持っていますし、今私達がやはり当たり前に使っている公共交通機関のような移動手段のない頃の人々の運動機能というのは私達より遙かに優れています。全ての人がそうだと言うわけではないですが、相対的に比較すれば人としての機能は退化していると言えるでしょう」
「確かに言われてみたらそうなのかも。便利になるばっかってのも考え物なんですね」
「勿論、回復魔法があれば重宝される場面は多いでしょう。それこそ医術では対処出来ないような場面でも怪我人や病人を救える可能性を秘めているという事は否定出来ません」
「まぁ、応急処置としては役に立ちますもんね」
「実在し、今の医療と合わされば更に多くの人の命を救う事が可能でしょう。但し――」
 それはあくまでも一つの側面だけにスポットを当てた場合だ。
「それは回復魔法が一般的に広く普及している環境である必要があります」
「はい?」
「意味が分からないと?」
「さっぱりです」
 いきなりの話の切り返しに茜の頭にはクエッションマークが山のように浮かぶ。
「先程、茜さんが自分で言ったではないですか。「ゲームだと時間を操作する魔法はレアなパターンが多い」、と」
「確かに言いました。けど、それと今の香苗さんの言った事と関係があるんですか?」
「大有りです。では聞きますが、レアだとゲームではどういった状況が多いのですか?」
「それはまぁ入手するのが面倒だったりとか、使える仲間をゲットする為のイベントがやたらと難しいとかですかね?」
「では、それは私達の世界では起こりえないのですか?」
「いや、どうなんでしょ。起こらない気もしますし、起こらない気もするような……」
「一つずつ考えていきましょう。
 まず第一に、回復魔法が茜さんしか使えない場合を想定してみて下さい」
 煮え切らない茜の頭の中を整理するように香苗は一つずつ課題を提示する。
「その場合、茜さんの存在は周囲から見れば非常に希有なモノであることは言うまでもありません。これは先程茜さんが口にしたゲームの中でのレアなケースと同等と考えて良いのではないですか?」
「でも、回復魔法とかどのRPGでだって出てきますよ?」
「ゲームと現実を混同しないように。
 私達の世界に回復魔法なんてものが存在したらそれこそマスコミは放っておかないし、誰もが興味をそそられます。茜さんだって意味もないのに見に行ったりするのではないですか?」
「まぁ、確かに見に行くでしょうね。近くにそんな人がいたらきっと気になりますからね。
 でも、それってきっと私だけじゃないと思うんですけど」
「だから問題になるのです。
 私達の世界で論理的に説明出来るという事は、アイデンティティの確立に直結しているといっても過言ではありません。私達が口にする食料、薬、それに使用している道具や衣類といったありとあらゆる物資は全て何らかの論理によって、品質、安全が立証されているのは知っていますよね?」
「まぁ、何となくは分かります。ジュースのラベルの隅っこに書かれてる成分表とかそういうことですよね」
「ええ、その認識で問題ありません。
 では、そういった成分表示が全くされていない上に、見た事もない色、香りの食料品を見ず知らずの人から出されたとして、それを茜さんは素直に口にしようと思いますか?」
 この質問に茜は困った。
 あまりにも条件が無さ過ぎて、どう判断したらいいのか分からない。
 勿論、出してくれるのが人の良さそうで、良い香りの飲み物だったらあっさり飲んでしまうと思う。しかし、それが何だか如何にも怪しげな、それこそ麻薬とか拳銃とかを当たり前にポケットに閉まってそうなグラサンのムキムキマッチョなおっさんだったりしたら、絶対に飲みたくない。
 温くなってきた紅茶をちびちびと飲みながら、結局、茜が出した結論は、
「良く分かりません。もてなしてくれた人とか、出された物によると思います」
 そんな誰もが行き着くような解答だった。
「そう、それが当たり前の反応なんです」
 しかし、それこそがこの場における理想的な解答。
「見ず知らずの人から私達の中である程度論理的に立証されているモノでさえ、いきなりプレゼントされれば警戒して当然なんです。にもかかわらず、論理的に立証する事の出来ない回復魔法なんて使われれば警戒されて当然です」
 「更に――」、と香苗は続ける。
「人は未知と遭遇した場合、警戒すると共に好奇心を抱く生物です」
 それは人が今まで進歩し続けてきた究極の真理である。
 人は臆病であるが故に未知なるモノを解明せずにはいられない。それが結果として今の人の世の中を築き上げてきたのだ。
 そして、それはきっとこのケースにも間違いなく適応される。
「最初に話題にするのは御近所の人だけかもしれません。
 しかし、魔法を使えるなんていう人がいれば、それはきっと御近所の話だけで留まるはずがない。誰からともなく噂になり、メディアはすぐにでも駆け付けてくるでしょう。そうなれば必ず世界規模でその人は注目されるでしょうね」
「超有名人ですね!」
 茜の言葉はどこまでも脳天気だ。
「それで終わればですけどね」
 そんな彼女に香苗はすかさず釘を刺す。
「先程も言いましたが、人は好奇心を抱く生き物です。まず間違いなくメディアに注目される程度では終わらないでしょう」
「それ以上って……」
「最低でも国家レベルの研究所。それ以上、それこそNASAクラスの場所からのオファーが来る事だって十分考えられます。それだけのモノであることは既に先程茜さんも納得していたじゃありませんか」
 確かに茜自身、回復魔法が現代に存在した場合の可能性には納得している。
 しかし、ここまで具体的な事など何一つとして想像していなかった。精々テレビでわいわい騒がれ、時の人となる程度。
「その程度の場所で優遇を受けていればそれこそ儲け物ですね。それよりも先に別方向からアプローチを受ければそれこそ惨劇の火種にしかならないでしょうからね」
「別方向っていうのは?」
「過激な宗教団体。もしくは、テロ組織」
 香苗の口からこぼれ落ちた予想外に過ぎた言葉に茜は絶句する。
 あまりにも考えていたのとはかけ離れ過ぎている。
「信じられませんか?」
「それは、まあ」
「ですが、有り得ない事ではないのですよ。
 回復魔法なんていう解明出来ないモノは、宗教団体からすればそれこそ神の奇蹟、再来に等しい現象です。崇拝するには十分な理由ですし、それを科学的に解明しようとする組織は悪魔の手先と見なして然るべきでしょう。
 またテロ組織からすればそんなお手軽な治療手段があれば是が非でも手に入れたいでしょうし、手に入らないのであればいつ敵対する国家勢力に利用されるとも分かりません。それこそ速やかに排除しようとするでしょう。
 信じられないかもしれませんが、世界にはそれくらいのことを平気でやってのける人間が五万と存在します。世界という規模から見れば私達の考え、予測なんて可能性の一つでしかありません」
 自らが思いつく限りの可能性を提示してなお、香苗はそれが全てではないと告げる。
 そして、その上で問う。
「茜さん、貴女はそれだけの危険を内包してまで回復魔法なるモノを手に入れたいと思いますか?」
 話題としては世間話に過ぎないモノ。
 そもそもが現実には存在しないモノがあったなら。ただ、それだけの思いつきでしかないし、誰だって何度も夢想することだ。
 しかし、そこに強くスポットライトを当てた時、これがこんなにも重たい話になるとは思いもよらなかった。
 その上で、使ってみたいかなどと問われると茜の答えは酷く明確だ。
「今の私に覚悟とか言われても困りますよ。第一そんな話されてYesなんて言える程、私は良い子じゃないです。やっても募金くらいなもんですよ」
 茜の口からあっさりと結論は告げられる。
「これだけ脅されて、それでもまだ使いたいなんて言える人は余程の物好きか、お人好しくらいだと思いますよ?」
「でしょうね。流石に此処まで言って、それでもなお使えるものなら使いたいなんていう人は私の知り合いでも思いつくのは二、三人程度です」
「いや、私からすればそれでもいるってことに驚きなんですけど」
 途端に茜の興味は香苗のいうその二、三人の人達へと移される。
 そもそもがこの学校で最もミステリアスな存在である弦月香苗の知り合いである。この学園に在籍する者ならば誰だって興味をそそられて当然だった。
「ねえねえ、香苗さん――」
 けれど、その先を茜は続ける事が出来ない。
 茜の言葉を遮るように、斜光が彼女の瞳に飛び込んだのだ。
 反射的に振り向いたその先では、いつも窓を塞いでいるブラインドが揺れて、茜の視界をチカチカと眩ませている。
 その向こう側の窓は当然の事ながら、空いていない。
「ああ、もうこんな時間ですね」
 しかし、それを気にも止めることなく、香苗の視線は受付にある小さな時計を眺めていた。
 時計の長身はもうすぐ十二に届こうとしている。
 この学園には少し変わった校則があって、夕方六時以降の滞在については事前の申請が必要となるのだ。申請は大抵の場合受理されるが、ただ残って会話したいからという理由では流石に受理されるはずもない。いかにその権限が香苗を含んだ学校関係者に与えられているとしても、彼女はきっとそれを是とはしないだろう。
「そろそろ帰宅した方が良さそうですね」
 ごく自然に、違和感を感じさせながら香苗は促す。
 いくら抗おうにも茜にはその術がない。
 カップに注がれていた紅茶はすっかり飲み干してしまっていたし、ポットも空だ。時間も今すぐに図書館を出なければ間に合わない。下校時間の校則を破った生徒には割の合わない罰則が待っているのだ。
「何で私が凄く気になった事を聞こうとしたら、きっちり下校時刻になるんですかね?」
 心の底からの疑問は、しかし決して聞き届けられる事もなく――

「さぁ、何ででしょうね?」

 そうやってこの図書館司書は、いつも最後の最後にとても魅力的な笑みを持ってして、生徒を追い出すのだった。


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